第5章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
光源氏がお忍びでやって来たことが伝えられると、朧月夜は死ぬほど驚いた。そしてどうしたら良いのか考えた。あの人は今さら何の目的で来たのだろう? わたしの体が欲しくてやって来たのだろうか? でも、今のわたしにはもうそんな気持ちは無い。出来ればこのまま帰ってもらいたい。朧月夜はそう思った。
たしかに光源氏とはむかし激しく愛し合った仲だった。光源氏との逢瀬に何もかも失っても良いと思うほど我を忘れたこともあった。朧月夜は、その頃のことを思うと、まるで夢のような気がする。
あの頃のわたしは狂っていたんだわ、と思う。若さが理性を押し流し、どこかへ隠してしまっていた。しかし、今はちがう。今はわたしもすっかり落ち着いて理性も戻ってきた。軽薄で浮ついた気持ちからはもう卒業した。今は自分のことを心から愛してくれる朱雀院のことだけを考えて生きている。今さら光源氏に心を乱されたくない。現在の幸せを壊されたくない。このまま静かに暮らしていたい・・・
朧月夜は会わないつもりだったが、侍女から
「それでは貴人に対して失礼にあたります」
と注意されたので、仕方なく光源氏の待つ部屋へ行った。ただし襖の陰に隠れて姿を見せようとはしなかった。
「久しぶりですね。最後にお会いしてからもう何年たったでしょう?」
光源氏は明るく屈託の無い様子で見えない相手に話しかけた。
「本日はどのようなご用件でいらしたのでしょうか?」
朧月夜はおずおずとそう尋ねた。おれのことを警戒しているな、と光源氏は思った。
「べつに用件は無いのです。ただあなたの顔が見たくなったから来たのです。いけなかったでしょうか?」
「困ります」
「そんなに冷たくすることはないじゃないですか。昔は熱く燃え上がった仲なのに」
「それはもう過去のことです」
「分かっていますよ。わたしだって今さらあなたとどうにかなろうなんて考えているわけではありません。ただ懐かしい顔が見たくて、それだけの理由でやって来ただけですよ」
「本当ですか?」
「本当ですよ。まったくわたしは信用が無いんだな。自分でも情けなくなりますよ」
「わたしは元気で暮らしていますから、どうかご心配なさらずにこのまま黙ってお引き取りください」
「まだわたしはあなたのお顔を拝見していませんよ。それなのに帰れとおっしゃるのですか?」
「そうです。それがわたしたち二人のためなのです」
「せめてあなたのお顔を見てから帰らせてくださいよ」
「わたしの顔を見たら本当に帰っていただけますか?」
「帰りますよ。おとなしく帰りますよ」
朧月夜は襖の陰から出て来た。予想した通りだ、と光源氏は思った。年を重ねたせいで昔に比べると肌の張りは些か衰えたが、そのぶん全身から熟した女の色香が溢れ出ている。光源氏はおのれの体内を熱い血が駆け巡るのを感じた。
「これでよろしいでしょうか? 約束どおりお帰りください」
朧月夜がそう言い終わらないうちに光源氏は素早く彼女の手を握っていた。
「何をなさるのです」
朧月夜は驚いて手を振りほどこうとした。しかし、光源氏はその手を離さなかった。
「おまえの顔を見たら急に気が変わった。もう少しここにいる」
「それでは約束が違います」
「おれを誘惑したおまえの体が悪い」
「やめてください」
「よいではないか」
「最初からこういうおつもりだったのですね」
「そうじゃない」
「こんなことをしたら朱雀院さまに申し訳ない」
「心配するな。朱雀院には絶対にばれないようにするから」
「本当でございますか?」
「ああ本当だ。だって考えてもみろよ。朱雀院にばれて困るのはおれも同じなのだぞ。だから安心しておれに身を任せればよいのだ」
「どうだ? 満足したか?」
光源氏はそう言って朧月夜に微笑みかけた。しかし、朧月夜は返事をしなかった。その目は涙で濡れていた。
「なぜ今さらわたくしだったのですか?」
朧月夜はうらめしそうな目で光源氏を見上げながらそう問いかけた。
「なぜって、このおれの心の隙間を埋められるのはおまえしかいないと思ったからさ」
面倒臭そうな様子で光源氏はそう答えた。
「でも、あなたさまは最近ご結婚なさったばかりで、女三の宮さまという素晴らしい奥さまがいらっしゃるはずです」
「あれはまだ子供だからおれを満足させることは出来ないのだ」
「それなら、紫の上さまは?」
「あれとはさいきん不仲だ」
と、光源氏は不愉快そうに吐き捨てた。
「そうなのですか・・・不仲なのですか・・・」
朧月夜はしばらくのあいだ何かを考えているようだったが、やがてこう言った。
「あなたはわたしのことを自分の好きな時に遊べるおもちゃだと思っていらっしゃるのですね」
「そんなことはないよ」
光源氏は即座に否定した。
「おれはおまえのことを尊敬しているし、大切にも思っている。それは知っているだろう?」
朧月夜の返事は無かった。ただ暗い目でじっと光源氏の顔を見つめるばかりだった。光源氏は次第に不愉快な気持ちになってきた。
「そんなに怒ることはないだろう。おまえだって楽しんでいたじゃないか。朱雀院にもばれないようにするのだし、おまえに恨まれる筋合いはないはずだ」
光源氏がそう言っても朧月夜は相変わらず無言のままだった。もう二人の間に会話が成立する余地が無いのは明白だった。
光源氏にはなぜこんなにも朧月夜が不機嫌なのか理解出来なかった。たいした事じゃないじゃないか。今までだってさんざん関係した仲なのだし。そんなに腹を立てることないじゃないか。光源氏にはそう思えるのだが、もはや弁解する気にもならなかった。早くこのうんざりする空気から逃げ出したい、それしか頭になかった。
「それじゃ朱雀院にばれないよう明るくなる前に帰るからな」
そう言い捨てると光源氏は暗闇の中を逃げるように去っていった。
屋敷に戻ると誰にも気づかれないようにこっそりと自分の部屋へ入った。そして「ああ、くたびれたな」とか「まったくどいつもこいつも面白くない奴ばかりだな」などと独り言をつぶやきながらすぐに鼾をかいて熟睡した。掛け布団を蹴りとばし、子供のようなだらしない寝相だった。
紫の上は光源氏の帰りを寝ずに待っていた。光源氏が真夜中に帰ってきて、こっそり自分の部屋に籠もったのを知って
(やっぱり女のところへ行ってきたんだわ)
と思い悲しんだ。しかし、その感情を表に出すことはなかった。黙って部屋の灯りを消し、自分も寝床に入った。横になった紫の上の瞼から涙が一筋流れ落ちた。