アニキと呼ばせて
僕は驚愕した。
日比野には彼女などいないと思っていた。失礼ながら、未来永劫、彼はそう言う話題とは無縁だと思っていた。大体、彼は慣れないうちは普段の会話を成立させるのすら困難な人間なのだ。そんな人間が、一体どうやって女性を口説くのだろう。彼の恋愛の始まりを想像することすら、僕には困難だった。
“兄には口止めされているのです
が、私は一度彼女と兄が並んで歩
いている様子を見かけたことがあ
ります。くらくらするほどグラマ
ラスな女性でした。”
女の子をくらくらさせるほどの女性が、どれほどの女性なのか。そして、その隣に、他の誰でもなく、あのオタクの日比野が並んで立っているというのだ。彼は、その時、どんな顔をしているのだろう。何を話しているのだろう。恋人たちに特有の、あの周りの人間の姿など目に入っていない、ささやくような内向きの会話が、彼と、そのグラマラスな女性の間にもとりとめもなく繰り返されていたりするのだろうか。
“兄の話によると重度のコスプレ
イヤーなんだそうです。キューテ
ィーハニーの格好をさせたら、観
客に死人が出たと聞いています。”
僕にはもう、日比野が日比野に見えなくなりそうだった。長く付き合ってみても、人間の本性というものは分からないもののようだ。僕のいないところで、彼は何をしていたのか。オタクの日比野は、僕の中でグネグネと姿を変えつつあった。ヘミングウェイも青ざめるマッチョでタフなワイルドターキーの似合う男を僕は思わず想像した。その幾多の修羅場をくぐりぬけてきたような、冷たく鋭い一重の視線の先には周囲に死を振りまき、コスプレするグラマラスな女の姿。目の前の女の皮を一枚一枚剥いでいく、冷たく疑り深い彼の視線。響くウッドベース。気だるいピアノ、ささやくようなスネアドラム。ぼうや、だからさ。彼は僕を思い出し、冷笑を浮かべて、ふとつぶやく。
“あ、私の言ったこと、兄には内
緒にしていて下さいね!”
朱音さんからの、にわかには信じがたいメールを受けて、思わずそんな、根も葉もない空想をしながら通りを歩いているうちに、いつしか朱音さんのバイトしている店の前までやって来ていた。僕はビルの二階の古ぼけた木彫の扉を開けた。
「おかえりなさいませ〜」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」