第10章
紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏をテーマにした作品です。
「ゆうべ怖い夢を見たの」
「どんな?」
「あのね、わたしは真っ暗な場所にいるの。そしてとても息が苦しいの。あんまり息が苦しいから、ここはどこかしらと思って周りをよく見たら、何とそこは深い水の底なのよ。でも、水の中なのに、なぜかぜんぜん冷たくないの。逆にとても蒸し暑くて苦しいの。わたしは浮かび上がろうとして必死に体を動かすのだけど、ちっとも体が浮かんでいかないの。もがいても、もがいても、水の中から抜け出せないの。そうしていたら突然わたしの目の前に大きな魚が現れて、それが正面から近づいてくるのよ。無表情な顔で、口をぱくぱくさせながら、ゆっくりと」
「気持ち悪いね」
「そうでしょう? 魚って気持ち悪いわよね」
と、妙子は身を乗り出した。
「魚って本当に気持ち悪いわ。冷たくて、表情が無くて、体の表面がギラギラ輝いていて。あんなものにわたしたちと同じ生命が宿っているということが信じられない。やっぱり生き物というのは、犬や猫のように表情が豊かで、毛がふさふさしていて、ぎゅっと抱き締めると暖かい、そういうものであるべきよ。ねえ、そう思わない?」
「そう思うよ。おれも猫が大好きだからな」
柏木はそう答えた。
「わたしも猫がいちばん好き。猫と一緒なら何時間いても飽きないもの」
「おれは猫の手が好きなんだ。あの肉球がついた丸くて小さな手がさ。あの手でちょんちょんとこちらをつついてきて何かおねだりする時の猫は本当に可愛いよな」
「猫や犬の場合は手じゃなくて足っていうんじゃないの?」
「そんなのどっちでもいいじゃないか。とにかく可愛いんだよ、猫は」
「確かにね。可愛いわよね。それに比べてわたしが嫌いなのは魚、昆虫、蜘蛛・・・蝶々なんか庭をひらひら飛んでいる分には可愛いけど、いちど捕まえてあの顔を見てごらんなさいよ。あんなに気持ち悪いものは無いわよ。思いだすだけで体じゅうがぞぞぞっとするわ。地獄というものがあるのかどうか知らないけど、もしあるとしたら、いちばん悪い事をした人間が行くのは、虫に食べられる地獄だと思うわ。巨大な昆虫にがりがりと頭を齧られたり、ちゅうちゅうと血を吸われたりするのよ。怖いでしょう? 気持ち悪いでしょう? 最低の極悪人は昆虫地獄へ行って殺されるべきよ」
「姫は想像力が豊かなんだね」
と、柏木は笑った。
「だってわたしはどこへも行けないから、頭の中で色んな事を空想する事しか楽しみが無いんだもの。自由にどこへでも行けたらさぞや楽しいでしょうね。あなたと会うのは、夜、こっそりと屋敷の中でばかりだけど、たまには二人で外に出てみたいわね」
「それは無理だよ」
と、柏木は苦笑した。
「でも、外の世界を見てみたいわ。わたしは生まれてからずっと屋敷の中でばっかり暮らしてきたから、一度ぐらい外を自由に歩いてみたいのよ」
「気持ちは分かるけどな」
「あなたはいいわよね。自由に好きなところへ行けて」
「おまえが思っているほど自由じゃないよ」
「ねえ、今度わたしを外に連れ出してよ。二人で一緒に都の大通りを歩きましょうよ」
「むちゃ言うなよ。おまえは知らないかもしれないけど、外の世界は恐ろしいんだぞ」
「恐ろしいって、どういうところが?」
「疫病が流行っているし、夜になると夜盗が出るんだぜ」
「そうなの? じゃあ今のわたしたちは外の恐ろしいものから守られていて幸せなのね」
「そういうことだな」
「でも、もし危険な目に会っても、あなたがわたしを守ってくれるのでしょう?」
「それはそうだけどさ」
「それなら外に遊びに行きましょうよ」
「なあ、おれたちが世を忍ぶ仲だという事実を忘れていないかい?」
「もちろん忘れていないわよ。でも、あなたは何も怖くないって言ったじゃないの」
「それでも限度ってものがあるだろう」
「つまんないの」
妙子はふくれて横を向いた。
「もう、お姫さまはわがままなんだから」
柏木は妙子の体を後ろから抱きかかえ、首すじに口づけをした。
「本当は源氏が怖いんでしょう?」
妙子は意地悪そうな顔でそう言った。
「そうじゃないよ」
「それならどうしてなのよ?」
「二人でこうして抱き合っているだけで幸せじゃないか。このうえ何を望むのだ?」
「あなたはいいわよ。わたしを抱くだけ抱いて、そして朝になったら他へ行くのだから。でも、わたしはずっとここに居なくちゃいけないのよ」
「何だかまるでおれが他で楽しい事をしているみたいな言い方じゃないか。昼間は仕事があるんだよ、おれには」
「そんなのどこまで本当か分からないわ」
「なんだ、おまえ、おれが浮気しているのではないかと疑っているのか? 馬鹿だなあ、おれが浮気なんかするわけないじゃないか。おれが好きなのはおまえだけだよ」
そう言って柏木は妙子の体をぎゅっと抱き締めた。妙子は体をくねらせて
「浮気なんかしたら承知しないからね」
と言った。
「はい、はい。分かっていますよ、お姫さま」
二人はまた愛し合った。
ところで、この頃から妙子は急に知識欲が芽生え、社会の様々な事柄を知りたがるようになった。そして「あれはどうなの? これはどうなの?」と柏木に質問することが多くなった。政治の仕組み、社会の構造、庶民の生活、日本の地理や歴史、外国の様子など、柏木は自分の持っている知識の範囲で妙子の質問に答えてあげた。ただ、柏木自身そんなに知識がある方ではなかったので、答えられないことも多かった。柏木の答えに納得が出来ないと、妙子は自分で本を読んで調べた。たくさんの、そしてあらゆる種類の本が取り寄せられた。妙子はそれらの本を片っ端から読破した。あんなに嫌っていた学問を急に妙子がするようになったので侍女たちはみな驚いていた。
「最近、色んな事を勉強しているよね」
柏木も妙子の変化を不思議がってそう言った。
「わたしは今まで何も知らなかったからね。新しい事を学ぶのが楽しいのよ」
「ふうん。そんなものかね」
柏木はつまらなそうに欠伸した。
「こうなったのもあなたのせいなのよ」
妙子はそう言うと、うれしそうに柏木に抱きついた。
「おれは関係ないだろう」
「いいえ、あなたがわたしを変えたのよ」
「それはどういう意味なんだよ?」
「あなたが来るまで、わたしは完全に調和された世界に住んでいた。その世界の中で何も知らずに満足して暮らしていた。ところが、そこへあなたが、石ころを投げて穴をあけるように、無理やり押し入ってきた。その結果、今まで存在していたわたしの世界は粉々に砕けてしまったのよ。消えて無くなってしまったのよ」
「おれが悪いというのか?」
「ううん。そういう事を言っているのではないのよ。自分が今まで住んでいた世界が無くなって、はじめてわたしは知ったのよ、いかに自分が小さな世界の中で生きていたかということを。世界は本当はもっと広くて大きいのだということを。わたしは今まで何も知らなかったんだわ・・・そう思ったらもっともっと知りたくなったのよ、この巨大で豊饒な世界の事が」
「だけど、そんなこと知ってどうなるんだよ?」
「知識は強さなの。戦うための武器になるのよ」
「誰と戦うんだよ?」
「分からないわ。でも、いつか誰かと戦わなければならない時がやって来る気がするの。それがいつになるかはまだ分からないけど。でも、必ず来るような気がするの」
「そんな漠然とした話じゃしょうがないよ」
「でも、知らずにはいられないの。もうこうなった以上、自分を抑えられないのよ」
「そんなつまらないことばかり言ってないでさあ、いつものように楽しもうよ」
柏木はそう言って妙子の体に手を伸ばしたが、妙子は抵抗した。
「もう、すぐこればっかりなんだから。あなたには未知のものに対する興味が無いの?」
「そんなもの無いね。おれが興味あるのはおまえだけだ」
「わたしのことはもうよく知っているじゃないの」
「いや、おれにはまだ分かっていないことだらけだ」
「どこが?」
「たとえばここはどうなっているのかとか」
柏木はにやにやしながら妙子の寝巻の裾をめくった。
「いや」
「こっちはどうなっているのかとか」
「やめてよ」
妙子は笑いながら身をよじらせた。
「この奥は?」
「すけべ」
ところが、こんなふうに柏木との密会をつづけているうちに妙子の体調が悪くなってきた。医者に診てもらったところ診断結果は驚くべきものだった。妙子は病気ではなかった。妊娠していたのである。
妙子懐妊の知らせはすぐに光源氏のもとへ届けられた。
「はて、あれとはしばらくそういう関係に無かったはずだが・・・」
知らせを聞いた光源氏は一瞬不信感を抱いたが、すぐに忘れてしまった。妙子のことをまだほんのねんねだと高を括っていた光源氏には、彼女が他の男と浮気して子を孕むなどということは想像の外だったのである。紫の上は幸い小康状態にあったので、光源氏は紫の上が心配だったが、いったん六条の屋敷へ戻ることにした。
「体に気をつけて元気な子を産むのですよ」
帰ってきた光源氏にそう優しい言葉をかけられても、妙子は不機嫌な表情を崩さなかった。妊婦というのは気難しいものだからな、と光源氏は特段気に留めなかったが、もちろん妙子は妊婦特有の気難しさのために不機嫌になっていたわけではなかった。妊娠と聞いても素直に喜べなかったのである。問題は深刻だった。妙子にはお腹の赤ん坊の父親が誰なのかはっきりと分かっていた。光源氏の子ではなかった。断じてそうではなかった。間違いなく柏木の子だった。
いい気になって快楽に溺れていたつけがこんな形でやって来るなんて・・・妙子は自身に降りかかった運命の苛酷さを呪った。どうしたら良いのだろう? 今のところわたしと柏木の関係はばれていない。あの人は自分の子供であることを少しも疑ってはいない。このまま騙しつづけることが肝心だ。何としても秘密を守らなければ。そのためには柏木の協力が必要だ。とにかくこんど柏木が来たら相談しよう。
そう考えた妙子だったが、ここでまたひとつ困った問題が生じた。身重の妙子を気遣って光源氏が六条の屋敷に逗留するようになったのである。
(これじゃあ、あの人が忍んで来られないじゃないのよ)
妙子はさも憎々しげに光源氏をにらみつけたが、鈍感な光源氏がそんなことに気づくはずもなく、のんきに酒を飲んでいた。
この時になって初めて妙子は柏木の言葉が実感出来たように思えた。それと共に光源氏を見る目が違ってきた。いくら若い頃はあらゆる女性を虜にした美男子だったとしても、いくら自分はまだ若くて魅力的だと思っていても、今の妙子から見れば単なるおっさんにすぎなかった。薄汚い老人にすぎなかった。二人の間に存在する断層は絶対的だった。どうして今まで平気でいられたのかしら? 自分がこんな年寄りの妻だと考えるだけで、妙子はたまらなく不愉快だった。




