表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
源氏物語 女三の宮の恋  作者: ふじまる
8/17

第8章

紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。

 紫の上が病に倒れたことで六条の屋敷は上へ下への大騒ぎになった。朱雀院や冷泉院をはじめとして多くの人から見舞の品が届いた。紫の上のことを心配して訪ねてくる人も多かった。光源氏は治療に専念させるため紫の上を二条の別宅に移した。そして自身も二条の屋敷に泊まりこんで看病にあたった。

 病状は予断を許さぬ状況だった。高熱がつづき、意識が朦朧としていた。時々ひどい発作も起きた。医師が与える薬は効果が無く、僧侶たちによる病気平癒の祈祷も験が無かった。食欲が無く、元気をつけるために無理やり何かを食べさせようとしても、すぐに吐き出してしまう有様だった。紫の上は日に日に痩せ細っていった。

 紫の上は時々うわ言で「おばあちゃん」と呟いた。自分が引き取るまで一緒に暮らしていた祖母のことだな、と光源氏は思った。小さかった頃のことを思いだしているのだろうか? 生死の境目にある今、懐かしく振り返るのはおれと過ごした日々ではなく、幼い頃に過ごした祖母との日々なのか? それではおれとの人生は何だったというのか? 余計な邪魔物だったとでもいうのか? 

 意識が戻ると、絶え絶えの息の下、紫の上はきまって光源氏に出家の許可を求めた。光源氏はそのたびに曖昧な返事をし、明言を避けた。光源氏は決心をつけかねていた。今にも死んでしまいそうな紫の上の姿を見ては、たしかに最期の願いを叶えてあげたいという気持ちになった。しかし他方、これから先の生活のことを考えると、やはり紫の上に側にいて欲しい、出家はしてもらいたくない、と思うのだった。

 紫の上の病状が一進一退をつづけたため光源氏はずっと二条の屋敷に留まっていた。主人の留守で火が消えたように静かになった六条の屋敷では妙子が無聊を慰める日々を過ごしていた。朱雀院のための賀宴も、紫の上がこういう状態なので無期限の延期になっていた。せっかく上達した琴の腕前を愛する父の前で披露出来るのは一体いつになるのだろう? 妙子はか細い指先で琴の弦を軽く弾きながらぼんやりとそんなことを考えていた。何となく自分が世の中から忘れ去られた存在になったような気がして、ひどく寂しかった。

 しかし、妙子は忘れ去られた存在ではなかった。彼女のことを強烈に想いつづけている男がいた。柏木である。柏木は紫の上の看病のため光源氏が六条の屋敷を留守にしていると聞くや、何とか妙子に会える方法がないかと考えた。妙子の侍女の一人に小侍従という軽薄な性格の女がいた。柏木は彼女に金を渡し、妙子と会う手引きをさせることにした。賀茂祭りの準備で人が少なく、小侍従だけが側に控えていた四月のある晩、柏木はついに妙子の寝所に忍び込むことに成功した。

 妙子は何も知らずに寝ていた。夜中にふと目が醒めると側に男性のいる気配を感じた。最初、光源氏が帰ってきたのかと思ったが、すぐにそうじゃないと気づいた。今までに経験したことの無い異常な事態だった。言い知れぬ恐怖に襲われた妙子は体が震え、腋の下から冷たい汗が流れた。大声を上げようとした瞬間、男の手がさっと伸びて妙子の口を塞いだ。

「怖がらないでください。決して怪しい者ではありません。突然の無礼は詫びます。わたくしは中納言の柏木と申します。どうしてもあなたに会いたくて、こうして忍んでやってまいりました。こういうやり方が正しくないという事は分かっています。しかし、わたくしにはこのような方法しか無かったのです。あなたにお目にかかるためにはこのような方法しか・・・」

 男が身分のある人間だと分かって妙子は少し安心した。しかし、体の震えは止まらなかった。柏木はくどくどと弁解じみたことをしゃべっていたが、混乱状態にある妙子にはその半分も理解出来なかった。何でもいいから早く帰ってもらいたかった。とにかく光源氏以外の男性とこんなふうに体を密着させている状況は妙子にとって耐え難いものだった。

「本当はわたくしがあなたの夫となるはずだったのです。嘘ではありません。わたくしの父と院との間で縁談はまとまりかけていたのです。ところが、そこへ急に源氏が割り込んできて、わたしたちの仲を引き裂いたのです。わたくしはくやしくて仕方ありませんでした。あなたのように若く美しい女性が、あんな年寄りと結婚しなくてはならなくなったことが。しかし、源氏は今をときめく権力者。わたくしはただの若造。とても勝負になりません。一度はわたくしもあなたのことを諦めようとしました。ところが、忘れもしない四年前の春、あなたは憶えているでしょうか、この屋敷の庭で行われた蹴鞠大会の時、猫があなたを隠していた御簾を跳ね上げたことを。その時、わたくしは初めてあなたの顔を、お姿を、この目にしたのです。あなたはわたくしの理想をすべて備えた女性でした。わたくしにははっきり分かったのです。この人こそがわが妻だと。わたくしはあなたと結ばれる運命だったのだと。権力者の横暴が、他人の暴力が、我々の運命をねじ曲げたのだと。あなたのことを諦めるなんてもうわたくしには出来ませんでした。この四年間、昼も夜もあなたのことばかり考えて暮らしてきました。ずっとあなたと二人きりになれる機会を狙っていました。そして、ついに今日、その日が来たのです。ですからわたくしは軽率に行動しているわけではありません。充分に思案した上でここへ参上したのです。大それた真似だとは承知しております。しかし、わたくしには自分を止めることが出来ないのです。たとえどうなっても構いません。わたくしの願いはただ一つ。あなたが欲しい。それだけです」

 妙子を抱く柏木の手に力がこもった。妙子は恐怖で目を見開いた。柏木はその目を見つめた。二人は、しばらくの間、お互いの目をじっと見つめ合った、まるで妥協点を探すかのように。しかし、交渉の余地は無かった。妙子が短い悲鳴を上げるのと同時に柏木は彼女の体を押し倒した。


 すべてが終わって冷静さを取り戻した時、柏木は「大変な事をしてしまった」という後悔の念に責め苛まれた。

 そばで妙子が泣いていた。妙子と結ばれる事が叶えばもうどうなっても構わないと思い詰めていた柏木だったが、いざ実際にそうなってしまうとやはりどうにかなるのは恐ろしかった。いちばん良いのは誰にも知られぬうちにこの場から立ち去ることだと思った。妙子に二言三言話しかけてみたが、ただ泣くばかりで返事は無かった。柏木は黙って妙子の寝所を去った。

 あとに残された妙子にとって、今夜の出来事は悪夢以外の何物でもなかった。突然、嵐が襲ってきて家の中の大切な宝物をぜんぶ吹き飛ばされたような印象だった。本当にこれが夢であってくれればと何度も思った。しかし、これはまぎれもない現実だった。

(わたしの体は汚れてしまった)

 そう思うと妙子の目から涙が溢れてきた。こんな体でどうやって光源氏にまたお目にかかることが出来るだろう? もはや光源氏に会わせる顔が無い。わたしの体は汚い。わたしは光源氏の妻である資格を失った。わたしの人生はもうおしまいだ・・・

 妙子は誰にも言えず一人で悩んでいるうちに気分が悪くなり、とうとう寝込んでしまった。二条の屋敷で紫の上の看病にあたっていた光源氏は、今度は妙子が病に倒れたと聞くと驚いて六条の屋敷へ戻ってきた。そして妙子の病気が、紫の上のそれとは違い、生死にかかわるような深刻なものではないと知って安心した。きっと紫の上の看病で自分が長く留守にしていたから、寂しくて体調を壊したのだろう。可哀想なことをした・・・何も知らない光源氏はそう思った。

「気分はどうだ? 何か食べたいものはないか?」

 光源氏から優しく話しかけられると、妙子はいたたまれなくなって顔を布団で隠した。おめでたい光源氏はそれを妙子が照れて恥ずかしがっているからだと勝手に誤解して苦笑いをした。

「可愛い奴だ」

 紫の上のことが心配だが、とりあえずはしばらく六条の屋敷に留まって妙子を元気づけてやることにしようと光源氏は決めた。

 ところが、そう決めた矢先、今度は二条の屋敷から

「紫の上さま、御危篤」

 という知らせが届けられた。光源氏は真っ青になり、大急ぎで二条の屋敷に戻った。

 二条の屋敷に到着すると邸内で人々が泣いていた。光源氏は紫の上の寝所へ駆け込んだ。紫の上はすでに息をしていなかった。もう恥も外聞も無かった。誰にどう思われようと知ったことじゃなかった。光源氏は手足をばたばたさせて泣きながら

「紫、目を開けろ。目を開けて、もう一度おれの顔を見てくれ。頼むから見てくれ」 

 と絶叫した。

 するとその声が天に届いたのか、奇跡的に紫の上が息を吹き返した。光源氏は紫の上の掛け布団に突っ伏してひと目も気にせずわんわん泣きつづけた。

 紫の上がまたいつ危篤状態に陥るか分からないので、光源氏は二条の屋敷を離れることが出来なくなり、紫の上の側にべったりと張り付いて看病に当たった。それは侍女たちもあきれる程の密着ぶりだった。

 意識を取り戻した紫の上は、あらためて光源氏に出家の許しを請うた。光源氏は相変わらず紫の上の出家には反対だったが、今回はむげに断るわけにもいかなかった。そんな事をしてまた紫の上の病状が悪化でもしたら大ごとだった。悩んだ末に光源氏は在家信者のための五戒を授けさせることでこの場を取り繕おうとした。これで少しでも紫の上の体調が良くなればと祈るばかりだった。

 一方、六条の屋敷では妙子がひとり寂しく光源氏の留守を預かっていた。柏木に犯されたことが心に重くのしかかり、妙子は食事もろくに喉を通らない有様だった。物思いに沈み、青白くやつれた妙子からは以前の可愛いらしさが消えうせ、その代わりに全身から不気味な美しさが月光のように妖しく放射されていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ