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源氏物語 女三の宮の恋  作者: ふじまる
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第1章

紫式部『源氏物語』を基に、年老いた光源氏を描いた作品です。

 出家した朱雀院を光源氏が見舞うと、院はたいそう喜び

「おお源氏の君、よく参られた」

 と声を上げた。  

 自分が来たことを朱雀院が喜んでくれるのは嬉しかったが、頭を丸め、病気で痩せこけた体を僧衣に包んでちょこんと座っている院の姿はあまりにも痛々しく、光源氏の目からは自然と涙が溢れてきた。  

「なぜ泣くのじゃ、源氏の君。何も泣くことはない。今日はめでたい日なのじゃ。このさき何年生きられるか分からないが、やっと念願が叶って残りの人生を御仏の弟子として生きることが出来るようになったのじゃ。喜んでくれ、源氏の君」

「本日が院にとって喜ばしい日であることは重々承知しておりますが、どうしても涙を止めることが出来ません。お許しください」

 涙を拭いながら光源氏はそう答えた。

「そなたは優しいのう。まことに優しいのう。そなたはいつでもわしに優しかった。心の中には色々と不満もあったであろうに」

「何をおっしゃいます」

 光源氏は朱雀院の言葉に驚き、顔を上げた。

「わたくしが院に対して不満などあろうはずがありません」

「よいよい、無理をするな。もうそれほど長くない命じゃ。兄弟には兄弟しか知らない歴史がある。最後ぐらい兄と弟で心を開き、真実の話がしたいものだ。そうではないか?」

「わたくしの言葉に嘘偽りは一切ございません」

「そなたは強情じゃのう」

 朱雀院はそう言って笑った。そして、人が遥か昔の出来事を思いだす際によくそうするように、視線を遥か遠くに向けながらこう述べた。

「われらの父である桐壷帝は、本当はそなたに天皇の位を譲りたかったのじゃ」

「そんなことはございません」

 光源氏はむきになって反論した。

「いや、あるのじゃ。なぜならそなたは父の寵愛を一身に受けた更衣の忘れ形見。このわしもまだ幼少の折、何度かそなたの母を見たことがあるが、幼な心にも天女のように美しい人だと思ったのを憶えておる。それはもう言葉に尽くせぬほど美しい人であった」 

 光源氏は三歳で死に別れた母の顔を憶えていない。母の顔を思いだそうとすると頭の中に白い靄のようなものがかかり、思考が停止してしまう。けっきょく最後には母に瓜二つだと評判だった藤壷の顔が浮かぶだけだ。それなのに兄はおれの母の顔を憶えている・・・記憶の中に母の姿を持っている・・・そう考えると光源氏は大切な宝物を奪われたような、ひどく悔しい気持ちになった。だが、もちろん今の光源氏はそのような内心を表に出すような子供ではない。

「その上、その愛しい女性から生まれたそなたは珠のように光り輝く男子であった。長じてからも容姿は端麗、学問は優秀、武芸も達者で芸術にも通じている。そなたこそは天がお造りになった理想の人間だ」

「わたくしは、そんな・・・」

「それにひきかえ、このわしはどうであったか? 容姿は劣り、学問は出来ず、臆病で何かあるとすぐに泣きだすような子供であった。これでは父でなくともそなたを跡継ぎにしたいと望むはずじゃ」

 確かに子供の頃から光源氏はこの凡庸な兄を心の中で軽蔑していた。光源氏が一度聞いただけで覚えられることを、兄は十回聞いても覚えられなかった。兄がぜんぜん読めない難しい漢文の書物を、年下ながら光源氏はすらすらと読むことが出来た。また光源氏は、自分がしなくなった後でも、兄がおねしょをしていたことを知っていた。こういったすべてのことが自然と光源氏の心に兄を嘲る気持ちを植え付けた。

 桐壷帝は何をやらせても優れている光源氏の成長を目を細めて嬉しそうに眺めていた。光源氏は自分に注がれる父の眼差しを感じていた。父の愛情を独占したかった。そのためさらに学問に精を出し、常に兄を凌ぐことばかりを考えていた。父の後継者にはとうぜん自分が選ばれるものと思っていた。

「ところが、父の跡を継いだのはそなたではなく、このわしだった。なぜそうなったかは改めて言われなくとも分かっておるな? そなたの母には有力な後ろ盾がいなかったのに対し、わしの母にはそれがいたからだ。なにしろわしの母上は右大臣の娘だったからな。さすがの父上も右大臣の意向を無視することは出来なかったというわけじゃ。わしを天皇の地位に就かせると、母と祖父の右大臣は次にそなたを中央の政界から追放しようと考えた。将来、このわしの災いになることを恐れてな。そのためそなたは何年か都を離れ、須磨や明石で生活しなければならなくなった・・・わしのことを恨んでいるであろうな」

「そのようなことは決して・・・」

 光源氏がそこまで言いかけると、朱雀院が急に咳き込み始めた。光源氏は慌てて院のそばへ駆け寄り、背中をさすってあげようとしたが、院はそれを手で制して話をつづけた。

「じゃがな、さいきん父上がそなたではなくわしを選んだのは、単に右大臣家に遠慮したせいだけの理由ではないと思うようになったのじゃ。父上はそなただったら臣籍降下しても立派にやっていけると考えたのではなかったのか? 実際、その通りであったろう? そなたは誰にもひけをとらなかった。それどころか誰よりも優れていた。もしわしがそなたの立場にあったら、こうはいかなかったであろう。何ひとつまともなことが出来ず、落ちぶれていったかもしれぬ。父上にはそれがよく分かっていたから、わしを後継者に選んだのじゃ。天皇など所詮は飾り物にすぎないからな。これだったらわしにも務まるだろうとお考えになったのであろう。あらためて父上のすべてを見通した深いご配慮に感謝するばかりじゃ」

 光源氏は父である桐壷帝の顔を思い浮かべた。父上は本当にそこまでお考えになっていたのだろうか? それとも今の話は兄の勝手な妄想にすぎないのだろうか?

「さて」

 そう言って院はひと呼吸おいた。

「今ではこのわしも父上と同じように人の親であり、子供が可愛い。そこでだ・・・わしの希望はすでにそなたに伝わっているはずじゃが、聞いておるな?」

「女三の宮さまの件でございますか?」

 ついに来たなと光源氏は思った。

「そうじゃ、末娘の妙子のことじゃ。出家は長年のわが悲願であったが、それに際してただ一つだけ気掛かりなことがあった。それは妙子の将来じゃ。わしは妙子が可愛いくてたまらない。でも、わしが出家したら妙子はどうなるのであろう? 妙子はまだほんの子供じゃ。頼りになる後ろ盾もいない。それを考えると心配で心配で夜も眠れない程じゃ。そこで今のうちにしっかりとした相手に嫁がせて安心したいと思ったのじゃ。ちょうど葵の上を失って以来、そなたには正室がいない。どうであろう? 妙子をそなたの正室に迎えてはくれぬか? そうなればわしも安心なのじゃが・・・」

 以前から光源氏は内々に院が三女の妙子を光源氏の正妻にと希望している旨を聞かされて困惑していた。確かに院の娘を正妻に迎えるのはたいへんな名誉である。しかし、妙子はまだ十四歳。光源氏は今年四十歳である。自他共に認める色好みの光源氏だが、年齢の差を考えるとさすがに気恥ずかしくて積極的な気持ちにはなれなかったし、世間の目も気になった。この年になって今さらこんな小娘と結婚したら世間の人はどう思うだろう? おそらく良くは思うまい。陰で色々と悪口を言われるのが関の山だ。

(それにおれには紫がいる)

 と光源氏は思う。十歳の時から手元に引き取り、理想の女性にしようと育ててきた紫の上は、今や光源氏の事実上の正室であった。家の中のことは紫の上に任せきりだったし、世間からも紫の上は光源氏の正室として認知されていた。もしおれが妙子を正室に迎えれば、紫はどう思うだろう? きっと傷つくだろう。おれがいちばん愛しているのは紫だ。彼女を悲しませるようなことはしたくない・・・朱雀院の口から妙子との縁談の話が出たら何とかうまく辞退しよう・・・光源氏は最初からそう心に決めていた。そこで

「たいへんありがたいお話ですが、姫さまとわたくしとでは年が離れすぎております。姫さまのお相手はもっと若い者が良いのではないでしょうか」

 と、光源氏は答えた。

「それはわしも考えた。最初はそなたの息子である夕霧を相手にと思ったのじゃ。ところが、話に聞くところでは、夕霧は長年恋い焦がれたおなごと結婚したばかりだというではないか。まさかそこへ妙子を嫁がせるわけにもいくまい」

「はあ、夕霧はおそらく亡き妻である葵に似たのでしょう、わたくしとは違ってたいへんな堅物でして融通が効きません。妻がいながらそのうえ院の姫さまをお迎えするなどということはとうてい考えられません」

「そうであろう?」

「しかし、夕霧の他にも若くて良いお相手はたくさんいると思いますが・・・」

「それがいないのじゃ。どれも帯に短し襷に長しでな。太政大臣からもぜひ息子の柏木の嫁にと懇願されたが、わしとしては今ひとつ頼りないのじゃ。やはり安心して娘を任せられるのはそなたしかいない」

「しかし、わたくしには・・・」

「分かっておる。そなたには紫がいると言いたいのじゃろう? 紫の評判はわしも聞いておる。たいへんに聡明で美しい女性だそうじゃな。だが、その紫も元々はそなたが子供だった彼女を引き取り、一から教育して現在のような素晴らしい女性に育てたというではないか。妙子にもそれと同じことをしてもらいたいのじゃ。それが出来るのはそなたしかいない。紫は賢い女性だそうだから、わしからの頼みだと説明すれば必ず納得してくれるはずじゃ」

「そう言われましても・・・」

「そなたにはひとつ貸しがあったはずじゃが・・・」

 朧月夜のことを言っているのだな、と光源氏は思った。朱雀院がまだ皇太子であった時、その女御として入内する予定だった朧月夜を光源氏が寝取ったことがあった。この事件が一因となり光源氏は須磨行きを余儀なくされるのだが、そのとき朱雀院は朧月夜を責めなかったばかりか、内侍として入内させた。確かにこの時のことを言われると光源氏には負い目がある。

「安心して娘の将来を託せる人間はもうそなたしかおらぬのじゃ。頼む、年老いた兄の最後の頼みだと思って妙子をもらってやってくれ。そして幸せな人生を送らせてやってくれ」

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