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源氏物語 女三の宮の恋  作者: ふじまる
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第12章

紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。

 妙子との密会が光源氏にばれたと知って以来、柏木は体調を壊し床に伏せっていた。そこへ届いた小侍従が何者かに殺されたという知らせに衝撃を受け、いよいよ食事も喉を通らなくなり、立ち上がることも出来ぬほど衰弱してしまった。柏木の両親も、妻の慶子も、心配して医者にみせたり、僧に祈祷させたりしたが、一向に効き目が無かった。光源氏の影におびえる柏木は寝ている間にもさかんに悪夢にうなされていた。誰もがもう柏木は駄目だと思った。しかし慶子は諦めず、夫の回復を信じて献身的に看病した。彼女の手厚い看病の甲斐があって柏木は何とか危険な状態から脱することが出来た。

「おまえは本当に良く出来た女だな」

 話しが出来る程に回復した柏木は慶子に向かってそう言った。 

「それなのにおれは、こんなに尽くしてくれるおまえに今までさんざん冷たい仕打ちばかりしてきた。すまなかった。おれが馬鹿だった」

「おやめください。わたくしは何とも思っておりません」

 慶子は恐縮して涙ぐんだ。

「いや、おまえには本当に悪いことをしたと思っている。おれは長いあいだ夢を見ていたようだ。夢ばかり見て現実が見えなくなっていた。すぐ近くにこんな素晴らしい女性がいたのに、おれにはそれが見えなくなっていたのだ」

「まだお加減が良くないのですね。今日は変な事ばかりおっしゃって」

「おれはもう大丈夫だよ」

「いえ、まだ熱があるんですわ」

 慶子はそう言って、そっと手を柏木の額の上に置いた。とても柔らかい手だった。柏木は妙に心が休まり、いつの間にかまた眠りについた。慶子は優しい眼差しで柏木の寝顔をじっと見つめていた。

 その後、柏木は順調に回復していき、食欲も戻ってきた。体力も回復し、天気の良い日には庭を散歩した。しかし、屋敷の外へは決して出ようとしなかった。柏木は外をひどく怖がっていた。屋敷の外へ一歩出れば、たちまち光源氏の手の者に殺されると思い込んでいた。事情を知らない他の者は、柏木がなぜそんなに怯えているのか分からず不思議がっていた。

 こんな状態だったから、六条の屋敷で開かれる朱雀院のための賀宴に招待された時も、最初のうち柏木は出席を拒んでいた。

「おれはまだ体調が悪いから今回は辞退すると伝えといてくれ」

 柏木は慶子にそう頼んだ。慶子は柏木の希望通りにしようとしたが、すぐに元太政大臣である父親から説教の手紙が届いた。

 朱雀院はおまえにとっても父親であることを忘れたのか? それなのにこのような大切な催しを欠席したいなんて、いったい何を考えているのだ。もう病気もだいぶ良くなったのだから、少し無理してでも顔を出しておけ。これはおまえの将来のためなのだぞ・・・

(クソ親父め。何も分かってないくせに余計な事ばかり言いやがって)

 柏木は自分の父親を呪った。

 昔から親父は冠婚葬祭だとか年中行事だとかそういう社会の決まり事ばかりを大切にしていたからな。ま、そういう事を一つ一つ律義にこなしていったから出世できたのだろうけど。真面目だけが取り柄の男だからな。昔の人間である親父にすれば、おれが今回の宴を欠席するなんてことはもっての他なのだろう。それは分かるんだけどさあ・・・親父の言い分もよく分かるんだけどさあ・・・今度は柏木が泣きたくなった。こっちにだって色々と事情があるんだよ。他人に言えない事情ってものがさあ・・・なぜそれを分かってくれないのかなあ・・・分かってくれよ・・・おれの気持ちを少しは忖度してくれよ・・・

 ただ柏木にも安心出来る材料がまったく無いわけではなかった。何といっても朱雀院の五十歳を祝う宴だ。源氏もまさかこのようなめでたい日におれを殺すような真似はすまい。そんな事をしたら、せっかくの祝賀を血で汚すことになってしまう。それは朱雀院に対して非礼だ。だから今回はまあ安心だろう。柏木はそう自分に言いきかせて出席することに決めた。

 十二月二十五日、光源氏の六条の屋敷で朱雀院の五十歳を祝う賀宴が盛大に催された。 

 久しぶりに姿を現した朱雀院は、病気のせいもあるだろうが、恐ろしいほど老け込んでいた。妙子と対面してもただ泣くばかりだった。体じゅうが緩んでしまい、何かあるとすぐに涙が出るらしかった。そして泣きながら源氏の手を取り

「ありがとう。ありがとう」

 と繰り返した。

 また、妙子の懐妊の事実を聞かされると

「よい子を、元気な子をな」

 とそれだけ言い、後は言葉にならなかった。ただ泣くだけだった。その姿はもはや生身の人間とは思えなかった。冬の地面に落ちている腐れかけた枯れ葉のようだった。

 朱雀院の前では光源氏と妙子は仲の良い夫婦を演じていた。しかし、実際には二人はもう会話を交わすことが無くなっていた。どちらかが話しをするのをやめたわけではなかった。自然とお互いが話さなくなったのである。二人ともその理由は分かっていたが、口には出さなかった。口にするのも不愉快だった。

 賀宴は滞りなく進行していった。妙子の琴の演奏も無事に済んだ。娘の晴れ舞台を前にした朱雀院は顔をしわくちゃにして感涙にむせんでいた。

 宴もたけなわになった時、光源氏は自分のそばに柏木を呼んだ。呼ばれた柏木はよろけながらやって来た。

「しばらく病で伏せていたそうだが、もう大丈夫か?」

 と、光源氏は柏木に優しく話しかけた。

「お陰さまでだいぶ良くなりました」

 柏木は神妙にそう答えた。

「しかし、まだ顔色がよくないな。それに体も震えているみたいだ」

「いえ、これはただ緊張しているだけです」

「今宵はめでたい晩なのだから、そう固くならずに楽しんでくれ」

 そう言って光源氏は柏木の盃に酒をついだ。柏木は恐縮しながらその酒を飲み干した。

「ところで、お父上はお元気かな? 太政大臣を退かれてからはお会いする機会も無くなったが」

「父は元気にしております。ご安心ください」

「そうか。それはよろしい。そなたの父とわしは若い頃からの親友だからな」

「存じております」

「よく二人で将来の夢などを語り合ったものだ。あの頃はお互いに若かった。夢があった」

「何をおっしゃいます。閣下はまだまだお若いじゃないですか」

「わしなどもう駄目さ。これからはそなたや夕霧の時代だ。若い者たちにがんばってもらわないとな」

 光源氏は再び柏木の盃に酒をついだ。柏木はまたしても恐縮しながら盃を空けた。

「奥方とはうまくいっておるかな?」

「はい。妻の慶子とは円満にやっております」

「奥方を悲しませるような事はしておらんだろうな?」

「決してそんな事はしておりません」

 柏木は全身から汗が吹き出してきた。

「そうか。真面目なのだな。今の若い連中は真面目な者が多いな。うちの夕霧なんかも真面目一本で、女遊びなどまったくせん。わしやそなたの父上が若い頃は女遊びばかりしていたものだがな」

「はあ」

「そうはいってもやはり真面目が一番よな。真面目にこしたことはない。くれぐれも妙な気を起こしてはならんぞ。それが命取りになることもあるからな」

「はい。分かっております」

「ところが、世の中にはそれが分かっていない者がおるのじゃ」

「・・・」

「若い時は恐れを知らぬからな。自分たちには何でも可能だと思い込んでいる。年長者を馬鹿にし、古い慣習やしきたりを無視して傍若無人な振る舞いをする。いい気になって暴走し、後で取り返しのつかない事になり、結局は自滅してしまう。ま、中納言殿にはそのような心配はないであろうがな」

 そう言うと光源氏は柏木の顔をじっと見つめた。柏木はたちまち青くなってがたがた震え始めた。

「どうした? 気分が悪いか?」

「はあ。まだ病が全快というわけではありませんので」

 と、柏木は着物の袖で汗を拭った。

「もし気分が悪いのなら、無理しないで早く帰った方がよいぞ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて下がらせていただきます」

 柏木は体調不良を理由に早退した。帰りの車の中、柏木はホッとひと息ついた。やっと光源氏から解放されて生き返った気分だった。

 まったく嫌な野郎だぜ、源氏は。わざとらしい言い方ばかりしやがって。おれに言いたい事があるのならはっきり言えばいいじゃないか。面と向かうと何も言えないのかよ。結局、あいつも臆病者なのだな。びくびくしていたおれが馬鹿みたいだぜ。ああ、疲れた。

 柏木が屋敷に到着すると

「お早いお戻りだったのですね」

 そう言って慶子が出迎えた。

「ああ、体調が悪いと言って途中で抜けてきたんだ」

「まだ体の具合が良くないのですか?」

「体はもう大丈夫なんだけどさ、面白くないから帰ってきたんだよ」

「でも、まだ完全に良くなったわけじゃないのですから、無理はなさらない方がよろしいですよ。今日はもうお休みになった方がよろしいのではありませんか?」

「そんなに体がきついわけじゃないけど、おまえがそう言うのならもう寝ようかな。ちょっと疲れたしな」

 柏木は早々に床についた。柏木がおとなしく就寝したことで慶子もひと安心した。その日はこのまま何事も無く終わるだろう、誰もがそう思っていた。

 ところが、その夜中、悪夢にうなされて柏木が目を醒ますとひどく寝汗をかき、体が火照っているのに気がついた。どうしたのだろう? 熱でもあるのかな? そう思って額に手をもっていった瞬間、体がしびれ、目の前のものがぐるぐる回り始めた。助けてくれ。柏木は声にならない叫びを上げた。

 その夜から柏木は寝たきりの状態になった。

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