02話 「名無しの契約」
鉄格子で遮られたその奥に、幼馴染みの少女か横たわっている。
それを目の前にして、叫ばずにはいられなかった。
「――――舞香!!!!」
見間違うはずもない。紛れもない幼馴染みの姿は薄汚れている。数日間ここに囚われているということが想像できる。
手を伸ばせば届きそうな距離。だが、冷たい鉄格子がそれを阻む。
なぜ、彼女もここにいるのか。
そういった疑問が脳裏に過ぎったが、それを塗り潰す恐怖がこの身を襲った。
ゾクリと背筋に冷たい感覚が走る。
「主殿。どうなされたのですかな?」
耳元で響く声に、俺はゆっくりと振り返る。そこには目を見開き、俺の顔を覗き込むように立つダンヘルガの姿があった。
その瞬間に悟った。
自分の行動の愚かさを。
漏れた少量の声が震えている。
焦点が定まらず、思考も真っ白に陥る。
息切れと、どんどん早くなる鼓動が耳の中に広がり、口から心臓が飛び出そうな錯覚を見る。
言葉を間違えれば死ぬ。
そんな直感があった。
「……答えられぬのですかな?」
迷っているうちに、ダンヘルガの圧が強くなる。
答えを間違えれば首が飛ぶ。答えられなくても首が飛ぶ。
――――ならば。
俺は顔を上げ、歯を食いしばる。
「……気に入った。この女の血は今より俺だけのものとする。俺以外の奴が吸った瞬間。お前の首を飛ばすぞ、ダンヘルガっ!」
一か八かの大勝負。この地を預かる主としての権威を利用する。
「お、おぉ。やっと主としての自覚が目覚めたのですね。このダンヘルガ、感激のあまり涙が出そうですぞ」
嬉しそうに喜ぶダンヘルガを横目に、俺は息を吐く。
安心感と共にドッと疲れが襲ってくる。
とりあえず、窮地は脱した。
我ながら咄嗟の機転と演技力が素晴らしい。
自分の才能にほれぼれしながら、息を付き冷静さを取り戻す。俺はゆっくりと鉄格子に触れ、傍に居た衛兵らしき吸血鬼に言葉を投げかける。
「すぐに、ま……その女を俺の部屋に連れてこい」
「それはダメですぞ、主殿」
声のトーンを下げたダンヘルガの声が再び耳元で響いた。
耳元から脳髄まで駆け巡る嫌な悪寒に、俺は振り返りながら耳を抑える。
「だ、ダメだと。誰に指図している!」
「先日、吾輩と交わした契約がある限り、その女の身柄を主殿に預ける訳にはいきませぬ」
その言葉に、俺はその場に凍り付く。
「……け、契約だと」
ズキっと頭に鋭い痛みが走る。
「あぁ、そうでしたな。主殿は記憶を失われておりましたな」
顎鬚を触りながら、こちらの反応を楽しむように口を開くダンヘルガ。
気が付けば、自分が信じられない量の汗をかいていることに気が付く。
「……契約って一体何なんだ?」
「この地を独立するまで、彼女の身柄はこちらで預かる、というものです」
その途端、クラっと目眩が襲ってきた。
倒れそうになる体勢を保ちつつ、俺はダンベルがを睨む。
俺が、本当にそんな契約を結んだというのか?
まるで激しく脳を揺らされたような気持ち悪さと、頭痛が絶え間なく襲ってくる。
ありえない。
俺が舞香をそんなことに巻き込むなんてことは、絶対にありえない。
だが、どうにもこの屋敷で目覚める前の記憶が思い出せない。
「……その、け、契約とやらは破れないのか?」
こんなことを聞くのはまずいか?
そう思いつつも、俺はその疑問を口にした。
「……無理でございます。主殿が契約を破ると仰るのなら、彼女の首を飛ばすか、大領主様に彼女を売り飛ばさねばなりません」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。
呼吸が苦しくなる。
どんな反応をすればいい?
黙ったまま流される方に進むのか。
ここで奴に歯向かい、舞香を助けるために動くのか。
おちゃらけたところでどうにもならないこの状況で、俺が取れる行動はふたつに限られた。
従うか。反抗するか。
「……俺には、その時の記憶は無い。そして、今の俺はそんな契約を認められない!
だから、彼女を解放しろ。俺を縛りたいなら、俺の命をくれてやる!」
「……それではダメなのです。主殿」
「なんでだ! 俺はお前の主なんだろ!
なんでこんな命令すら通らない……」
「それは主殿に力がないからでございます」
「……力?」
「はい。この世界は力こそ全て。主殿は権力は持っていれど、他を屈服させる力を持っていない。
故に、吾輩を従わせることが出来ないのです」
「……じゃあ、俺がもしお前を倒せるなら」
「それは意味の無い仮定、というものです」
「……?」
ダンヘルガが言った言葉の意味を理解する前に、首に強烈な痛みを感じた。
「その気になれば、あなた達など直ぐに殺せますので」
徐々に遠くなる意識の中で、そう言い放つダンヘルガの言葉が、今まで感じたどんなものより冷たく感じた。
目を覚ますと、自室のベットに横になっていた。
重たい頭とズキズキと痛む首に、鬱陶しさを感じながらなんとか身体を起こす。
「お目覚めになりましたか」
唐突に横から響いた言葉に、俺の身体は反射するように強ばった。
「……ククリカさん」
「あんまり無理をなさらないでください。とばり様の身はこの世の何より大切なものです」
メイド姿の彼女は深々と頭を下げる。
意味が分からなかった
「……そんなこと言われても、意味が分からない。
俺をこんな風にさせたのはダンヘルガだ」
「……あの執事も反省なさってると思います」
「それは絶対にない。あいつは俺を殺す気だった。
その気になればいつでも殺せるって言われたし。
……なにより、あいつは舞香を閉じ込めている」
ギリっと奥歯を噛み締め、ベットのシーツを握り締める。
自身の中にふつふつと湧く黒い感情が、こんなにもコントロールの難しいものだと初めて知った。
「……あの執事がとばり様を害することはあれ、殺すことは絶対にないと思います」
表情を変えずに、そう口を開くククリカさん。
信用できない。信用できないが、そう言い切れるのがどんな理由なのか気になった。
「……それは、一体」
と口を開きかけたところで、扉がドンと勢いよく開かれた。
「やっほー、主様。目覚めましたー?」
メイド服を着た男が、部屋の中に入ってきた。
「なになに、この雰囲気。もしかして主と従者の禁断の恋的な何かかな?」
トットンは、俺とククリカさんの顔を見比べながら、ニヤニヤとした表情でこちらに近付いてくる。
「……トットン様。お部屋に入る際はノックをお願いします」
「あらあら、うふふ。そんなに怒んないでよ。ククリカちゃん。次からは気を付けるわ」
「では、よろしくお願いします」
とククリカさんは頭を下げ、「次の仕事がありますので」と言い部屋から去っていく。
俺はその背中を見送った後、トットンに視線を合わせる。
「その様子だと、大丈夫みたいね」
「何がですか?」
「怒り狂ってダンヘルガを刺そうとしてないみたいで安心したってことよ。怒ってはいるけど、ちゃんと頭は冷静になっている。大人ね」
俺を観察するように口を開き、目を細めるトットン。
「……俺がここで変な行動を起こせば、舞香が危なくなる。それだけは分かっているつもりだ」
「大切なことよ。主様にはまだこの状況をどうにかできる力がない。この世界は力こそがすべて。力が及ばなければ、死するのみ」
「……弱肉強食ってことか?」
「ええ、そうね。ダンヘルガを倒したいのなら強くなるしかない。
それが、この地の主として貴方が成すべき命題のひとつよ」
強くなる?
あの怪物より?
俺は俺が人間であることを疑ったことはない。
だけど、何故かこの世界で目覚めた俺は吸血鬼ということになっている。
その辺の謎も気になるが、俺が人間かもしれないという事を周りの誰にも悟られてはならないのだ。
「……わかった。ダンヘルガよりも強くなる」
たとえ、どんな犠牲を払おうとも。
舞香を助け出す。それが、俺の至上命題だと強く認識する。
「いい面構えね。気に入りました。あーしが主様をサポートするわ!」
分厚い胸板を張り、笑顔でそう言うトットンに俺は思わず反応が遅れた。
「――――へ?」
ともかく、トットンのサポートで俺の強くなるための修行編が幕を開ける。
と、そんなことよりも。
トットンの一人称って「あーし」なんだ。とそのことが頭の中に強く残った。