第2章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
朱雀院に押し切られ、けっきょく妙子を正妻に迎えることを承諾してしまった光源氏の胸中は複雑だった。
(紫に何と言い訳したら良いのだろう?)
六条の屋敷へ戻っても光源氏は妙子との婚約の件を紫の上に話し出せずにいた。今までだって女の事では紫にさんざん辛い思いをさせてきたおれだ。あいつはおれの女道楽が止まらない事にずっと苦しんできた。おれと関係のあった女たち・・・花散里や末摘花や明石を屋敷へ引き取り、面倒をみている事も、本心では決して良い気持ちはしていないだろう。それなのにあいつはすべてを受け入れてくれた。それどころか明石が生んだ凪子を自分の養女にして立派に育ててくれた。今、凪子は皇太子の妻だ。二人の間に男の子が生まれれば、やがて天皇の地位を継ぐことになろう。そうなればおれの政治的立場は安泰になる。これもみんな紫のお陰だ。それなのに院の姫を妻にするなんて・・・おれは何て罰当たりな人間なのだろう・・・おれには紫に会わせる顔が無い・・・
光源氏は頭を抱えた。悩んでいるうちにその原因を作った朱雀院に対してだんだん腹が立ってきた。まったく兄貴はいつだって変な事ばかり考えるんだ。子供の頃からそうだった。素直に太政大臣の息子にくれてやればいいじゃないか、先方が希望しているというのだから。それなのになぜおれなのだ? 本当にもう頭の悪い人間の考える事にはうんざりする。
しかし、その一方で光源氏は自分の心の嘘も理解していた。本気で断ろうと思えば断れたはずだ。それなのになぜおれは断らなかったのか? その理由に政治家としての冷徹な計算があったことは否定出来ない。やはり正室は高貴な血筋の女が良い。その方がこちらに箔がつく。政治を行う上でも何かと都合が良いだろう・・・
しかし、それだけが理由だろうか? そうじゃないことは光源氏本人がよく知っていた。いつものおれの悪い病気が出たな。やはり若い女の体は魅力的だからな。光源氏は自分の内部にぞくぞくするような暗い欲望が渦巻いているのを感じていた。何やかんやいっても所詮おれは根っからの好色漢だ。ましてや妙子は藤壷の姪じゃないか。紫がそうだったように、きっとおれ好みの美少女にちがいない。この話をおれに断れという方が無理というものだ・・・
光源氏は風祭を呼んだ。
風祭は光源氏の腹心の部下である。光源氏には数人の信頼している家来がいた。みな稚児あがりの者たちである。この時代の貴族の多くがそうであったように、光源氏もまた若い稚児を女人同様に可愛がった。その愛を受けて育った少年たちは長じた後も光源氏に仕えた。彼らにとって光源氏は親であり、愛人であり、教師であり、絶対的な存在だった。裏切られる心配が無いので、光源氏はこの者たちを重用した。その中でも特に優秀で信頼が厚かったのが風祭である。光源氏は重大な問題が起きると必ず風祭に相談した。また邪魔者の暗殺や政敵を失脚させるための裏工作など闇の仕事も風祭に任せていた。
「どうしたら良いだろうね?」
光源氏は風祭に意見を求めた。
「それはもう正直にお話しするより他はないでしょう。どうせ遅かれ早かれ紫の上さまには知れることですから」
「そうだよな・・・」
風祭にそう言われても光源氏はなかなか決心がつかなかった。その様子を見て風祭はくすりと笑った。
「何を笑っておるのじゃ?」
「ああ、申し訳ございません。ただ、世間の誰もが恐れる最高権力者である殿が、紫の上さまに対してだけはまったく頭が上がらず、それどころかまるで幼子のようにびくびくなされているのが可笑しかったものですから」
「何をたわけた事を・・・」
光源氏は風祭の言葉を笑い飛ばしたが、その目は笑っていなかった。
結局、妙子の件を紫の上に報告することが出来たのは翌日になってからであった。光源氏はしどろもどろになりながらも必死に説明した。紫の上はじっと黙ったまま話を聞いていた。
「そういうわけで院の申し出をおれは断ることが出来なかったのだ。でも院の姫を正室に迎えるからといって、おれとおまえとの関係が変わるわけではないのだよ。いつまでもおまえはおれにとって最も大切な女だ。おれがおまえを愛する気持ち、それは永遠に変わらない。今回の件ではおまえも不愉快な気持ちがするだろうが、年老いた院を可哀想だと思って我慢してやっておくれ。頼む、我慢してやっておくれ」
話が終わった後も紫の上は黙ったままだった。光源氏は狼狽した。何か言ってこの場を和らげなければならないとは思うものの、何を言えば良いのか分からない。紫の上の沈黙は非常に威圧的で、光源氏の額から汗が吹き出してきた。ついに光源氏はたまりかねて
「紫、何か言ってくれ」
と叫んだ。
「怒っているのか?」
「わたくしは別に怒っておりません」
ようやく口を開いた紫の上はそう言った。
「それなら、なぜさっきからずっと黙ったままでいるのだ? おれの話に返事をしてくれないのだ?」
「わたくしには何ら異議を挟む事が無いからでございます」
「それなら分かってくれたのか?」
「院のたってのお願いですもの。お断り出来ませんわよね」
それだけ言うと紫の上は立ち上がり、着物の裾をしゅるしゅると床にこすりながら部屋を出て行った。あとに残った光源氏はその場にへたりこんだ。疲れがどっと襲ってきた。おれは何をびくついているのだろう? 光源氏は自分の情けなさに思わず苦笑いをした。風祭の言う通りだ。権力の頂点にいるこのおれが自分の女房に頭が上がらないなんて・・・昔はこうじゃなかったはずだが・・・
(あれは病気治療のため北山に行った時のことだったよな・・・)
光源氏は紫の上と初めて会った時のことを思いだした。そうだ、そこで偶然姿を見つけたのが最初だった。あの頃の紫はまだ元気に外で遊び回り、
「ワンワンがわたしの捕まえた雀を逃がしたのよ」
などと大きな声で無邪気に話すあどけない少女だった。
一目でその可憐な姿の虜になったおれは紫を自分のもとへ引き取り、おれ自身が教師となって一流の女性になるための教育を施した。言わば紫はおれが造り上げた作品みたいなものだ。あれから二十年、いつの間にか立場が逆転して、おれがあいつの顔色を伺うようになるなんて。それだけあいつを頼りにしているということか? まったくあいつも強くなったものだな。それともおれが弱くなったのか? まさか・・・このおれに限ってそんなことは・・・
翌年の二月、妙子は光源氏のもとに輿入れしてきた。
その日は朝から快晴で真冬の乾燥した空気が雲ひとつない空の色をいっそう青く澄みきったものにしていた。寒かった。しかし、都の人々は時の権力者である源氏と朱雀院の姫君との結婚で沸き立ち、寒さなど忘れる程であった。
都の大通りを妙子を送り届ける長い行列が続いた。それを見物しに沿道には多くの人が集まった。夥しい数の牛車がたくさんの正装した従者たちに守られながら大通りを進んでいった。どの車も鮮やかな色で飾り立てられており、車を引く牛も失礼の無いよう念入りに磨かれていた。
妙子を乗せた車が六条の屋敷に到着すると
「花嫁さまの御到着」
という家来の声が響き渡った。
光源氏はわざわざ車寄せの場所まで自ら迎えに出てきた。そして花嫁が車から降りようとすると、その逞しい両腕で彼女の小さな体を軽々と抱き上げ、そのまま屋敷の中へ入って行った。この大胆な振舞いに妙子の侍女たちはざわめいたが、これも光源氏の計算の内だった。
おれのこの行動はたちまち人の噂に登るだろう。観客を沸かせる俳優のように世間の人々に刺激的な話題を提供する事も政治家の大切な役目の一つなのさ。おれは常に世の注目を浴びる存在でいなければならない。そういう魅力的な人間でいなければならない。そうじゃないと人は動かせない。政治は出来ない。
これから三日間、邸内では結婚を祝う宴が盛大に催される。そのため酒も料理も極上のものが用意され、楽師や踊り子たちが大勢集められていた。
今回の結婚に関して紫の上はいっさい表に出なかったが、宴会の支度をはじめとして引出物の選択など結婚に係わる様々な事柄について家来たちに指示を与え、万事抜かりなく準備を整えたのは、まさに紫の上その人であった。光源氏はあらためて紫の上の内助の功に感謝した。
妙子は想像していた通りの美少女だった。小さくて、愛くるしくて、これでは朱雀院が溺愛するのも無理はないな、と納得させられる可憐さだった。
ただ可愛いのは良いのだが、そのぶん幼さも目立った。たくさんの侍女たちにかしずかれ、その中心であどけなく笑っている妙子の姿を見ていると、本当に結婚の自覚があるのかと少々不安になる程だった。もしかしたら結婚の意味も分からず、ただ面白い催しがあるから遊びに来ただけだと思っているただの幼児に過ぎないのではないか? だが、もしそうであったとしても、とにかくこのあと光源氏はこの少女と夫婦の契りを結ばなければならない事に変わりは無かった。その時刻はすぐそこに迫っていた。