第6章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
三月の半ば、柏木と夕霧は御所の庭を散歩していた。柏木の父である太政大臣と光源氏が若い頃そうだったように二人は親友なのである。ぽかぽかと暖かい春の陽気だった。庭内の桜の花も開花し始めていた。
「こんなことを貴様に言うのもどうかとは思うけど、おれはどうしても納得出来ないのだ」
突然、柏木はそう言いだした。
「いったい何の話だい?」
夕霧はわけが分からなくて訊き返した。
「朱雀院の姫の結婚のことだよ」
「ああ、その話か・・・」
夕霧はばつが悪そうに下を向いた。
「元々あの姫はおれと結婚するはずだったのだ。それがなぜ貴様の親父と結婚することになったのだ? おかしいじゃないか。年齢だってぜんぜん離れているのに」
「どうして父が朱雀院の姫と結婚することになったのかその訳は知らないけど、もう済んだことなのだから仕方ないじゃないか」
「仕方なくはないだろう。貴様の親父にはたくさんの妻がいるのだろう? それなのにまた若い女房を貰うなんて一体どういう了見なのだ? いい年をして恥ずかしくないのかね、貴様の親父さんは。いくら権力者だからといって何でもして良いというわけじゃないだろう? 第一あんな年寄りのもとに嫁がされた姫が可哀想だとは思わないのか?」
「それはそうだけど、父にも色々と事情があったのだと思うよ。そうじゃなかったら紫の上という立派な妻がいるのに他に奥さんなんか貰ったりしないよ」
「おれはこういう筋の通らないことに我慢出来ないのだ」
柏木はそう言うと手を伸ばし、乱暴に桜の小枝を一本もぎ取った。そうとう憤慨している様子だった。
「君は少し朱雀院の姫のことをものすごい美人だと想像しすぎていないかい? 本当はそうじゃないかもしれないよ」
「そう言う貴様は姫の顔を見たことがあるのかよ?」
「無いよ。あるわけないじゃないか」
「それならなぜそんなことを言うんだよ?」
「いやね、父もそう熱心に通っているわけじゃないみたいだしさ、姫は君が勝手に想像しているような女じゃないかもしれないと思ってさ。もしかしたらひどく不細工だったりしてね。実物を見たら結婚しなくてよかったと思うかもしれないよ」
「それはそうかもしれないけどな・・・」
「それにぼくのところは今それどころの騒ぎじゃないんだよ。知っているだろう? 皇太子と結婚したぼくの腹違いの妹、明石の中宮に男の子が生まれたことを。それで父も、育ての親である紫の上も、実の母親である明石の方も、みんなそっちの方にかかりっきりで、姫のことなんか忘れちゃっている感じなんだ」
「ふん、これからも源氏一門の繁栄が続くということか。それに比べておれの家はどうだ? 貴様の家に反比例するかのようにどんどん小さくなるばかりだ」
「嫌なこと言うね。べつにうちと君の家は競い合っているわけじゃないじゃないか。どっちにしろ近い将来ぼくたちがこの国の舵取りを担わなければならなくなるんだ。その時は力を合わせて仲良くやろうぜ」
「おれは別に貴様と張り合うつもりはないよ。小さい頃からおれは貴様のことをよく知っている。貴様は近ごろじゃ珍しいくらい純粋でまっすぐな男だ。人間として信用出来る奴だ。だから将来、貴様がこの国の宰相になったら、おれは喜んで貴様の下で働くつもりだよ。他の奴の下で働くのは嫌だけど貴様の下ならいい。おれは貴様の右腕になって存分に働くつもりだ」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「ただおれが言いたいのは」
と、柏木は付け加えた。
「貴様の親父のことは気に入らないということだけだ」
柏木の言葉に夕霧は苦笑いをした。
「父のことに関しては、ぼくにだって言いたい事はあるんだよ。特に亡くなった母のことを思うとね。だけど最近、父のことを羨ましいと思うこともあるんだ」
「どこが羨ましいんだよ?」
「何人もの女性の間を自由気ままに泳ぎ回ってさ。父を見ていると自分も、もう少し自由に生きても良いのではないかと思うことがあるんだ。ぼくはちょっと堅苦しすぎる。もう少し自由に振る舞っても良いのではないかって」
「貴様には似合わない話だなあ。貴様は実直なところが取り柄じゃないか。それを親父さんのようにするなんて無理だよ」
「無理なのは分かっているよ。ただ時々ふとそういう願望を抱くことがあるんだ」
「なんだい、もう奥さんと上手くいってないのかい? あんな熱愛の末に結ばれたというのに」
「妻とは上手くいっているよ。ただもう少しぼくも様々なことに融通が効くようにならなければいけないなと思っているだけだよ」
「おれはそうは思わないけどな」
「他にも父を羨ましいと思う点はある。たとえば芸術的な才能だ。父は舞を舞っても、楽器を演奏しても、絵を描いても、歌を詠んでも、すべて上手にこなす。ぼくは生まれつき不器用だ。父と同じようにはうまく出来ない」
「人にはそれぞれ持って生まれた才能というのがあるからね。確かに貴様は芸術の分野では親父さんに劣るかもしれないけど、そのぶん他の面では親父さんより優れているところがたくさんあると思うよ」
「ぼくもそう考えるようにしているんだけどさ。それでも自分にとって父が目の前に立ち塞がる巨大な存在であることはまちがいないんだよ」
「いつまでも巨大な存在じゃないさ」
柏木はそう言い放った。
「そんなことより」
と、夕霧は話題を変えた。
「今日これからうちの屋敷の庭で行われる蹴鞠大会には君も参加するのだろう?」
「蹴鞠か・・・」
柏木は気が進まないようだった。
「なんだ、来ないのか? 君も予定の人数に入っているんだよ。君は蹴鞠が得意じゃないか」
「だって貴様の家に行けば親父さんに会わなければならなくなるのだろう?」
「まあ、父も観覧するだろうからね。でも、そんなこと関係ないじゃないか。ぼくたちはただいつもの仲間と一緒に蹴鞠をして汗を流すだけさ。それに・・・」
と、夕霧はにやにやした。
「たぶん君が憧れる姫も見に来ると思うよ。あのお姫さまはにぎやかな場所が大好きで、こういう時は必ず出てくるからさ。ただ御簾の奥からの観覧だから、こちらからその姿を見ることは出来ないけどね。それでもこちらの姿を向こうに見せることは出来るよ」
妙子が観覧すると聞いて柏木の心が動いた。柏木は夕霧の誘いを受けることにした。
二人が六条の屋敷に着いた時にはすでに大勢の若者たちが集まっていた。みんな貴族の子弟たちで、いつも夕霧や柏木と蹴鞠をしている仲間だった。二人が到着し、予定の人数が揃ったので、試合を始めることにした。
光源氏が高欄に出て来た。若者たちが全員揃って一礼すると、光源氏は権力者らしく鷹揚な態度で彼らに頷き返した。
咲き始めた桜の花に囲まれる中、夕霧が革製の鞠を空高く蹴り上げて試合が始まった。普段から練習を欠かさない者たちばかりだったので試合は白熱したものになった。気がつくと全員が汗をかき、必死に鞠の軌道を追いかけていた。ここで全員といったのは少し正確さに欠けたかもしれない。というのも柏木はいまひとつ試合に集中していなかったからである。試合の最中も柏木はちらちらと屋敷の方を盗み見ていた。部屋の前には大きな御簾が下がっていて中を覗くことは出来なかったが、御簾の下にあるわずかな隙間から何人かの女性の衣装の端を確認することが出来た。また、女たちの話し声が微かに聞こえた。複数の猫の鳴き声も聞こえた。
(あの御簾の奥に朱雀院の姫がいるのだろうか? そして今このおれを見ているのだろうか?)
そう考えると柏木は落ち着かない気分になって、とても蹴鞠どころの話じゃなかった。どうにかして彼女の姿を見る方法はないものだろうか? 奇跡が起きて、おれに姫の姿を見せてくれないだろうか?
その時、奇跡が起きた。
妙子が可愛がっている猫たちがじゃれて暴れ始め、大きな三毛猫が白い小さな子猫を追いかけて走り回った。子猫は御簾の外に走り出た。その後を追って三毛猫も外に出ようとした時、首につけていた長い紐が御簾の端にひっかかり、それを外そうとして猫が無理やり引っ張ったものだから、御簾の横裾がすっかりまくれ上がってしまった。柏木のいた場所から部屋の中が丸見えになった。
突然、柏木の目の前に、夢にまで見た妙子が姿を現した。ほんらい見えないはずのものが見えた衝撃で柏木は顔が真っ赤になり、心臓は外に飛び出すかと思うほど激しく鼓動した。
妙子は柏木が想像していたのを遥かに越える美しさだった。みずみずしい白い肌、艶のある長い黒髪、小さな顔、小さな体、愛くるしい笑顔・・・すべてが柏木の好みにぴったりだった。
(おれの理想の女がここにいる)
と、柏木は思った。妙子は精神的に大人になりきっていなかったので、柏木に見られていることを恥ずかしいと思う感性がまだ欠けていた。それどころか無防備にも柏木に向かって微笑みかけさえした。柏木は脳天を弓矢で射貫かれたような衝撃を受けた。
御簾はすぐ元のように下げられた。御簾が開いていたのはほんの短い時間にすぎなかった。もしかしたら一瞬だったのかもしれない。しかし、柏木にはずいぶん長いあいだ妙子の顔を見つめていたように思えた。妙子の姿はしっかりと柏木の記憶に刻み込まれた。
(二人の目と目が合った時、おれは一瞬で分かった、この女がおれの運命の女だということが。あいつにもそれが分かったはずだ。身勝手な大人たちのせいで、おれたちの関係は不自然な状態に置かれている。早くそれを自然な状態に戻さなければならない。そうだ、おれたちは結ばれなければならないのだ・・・)
柏木はすぐにでも妙子を奪い去りたい衝動に駆られた。しかし、現実的にはそれは不可能なので、とりあえず自分と妙子が出会うきっかけを作ってくれた白い子猫を手に入れたいと思った。一計を案じた柏木は、まず世継ぎ誕生のお祝いの名目で皇太子の住む東宮御所へ行った。そして皇太子に向かって妙子の飼っている白い子猫がどんなに可愛いか、白い子猫は生まれたばかりの皇子に幸福をもたらすだろう、と調子の良い話を熱弁した。すっかりその気になった皇太子が明石の中宮を通じて子猫を手に入れると、柏木は言葉巧みにその子猫を借りうけた。それからの柏木は子猫に付きっきりだった。子猫を妙子だと思って可愛がった。他の人間を子猫には近づかせようとしなかった。
それまで柏木は猫には興味が無かったし、飼いたいと思ったことも無かった。しかし、実際に飼ってみると可愛いらしく、愛情がわいてきた。
(毛がふさふさしている暖かい動物を抱きしめ、頬ずりをするのは、何て気持ちが良いのだろう)
柏木はそう思った。それでも最初のうちは、柏木の可愛いがる気持ちが強すぎて体じゅうをまさぐるものだから、子猫は嫌がって逃げてばかりいた。しかし、餌を必ず自分で与えるようにして、夜も一緒に寝ているうちに、次第に子猫もなついて体をすり寄せてくるようになった。柏木が指の先で顎の下あたりを撫でてやると、子猫はごろごろと喉を鳴らして喜んだ。朝から晩まで柏木は子猫と一緒にいるようになった。一日じゅう子猫を眺めていても飽きなかった。
東宮御所からは「早く猫を返せ」という催促がたびたび来たが、柏木には無視した。子猫を独り占めして、子猫と一緒の時間を楽しんだ。夕方など子猫が側にやって来て「ニャオニャオ」と鳴くと、それが「寝よう、寝よう」と言っているように聞こえた。
「なんだ、もう眠くなったのかい? まだ寝る時間には早いけどね」
そう言いながらも柏木は嬉しそうに子猫を懐に抱き横になるのだった。懐の中でおとなしく目をつむって寝ている子猫の顔を眺めていると、それだけで心が和んだ。子猫の体からは妙子の匂いがするような気がした。いつかこんなふうに妙子と寝る時が必ず来る。柏木はそう確信していた。