蛇姫の婚礼
「悠馬くん、見て! 村があるよ!」
渚が朗らかな声を出す。歩きにくい山道に疲れを感じ始めていた悠馬は、顔を上げた。
大学生カップルの悠馬と渚は夏休みを利用して、キャンプに行く予定だった。
だが、途中でレンタカーのカーナビの調子が悪くなり、二人は細い道がいくつも伸びる山の中で、迷ってしまったのである。
「あれが立て札に出てた『うわばみ村』なのか?」
「多分そうだと思う」
悠馬の疑問に、渚が額の汗を拭きながら頷く。
迷子になり途方に暮れていた二人は、山の中で、『この先、うわばみ村』と書かれた案内札を見つけたのだ。
もう日も落ちかける時間帯だった。その『うわばみ村』とやらで道を聞くなり宿を取るなりしようと思い、二人は車を降りて、道とも呼べないような道をこうして歩いてきたのである。
「よかった。足、痛くなってきちゃったところだったから」
「あの村で、ちょっと休ませてもらおう」
遠くに見えるのは、山間の平地に古風な民家が立ち並ぶ風景だった。現代ではまず見ないような外見の家々に、悠馬はタイムスリップしてしまったかのような錯覚を起こしてしまう。
その村へと、二人は手を繋ぎながら歩いていった。近づくにつれ、何やら歌が聞こえてくる。
「シャラ シャラ 蛇姫 婿捜し
婿殿 社へ 身を隠し
花嫁来るまで 待ちぼうけ 待ちぼうけ……」
何故だか胸がざわつくような歌だった。その歌声が段々と大きくなり、二人は粗末な柵に囲われた村の入り口に辿り着く。
「あれ? もしかして、お祭りの最中なのかな?」
渚が首を傾げる。
村の中に、櫓が建っていたのだ。そして、その周りには、青い覆いが何重にもついたぼんぼりが設置されている。確かに祭りの会場のような光景だった。
そこに集い、歌ったり飲み食いしたりしているのは村人だろうか。彼らは、皆着物を着ていた。洋装の者が一人もいないせいなのか、ますます時代錯誤な場所のように思えてきて、悠馬は妙な気分になる。
「あの、すみません」
二人は櫓の周りに集っている人たちへと声を掛けた。歌がやみ、皆が振り向く。男女入り交じっていたが、中年や老人ばかりで、若者は見当たらなかった。
「俺たち、道に迷って……」
悠馬は言葉を切った。こちらを見つめている村人の表情が、何だか異様だったのだ。
この辺りの住人の特徴なのか、村人たちは皆、大きな目とのっぺりした鼻の、顔が小さい者たちばかりだった。
そのガラス玉のような目が、ギラギラと光っている。まるで獲物を前にした肉食動物のようだ。
渚も何かおかしなものを感じたのか、握った手に力を込めてきた。悠馬はハッとなって、村人たちに話しかける。
「あ、あの……?」
「これはこれは、よく来てくださいました!」
村人たちは打って変わって相好を崩した。柔らかな雰囲気が満ちて、悠馬はほっとする。
「この山を車で下りたいんですけど、どうしたらいいですか?」
「山を? いけませんよ。もうすぐ日も暮れます。この辺りの道は細いんです。街灯もないですし、事故を起こしてしまいますよ」
悠馬はここまでの道のりを思い出す。運転してくれたのは渚だったが、道中、何度も走りにくいとこぼしていた。
「じゃあ……この辺に泊まるところはありますか?」
どうやらこの村で夜を明かす方がいいらしいと思い、悠馬は尋ねた。だが、それを聞いた渚がぎょっとしたような顔で、「悠馬くん!」と抗議する。
「やめとこうよ。車に戻ろう?」
「えっ? 何で?」
「何で、って言われても……」
渚は村人たちに目をやった。そして、悠馬にしか聞こえない小さな声で、「なんか、この人たち怖いの」と囁く。
「およしなさい。危ないですよ」
近くにいた老人が首を振った。
「ここいらは、クマが出るんです。ふらふらと出歩けば危険ですよ」
「そうです、そうです。宿屋はありませんが、村長の家に泊まっていきなさい。ただし、我々の祭りに参加していただけるなら、ですが」
「お祭りに? いいですよ、そのくらい」
その程度の条件で、今晩の宿を確保できるのなら安いものだ。悠馬の目にもここの村人たちは何となく不気味に映ったが、だからと言って害獣が出るかもしれない道を辿り、もう一度車へ戻る気にはなれなかった。
悠馬はまだ不安がっている渚をなだめる。
「クマに襲われるより、村にいた方がいいだろ? ……大丈夫だよ。渚は心配性だな」
「う、うん……」
恋人に説得され、渚はしぶしぶ頷いた。
「さあ皆、宴の用意だ!」
中年の男性が叫び、村人が慌ただしく櫓の周りを離れていく。その中から、一人の老人が近づいてきた。
「わしがこの村の村長です。さあ、家に案内しましょう」
老人が二人を先導して歩き出す。まだ複雑そうな顔をする渚の手を引いて、悠馬はその後をついていった。
櫓の近くにある、他よりも少し大きな民家が、村長の家のようだ。玄関から上がり、板張りの廊下を歩きながら、悠馬は村長に質問した。
「さっきお祭りがどうこうとか言ってましたけど、一体どんな催し物なんですか?」
「わしらは『蛇姫様の婿捜し』と呼んでおります」
村長が答える。
「蛇姫様は、このうわばみ村の守り神でしてな。その名の通り、大きなメスの蛇です。わしらは何年かに一度、その蛇姫様の花婿を探すことになっているのです。ですが、花婿になれるのは、村の者以外と決められていましてね」
「じゃあ、悠馬くんに、その『花婿』をやってほしいっていうことですか?」
渚が驚いたような声を出す。
「悠馬くん……蛇姫様と結婚しちゃうの……?」
「ただの役だよ、役」
ショックを受ける渚が何だかおかしくて、悠馬は笑ってしまった。悠馬は、渚のこういう純真なところが好きだった。
「つまり、このお祭りは結婚式みたいなものなんですね?」
「まあ、そういうことでしょうな」
渚にチラリと視線を向けながら、村長が頷いた。
「真夜中、この村の裏手にある蛇姫様のお社に、花婿が身を潜めるのです。そして、隠れた花婿を蛇姫様が探しにいくんですよ。……お嬢さん、安心しなさい。朝日が昇るまでに蛇姫様に見つからなければ、花婿は自由の身になれるのです」
「……悠馬くん、絶対に朝まで逃げ続けてね」
渚は真剣な顔だ。悠馬は「分かったよ」と適当に返事しておいた。
『蛇姫』なんて、いるはずがない。つまり、悠馬はただ朝までその社で過ごせばいいだけだろう。簡単な役目のようだと判断し、悠馬は肩の力を抜いた。
「そう言えば、村の人たちが歌を歌ってましたね」
ふと、悠馬は思い出した。
「花嫁来るまで待ちぼうけ、って。あれは、この祭りのことだったんですか?」
「ああ……この村に伝わるわらべ歌ですね」
村長は、歌を口ずさんでみせた。
「シャラ シャラ 蛇姫 婿捜し
婿殿 社へ 身を隠し
花嫁来るまで 待ちぼうけ 待ちぼうけ」
初めて聞いた時は意味が分からなかったが、祭りの内容を聞いた悠馬は、これが何を指しているのかを理解した気がした。
「婿を探す蛇姫から、花婿役の男は身を隠す……。『シャラシャラ』っていうのは何ですか?」
「蛇姫様は、移動の際に鈴の音のような音を立てられるのですよ。それによって我々は、蛇姫様がいらっしゃることを知るのです」
「なら、その音が聞こえてきたら逃げればいいってことだね」
安心したように渚が言った。それに対し、村長が「まあ、用心することです」と軽く笑う。
「蛇姫様は執念深いですからね。一度決めた相手には、どこまでもまとわりつくんですよ。捕まったら最後、婿入りして、蛇姫様との間に子をもうけなくてはなりません」
村長は、奥の座敷のふすまを開けた。畳が張られた部屋を、「どうぞ」と手のひらで示す。
驚いたのは、その部屋に電灯がなかったことだ。行灯の明かりを光源にしている。頼りないその光を見ている内に、もし日が落ちたら、辺りは真っ暗になってしまうのではないだろうかと悠馬は不安になった。
「お邪魔します……」
悠馬は渚と一緒に座敷へ入ろうとした。だが、村長がそれを制止する。
「婿殿はこちらへ。祭りの準備がありますからね」
二の腕に触れられ、悠馬はゾクリとした。何て冷たい手なのだろう。まるで体温がないみたいだ。
何だか、今になって悠馬は不穏なものを感じ始めてきた。やはり渚の言うように、引き返すべきだったのだろうか。
だが、渚に平気だと言ってしまった手前、それを撤回するのは躊躇われた。それに、この不安には、根拠なんてまったくないのだ。
「ああ、お二人に一つだけ注意を」
部屋の障子を閉めようとした村長が、思い出したように付け加える。
「この村では、火を焚かないように。もし焚くとしたら、周りを紙か何かで覆って、火を外からは見えないようにしてください」
「火を見えないように? どうしてですか?」
「蛇姫様は火を恐れるのです。昔、この村を狙った悪党どもに、大やけどを負わされたことがありましてね。それ以来、蛇姫様は火がお嫌いになったのですよ」
そう言えば、櫓の周りに飾られていたぼんぼりも、青い覆いがされていたなと悠馬は思い出した。それもこれも、皆蛇姫のためだったのだろう。
悠馬は、この訳の分からない不安感の意味がようやく分かった気がした。それはきっと、村人が、いるはずもない蛇姫の存在を本気で信じているからなのだろう。
自分たちには理解できないものを彼らが敬っていることが、怖くなってしまったに違いなかった。
「気をつけてね……」
渚は最後まで心配そうな顔をしたまま、悠馬に別れを告げた。悠馬は「大丈夫だって」と笑ってみせたが、胸にくすぶる得体の知れない恐怖は吹き飛ばせない。
それでも悠馬は渚を置いて、村長と共に座敷を出た。
村長の家の別室へと連れていかれた悠馬は、村人たちの手で、黒の紋付き羽織袴を着せられた。髪も念入りに整えられ、本当に結婚式に臨む花婿のような姿にさせられる。
村人たちも正装に着替えており、その仰々しい姿は傍目から見ていても暑苦しかったが、皆は平気そうだった。汗一つかいていない彼らを見て、悠馬は何故か悪寒を覚える。
「さあ、行きましょう」
村長に促され、悠馬は村人と共に歩き出した。準備に時間がかかったので、すでに日は落ちている。真っ暗な足元を照らすのは、村人の持つ提灯の明かりだ。もしかして、この村には懐中電灯すらないのだろうか。
裏山の木々の間に出来た道を上り、十分ほどして悠馬は社に着いた。正面と左右を障子で囲われた広い室内は、悠馬が一人暮らししているアパートの部屋よりもずっと大きい。社と言うよりは、どこかの屋敷の中の一室といった雰囲気だ。
村人たちは、本当の結婚式さながらに悠馬に祝いの言葉を述べた後で帰っていった。時刻は、真夜中まで数時間といったところだろうか。腕時計も携帯も着替えたときに村長の家に置いてきてしまったので、正確なことは分からない。
(……暇だな)
悠馬は軽く伸びをすると、その場に寝転がった。
社の中は広いが何もなく、ここで朝まで過ごすのかと思うとげんなりした。山の中だからなのかあまり暑くはないが、普段は着ないような衣裳に身を包んでいるため、何だか落ち着かない気分になってくる。
(渚、今頃どうしてるかな……)
悠馬は羽織を脱ぎながら、恋人のことを考えていた。
村人たちを気味悪がっていたし、一人で村長の家に置いてくるなんて、かわいそうなことをしたかもしれない。渚はお化けや宇宙人を信じるタイプだから、村の守り神の花婿に選ばれた悠馬のことも、さぞや心配しているに違いなかった。
そんなことを考えている内に、うつらうつらしていたらしい。目が覚めたのは、何やら物音がするのに気が付いたからだ。
シャラシャラ、という、金属が触れ合うような音だった。鈴の音のようにも聞こえる。悠馬は、村長が言っていたことを思い出した。
――蛇姫様は、移動の際に鈴の音のような音を立てられるのですよ。
心臓が早鐘を打った。これは、まさにその、『蛇姫が移動しているときの音』ではないだろうか。
(いや……でも……そんな……そんなわけないよな。きっとこれも、お祭りの演出の一環だ)
不穏なことを考えてしまった悠馬は、頭を振って気を取り直そうとした。だが、その拍子に、部屋の側面の障子に、『あるもの』の影が映っているのを見てしまい、息が止まりそうになる。
とてつもなく大きなその影は、優に全長が十メートルはあるだろう。太さも、悠馬の胴回りを軽く超えている。
その影が、鎌首をもたげながら、シャラシャラという音と共に移動している。
蛇影だ。間違いない。着ぐるみやロボットとは思えないその滑らかな動きに、悠馬は血の気が引いていくのを感じていた。
逃げなければ、ととっさに思ったが、腰が抜けてしまったかのように体に力が入らない。
鈴の音を立てながら動いていた影は、やがて部屋の正面の障子のところまで辿り着いた。戸が、ゆっくりと開かれる。
その隙間から覗いたのは、土色をした大きな目だった。
****
(悠馬くん、大丈夫かな……)
村長の家の座敷の中で、渚はそわそわしていた。
大蛇のお姫様から逃げないといけないなんて、『蛇姫様の婿捜し』とは、なんと恐ろしい祭りなのだろう。
しかも、捕まったら蛇姫と結婚しないといけないらしい。ひどい話だ。悠馬くんは自分の彼氏なのに、と渚は複雑な気分になる。
(お祭り……もう始まってるのかな?)
携帯で時間を確認してみれば、日付が変わって二分ほど経っていた。
村長の話によれば、この祭りは朝まで続くらしい。今の時期だと、日の出まであと四、五時間くらいはある。そんなに長く蛇姫から逃げ続けなければならないのか。花婿に課せられた過酷な使命に、渚は同情した。
(私に何か……手伝えること、ないかな?)
悠馬の苦労を考えたらじっとしていられなくなって、渚は腰を上げた。
悠馬が着替えている間、渚は村人から、祭りの最中は山には花婿以外は立ち入れない決まりとなっていると教えられていた。だが、こっそり行けば分からないのではないだろうか。
たとえ蛇とは言っても、自分の彼氏が他の女性に取られるなんて、渚には耐えられなかったのだ。
渚は障子に手を掛けた。だが、廊下に人の気配を感じて、動きを止める。見つからないように移動しなければならないのだ。渚は、奥にある襖から、別の廊下を渡って外に出ようとした。
だが、襖の向こうに広がっていたのは別の部屋だった。渚が通された座敷よりも、やや小ぶりな和室だ。
部屋に入って何気なく内装を見ていた渚は、ぶら下がっていた掛け軸に目を留める。
そこに描かれていたのは、巨大な蛇だった。白い鱗と大きな土色の目をしている。
(これが……蛇姫?)
渚は呆然とした。
絵は、その蛇が、一人の花婿姿の男性に巻き付いているというものだった。男性の顔は、恐怖と苦痛に満ちている。どう見たって、結婚式に臨む者の表情ではなかった。
捕食、という言葉が頭に浮かんでくる。渚は身震いした。
この祭りは、蛇姫の花婿を探すためのものではなかったのか。まさか、自分たちは嘘を教えられたのだろうか。
掛け軸の中の花婿が段々と悠馬の顔に見えてきた渚は、思わず後ずさりする。その足に、何かが触れた。ハッとなって視線を向けると、一枚の屏風が立っているのに気が付く。
屏風には、何か文字が書いてあった。古いもののようだったが、定期的に手入れがなされているらしく、内容を判別するのは容易だった。
シャラ シャラ 蛇姫 婿捜し
婿殿 社へ 身を隠し
花嫁来るまで 待ちぼうけ 待ちぼうけ
シャラ シャラ 蛇姫 子を産んだ
きょうだい 揃って 村作り
姫様祀って 何百年 何百年
シャラ シャラ 蛇姫 婿食った
花の後には 種残る
腹の中へと 参りましょう 参りましょう
(こ、これって……)
村人たちが歌っていたわらべ歌だ。その三番目の歌詞に、渚の目は釘付けになった。
(『婿食った』って……)
こんなに直接的な表現をされてしまえば、疑いようもなかった。掛け軸の男性を、渚は穴が空くほど見つめる。
やはり、花婿は食われてしまうのだ。『腹の中へと参りましょう』というのは、蛇姫の胃の中に収まってしまうという意味に違いなかった。
『花の後には種残る』とは、何を指しているのか分からなかったが、とにかく、よくないことが歌われているのだけは理解できる。
(それに、二番の歌詞って……)
背後に人の気配がして、渚は振り返った。そこに立っていたのは、村長だった。
「私たちを……騙してたの?」
渚は、掠れた声で尋ねた。
「悠馬くんは……蛇姫に食べられちゃうの?」
「ええ、その通りです」
村長がゆっくりと頷いた。
「もっとも、今すぐというわけではありません。あの方は、蛇姫様の大事な婿殿です。たくさんの子を蛇姫様との間にもうけていただいて、その後で蛇姫様の贄となるのです」
「そんなことさせない!」
渚は拳を固く握りしめた。
「私たち、もう帰ります! お祭りは中止してください!」
「そういうわけにはいきません」
村長は首を振った。
「こんな山奥の村では、祭りの度に花婿を確保するのも至難の業でしてね。もう蛇姫様は、かれこれ何十年も婿取りをしていらっしゃいません。おかげで、蛇姫様の子孫は衰退の一途を辿るばかり……」
村長の目が妖しく光り出して、渚はドキリとした。
「そこに、あの方がいらっしゃったのです。逃がしてなるものですか。何十体でも何百体でも、子を作らせねばならないのです。それが母上様の望み。そして、我らきょうだいの悲願……!」
「じゃ、じゃあ、やっぱりあの歌にあった、『きょうだい揃って村作り』っていうのは……」
渚は声を上ずらせた。このうわばみ村は、人外が住む村落だったのだ。
「これは、我らの一族に新たな血を入れる儀式なのです。決して邪魔はさせませんよ。ですから、あなたには消えてもらわないといけません」
「えっ……?」
思わぬ方向に話を持って行かれて、渚はポカンとした。
「婿殿の相手は、母上様だけなのです。それ以外はいりません」
村長の姿が、ゆっくりと変わっていく。皮膚から白い鱗が生えてきて、ギョロリとした目がますます大きくなった。
着物がするんと落ちた後に立っていたのは、一匹の大蛇だった。
渚は甲高い悲鳴を上げる。村長が彼女に食らいつこうと飛びかかったのは、それと同時だった。
****
「はあ、はあ……」
明かりも持たずに、悠馬は山道を疾走していた。
その後ろを、シャラシャラと軽やかな鈴の音がついてくる。悠馬が後ろを振り向くと、追いかけてくる大蛇がニヤリと笑った。
「旦那様、逃がしはしませんよ」
大蛇は玉を転がすような美しい声をしていた。しかしそれは、悠馬の耳にはどうしようもなく恐ろしい旋律に聞こえてしまう。
「わたくしに見つかった花婿は、わたくしのものになるのです。そういう決まりなのですよ」
全身から、汗が噴き出してくる。人語を話す化け物の存在も、その怪物に自分が追いかけられていることも、何もかもが悪夢のようだった。
焦っていた悠馬は、地面から木の根が飛び出しているのに気が付かなかった。それに足を取られ、転倒する。
起き上がろうとしたその瞬間、悠馬は蛇体に絡め取られた。
「捕まえましたわ」
蛇姫の体はぶよぶよしていて、服越しにも冷たいのが分かる。所々鱗がはげ、腹部に爛れた跡が見えるのは、昔、悪党にやけどを負わされたときの名残なのだろうか。
締め上げられているせいで呼吸が浅くなっていた悠馬に、蛇姫は顔を近づけてきた。
「わたくし、お慕いする方は、どこまでも追いかけますの。そう、どんな手を使っても……」
蛇姫の長い舌が、悠馬の着物の合わせ目にぬるりと差し込まれた。
まるでタコの吸盤のように、べったりと体に張り付いてくる舌だった。そんなものが、ぺちゃぺちゃと気味の悪い音を立てながら、胸の辺りを移動している。
悠馬はあまりのおぞましさに失神しそうになった。このまま食われてしまうのではないかと戦慄する。
「やはり、若く美しい方の肌は素晴らしいですわね。……さあ、存分に堪能させて差し上げますわ。よい声でお啼きなさいませ」
べたつく感触が、悠馬のへそ付近を辿っていた。下肢を目指すその薄い舌の感覚に、悠馬は総毛立つ。
悠馬は、巻き付いてくる蛇姫から逃れようと必死に身を捩った。その手が、近くに落ちていた枝に触れる。悠馬はそれを掴むと、無我夢中でその切っ先を蛇姫に突き刺した。
「ぎゃあぁっ!」
蛇姫は、右目から血を吹き出しながら恐ろしい声を上げた。縛めが緩み、悠馬はそこから這い出る。
悠馬は泥だらけになりながら、坂道を転がるように駆け下りた。やがて、村に着く。
しかし、気が急いていた悠馬は、すぐには異変に気が付かなかった。
「来ないで!」
絶叫と共に近くの民家の影から渚が飛び出してきたことで、悠馬はやっと村の様子がおかしいと勘付いた。渚は、何匹もの大蛇に追いかけられていたのだ。
「悠馬くん!」
渚が悠馬を認めた。唖然としていた悠馬は我に返って、恋人のもとへ駆け寄る。
「何だ、この蛇たちは!?」
渚と一緒に逃げながら、悠馬は顔を引きつらせた。それに対し、渚は「この村の人たちだよ!」と返す。
「皆、正体は蛇だったの! それで……」
すさまじい破壊音がして、渚の声はかき消された。村を囲っていた柵を壊した蛇姫が、悠馬たちの前に躍り出てくる。右目にはまだ枝が刺さったままで、白い鱗で覆われた顔が血だらけになっていた。
突然現れた奇怪な化け物を見て、渚が悲鳴を上げる。
後ろからは村人たち。前には蛇姫。絶体絶命だ。悠馬たちに逃げ場はなかった。
「さあ、旦那様。早く初夜の続きをいたしましょう?」
「殺せ、殺せ、娘を殺せ。婿殿の相手は蛇姫様だけだ」
蛇姫と村人たちが口々に囁きながら、こちらへと迫ってくる。
渚が震えながら悠馬の腕にしがみついてきた。片目から血を流す蛇姫と、蛇に姿を変えた村人たちに二人は追い詰められ、じりじりと後退する。
どうにかこの状況を打破する手はないかと、悠馬は辺りを見回した。すると、祭りの席で出されていたと思われる飲食物が目に飛び込んでくる。
悠馬は、やけどで傷ついた蛇姫の体と、村長の話を思い出した。蛇姫は、火を恐れているのだ。
「渚! そこの酒樽を倒すんだ!」
悠馬は渚に向かって叫んだ。渚は戸惑いつつも、それに従う。悠馬は、近くに設置されていたぼんぼりの柄を、力任せにへし折った。
そして、ついていた覆いをむしり取り、火が灯っている部分を、地面にまき散らされた酒に向かって放り投げる。
濡れた地面に、ボッと赤色が踊った。
「あああっ! 火、火が!」
よほど強い酒だったのか、炎はあっという間に大きくなった。
それを見た蛇姫は、パニックを起こして絶叫する。酒は彼女にもかかっていたようで、巨大な蛇体のあちこちから、火の手が上がり始めた。
それを消そうとして、蛇姫は辺り構わず転がり回り、その拍子に民家を壊したり、近くに置いてあった薪を燃やしたりしていた。
「そんな……蛇姫様!」
「水だ! 早くしろ!」
炎はどんどん広がっていく。蛇姫は火だるまになりながら、「熱い、熱いぃ!」と苦しげな声を出していた。
村人は慌てふためき、もはや悠馬たちのことなど目に入っていない。その隙に、悠馬は渚の手を引いて駆け出した。
村の入り口を抜け、山の中へと入っても、皆は消火に夢中になっているのか追ってこない。振り向いた悠馬は、村が炎に包まれているのを見た。
二人は真っ暗な山中を、渚の携帯の明かりを頼りに車を止めた場所まで走り続け、車内に転がり込んだ。
渚がポケットからキーを出し、エンジンをかける。そのまま、脇目も振らずに発進した。
そうしている間中、悠馬は、蛇姫が立てるあのシャラシャラという音を聞いていたような気がした。
****
――それから数年後。
悠馬は、病院の廊下を走っていた。
「あ、あの、渚……妻は……!」
ある一室の前で足を止めると、タイミングよく看護師が出てくる。はやる思いで悠馬が尋ねると、看護師はにっこりと笑った。
「おめでとうございます。女の子ですよ。奥さんもお元気です」
悠馬は体から力が抜けていくような安堵を感じながら、看護師と入れ違いで病室に入った。
あのうわばみ村での事件の後、悠馬と渚は無事に山を下り、近くの町の警察署へと駆け込んだ。
そこで二人は、起こったことをありのままに話した。警官たちは、初めは何かの冗談だと思ったらしかったが、悠馬たちがあまりにも真剣だったためか、一応は山の中へ入って、状況を確認してくれることになった。
だが、戻ってきた警官たちによれば、そんな村はどこにもなかったという。こんなイタズラは二度とするなと厳重注意された二人は、そのまますごすごと帰るしかなかった。
あの奇妙な村も、蛇姫たちも、一体どこに消えてしまったのだろう。
二人は、しばらくその疑問に頭を悩ませ続けた。
しかし、時と共にかつての記憶も薄まっていく。大学を卒業した後に渚と結婚した悠馬は、もはや当時を思い出すことはほとんどなくなっていた。
結婚後、ほどなくして渚が妊娠してからはなおさらだった。今の悠馬の最大の関心事は、妻の体調と、彼女に宿った新しい命のことだった。
「渚……」
ベッドから身を起こしていた渚に、悠馬は歩み寄る。
出産に立ち会えなかったことは残念だったが、疲れをにじませつつも元気そうな渚の様子に、悠馬は心の底から安心した。
「悠馬くん、遅いよ」
渚は赤ん坊を腕に抱えながら、茶化すような口調で夫を責めた。
「はい、抱っこしてあげて」
渚が赤ん坊を差し出してくる。悠馬はそれを受け取った。
腕に感じる命の重さに、悠馬は感動で震えた。生まれたばかりの我が子の顔を、じっと見つめる。眠るように目を閉じているその姿は、まるで天使みたいだった。
「可愛いな……」
悠馬は、感激で涙ぐみながら呟いた。
「全体的に渚似かな? でも、頬の辺りは何となく……」
シャラ、という音が聞こえてきて、悠馬は言葉を切った。脳裏に昔の体験がフラッシュバックする。
「悠馬くん?」
悠馬の様子が変だと気が付いたのか、渚が怪訝そうな顔をした。
「ああ……いや、何でも」
我に返った悠馬は首を振った。
きっと、あの音は気のせいだったのだろう。まったく、こんなときにあんな恐ろしい出来事を思い出してしまうなんて、どうかしている。
そう思った瞬間に、赤ん坊の目が開いた。土色の目だった。だが、それは左側だけのことで、右目にあるのは、洞のようにぽっかりとした穴だった。
赤ん坊は牙のある口を、顔が裂けそうなほどに大きく開け、玉のように美しい声で一言、それはそれは愛おしそうに囁いた。
「みぃつけた」
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シャラ シャラ 蛇姫 婿捜し
婿殿 社へ 身を隠し
花嫁来るまで 待ちぼうけ 待ちぼうけ
シャラ シャラ 蛇姫 子を産んだ
きょうだい 揃って 村作り
姫様祀って 何百年 何百年
シャラ シャラ 蛇姫 婿食った
花の後には 種残る
腹の中へと 参りましょう 参りましょう
この身は滅べど魂不滅。さあ、参りましょう、参りましょう。
あなたの元へと、参りましょう――。