彼氏の名前が思い出せない
みんなから「南くん」と呼ばれている彼の名前が、私は時たま思い出せなくなってしまう。
初めて会った時、彼は親友に連れられ、私の前に現れた。顔立ちは中の中くらいだったが、滲み出る優しさに好感が持てた。
その日から月に何度か、彼と会う機会があった。私たちはよく、タピオカ屋さんに行った。
南くんはいつも、ミルクティーを頼む。
「美結ちゃんは、今日もマンゴージュース?」
メニュー表を手に持ち、一応何にするか悩んでいた私に、南くんは聞いてきた。
「そうだね。新商品も気になったけど。このスイカ味は苦手だなあ」
「たまにはミルクティーとか、どうですか?」と彼は言う。
「ミルクティーも前飲んでみたけど、無理だった」
それは残念、と彼は言う。「美味しいのに」
「ミルクティーのLサイズ。タピオカ3倍で!」
彼はニコニコしながら注文していた。こっちを見て、3本指を立て、また笑った。
「3倍頼んでる人、初めて見た。それだけでお腹膨れるね」そう言った私に彼は「胃袋大きいから!」と、お腹をさすり、自慢げな顔をした。
「おすすめだよ」と彼は言うが、私は通常の量で充分だった。以前倍増してみた時、タピオカの食べ過ぎで気持ち悪くなったのだ。
彼と動物園に行った時は、「俺、鳥が怖いんだよね」とダチョウの前で人の後ろに、こそこそと隠れていた。
その癖、ライオンに餌をやる時は、臆することなくトングで掴んだ肉を、ライオンの口の前に運んでいた。
線引きがわからない。
そんな私は蛇が大の苦手で、しかし南くんは蛇を見たいと言い、私は彼の後ろに隠れ、目を瞑ったまま歩いた。
少し進むたびに「黄色くて、大きな蛇さんがニョロニョロしてます〜」なんて実況してくる彼の肩を、引っ叩くこともあった。
私たちは当時、同じゲームにハマっていた。毎日とは言わないが週に5日くらいは、夜に通話を繋ぎながらゲームをしていた。
「美結ちゃん!助けに来て!」ゲーム内でハンターに捕まった南くんを、何度助けに行ったことだろうか。
私は救助キャラを使うのが上手くなった。そもそもこのゲームは得意だった。
ゲームをしながら会話を楽しみ、話が途切れることはなかった。何時間も通話は繋がっていた。
彼は自分の話を色々としてくれる。彼の話は面白かった。南くんのことがなんとなく、分かってきた。
しかし、重要なことをまだちゃんと、知らなかった。
「LINE、交換しようよ」最初に、一緒にゲームをしようとなった時、彼が言った。「通話しながらじゃないと、意思の疎通取れないじゃん」
「そうだね」私はカバンからスマホを取り出した。「ふるふるして」
彼のその言葉に「ふるふるって何?」と私は返す。
「マジか」と笑った南くんは「貸して」と私のスマホを手に取り、自分のスマホと同時に揺らしていた。
彼とよくゲーム内で遊ぶようになった後に、ふと、あることが気になった。
「今夜もやろう!」とメッセージを送ってきた彼に、今更「下の名前なんて読むの?」とメッセージを送った。
LINEのユーザー名は「南 唯悠」だった。
「ただひろ」とだけ返ってきた。
続けて「よく、ユイトとかって間違われる」とメッセージが来た。
例外ではなく私も「ユイト」だと思った。
「美結ちゃんも、一瞬迷う」
たしかに、と私は返信した。
名前の話はそれで終わってしまった。
彼の名前をLINE画面で見るたびに一瞬、彼の名前が思い出せなくなる。
みんな「南くん」と呼ぶから、下の名前の印象が弱かった。
南くん。彼の名前はそれでしかないみたいだ。
初めて彼と会った日のことを思い返した。
「美結、紹介するね。この人が南くん。私の彼氏」
「南でーす。よろしく。美結ちゃん?」
あの時私の親友が、彼の下の名前までちゃんと紹介してくれていたなら、きっと今も、覚えていたんじゃないかと思う。
今夜も私と親友、そして南くんは、ゲームの中で3人で遊んだ。