平行不整合
「要するに、現象が不連続だから怖くなるんだよ。ないものが現れた。あるものがなくなった。なくなるべきものがなくならなかった。あるものが変わった。変わるべきものが変わらなかった。あるものが増えた。あるものが減った。ないものが増えた。ないものが減った」
部室棟は教室棟の近くにあったが、構内は広大だった。冬枯れにぴったりの陰鬱さで俯きがちに歩く刎島の目前に空き缶をちらつかせると、彼は鬱陶しそうに仰け反った。
「あったか~いおしるこのラベル。なのに、もし中身がつめた~いサイダーだとしたら」
「こわい」
「さっき唇をシュワシュワさせながら飲み干した。だというのにまだ半分も残っている」
「こわい」
「半分も残っていたはずなのにもう終わり」
あんな意外性のないところにゴミ箱が! 進行方向から三歩ほど斜めに逸れて、空っぽのおしるこ缶を捨てる。カーン。本筋に戻ろうと振り向けば、生暖かい吐息が僕の頬を湿らせた。
「こわい」
ぬれたばかりの頬が凍てつくような、強い向かい風に抗いながら前進する。
「いいや。逆にちっとも怖くないのさ」
「逆にこわくないってことは、正しくはこわいってことだ」
「ある瞬間を切り取ったら怖いかもしれないね。たとえば――首から上がない人間が目の前に立っている」
「ひいっ」
完全に立ち止まってしまった刎島の腕を引っ張る。こんなところで立ち往生したら僕たちは凍死だ。
「だが、足元を見てみよう。おや、こんなところに手袋が片方だけ落ちている。植えこみにポイと避難。ゴホン。改めて足元を見てみよう。頭部が落ちている! なあんだ、頭を落っことしただけか。そう考えると怖くなくなる」
「こわい」
「まったく怖くないね。もし頭部だけが見つからなかったら、あるいは頭部だけが見つかったら、それは怖い。難事件。呪われそう。でも、あるはずのものがない状況は、ないはずのものがあることによって解決している。あるはずの頭部はないはずの地面に落ちているからね。無事に相殺されるのさ。プラスマイナスゼロ!」
腕を振り払われた。その調子だ、刎島。きみはひとりでも羽ばたいてゆける! 期待もむなしく、彼は半歩ほど斜めに後退し、僕を風よけにした。
「く、首から上がない人間と首から下がない人間が……別人だったら?」
何たる卑屈そうな目! 舞台では威風堂堂たる棒読みを披露するのに。普通は衆人環視で失敗するほうが怖いものでは?
だが、刎島は普通ではない。
「ああ、恐怖の要因をひとつ見落としていたね。あるものとあるものが入れ替わった」
「こわい」
「生きている人間の頭と頭、体と体が入れ替わるわけではないし、そう怖くないさ。所在が不確定なだけだよ」
「こわい」
さて。部室棟は縦に短く、横に長かった。近くの教室棟と比べても無骨な外観で、等間隔に存在する窓を見れば、画一的な部屋が秩序を保って集積していると一目でわかる。事実、壁に囲まれた長い廊下の左右には、各部室の扉が何の面白みもなく並んでいた。張り紙や装飾は規則によって禁じられていた……数字と文字だけが異なる個性のない室名札たちとすれ違いながら一点透視図法で描かれた廊下を歩く。
「きみは近視眼的なんだよ、もっとこの星に住む全生命の視点で俯瞰して考えてみよう。頭と体のそれぞれが欠落した人間が二人いることは不思議じゃあない。事故や事件によって頭が体から分断されるのはよくあることさ。人間は刃物よりやわらかいからね」
「やわい」
「頭が一に対して体が二もあったら怖いが」
「こわい」
「ま、とにかく大局的に考えることだよ。頭と体が同じ数だけ存在しているなら、全体の総和は同じで、怖くない」
「ちがう、そんなことない、こわいはいつも目の前にあるものなんだ。最終的につじつまがあったとしても、最終的に、の最終にたどりつけるかは現時点ではわからない。だから俺は今、今がとてもこわいんだ」
「なら、僕が約束してあげよう。最終的に整合性はとれるし、そこにたどり着くまでは僕が守ってあげる」
「こわい」
「何だい、約束したのに」
「断川がこわい」
「僕は怖くないよ。ただの折り紙付きさ」
と言い合っているうちに落語研究会の部室にたどり着いた。気取って刎島のために扉を開けてやったが、彼が「毒味だ、俺は毒味係なんだ」とぼやきはじめたので、そそくさと先行した。部室では……空間において奥から手前に視線が誘導されるのは何故だろう? 強くて頼れるリーダーが集合写真で後ろに立って仲間たちの尻を守るなんて聞いたことがない……後景、ふちが毛羽が立っている黒い学生帽と赤いマントで身を装った吉騒が学ランの襟をピシッと立て、シールとステッカーとラベルがベタベタと貼られた古い姿見で衣装チェックをしていた。中景、刺藤がこたつから頭と手だけを出してうつ伏せで本を読んでいた。だるだるの袖から見るにいつもの青ざめたトレーナーだろう。前景、僕たちの足元には、哀れにもこたつの恩恵を受けずに空の缶を持ったまま大の字で寝ている尾刀さんがいた。少しも寒そうに見えないタンクトップだ。僕はそっと彼を乗り越えたが、刎島は寝起きの尾刀さんに捕まって「こらあ、おとうさんにあいさつはあ」と大声で怒鳴られていた。さよなら刎島。僕は刺藤をはしっこに押しやって空けた隙間からわくわくとこたつに入り、唖然としながら電源をつけた。
「台本か。わざわざ製本して律儀だね」
「わざわざ……か、自宅で印刷して面付けして綴じて背にテープを貼っているだけだ」
「その厚みはもはや演劇の脚本じゃないか。一ページ四行ぐらいで印刷してないだろうね」
「じゃない……か」
「もういいよ」
衣装を勝手に部室着にしてご満悦な吉騒がマントをひらひらさせながらやってきた。部室の入り口から見て正面奥、僕から見て右の側面からこたつに入場する。彼はこう見えても慎ましくあぐらを掻くタイプだった。
「断川も言ってくれよォ、製本するヒマがあったら台本をもっと見直せって。すーぐ机がテーブルになったり卓になったりするンだからさ」
「暇があったら……か」
「ナ、オレが注意してもこの調子なワケ」
「まあまあ、表記がいくら揺らいでも、舞台では机がテーブルになったり卓になったりしないものさ」
落語研究会に落語の二文字はない。最初は週に一回、漫才やコントのネタ見せをすることになっていた。だが、誰もネタを考えてこなかったので、二週に一回になり、やがて一ヶ月に一回になって、今は不定期にネタ見せの気配を漂わせている。
ボロボロになった刎島が四つん這いになりながらも僕の対面までやってきた。彼はこたつに癒やされようとしたが、僕の足とぶつかってぎくりとした。
「こわいよ断川」
「ただの僕の足じゃないか」
「尾刀さんのありあまるパワー」
自分の名前に反応して猛スピードで膝立ち歩きをした尾刀さんは、刎島の後ろに回り込み、彼の頭を両手でぐわっと掴んで揺さぶった。
「おれのパワーは余ってなんかいないぞ刎島ああああ」
「こわいいいいい」
「いかにも鍛えていそうな風貌じゃないか。華奢な子どもが大人を圧倒する怪力を秘めていたら怖いかもしれないが、尾刀さんのパワーは見るからに整合性がとれているので怖くない」
尾刀さんは自慢げに僕にウインクをした。
「整合性ね、おれも整合性にまつわる良い話を知っている。ある男はある顧客リストに載っているある顧客のいる館を訪ねた。ところが、館はすでに崩壊していたのだ」
「それ自体は怖くないね」と僕が口を挟むと「話はここからだ」と尾刀さんは目をカッと見開き、刎島の頭を挟んでいた両手をゆっくりと下に滑らせて首に添えた。刎島はこれから捕食されると察した哀れな小動物のようにぎゅっと目をつむった。
「ある男は顧客リストの住所が間違えているか更新されていないに違いないと考えた。それで顧客リストを確認したところ、訪ねたはずの館の住所はおろか、ある顧客の存在を示すデータがなくなっていた」
「ほう」
「だが、おかしいではないか。それでは何故、ある男はあの館を訪ねたのか。意味もなく車を走らせて仕事をサボるためか。ある男は不安になって営業車を見に行った。営業車は跡形もなく消えていた。気づけば鍵すら手元になかった」
「こわい」
「だが、おかしいではないか。それでは何故、ある男はないはずの営業車を見に行ったのか。意味もなく外に出て仕事をサボるためか。ある男は――」
話を聞いていた刺藤が「おかしい……か、その話が作り話だったら整合性はとれるな」とつぶやいた。尾刀さんは刎島の首の側面を上下に激しく擦りながら続けた。
「ある男は不安になって執務室に戻ろうとした。だが、執務室はなくなっていた。テナントでフロアを借りていたから、ワンフロアが丸ごとなくなっていた。だが、おかしいではないか。それでは何故、ある男はそこにいるのか。意味もなく外に出てリフレッシュするためか。そうだろう」
「え?」
「ある男は考えた。そもそも自分に労働は必要ない。なぜなら通帳には腐るほど金が入っているからだ。家に帰ってある男は通帳を開いた。見たことのない桁数が通帳に記録されていたッ」
尾刀さんは「あつうい」と刎島の首から手を離した。摩擦しすぎて熱を帯びたらしい。刎島はハアハアと荒く息をして「こわ……こわ……?」と小首をかしげた。
視界の端、ひらひらと黒いマントをまとった影がこたつの角を曲がって僕の背後を通り過ぎた。吉騒がこたつの上のお菓子かごから個包装のクッキーを手にとる。彼は乱暴に包みを開けて、しっとりおいしいチョコチップクッキーを丸呑みした――と思ったら、食べるふりだった。
「現実に折り合いをつけたと見せかけて、現実に折り合いをつけさせたってワケね」
「そうとも、現代における錬金術の本に書いてあった」
オチがついても刎島は落ち着きがなかった。視線で促すと、彼はおどおどと口を開いた。
「その話が出回っているってことは、ある男さんは危険だ。お金を持っているなんてバレたら襲撃されてしまう」
「ご明察だな刎島。この話は大金を得たことを誰にも明かしてはならないと云うコラムで語られていた。ある男は素晴らしい館を購入したが、ある営業者が彼の家に向かったところ、その館は崩壊していたと云う」
「こわい」
吉騒が「筋の通ったストーリーっしょ、怖くないじゃん」と欠伸まじりに正論を吐いたので「ねー」と見交わす。刺藤は「こわい……か、そもそも即興の作り話だろう。単なるネタだ」と表面がぷつぷつとしてきたのでひっくり返したホットケーキのように仰向けになったが、刎島はまだ小刻みに震えていた。
「刺藤くんよ、尾刀さんの話をじゃまして楽しいかね?」
「楽しい……か、尾刀さんと話すのは楽しいよ」
してやられた顔をした尾刀さんは僕から見て左、こたつの側面に向かってきれいな正座し、いつ誰が洗ったか覚えのないしわしわのこたつカバーをそっと膝にかけて、沈黙した。自分から仕掛けるにはいいが、仕掛けられるとうまくいかないのが、尾刀さんの良いところだ。
場がほんわかしたところで、吉騒が「そういえば」と切り出した。
「オレもセーゴーセーに関する不思議な話があってよ、この前さ、美術館に行ってなァ」
かごに手を伸ばして吉騒のまねをしようとすると、左方向から伸びてきた細くて小さな右手とぶつかりそうになった。遠慮して手をひっこめると、その手が先にクッキーをとった。僕もそれに続き、尾刀さんの大きな右手もやってきて、クッキーは絶滅の危機に瀕していた。が、刎島は自分で自分を抱きしめていた。
「こわい」
「確かに、吉騒が美術館なんて怖いね」
「怖くない怖くない。そんで、展示室に行く前にコインロッカーに荷物を預けて、ゆったりと美を鑑賞したワケよ」
「ふむ、学割を有効活用しているなッ」
「次の日、新しくオープンしたパン屋さんでパンをもらえるって聞いて、近くの駐輪場に自転車をとめて列に並んだワケね」
「パン屋さん……か、なぜ美術館は呼び捨てなんだ」
「列は長く、待ち時間も長かった。ようやくパンを受け取ったときには一時間が経ち、駐輪場の無料時間を超えていた」
「吉騒は偉いね。店の近くに自転車を放置した不届き者もいただろうに」
「マァ、もらったパンの通常価格よりは駐輪料金も安かったし、ちっとは得をしたと思ってよ」
「貴重な時間も失っているぞッ!」
「が、コインロッカーから返却された金を取り損ねたことを思い出したンだ」
僕たちが何も言わずに刎島を見やると、彼は顔面蒼白で「こわい」と叫んだ。
「怖くないよ。吉騒が得をしたかと思ったらプラマイゼロだっただけだ」
「コインロッカーは忘れられた硬貨の収益で成り立っている……か」
虚無のエピソードを一同に話せて楽しげな吉騒をちらりと一瞥した刺藤はココッココッと奇妙な咳をした。
「整合性……か、私にも覚えがある。ある男がインスタントラーメンを作っていたのだが、彼はスープの素を入れるのを忘れていた。お湯で展開されただけの麺を『おいしいおいしい』と啜る男にスープの素を黙って差し出すと、彼は何も見なかったように『特にスープがおいしい』と独り言ちた……」
僕たちが何も言わずに吉騒を見やると、彼は白目をむいており、また別方向から「こわい」の叫びが聞こえてきた。
「いったい何が怖いのやら」
「だって整合性がとれてないじゃないか。ただのお湯においしい味がついているなんて!」
「嘘だよ嘘、ただの吉騒の虚勢だよ」
「おい、オレの名前を出すなよ」
四人でキャッキャと騒ぐ一方で、下のこたつでは陰険にも僕の膝が左から何度も蹴られていた。やつあたり気味に刎島の太ももの右側面を蹴り蹴りしてみると、彼はいきなり「帰る」と立ち上がった。こたつから、そして部室から飛び出した彼を追って横に並んで歩く。
「悪い悪い、おどかしたね。みんなも申し訳なさそうにしていたよ。はい、これ。尾刀さんからのおわびの飴ちゃん」
刎島は受け取らなかった。二人分のまんじゅうを防寒着のポケットに着服する。
「こわい、こわいよ断川」
「怖がるからだ。怖がるから怖がってほしいものが怖がりを求めてやってくるんだよ」
「おかしかった。全然、ばらばらだった」
「僕たちにまとまりがないのはいつものことさ」
人けのない廊下に錯乱した刎島の荒々しい息遣いが響く。
「断川がこたつで足を伸ばす。その反対側にいる俺も足を伸ばす。それで左右にいた吉騒と尾刀さんは足を伸ばさなかったのに、俺は横から蹴られたんだ!」
「僕も蹴られたさ。尾刀さんが正座のままひそかに前進して膝で膝をつついたんだろう」
「俺が蹴られたのは左側からだ」
「吉騒が――」
刺藤はこたつの奥深くまで入っていたから、吉騒が足を伸ばしても刎島までは届かない。
なるほど。左側から来る怪異か。
帰宅に際して部室棟の出口……むろん入り口でもある……に向かっていた。廊下の左側を歩いていた刎島と位置を交換し、さりげなく最寄りの室名札を見る。「落語研究会」と記されている。一点透視図法で描かれた廊下を直進する。最寄りの室名札を見る。「落語研究会」と記されている。廊下を直進する。室名札を見る。「落語研究会」と記されている。一歩、二歩、三歩。僕たちは示し合わせていないのに、同時にビタッと立ち止まった。
「こわい、こわい」
「きみがそうやって恐怖を喚ぶからだよ」
突如、扉が開く音がした。大きな影が背後から伸びてくる。刎島が「こわーい」と僕に抱きついてきたが無視して、ポケットから小さな小さなかわいい折り紙の剣を取り出した。ただし、ただの剣ではない。
「折り神憑きだ」
振り向くと同時に、折り紙の剣を突き出した。へしっ。純紙製の切っ先が何かにぶつかって折れる。それは全身が右半身だけだった――後景、右肩を支えに垂れ下がっている黒いマント、中景、右肩を支えにぶら下がっている青ざめたタンクトップ、前景、こちらの首をめがけて勢いよく伸びてきた右腕は細く、指先にはクッキーのかけらがついていた……怪異は剣で刺された一点を中心に辺を合わせるように端からパタパタパタパタと何度も折りたたまれ、ぽとっ、最終的に手袋になった。
「これで整合性がとれた」
僕にしがみついている刎島を突き放すと、彼はおそるおそるといった様子で片目ずつ開き、世紀の大発見、床に落ちている手袋を指さした。
「片手だけだ。手袋は右手と左手で一組なのに」
「大丈夫だよ、この世のどこかにもう片方も落ちているから」
今や神の亡きがら、しわしわに縮んだ姿はさながらストローのぬけがら。使用済みの折り紙の剣を拾う。ポケットに突っ込もうとして、やわらかいものが指を押し返した。やれやれ。まんじゅうをふたつ取り出し、指でへこんだひとつを刎島にやる。
「かんたんな教訓じゃないか。気づきさえしなければ問題は発生しない。きみが恐怖を探そうとするから恐怖はうまれるんだよ」
刎島は「説教はこりごりだ」と舌を出して、包みを剥ぎ取ったまんじゅうを愛おしそうに回しながら見て、僕を見て、まんじゅうを見て、ひょいと口に入れた。
「あー、こわいこわい。まんじゅうこわーい」