第9章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
妙子と関係して初めて自分のした事の重大さに気づいた柏木は「おれは大変な事をしてしまった。源氏にばれたらどうなるのだろう」と青くなり、しばらく身を潜めていた。
しかし、こっそり様子を探ったところ自分には何の嫌疑もかけられていない事を知るや再び元気を取り戻し、堂々と表に姿を現すようになった。そして元気になればなるほど妙子のことが頭の中に去来するようになった。あの夜の夢のような逢瀬が忘れられなかった。妙子の声、匂い、おびえた表情、肌のぬくもり、とろけるような唇の味、熱い吐息、密着した体の感触・・・また妙子を抱きたい。あの体を独占したい。誰が何と言おうとあれはおれの女だ。誰にも渡さない。おれだけの女なのだ。
柏木は、前回と同様、小侍従に手配させて妙子の寝所に再び忍び込んだ。妙子はまさか柏木がまた忍んで来るとは想像もしていなかったので非常に驚き、そして必死に抵抗した。しかし、今回もまた柏木に力ずくで犯されてしまった。味をしめた柏木は光源氏が留守なのをよいことに毎晩忍んで来ては妙子の体をむさぼるようになった。柏木のことを表沙汰にするわけにもいかず、妙子は絶望的な気持ちで肉体を重ねつづけた。
最初のうち柏木は人にばれるのを恐れて事が済むとすぐに帰っていたが、だんだん慣れてくると終わった後ものんびり構え、妙子相手に亭主気取りで寝物語をするようになった。
「おれは今の社会に不満があるんだ。特に源氏のようなジジイがいつまでも幅を効かせていることにね。あいつらはもう古いんだよ。もうあいつらの時代は終わったんだよ。時代遅れの人間になったのなら、おとなしく後進に席を譲るのが当然だろう? それなのにしつこく権力の座にしがみつきやがって。あいつらが上でつかえているから、おれたち若い者がいつまでたっても自分たちの理想を実現出来ずにいるんだ。おれたちに任せろっていうんだ。おれたちがやれば世の中は今よりもずっと良くなる。ところが、ジジイたちに任せていると何も変わらないし、かえって悪くなるに決まっている。なぜなら、あいつらには時代の変化がまったく分かってないからだ」
妙子は放心した様子で柏木の話を聞いていた。彼女は柏木の言う理想にも改革にも興味が無かった。あるのはただ柏木との事が露見した時の恐怖だけだった。こんな事を続けていたらいつかは光源氏にばれる。そうなったら自分にも柏木にも恐ろしい結末がやって来るだろう。そうなる前にこんな事はもうやめさせなければ・・・
妙子は柏木を説得して自分のことを諦めさせようとした。しかし、説得は逆効果だった。説得すればするほど柏木は意地を張り、光源氏に対する敵愾心を強めていった。
「源氏にばれたら大変な事になるだと? そうなったらそうなったでこっちも言ってやろうじゃないか。おれは源氏なんかちっとも怖くないんだぞ。こっちにだって言いたい事は山ほどあるんだ。元々おまえは誰の妻になるはずだったのだ? おれじゃないか。おまえはおれの妻になる予定の女だったんだ。それを源氏が権力にものを言わせて横からかっさらっていったのだ。それなのにおれが不義密通をしていると言うのか? とんでもない。おれとおまえは本来のさやに収まっただけだ。不義密通をしていたのは、逆に源氏の方だ。そうだろう? おれは源氏に向かって言ってやるつもりだ。おれとおまえのどっちが正しいかって。どっちが正当な権利を持っているかって。もちろん答えはおれに決まっている。源氏なんかおれに詰め寄られたら何ひとつ反論出来ないだろう。いいか、おまえの本当の夫はおれなのだぞ。源氏は何の権利も無い、言わば泥棒みたいなものだ。だからおれたちが今こうしているのは本来の姿に戻っただけで、何ひとつやましい事はないのだ。おれたちには夫婦になる権利があるのだ」
世の中の事をろくに知らない妙子にも、柏木の屁理屈が通用するとはとても思えなかった。破滅は免れぬ状況だった。毎晩、柏木が忍んで来るたびに、妙子は自分の命の綱が細くなっていくのを感じた。
(わたしは死神に取り憑かれたようなものだ。もう逃げられない)
妙子は柏木というこの単純で強引で人迷惑な若者を嫌悪した。このまま柏木が地上から消えて無くなればどんなに清々するだろうとさえ思った。
ただ、その一方で別の感情もあった。妙子がその感情に気づいたのはつい最近のことである。妙子は大いに戸惑い、一生懸命に否定しようとした。しかし、どうしても否定出来なかった。心は嫌悪していても肉体が求めていた。妙子はあんなに毛嫌いしていた柏木が来るのを心待ちしている自分がいることに気がついたのである。その感情を認めたとき妙子は恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい気分だった。はしたない、はしたない。わたしはあの男が来るのを待っている・・・抱かれるのを待っている・・・
柏木のどこがそんなに良いというのだろう? 妙子は自問自答した。比較する対象は光源氏しかいなかった。比べてみると光源氏と柏木とではずいぶん違っていた。
まず匂いが違った。光源氏は常に着物にも体にも念入りに香を焚かせていた。したがって光源氏の体からはいつも良い匂いがした。ただしそれは人の手によって施された匂いであり、光源氏自身の本当の匂いでないことはよく分かっていた。これに対し柏木はそんな面倒な事はしていなかった。柏木の体からは青臭い樹液のような匂いがした。また汗の匂いがツーンとした。それらは不快な匂いではあったが、妙に惹きつけられるものがあったのも事実である。それにそれらは間違いなく柏木自身の匂いだった。生き物としての柏木の本当の匂いだった。
次に夜の営みの仕方が違った。光源氏のやり方はあくまでも優しく、洗練されていた。これに対し柏木には前戯のようなものは何も無かった。
さらに親近感が違った。妙子は夫である光源氏に親近感を感じたことは一度も無かった。妙子にとって光源氏は最初から自分とは別の世界に棲む遠い存在だった。先生であり、年長者であり、とにかく偉い人だった。あまりにも自分とは違いすぎて、馴れ馴れしく接するなどということはとても考えられなかった。これに対し柏木には妙な親近感があつた。いくら柏木の強引さや他人の気持ちを忖度しない自分勝手さを憎んでいても、いくら熱く理想を語る幼稚さにうんざりしていても、ともかくもこの人は自分の仲間だ、同じ世界に棲んでいる人間だ、という感じがした。柏木に抱かれているとき、汗臭い体臭にむせかえりながらも、自分は本来抱かれるべき相手に抱かれているのだという気がした。光源氏は、妙子の中で生まれた内なる基準によれば、ほんらい自分を抱くべき人ではなかった。柏木に抱かれるのは自然だが、光源氏にそうされるのは不自然なことに思えた。
そして最後に最も違ったのは、妙子に対する想いの強さだった。光源氏は常に分別のある大人だった。妙子への接し方も上品で余裕たっぷりだった。ただその分、熱い想いを感じることはなかった。いつもどこか義務的な感じが付き纏っていた。これに対し柏木は必死だった。妙子のことが好きで好きでたまらないという気持ちが、見苦しいほど全身から溢れていた。会うたびに柏木は妙子に
「好きだ。愛している」
と囁きつづけた。あんなに嫌っていた妙子も、こうたびたび愛の告白をされるとまんざら悪い気もしなくなって、しまいには情が湧いてきた。ひたむきに求愛をつづける柏木は、自分を可愛がってくれと必死にすがりついてくる仔犬のように思えた。そういう目で改めて見ると、柏木の間抜け面も、幼稚で向こう見ずな性格も愛らしく見えてくるから不思議だった。わたしは求められている。心からわたしを求めている人間がここにいる。こんな事は今まで経験したことがなかった。今まではわたしのことを人形のように扱う人ばかりだった。でも、この人は違う。この人は同等の人間としてわたしを求めている。仲間同士が協力し合って何かを成し遂げようとするように、わたしと力を合わせて幸せになろうとしている。この人にはわたしが必要なのだ。わたし無しでは生きてゆけないのだ・・・
いつの間にか妙子の中で自分を慕うこの哀れな男に対する愛情が芽生えていた。
(これが恋というものなの?)
妙子にはよく分からなかった。ただ柏木との夜の秘め事は次第に激しさを増していった。表向きは嫌がっていても、そのじつ妙子が自分との逢瀬を喜んでいるということに、やがて柏木も気がついた。そうなると柏木はなおいっそう熱く燃えるようになった。もはや自分の存在は妙子と一緒にいる事の為のみにあるのだとさえ思えた。その頃にはようやく妙子の態度も打ち解けてきた。
「今夜はもう駄目よ」
「そんなこと言わずにさあ」
「いやだ。もうこうしてやる」
妙子は柏木に布団を被せて上から押さえつけた。
「苦しい。助けてよ」
柏木は手足をじたばた動かして、妙子に許しを請うた。
「それなら、もうしないと約束する? わたしが駄目だって言うことはしないと約束する?」
「するよ。する」
「それなら許してあげるわ」
ところが、布団から出た途端、柏木はまた妙子に抱きつき、さっきの続きをしようとした。
「ずるい。もうしないって約束したじゃないの」
「おれってそんなこと約束したっけ?」
「もう嘘つきなんだから」
「嘘つきでごめんね」
そう言うと柏木は妙子と抱き合ったまま寝床の上をごろごろと転がった。妙子はきゃっきゃと歓声を上げながら
「あなたって本当に馬鹿ね」
そう繰り返した。そんな風にしばらく子猫のようにじゃれ合った後、二人はまた愛しあうのだった、朝が来るまで何度も。そんな夜が続いた。