第11章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
光源氏が六条の屋敷に居座っていることで妙子のイライラが募っていたが、それ以上に気が立っていたのが柏木である。
妙子懐妊の情報は柏木の耳にも届いていた。その話を聞いたとき直感的に柏木は「おれの子だ」と思った。源氏の女房がおれの子を産む。しかも源氏はその事に気づいていない・・・なんて愉快なんだろう。ざまあみろ、源氏。柏木は大声で天に向かって叫びたい気持ちだった。この喜びを早く愛しい妙子と分かち合いたい。ところが、光源氏が屋敷に居座っている限り、それは不可能だった。
妙子に会えない柏木はもはや爆発寸前だった。色々な事をあれこれと想像しては周囲の者に八つ当たりした。源氏の野郎、年寄りのくせに今頃おれの妙子に変な事をしているのではないだろうな? 妙子の体をあのいやらしい舌でべろべろ舐め回しているのではないだろうな? 汚い一物で妙子の体を汚しているのではないだろうな? 糞ったれ、ぶっ殺してやる。妙子はおれの女だ。おまえなんかに触られたくない。引っ込んでろ。おまえみたいなジジイがの出る幕ではないのだ。ジジイは自分にふさわしいババアを相手にしていれば良いのだ。それなのに分不相応に若い娘に手を出しやがって。少しは自分を恥ずかしいと思わないのか? 妙子が可哀想だ。あんな糞ジジイにいいように弄ばれて。でも、妙子がそれを喜んでいたらどうしょう? せっかくこちらへ傾いた妙子の心が再び元に戻ったら? まずい。それはまずいぞ。妙子を源氏と二人きりにするのは良くない。ずっと二人きりでいたら妙子がまた源氏の妖術にかかってしまう。真実が見えなくなってしまう。嫌だ。そんなのは嫌だ。妙子、おれを捨てないでくれ。おれはおまえを失ったら生きてゆけないのだ。早く妙子を救いださなければ。でも、どうしたら良いのだろう? 源氏が屋敷にいる以上、妙子には近づけない。手紙だ。そうだ、手紙を書こう。とりあえず手紙を書いて送ろう。手紙に今の正直な気持ちを書いて妙子に送り届けよう。そうすれば妙子も正気に戻ってくれるはずだ。源氏に惑わされる事も無くなるはずだ。
柏木は小侍従に手紙を託した。小侍従は夜になって周囲にひと気が無い時を狙ってこっそりと手紙を妙子に渡した。妙子は大急ぎで手紙を読んだ。そこには露骨に妙子の肉体を求める言葉が書きつらねられていた。読んでいるうちに妙子は体じゅうがカッと熱くなり、心臓がドキドキしてきた。
「何を読んでいるのですか?」
そこへ突然、光源氏が入ってきた。妙子は素早く手紙を布団の下に隠して
「何でもありません。むかし父から頂いた手紙を読み返していただけです」
とごまかした。
「ああ、紫が急に病に倒れたのでお父上と会う機会が先延ばしになっていましたね。あなたには申し訳ないと思っています」
「いいえ、そんな事は少しも構いません。それよりも紫の上さまのご容体はどうなのですか? もうだいぶ良くなられたのですか?」
「近ごろは小康状態を保っていますが、まだまだ油断できません。そこであなたの状態も安定しているようですから、明日また二条の屋敷へ戻ろうと思っているのですが、わたしが向こうへ行ってもお気を悪くしないでしょうね?」
妙子が気を悪くするはずがない。むしろ大歓迎なので光源氏のこの問いに妙子は笑顔でこう答えた。
「とんでもありません。わたしのことなど気になさらずに紫の上さまのところへ行ってあげてください」
「ありがとう。そう言ってもらうと助かります。それにしても、しばらくお会いしない間に、随分と大人になられたような気がしますね」
「え? それはどういう意味でしょうか?」
妙子は狼狽してそう訊き返した。
「いや、別に他意があって言ったわけではないのですよ。ただ何となく前よりもしっかりなさったなと思っただけです。やはり子供がお腹の中にいると女性は変わるのでしょうか? それとも近ごろ読書に精を出していらっしゃるそうですから、そのせいでしょうか?」
「わたしにはよく分かりませんが・・・」
「変な事を言ってごめんなさいね。気にしないでください。単にわたしが感じた事を口にしただけですから」
その夜、光源氏はそのまま妙子の部屋に泊まり、翌朝目が醒めるとすぐに二条の屋敷に帰ろうとした。ところが、いつも使っている扇を置き忘れたことに気づき、妙子の部屋へ戻って扇を探したところ、布団の下からはみ出ている手紙の端を見つけた。
(ゆうべ姫が読んでいた手紙だな)
光源氏は手紙を手に取って何の気なしに読んでみた。たちまち顔色が豹変した光源氏は固い表情のまま二条の屋敷へ帰っていった。その一部始終を小侍従がこっそり覗き見していた。小侍従は急いで妙子のところへ行き、ゆうべの手紙はどうしたのかと問いただした。妙子は柏木の手紙のことなどすっかり忘れていた。どこに仕舞ったかしら? 妙子は懸命に記憶の糸をたどった。ああ、そうだった、急にあの人が部屋に入ってきたので、咄嗟に布団の下に隠したのだわ。その返事を聞いて小侍従は青くなった。
「もうおしまいだ。あなたさまの軽率さをお恨み申します。あの手紙が見つかってしまったのですよ。こうなった以上ただでは済まないでしょう。この先わたしたちを待っているのは破滅だけです。恐ろしい破滅だけです」
小侍従はそう言うと、その場に泣き崩れた。妙子は動揺し、目にいっぱい涙を溜めた。しかし、すぐに落ち着きを取り戻した。今さらじたばたしてもどうにもなるものか。自分のどこにこんな度胸が隠れていたのかと驚くほどの冷静さだった。
その夜、光源氏がいなくなったのを知ると、さっそく柏木が忍んできた。久しぶりの再開に柏木は子供のようにはしゃいでいて、妙子のお腹に耳をつけては「おれの子供の寝息が聞こえる」などと言ったりもした。そんな柏木に妙子が事の顛末を告げると、たちまち柏木の顔から血の気が引いた。柏木は夢から醒めたときのように呆然として
「これからおれたちはどうなるのだろう?」
と、妙子の顔をすがるような目付きで見つめた。
「殺されるのよ」
妙子は冷たくそう言い放った。
「源氏がおれたちを殺すというのか?」
「まさか。いくら源氏でも院の娘であるわたしは殺せないわ。殺されるのはあなただけよ」
「何でおれだけが・・・」
「何を震えているの? 源氏なんかちっとも怖くないのではなかったの?」
「それはそうだけど」
「殺されるのが嫌だったら、逆に源氏を殺しなさい。あなたが生き延びる道はそれしかないのよ。男だったら度胸を見せなさいよ」
「そんなこと出来るわけないじゃないか」
涙目になった柏木は声を荒げた。
「ふん。やっぱり口先だけだったのね。さんざん偉そうなこと言っていたけど、ぜんぶ口先だけのことだったのね」
妙子はさも軽蔑したような目付きで柏木の顔を眺めた。その冷たい視線に耐えられなくなった柏木は
「うるさい」
そう叫ぶと外へ飛び出していった。
「いざとなると、どいつもこいつもこのざまだ。まったく男というものはだらしがない」
残された妙子は憎々しげにそうつぶやいた。
一方、二条の屋敷へ戻った光源氏は、風祭に命じて柏木の周辺を調べさせた。その結果、柏木と妙子の不倫は疑いのない事実だと判明した。そしてその手引きをしたのが小侍従だということも分かった。
まだ子供だと侮っていた妙子と幼い頃から知っている柏木に裏切られるとは・・・光源氏は侮辱されたと思い、腹わたが煮えくり返ってしょうがなかった。妙子と柏木の顔を思い浮かべるだけで口から火が噴き出しそうだった。そして、この時に至って、光源氏はさらに重要な事に気がついた。
(妙子の腹の子は本当におれの子か?)
そうじゃない可能性の方が遥かに高かった。
殺す!
殺意が、明確な殺意が、光源氏の心に芽生えた。こんなに人を憎んだのは生まれて初めてのことだった。本心ではすぐにでも出掛けていって、自分の手で妙子と柏木を殺してやりたかった。しかし、理性がかろうじて思い止まらせていた。
「今回の件は絶対に秘密にしておかねばならん。もし世間に知れたら、おれはいい笑いものだ。そうなったらおれの政治生命にもかかわる。秘密裏に事を進め、すべてを闇に葬り去るのだ」
光源氏は風祭にそう命じた。
「小侍従は明日にでも始末いたしますが、中納言さまの方はいかがいたしましょう?」
風祭がそう伺いを立てると
「殺せ」
と、光源氏は即答した。
「二度とあやつの顔など見たくない」
「そうは言っても、相手は中納言さまですから簡単にはいきませんよ」
と、風祭は光源氏をたしなめた。
「おれはすぐにでもあの小僧に死んでもらいたいのだ」
「殿のお怒りはよく分かりますが、事は慎重に運びませんと、こちらに火の粉がかかってくる恐れがあります。こちらに嫌疑が掛からぬよう慎重に抜け目なく始末しなければ」
「何か良い方法があるか?」
光源氏にそう質問された風祭は少し考えた後
「そうですね、先ごろ唐の国から輸入した新種の毒薬がございます。これは飲んでもすぐには症状が出ませんが、しばらく時間がたった後で効果が表れるという代物です。これを使えばこちらが疑われること無く目的を達成できると思います」
と言った。
「その毒薬の効果はまちがいないのか?」
「はい、罪人を使って確認済みです」
「それは良い。で、いつそれを使うのだ?」
「いつが良いでしょうかね。そうそう、先延ばしにしていた朱雀院さまの五十歳を祝う賀宴がいよいよ十二月二十五日に開催されることになりましたよね。当然そこには中納言さまも御出席なさるでしょうから、毒薬はその時に密かに使うことにいたしましょう」
「よし、すべておまえに任せる。だが、うまくやれよ。失敗は許されないからな」
「お任せください」
と、風祭は深々と頭を下げた。
翌々日の朝、小侍従の死体が鴨川に浮かんでいるのが発見された。小侍従は喉をばっさりと切り裂かれて死んでいた。犯人は分からなかったが、物盗りの仕業だろうという結論に落ち着いた。何かの用事で外出した際、運悪く盗賊の類いに出くわして命を奪われたのだろうという結論に。この結論に疑いを挟む者は誰もいなかった、妙子と柏木の二人を除いては。




