第3章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
夜になった。新婚初夜である。光源氏は今夜から三日間つづけて妙子の寝所へ忍んでいかなければならない。それがこの時代の結婚の習わしである。だが、紫の上のことを思うと、夜になったからといってすぐ妙子の部屋へ出かける気にはなれなかった。
紫の上は光源氏の夜着の用意をしたり、それに香を薫かせたりと新婚初夜のためにかいがいしく世話を焼いてくれている。そのいじらしい姿を眺めていると、ますます光源氏は申し訳ない気持ちになるのだった。
「すまんな」
と、光源氏は紫の上に声をかけた。
「おれだってつらいのだよ。でも、こうなった以上、あちらへ行かないわけにはいかないだろう? おまえが寂しい思いをするのは分かっているけれど、ここはひとつ我慢してくれ」
「別にわたくしは何とも思っておりません。ご結婚なさったのですから新妻のところへ行かれるのは当然ですわ」
紫の上はつんとしてそう答えた。
「それはそうだけど、おまえの顔を見ているとさ、何となくさ」
「わたくしの顔がどうだと言うのですか?」
「悲しそうな顔をしているからさ」
光源氏にそう言われると、紫の上の顔がたちまち紅潮した。
「あまり遅くなるとあちら様が変に思われますから早く行ってください」
突き放すように紫の上にそう言われて、ようやく光源氏は妙子の部屋へと向かった。
部屋へ入ると、妙子は寝床の横に座って光源氏が来るのを待っていた。緊張しているようだった。
「今日は疲れたでしょう」
光源氏は、新妻の緊張をほぐそうとして優しく話しかけた。だが、妙子はそれには答えずに、作法通りの挨拶をした。教えられたことをするので精一杯な様子だった。これからする事についてあらかじめ侍女たちから教えられているのであろうが、なにしろ経験の無いことなので実感がわかずに怖いのだろうと光源氏は思った。女の扱いは光源氏の専門である。
「さあ、こちらへいらっしゃい」
光源氏は妙子を寝床に誘った。花嫁は言われるまま素直に従った。横になった妙子の体は小刻みに震えていた。
「何も怖がることはありませんよ」
妙子を抱いていると、光源氏はどうしても紫の上と初めて男女の関係になった時のことを思いだしてしまうのであった。あれは確か葵が亡くなってしばらくしてからのことだったな・・・それまで紫はおれのことを一緒に遊んでくれる優しいお兄さまくらいにしか思っていなかったのだろう・・・それがある晩、とつぜん男女の交わりをしたものだからびっくりして、しばらくは口をきいてくれなかったな・・・
「こんな事をする人だとは思ってなかった」
口をきいてくれるようになった後もそう言ってふくれていたっけ・・・可愛かった・・・
「痛かったですか?」
事が終わった後、光源氏は体を半分起こし、いたわるような眼差しで横に寝ている妙子を見下ろしながらそう話かけた。妙子は黙ってこっくりと頷いた。目にはまだ涙が溜まっていた。
「よくがんばりましたね。立派でしたよ。痛いのは最初のうちだけですからね。次からはだんだん気持ち良くなりますよ」
そう言って光源氏は優しく妙子の涙を拭いてやり、微笑みかけた。
「これであなたとわたしはまことの夫婦になりました。これからは二人で力を合わせて人生の困難に立ち向かっていきましょうね」
その言葉に妙子はまたしても黙ってこっくりと頷いた。
「それから、わたしにはあなたの他にも何人か妻がいます。もちろん、あくまで正妻はあなたなのですから、何事においてもあなたが優先されます。そうはいっても、他の者たちを邪険にしたりしないで、ぜひみんなと仲良くやっていっていただきたいのです。これをお願いしてもいいですか?」
妙子はまた黙ってこっくりと頷いた。
「さっきからなぜ黙ったままなのですか? 何かしゃべってくださいよ」
と、光源氏は苦笑いした。
「わたしには何を言えば良いのか分かりません」
妙子はやっとのことで口を開くと、消え入りそうなか細い声でそう答えた。
「夫婦なのですから遠慮せずに何でも好きなことを話せばいいんですよ。さあ、何でもいいから話してみてください」
光源氏は快活にそう言い放ったが、妙子は困惑するばかりで何も言えなかった。
「わたしが嫌いですか?」
返事が無いので光源氏の方からそう訊いてみた。妙子は黙って首を横に振った。
「よかった。わたしのことが嫌いで口をきいてくれないのではないかと心配だったのですよ。そうじゃないと分かって安心しました」
「ごめんなさい。本当に何を言えば良いか分からないのです」
妙子はまた泣きだしそうになった。
「何もかも初めてのことばかりでしたものね。言葉が無くなるのも当然です。わたしが馬鹿な質問をしてしまいました。ごめんなさいね、変なことばかり訊いて。どうしたのでしょうね、わたしは。普段はこんなおしゃべりじゃないのですけどね。きっと、あなたとの初めての夜で、気持ちが高ぶっているのでしょうね。もうつまらないお話はやめます。今日は朝からたいへんだったでしょう。さあ、もう寝ましょう。また明日、お話しましょうね」
光源氏はそう言って妙子の体を抱き寄せた。妙子は光源氏の胸に顔を埋めた。良い香りがした。そして光源氏の心臓の鼓動が聞こえた。規則正しいその音を聞いているうちに、いつしか妙子は深い眠りに落ちていった。
三日間つづいた結婚の祝賀は無事に終了した。
光源氏は疲れてぼんやりしていた。やはり、もう年なのかな? 若い頃なら何でも無かったのに、この年になると三日連続で妙子と睦み合うというのは、さすがにきついわ・・・
「いつまでも若々しく美しい」
「年齢を重ねた今でも若い頃と少しも変わらない」
光源氏はよく人々からそんなふうに言われていた。そこには権力者に対するお世辞の意味も含まれていたであろう。しかし、あながちそればかりとは思えなかった。
(事実おれは若い)
同世代の他の男と比較して自分の方がずっと若々しく見えることを、光源氏はいつも心の中で自慢していた。おれと同じ年頃の男たち、あいつらはなぜあんなに老けているのだろう? 髪の毛がすっかり白くなったり、禿げ上がったりした奴ばかりじゃないか。それに比べておれの頭はどうだ。あいかわらず豊かな黒髪で被われている。その上、顔にはしわ一つ無い。腹だって出ていない。何よりも気持ちが二十代のままだ。
だが、そんな光源氏にも老化の影は確実に忍び寄っていた。朝起きても疲れがとれない。精力が衰えた。近くのものが見えずらい。体から変な匂いがする。小便の切れが悪くなった。顔の隅に汚いしみが出来た。放っておくと眉毛がどんどん伸びてゆく・・・
肉体の衰えについては光源氏も自覚していた。しかし、それでもなお現実に抗っていた。年をとるなんてまっぴらだ。老化はおれの美意識に合わない。そりゃあ、おれだっていつかは年寄りになるだろう。だが、それはまだまだ先の話だ。おれがまだ年寄りじゃないという事は女たちに訊けばよく分かる。女たちはおれが年をとったかとらないかを計る良い尺度だ。若い頃のおれにはどんな女も夢中になった。女という女がおれの美しさの虜になった。おれはすべての女の憧れの存在だった。あれから何年もたったけど、今でもそれは変わらない。今でもおれは充分に女を惹きつける魅力を持っている。まだまだそこら辺の若造なんかに負けるものか。おれには華がある。しかし、あいつらにはそれが無い。近ごろの若い連中なんか、ただ年齢が若いというだけで他には何も無いじゃないか。品も無ければ教養も無く、がさつで、いい加減で、歌の一つも満足に詠めなくて・・・あいつらに任せていたら世界はどんどん貧しくなる。せっかくの良い物がみな台無しになる。やはりおれじゃなくては駄目だ・・・おれの世界は豊かだ。おれの周囲は洗練されている。女たちもおれと一緒にいた方が幸せだ。おれは少しも衰えていない。おれはまだ若いのだ。魅力的なのだ。おれはまだ老いぼれではないのだ・・・