第7章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
それから四年の歳月が流れた。
この間、光源氏の周囲は表面上は何事も無く穏やかに過ぎていった。光源氏は妙子と紫の上の間を上手に行き来して二人を悲しませないように気を配っていた。だが、それでもどちらかというと、やはり紫の上のところにいることの方が多かった。妙子の侍女たちはそのことが不満だった。そのため光源氏は妙子を大切にしていないという噂を密かに流して、うっぷんを晴らしていた。
冷泉帝は皇太子に天皇の位を譲位し、その結果、明石の中宮すなわち凪子の産んだ皇子が皇太子となっていた。
夕霧と柏木はそれぞれ大納言と中納言に昇進していた。
柏木は妙子との結婚が頓挫して以来、誰とも結婚しようとはしなかった。柏木の父である太政大臣は、妙子との縁談の件で柏木に恥をかかせた格好になったことを気に病んでいた。そして柏木が結婚したがらないのは、そのことで心に深い傷を負ったせいじゃないかと心配していた。そこで、せめてもの罪滅ぼしにと、妙子の姉で世間的には《落葉の宮》と呼ばれている慶子との縁談をまとめてきた。妙子のことが忘れられない柏木は最初断っていたが、親たちに押し切られ、しぶしぶ慶子と結婚した。
慶子は地味な顔立ちながら性格的に優しく、落ち着きがあって、細かい事にもよく気がつく女性だった。言わば妻として申し分のない女性だった。それでも柏木は偽物をつかまされたような気がして不満だった。妙子への思いが消えることはなかった。
朱雀院は出家して以来、北山のある寺で仏道の修行に専念していたが、いよいよ死期が近づいてきたことを悟り、死ぬ前にもういちど妙子に会いたいという気持ちが強くなっていた。妙子は源氏の君のもとで磨かれてきっと素晴らしい女性に変身していることだろう。その姿を一目見て、安心してから極楽浄土へ旅立ちたい・・・そういう思いに捕らわれていた。
それに朱雀院には一つ気掛かりなことがあった。光源氏が妙子をあまり可愛がっていないという噂を耳にしたことである。まさかそんなことはあるまいと思うが、実際に自分の目で確かめなければ気が済まなかった。そこで光源氏に対して妙子に会える機会を作ってくれるよう内々に依頼してきた。
「どうしたもんだろうね」
光源氏は風祭を呼んで相談した。
「何の名目も無く、ただ院のもとへ参上するというのでは芸がありますまい。来年、院はちょうど五十歳になられます。そこで院の五十歳を祝う宴を盛大に催して、その場に妙子さまをお連れすればよろしいのではありませんか?」
風祭がそう助言した。
「それは良い考えだ。だが、そうなると院の前で妙子に何か楽器の一つぐらい演奏させないと格好がつかないな」
「琴の演奏でもご披露なさればよろしいのではないですか?」
「琴か・・・」
「何か問題でも?」
「いや、妙子は甘やかされて育ったものだから、習い事が好きじゃないのだよ。色んな事を習わせているのだが、どれも少し練習したかと思うとすぐに飽きてしまって、もうそれ以上続けるのを嫌がる始末なのだ。我慢するという習慣が無いのだな。万事がそんな調子だから、琴だってとても人前で演奏出来るような腕前にはなっていないのだよ」
「それなら殿自らがお教えすればよろしいのではありませんか?」
「おれがか?」
光源氏は目を丸くした。
「妙子さまも殿が自らご指導なされば練習にも身が入るでしょう。院の賀宴まではまだ日にちがございます。ここはひとつ殿にがんばっていただくしかないようですな」
そう言って風祭は笑った。
「しょうがないなあ」
面倒臭い気持ちもあったが、翌日からさっそく光源氏は妙子に琴の稽古をつけ始めた。
いつもなら練習を嫌がり、すぐに逃げだしてしまう妙子だったが、さすがに光源氏直々の稽古となるとそういうわけにもいかず、黙々と琴を弾いていた。妙子の方にも最愛の父・朱雀院の前でぶざまな姿を見せたくないという気持ちがあった。そこで自然と練習にも熱が入った。琴の稽古は毎日つづいた。光源氏の的確な指導もあって妙子の腕前はみるみる上達していった。朱雀院の祝賀の日までには何とかさまになりそうなめどがついてきた。
こんなふうに妙子の琴の稽古で忙しかったので、光源氏はしばらく紫の上のところへは通わなかった。久しぶりに紫の上の部屋へ行くと
「妙子さまは随分とご上達なさったようですね」
にっこりと微笑みながら紫の上がそう言った。
「おお、そなたの耳にも聞こえておったか。最初のうちはさすがのおれも苦労したけど、最近になってやっと形になってきた。今後は少しずつ限られた人間のみが知る秘曲なども教えていきたいと思っているところだ」
光源氏は床にどかっと尻を据え、上機嫌でそう答えた。
「それは楽しみですね。院もさぞお喜びになることでしょう」
「ああ、今回の件は死ぬ前にもういちど妙子に会いたいという院のたっての願いから出たことだからな。妙子に立派な演奏をさせ、院を喜ばしてあげたいものだ」
「わたくしもあなた様に一つお願いしたい事があるのですが・・・」
「うん? 何じゃ? そなたの願いなら何でも聞くぞ」
「出家させていただきたいのです」
「何じゃと?」
光源氏は驚いて飛び上がった。
「お、おまえは自分が何を言っているのか分かっておるのか?」
「はい、分かっております」
と、紫の上は冷静に答えた。
「出家するということは、もうおれとは夫婦でなくなるということなのだぞ」
「ええ、承知しております」
「おまえという奴は」
光源氏は怒りで顔を真っ赤にし、ぎりぎりと歯ぎしりをした。
「いつまでもおれが妙子を正室にしたことを根に持ちやがって。ちゃんとあの時おまえにも説明したじゃないか。今回の結婚は本意じゃないということを。院に懇願されてやむなく承諾したのだということを」
「わたくしは妙子さまの件が不満で出家したいと申し上げているのではございません」
「そうじゃなかったら、他にどんな理由があるというんだよ?」
光源氏は逆上して大声を上げた。しかし、紫の上は少しも動じる様子が無かった。
「これは何年も前から考えて出した結論なのでございます。わたくしは幼い頃あなた様に引き取られ、あなた様に育てられ、あなた様の妻になりました。そして、それ以来、あなた様を支えてまいりました。その間、わたくしは人々から奥方さまと呼ばれ、困っている人の相談に乗ってあげたり、その方の願いが叶うように関係部署に働きかけたりいたしました。わたくしの意見はたいがい通りました。皆がわたくしの機嫌を損ねることを恐れていたからです。わたくしは自分に権力があるのを感じていました。しかし、わたくしは少々勘違いしていたようです。いい気になっていた自分を恥ずかしく思います。わたくしが感じていた権力、それはいったい何だったのでしょう? それは結局わたくしの権力ではなく、あなた様の権力にすぎなかったのです。あなた様がいなかったら、わたくしなど何の価値も無い女なのでございます」
「それはちがう。それはちがうぞ、紫。そなたぐらい素晴らしい女性は他におらん」
「いいえ、そうなのです。その証拠に何十年お仕えしても、わたくしはあなた様の正室にはなれなかったじゃありませんか」
「だから・・・それは・・・もうイライラするな。今まで何度も説明しただろうが」
「結局、あなた様以外にわたくしを支えるものは何も無いのです。頼る実家も、親戚も、誇る血筋も。わたくしはしっかりとした大地に立って生きている人間ではありません。ぐらぐらと不安定で、いつ崩れるか分からない崖の上で生きている人間なのです。わずかにあなた様という支えを頼りにして」
「おれはおまえを支えるよ。一生支えるよ」
「わたくしは今年、三十七歳になります。老いというものは残酷なものです。これからわたくしは年を追うごとに醜くなってゆくでしょう。そうなった時、あなた様が現在と変わらず、わたくしを大切にしてくださるという保証はどこにもありません。人間の心ほどあてにならないものはありませんからね。年を取って醜くなったわたくしは毛嫌いされ、邪魔物扱いされて、冷たく放り出されるのが関の山でしょう。わたくしはそんな惨めな思いをしたくはありません。まだ美しく惜しまれるうちに姿を消したいのです。人間、ある年齢に達したら引き際が肝心です。この事はあなた様もお忘れないように。それを間違えると一生が無駄になるおそれがあるほど重要なことですから」
「なぜそういう悲観的なことばかり言うのだよ? おまえがいくつになろうと、たとえ醜い老婆になろうと、おれの愛に変わりがあるわけないじゃないか。おれを信じてくれよ。このおれを」
「わたくしはもう誰も信じられないのです。わたくしが信じられるのは御仏のお慈悲だけです」
「なあ、そう言わずに、まずおれの話を聞けよ。おれは今までたくさんの女と関係を持ってきたが、おまえほど素晴らしい女性はいなかった。おれにはおまえがいちばんしっくりくるのだよ。おれの最初の妻だった葵。彼女はおれが望んで妻にした女ではなかった。おれの意志に関係なく、勝手に縁談が決められたのだ。もちろんそれは彼女の罪ではないが・・・でも、そのせいかどうか、最初から葵とはしっくりいかなかった。どうしても彼女に愛情を感じられなかった。彼女の性格にも問題があったと思う。あれは左大臣の娘だったから、自分は良家の姫だという自負が人一倍強かった。そのせいか性格が少々堅苦しかった。いつもきちんとしていないと気が済まない性分だった。そんな彼女と一緒にいてもおれはくつろげなかった。一緒にいるとくたびれた。自然とおれの彼女に対する態度は冷たくなっていった。今だったらもっとうまくやれたと思う。今のおれだったら。だが、あの頃のおれは若すぎた。その人に合わせて何種類かの顔を器用に使い分けるような芸当は、当時のおれにはまだ出来なかった。葵にはすまない事をしたと思う。彼女をもっと理解してあげればよかった。そして、もっと大切にしてあげれば・・・」
そう言うと光源氏は着物の袖で目頭を拭った。過去を想い、感傷に浸っているようだった。
「それから六条の御息所という女とも関係を持ったことがあった。おれよりもずっと年上の人だ。たいへんに教養の豊かな女性で、特に芸術に関する造詣の深さは当時のおれなどが遠く及ぶところではなかった。おれは彼女からたくさんの事を教わった。彼女のお陰でおれは随分と成長したと思う。そういう点では今でも彼女に感謝している。しかし、そんな素晴らしい六条の御息所にも、おれは不満だった。彼女のどこに不満なのか、それを説明するのは難しいけど・・・つまり六条の御息所は、おれからするとすでに完成された存在だったのだよ。彼女に対しては、おれがしなければならない事はもはや何も残っていなかった。だけどそれではおれは満足出来ない。おれはどちらかと言うと未完成の女を自分の手で完成させることに喜びを感じる男だ。おれは次第に六条の御息所から離れていった」
こんなふうに過去の女性の話を聞かせる光源氏の意図は、彼女たちと比べて紫の上がどんなに優れた女性であるのかを強調し、そうであるから別れることは出来ないという事を納得してもらうことにあった。だが、光源氏が関係した自分以外の女の話を聞かされても、紫の上にとって愉快なはずがなかった。そんな話には興味が無いというのが正直な感想だった。しかし、紫の上に出家を断念させることで頭がいっぱいの光源氏には、彼女のそんな心の有り様に気づく余裕など無かった。
「おれの心が六条の御息所から離れていけばいくほど、反対に彼女のおれに対する想いは強くなっていったようだ。男と女の関係ってそんなものだよな。逃げれば追いかけられ、追いかければ逃げられ。しかし、六条の御息所はおれのことがどうしても忘れられなかったらしい。彼女の想いが強すぎて最後には生霊となってしまったのだ」
「生霊?」
紫の上が訊き返した。
「そうだ、生霊だ。六条の御息所の悩める魂が生霊となっておれに襲い掛かってきたのだ。それは葵が亡くなる時にも現れておれを苦しめた」
「生霊などというものが本当に存在するのでしょうか?」
「いるのだよ。この世には人知の及ばぬ不思議な事がたくさんあるのだ」
「それは殿の心の弱さが造りだした幻なのではないですか?」
「おれの心が弱い? おれが臆病だというのか?」
光源氏は紫の上を睨みつけた。
「決してお強いとは思いませんけど」
「いくらおまえでも無礼な言い方は許さんぞ」
「許さないとすればどうなさるのですか? 殺すとでもおっしゃるのですか? どうぞ、そうなさってください。死んでわたくしは仏様のところへまいります」
紫の上にそう開き直られると光源氏には返す言葉が無かった。紫の上の表情からはもはや何物も自分の決心を変えることは出来ないという強い意志が感じ取られた。急に不安でたまらなくなった光源氏は紫の上に抱きつき、遂には泣きだした。
「いやだ。おまえを失いたくない」
「出家をお許しください」
紫の上の決心はあくまでも固かった。
「だめだ。だめだ。出家は許さん」
光源氏は子供のように泣きじゃくった。もはや辺りかまわぬ風だった。自分の胸に顔を埋めて泣いている光源氏の姿を見ると、固まっていた紫の上の心もさすがに少し緩んできた。
「わたくしに子があれば、こんなふうにはならなかったのでしょうね・・・」
紫の上は誰に言うともなくそう呟き、涙を流した。光源氏にはそれに対してかけてあげられる言葉が無かった。
「あなた様の子供を産みたかった・・・」
結局、光源氏は最後まで紫の上の出家を許さなかった。紫の上は出家の件は改めて話をすることにして、いったん引き下がった。紫の上は、一方では光源氏が出家を許してくれそうにないことを気に病み、他方では自分が出家した後の光源氏のことを考えると心配で、心が激しく揺れ動いた。毎日、そんなことに思い悩んでいたある日の夜、紫の上は急に胸の痛みを覚えた。最初のうちは、たいしたことはない、すぐに治まると楽観していたが、痛みが引くことはなく、逆にますます強くなってゆき、熱も出てきた。とうとう紫の上は寝込んでしまった。




