06話 「人間になれた子」
小学生の頃。俺は気付いたらみんなから除け者にされていた。
普段遊んでいたクラスメイトが1人。また1人と消えていった。遊びに誘っても誘っても断られ、既に出来上がってる輪に入ろうとしたら、示し合わせたかのようにその輪は崩れ、散り散りになった。
教室の隅。そこがいつの間にか居場所になって……。
「また一人でいるの?」
と誰がそう言って、くすりと笑われる日々になった。
手に持つノートには意味の無い落書きが増えていく。
誰にも見せることの無い、ぐちゃぐちゃの線。それは何重にも絡まり、決して解けることのない複雑なものになっていく。
結局居なくなるのなら、このままずっと独りでもいいか。
「うわっ、何この絵。面白いね!」
そんな俺の心に土足で踏み込んでくる声があった。
「――えっ」
俺はとぼけた声を出して、思わず顔を上げた。
そこには黒いショートカットの可愛らしい女の子がいた。
「ちょっと!」と言い、その女の子の友達らしき子が慌てて駆け寄ってくる。
「なに?」
「放っておきなよ。あっち行こ」
その子はチラチラとこっちの様子を伺いながら、ショートカットの女の子の手を引いた。
「なんで?」
その問いは純粋な声そのものだった。
だから、友達は困ったように眉毛を曲げて小声で言った。
「……だって、その子変だもん」
「そんなんだ。でも、私は気にしないよ。ほら、あっちで一緒に遊ぼ!」
ショートカットの女の子はそう言って友達から離れて再び、こちらに寄ってきた。
「……う、うん」
俺は少し迷った後、そう頷いた。
それは決して運命的な出会いではなかったけれど、俺が救われた出会いだった。もし、この時心を閉ざしていれば、きっと結果は違っていた。彼女と出会った先で、自分が変わろうと思わなければ違っていた。
でも、俺は選んだ。
一目惚れした彼女に好かれるように……と。
自分自身を変えることを躊躇わなかった。
その結果、俺がハブられることは無くなり、友達も増えていった。
その彼女が、その年に初めてクラスが一緒になったという事と、名前が白花舞香であることを、俺は後々知った。
♦♦♦
懐かしい思い出から目を覚まし、身体を起こす。
白いベッドの上で周りを見渡す。この時代に来て最初に目を覚ました時と同じ光景。だが、心に募るものはあの時と随分変わっている。
色んなことがあった。あまりに受け止めきれないことを知った。
昨夜、舞香のところへ行き、俺の知っている記憶の話をした。だから、懐かしい記憶を夢見たのだろう。
舞香の反応はこちらの期待したものではなく、ぼんやりと聞いているだけの悲しいものだった。
逃げようと決意した心が揺らいでしまうほどに辛かった。
でも、俺はここに居てはいけない。
ここに居ても、俺も舞香も幸せになれない。
漠然とした感覚が確かにある。なにより、ダンヘルガは信用できない。
「……逃げるなら、夜か」
窓の外を見ながら、俺は呟いた。
揺らぐ決意をしっかりと固めるように、俺はシーツを握り締めた。
夜までの時間をその日は適当に過ごした。
と言っても、それは表面上だけであって、頭の中ではずっと逃亡計画を練っていた。
まぁ、大した案は思いつかなかったが……。
冷たい金属の棒を握り締め、部屋を出る。手に持つ棒は服などを掛けておくポールだ。凶器を手に入れるのは難易度が高く、最悪の場合、計画がバレる危険性があったため、部屋にある物を使わざるを得なかった。頼りないが、これで行くしかない。
先ずは、誰にも見られずに、西館まで移動する。
夜中の屋敷は、初めて歩く。
静かな廊下は少し冷え、全体的に薄暗い。ぽつぽつと、等間隔で明かりがあるものの、奥を見渡すことは出来ない。
自分の息と、たまに呑み込む唾が、誰かに聞こえてしまうのではないかと、不安になる。
恐らく兵士がいるはずだが、近くにその気配はない。
夜の学校、又は病院を思わせる不気味な雰囲気だけが漂っていた。
誰にも見つからないことを祈りながら、息を殺してゆっくりと移動する。
気配の殺し方なんてわからないから、とりあえず黙ってゆっくり歩くしかない。常に周囲の物音に耳を立てながら、奥へと進んでいく。
なんとか西館に移動できた。
牢屋があるのは西館の地下だ。そのため、先ずは2階から1階へと下りる必要がある。
階段の近くにも兵士の姿はなかった。
その事実に安堵し、階段の下を確認する。見張りのような兵士も見当たらない。
この屋敷のセキュリティ大丈夫か。と思いつつ、見張りがいないことに感謝して踊り場を通過して階段を下りる。
地下牢がある扉の前にも、見張りの兵士はいなかった。
自然と身体を張り詰めていた緊張が緩む。俺は深呼吸をして、扉の前へと向かった。
その時だった。
バキバキと、してはいけない音が上から響いた。
「な、なんだ!」
と俺は思わず叫び、足を止めて上を見上げた。
そこには、亀裂の入った天井があった。その亀裂は更に伸びていき、大きな音を立てて天井が崩れ出す。落ちてくる瓦礫から、身を守るため本能で脚が後ろに下がる。
舞い上がる砂ぼこりの中、ひとつの人影が浮かんでいた。
「そろそろじゃねぇかと思ってたところだ」
と、男の声が響く。しばらくすると、埃が晴れ、その姿が露わとなる。
「おまえは……」
一度だけ、その吸血鬼の姿を眼にしたことがあった。数日、この屋敷で過ごした中で、一番印象に残っている兵士だった。
空色の短髪に、威圧感のある大きく開かれた鋭い眼。吸血鬼の特徴である額の角を除けば、それがその兵士の特徴だ。
驚いている暇はない。躊躇う事もない。
俺は一度深い深呼吸をして、床を思いっきり蹴った。
一息で距離を詰め、ポールを思いっきり振るう。狙うは頭部。
だけど、その兵士はゆっくりとため息を吐いた。
「力量の差も測れねえのか、馬鹿が」
それから口角を曲げ、手に持つ槍を構えた。
俺が走り出してから僅か数秒の出来事。だけど、それが何故か実際の時間よりもゆっくりに思えた。その瞬間、失敗したと悟った。
兵士の振るった槍で、ポールは弾き飛ばされ、手に熱が走る。
兵士の槍さばきは、目で捉えきれない程速く、気付いた時には頬に激痛が走っていた。
槍の柄の部分で殴られ、壁に激突し、その場に倒れ込む。
見えなかった。というより、達人の槍を見た。という感想が脳裏によぎる。素人でももわかった。目の前に立つ兵士と自分の実力の差を。
息が荒くなる。失敗したという事実だけが頭の中を駆け巡る。
「技術もなければ工夫もない。三流以下だな、雑魚主」
頭の上からそんな声が響く。兵士の態度はデカく、こちらを敬う素振りなど存在しない。
俺は頬を抑えながら、兵士を睨んだ。手に信じられない程の熱さを感じた。
「睨んだところで何にもならねぇよ。次の策もなしか。こりゃダメダメだな」
兵士はため息を吐きながら槍の矛先をこちらに向けた。
そして、ゆっくりとそれは前に押し出された。
ずぷりと、肉が裂ける。
「……う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
悲鳴。悲鳴。悲鳴。痛み、痛み、痛み。熱。
まるで脳が断線するかのような錯覚に襲われる。身体の中に入ってくる異物。痛み。痛み。
槍は冷たいはずなのに、熱しか感じない。
廊下をのたうち回る。槍を引き抜こうと試みる。だが、それは叶わない。
「……ったく、うるせぇな。安心しろ。銀製じゃねぇからよ」
男の言葉は理解できない。というより、耳に入ってこない。男は槍をぐりぐりとさせながら言葉を続ける。
「勝てない相手だと分からなかったのか? それともなんだ、変な自信でもあったか。主なら、怪我させられないとでも思ったか。主なら俺が怯むとでも思ったか?」
俺は叫ぶことしかできない。口を閉じることができない。腹から伝わる……いや、脳から送り出される痛みの信号に、叫ばずにはいられなかった。
男の言葉は続く。
「甘い。甘い。すべてが甘い。理解してないのか。お前はあくまで傀儡だ。主としての権限などないようなものだ。この数日でそれが理解できなかったのか。馬鹿なのか、考えも無しに、馬鹿みたいに突っ込んできやがってよ」
男の言葉には怒りが篭っているように感じた。
男は槍を引き抜き、俺から離れた。
それでも、体中に走る痛みは引かなかった。
俺は荒い呼吸を繰り返し、男を睨みつける。
「お、おれは。お前らの、し、始祖だぞ」
「チッ、馬鹿がよ」
男は舌打ちをし、再び槍で俺を刺した。
それも、さっきの傷の直ぐ真横に。
「う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
再び、悲鳴が屋敷に響き渡る。それでもお構いなしと、男は口を開いた。
「なにも理解してねぇなら、喋るな!
始祖だと? それをこの屋敷以外で喋って見ろ。お前は八つ裂きにされるか、解剖台送りだぞ。お前という存在は、ほぼすべての同胞から忌み嫌われ、憎まれるものなんだよ!」
聞きたくなかった事実を告げられる。
耳を塞ぎたくても、赦されないくらい、体を痛みが支配していた。
男は槍を引き抜き、再び距離を取る。そして、俺の動きを観察するように、壁に背を預け腕を組む。
血が逆流してきて、呼吸すらままならない。そんな中、頭の中では男の言葉がぐるぐると巡りまわっていた。ひどい頭痛も襲ってくる。
「……あの女なんか捨てちまえ」
と、男の言葉が響いた。
先程まで頭の中で回っていたものが全て消し飛ぶくらい、その言葉は威力を持っていた。
……捨てる。誰を?
その疑問が浮かんだが、答えなど分かりきっていた。
だが、答えることは叶わない。
男の言葉は続く。
「あの女は記憶を失くしてるんだろ。なんの意味があって助けようとする。お前が正式にこの領地の主になるまで残り2日。あの女を捨てて逃げるなら今日しかなかった」
……舞香を切り捨てる?
俺が??
それは、笑えない冗談だった。
10年という月日を共に過ごした。ずっと好きだった。
彼女に救われた。その時から好きだった。
友達としての距離感だった。でも好きだった。
中学生になった途端、めちゃくちゃ可愛くなった。もっと好きになった。
いつの頃からか、おはようを言うとき軽くぶつかってくるようになった。それが好きだった。
廊下ですれ違う時、タッチするようになった。毎回、手に伝わる熱が好きだった。
俺が変なことを言った時、軽く殴りながら突っ込んでくれた。そんな関係が好きだった。
偶に腕に絡みついてきて、我が儘を言ってきた。胸の感触が好きだった。
いつも一緒に帰りながら、たわいもないふざけた話をしていた。その時間が好きだった。
きらきらと輝く、舞香の笑顔に、俺は何度も胸を絞めつけられた。
隣を歩く時の横顔が好きだった。後ろ姿も愛おしかった。声を掛けた時に、振り向く時の素振りが好きだった。一緒にいる時の時間が好きだった。名前を呼ばれるのが嬉しかった。付き合ってるんじゃ、と誤解されるのが少し恥ずかしくて、でも好きだった。
ずっと好きだった。いつか付き合いたいと思っていた。でも、関係性が変わるのが怖くて、言い出せなかった。
「……記憶を失くしたから? そんなもん関係ないんだよ」
俺は、床に手を付き、痛みに耐えながらゆっくりと体を起こす。
腹に空いたグチャグチャの穴から、血が溢れるのも構わず、歯を食いしばって立ち上がる。
男を睨み、言葉を続ける。
「捨てるわけないだろ。捨てれるわけないだろ! 俺が捨てたら、誰が舞香を助けるんだ!」
「……その意味がない、という話をしたはずだが?」
「意味がない、なんてことはねぇ。舞香が俺を忘れても、俺が覚えてる。そして、絶対に記憶を取り戻してみせる。だから、連れて逃げるんだ」
「……記憶を取り戻す、ね。戻ると思っているのか、何の根拠があってそう言える」
鼻で笑うように、男は言った。
俺は答える。傷口に手を当てて、真っ直ぐに。
「根拠なんて必要ない。どれだけ時間がかかろうと、諦めない」
「ふ、それがバカだというんだよ!」
男は槍を手に取り、構えた。
俺は両足でしっかり立ち、腹から声を出して叫ぶ。
「助けてくれ、トットン!」
脳髄に走る痛みを無視して、助けを呼ぶ。
次の瞬間だった。
窓ガラスが派手に音を立てて割れ、ひとつの人影がその場に現れる。
「トットン・コトルク。主様の命により、参上仕る!」
男は大きく目を見開いて、嬉しそうに口角を上げた。
「……なるほどな。楽しくなってきた」
「トットン。命令だ。あいつをぶっ倒せ」
「了解したわ。主様」
役者は揃った。これより第2ラウンドが幕を開ける。