第4章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
妙子との新婚生活が始まったが、光源氏は浮かぬ表情だった。それというのも妙子があまりにも幼すぎて、二人で一緒にいても妻といるという気持ちになれないからだった。これほどまでに子供だったのかと呆れるほどの幼稚さだった。紫が同じ年頃だった時のことをよく覚えているが、こんなに子供っぽくはなかったはずだ、もう少しは大人びていたはずだ、と光源氏は思った。だが、妙子は朱雀院に溺愛され甘やかされ過保護すぎるほど過保護に育てられたためか、まったく精神的な成長が認められなかった。赤ん坊が体だけ大きくなったという感じだった。しかも、黙っていても周りの人間が何でもしてくれるのに慣れているので、自分から意思表示をすることもほとんど無かった。また甘やかされて育ったため、貴族としての素養にも欠けるところがあった。字を書かせれば稚拙な字しか書けないし、歌を詠ませても幼稚な歌しか詠めなかった。とうぜん光源氏とも話が合わなかった。
そうは言っても、甘やかされて育って、それが悪い事ばかりとも言えなかった。何よりも妙子には心に陰というものがまったく無かった。天真爛漫で人を疑うことを知らず、光源氏の言うことに何でも従う素直さがあった。光源氏としてもそんな妙子が可愛くないわけがなかった。それどころか、侍女たちとかるた遊びをして無邪気に笑っている姿や、あどけない表情で大好きな猫たちに話しかけている姿を眺めていると、ほのぼのとして心が癒される想いがするくらいだった。だが、それでも妙子が妻として物足りないということに変わりはなかった。
それに、と光源氏は思う。
(どうもおれと妙子とでは根本的な何かが違うようだ)
光源氏は妙子一緒にいると、時々それまで感じたことの無い感覚に襲われることがあった。違和感といえばそれまでだが、そんなに単純なものではないようにも思える。年齢の差が大きいので話が合わないのは当然である。しかし、紫の上とだって年齢の差はあったし、最初のうちは話が合わなかったけど、あの時はこんな気持ちにはならなかった。ところが、妙子と一緒にいると、彼女の中ですでに何かが始まっていて、自分にはそれを共有することが出来ないという気持ちに光源氏はさせられるのである。それがいったい何なのかは光源氏にもよく分からなかった。ただ、妙子との間には目に見えない大きな断絶というか溝があって、その溝は永遠に埋められないということだけは薄々理解出来た。そして、妙子にある何かを肯定することは、自分の存在を否定することになるという背反関係にあることも感じていた。妙子には光源氏をたまらなく不安にさせる何かがあった。これでは一緒にいても寛ぐことが出来なかった。
それならば紫の上との関係はどうだったかというと、妙子との結婚以来、紫の上ともうまくいっていなかった。最近の紫の上は物思いに耽ることが多かった。いつも何かを考え込んでいて、光源氏が声をかけても返事をしない事がたびたびあった。二人きりでいても話が弾まなかった。心配した光源氏は妙子の部屋へ行くのをやめ、しばらくのあいだ紫の上とばかり一緒にいたが、それでも元に戻ることはなかった。紫の上が何を思い詰めているのかそれは分からないけれど、どうせ良い事でないのは決まりきっているので、光源氏も深く詮索しようとしなかった。
(どうしてこんな事になってしまったのだろうな?)
光源氏はうんざりした気分になった。
まったく人間関係は面倒臭いな。それまではうまくいっていても、ひとつ歯車が狂うとたちまち次から次へとおかしくなってしまう。このもつれた糸をほどく方法はないのか? ああ、面白くない。妙子のところへ行っても落ち着かないし、紫と一緒にいると気が滅入るばかりだ。こんな時は新しい女のところへ行くに限る。女こそがおれの力の源だ。女はおれに活力を与え、自信とやる気を取り戻してくれる。でも、誰のところへ行けば良いのだろう? 明石や花散里では新鮮味に欠けるし、不細工な末摘花は問題外だ。
その時、光源氏の脳裏に一人の女性の名前が浮かんだ。朧月夜だ。今のおれを慰めることが出来るのは、あの女しかいない。
まえにもいちど書いたように、朧月夜は朱雀院がまだ皇太子だった頃、その女御として入内する予定だった。ところが、光源氏との不倫が発覚したため、その話は立ち切れになった。普通ならこれでおしまいのはずである。ところが、朱雀院は朧月夜を許したばかりか、内侍として入内させた。もちろん周囲は反対したが、朱雀院はこう言って彼女を強引に入内させてしまった。
「わたしが女性だったら、やはり弟に惚れるだろう。それくらいあいつは魅力的な男だ。だから、朧月夜が弟と関係を持ったのは当然のなりゆきであり、何ら悪い事をしたわけではない」
朱雀院は過去の事などまったく気にかけることなく朧月夜を寵愛した。朧月夜も、その愛情に報いようと、精いっぱい朱雀院に尽くした。二人は幸せな結婚生活を送った。
朱雀院が出家した時、朧月夜は一緒に出家するつもりだった。しかし、朱雀院がそれを押し止めた。
「出家には反対しないが、わしの後を追うようにすぐにというのはどうじゃろう? それでは世間から何も考えずに出家したように思われるのではないかな? 熟慮した上での結論だということを示すため、もう少し時間がたってからにした方が良いのではないかな?」
朱雀院からそう言われ、朧月夜はいったん出家を思い止どまった。そして、やがて来る出家の日のためにその準備をしながら、今は静かで心安らかな日々を過ごしていた。そこへ光源氏は忍んでいこうというのである。とうぜん朱雀院に対する良心の呵責はある。しかし、その反面、今こうして光源氏を悩ませている原因を作った張本人は他ならぬ朱雀院その人なのだから構うことは無いようにも思えた。
(どっちにしろ、ばれさえしなければ良いのだ。知らない事は存在しないのと同じだからな・・・)
「どこかへお出掛けになるのですか?」
外出の支度をしていた光源氏に紫の上が声をかけた。
「いやね、末摘花がね、近ごろ病気で休んでいると聞いたので、ちょっと見舞いに行ってこようと思うのだよ」
とつぜん姿を現した紫の上に驚いた光源氏は慌てたため舌がうまく回らず、口の中でもごもご言いながらそう答えた。
「今からですか? もう夜ですよ」
「うん、昼間だと目立つだろう? だから夜の方が良いのではないかと思ってさ・・・」
光源氏のことを知りつくしている紫の上には嘘がすぐ見抜けた。特に女性関係の嘘については敏感だった。
(この人はこれから女のところへ行くつもりなんだわ)
しかし、紫の上にはそれに対して文句を言うつもりはさらさら無かった。かっての紫の上だったら、こんな時は逆上して光源氏を困らせたことだろう。ところが、妙子が嫁いで来て以来、紫の上には何かに反抗しようという気力がまったく失せていた。
「では、気をつけていってらっしゃいませ」
それだけ言うと紫の上は自分の部屋へ引き上げていった。部屋へ戻る紫の上の後姿は何だかひどく弱々しげで、まるで陽炎のように映った。光源氏は嫌みの一つも言われるだろうと覚悟していたので何事も無かったのにホッとしたが、同時にいくぶん寂しさも覚えた。一瞬行くのをやめようかと思った。しかし、すぐまた欲望が勝った。
光源氏は目立たぬように身分の低い者が使う網代車を風祭に用意させていた。それに乗りこむや、さっそく出発した。それにしてもおれはいつもどこへ向かって走っているのだろう? 光源氏は車中で自分の過去を振り返りながらそう思った。おれはいつもこうだ。今回だっておとなしく紫と一緒にいれば良いのだろう。そうすればきっと幸せになれるのだろう。それなのになぜおれは引き返せないのだ? おれの中の何かがおれを駆り立て、引き返すのを許さない。可哀想な紫をひとりぼっちにして女のところへ出掛けるなんて、おれは何て恥知らずな男なのだろう。おれはいったい何に対して不満があるのか? おれはいつも他人のものばかりを欲しがった。藤壷、空蝉、六条御息所・・・父である桐壷帝が愛した藤壷をおれはこっそり寝盗った。その結果、おれと藤壷との間にできたのが今の冷泉帝だ。冷泉帝はおれの子だという事実を知ると、おれに天皇の位を譲って退位しようとした。おれは断ったが、帝の気持ちはよく分かる。本当のことを知った以上、天皇の地位に就いている事に耐えられなかったのだろう。悪いことをしたものだ。おれはあの子の、いや帝の心をすっかり傷つけてしまった。あれ以来、帝は政治に興味を失い、早く退位することしか考えなくなった。何もかもすべておれのせいだ。おれがみんなを不幸にしているのだ。いつからこんなふうになってしまったのだろう? おれは禁じられれば禁じられるほど余計に燃え上がる男だ。その反面、禁じられていないものにはまるで無関心になってしまう、特に他人から押し付けられたものには。正妻の葵はおれの意志に関係なくあてがわれた女だった。その葵に対して、おれは自分でもぞっとするほど冷淡だった。どうしてこんなふうになってしまうのか自分にもよく分からない。ただ間違っているのを理解していながら止められないだけだ。おれが真に求めているものは何だろう? 復讐? でも、何に対して? 誰に対して?