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僕の彼女が転換します

冬の気も緩んだ三月。冷たい外気に、暖かい光が場違いに差し込んでいた。春に切り替わるその直前のないまぜの大気に、僕と日比野の吐く息ももう白くはない。年中変わらない格好に、着古した暗い色のオーバーコートを羽織っただけの日比野と並んで、冬の通りを歩いた。


年度末で、電気店には多くの客が入っていた。皆、引っ越しや転居を控えているのだろう。多くの生活が再生する季節を迎えていた。


「...うちの妹が、悪いことをした」彼は事情をおおよそ知っているようだった。

「君に連絡しようとしても、つながらない、と言っていたよ。あいつなりに、心配はしているらしい。...まあ、自業自得なんだが」


「ごめん。僕の方もなかなか...、まだ気持ちの整理がついていないんだ」

僕は正直に打ち明けた。気持を誰かに打ち明けるのは、ずいぶん久しぶりだったから、口に出した途端から、気持ちが少しずつ軽くなるのがわかった。

「だろうな。僕だってショックだったよ。まさか自分の妹が、他人の“彼女を横取りするとは。恐ろしくて、両親には、とても言えない」


「朱音さんは、君だけに相談したのか」

「…僕が止めたんだ。」日比野は小さな声で言った。

「あいつは、始め、親にきちっと言うって言ってたんだ。まあ、あいつの考えそうなことなんだが….。だが、こればかりは、親は簡単には受け入れられないだろう?時間をかけて、すこしずつ伝えていった方がいいって言ったのさ」


「彼女らなりに、苦しんでいたようだったからな...。社会から、なかなか受け入れられない関係だということは、痛いくらいにわかっていたようだったし...」

日比野はそっぽを向いた。

「それとこれとは、話が別だ」


「でも...。」彼は、僕の方を向き直った。

「いいかい、もし、うちの妹が、男だったとしたら...、君は何の疑いもなく、あいつを恨めると思うんだ。変な事情を持ち出したところで、やってることは同じだろう」

彼の眼鏡の下の瞳は、いつになく鋭く、しっかりと現実を見ているものの強い眼をしていた。彼のこのような眼差しを、僕は初めて見たように思った。


「恨むだなんて、そんな...、朱音さんにはいろいろ世話になったし....」

朱音さんが、僕のことを好きでいてくれたようだ、と言う真樹から聞いた話は彼には伏せておいた。こんな時に、彼の前で、とても出来る話ではないと思った。

「ともかく、来週の土曜には出発するらしいぞ」

「…もう、行くのか」


彼女は手術を受けるかどうか決心する前に、卒業と同時に、この国よりも性に寛容な国に移住すると聞いていた。それにはアカネさんも同行することになっていた。もっとも、朱音さんはまだ大学二年生だったから、とりあえず今回は一時的に付いていくだけになるようだった。だがいずれは、どこかで二人の生活を作ることを目標としているのだろう。


「君にここまで迷惑掛けたんだ。あいつらなりに追い込まれているんだろう。…見送りには、行くのか?」

「行きたいとは思っているけど」

「無理するな...、どうせだったら、また二人で、メイド喫茶にでも行って、気を紛らわそう。もっと、女の子の可愛い、店を見つけたんだ…」

だが、彼は途中で気が変わったようだった。


「...かえって、いやなことを思い出しそうだけれどな」

ため息をついて冬晴れの空を見上げた。



夜の空港は閑散としていた。

青色ダイオードに縁取られた看板が、照明が部分的に落ちて薄暗くなった空港内に強い光を放っていた。


彼女らの飛行機はほとんどその日の最終便と言っていいほど遅い出発だった。


「...来てくれたんだ」

「朱音さん、は?」

「もう出発ロビーに入ってる。先に行ってますって」


僕らは、飛行機の発着の見えるテラスに歩いた。

エスカレーターが僕らを吹き抜けの宙に浮かべて、そぞろに高い所へ運んでくれた。

「向こうに着いたら、すぐ手術するの?」

彼女は首を振った。


「朱音の方も、私が男性化するのを求めているわけではないし、しばらくは二人で暮して様子を見るつもり。...向こうはそういう関係には寛容らしいから」

「僕は君のことを知るまで、同一性障害って、もっとわかりやすいものかと思ってたよ。」

「自分のことを、僕って言うとか?」

彼女は笑った。


「…正直、大人になってから、女に生まれたことを、後悔しない日はなかった。でも、初めてかな。ほんのひと時...、あなたの子供がほしいって、本気で思えた。もちろん、私が何者なのか、余計、迷いもしたんだけれど...、」

彼女は困ったように首をかしげて微笑んだ。その表情は切なく僕の胸に迫った。


「…ねえ」

彼女が言った。

「今日までの私とあなたの関係は、なんて呼んだらいいんだろう」

僕は考えた。僕にとっては、これは恋愛以外の何物でもなかった。彼女の中にたとえ男性の心が眠っていたとして、それが、どうして僕に解るだろう。僕の目に映る彼女は、どう見ても、一人の愛らしい女性に、他ならないのだから。


「君なら、なんて呼ぶ?」

僕は自分の回答を避けて、彼女に尋ねた。

彼女は下唇を少し咥えたような顔をして、じっと、真剣に考えていた。そしてやがて、はっきりと僕の方を見て、言った。


「わからない。私とあなたの関係は、私とあなたの関係。...世の中には、まだ名前の付いていない関係が、あんまり、多すぎるよ」

困ったようにそう言って、笑った。


「恋愛という言葉では、片付けられないか」

僕は言った。

「もちろん」彼女が言った。「...もしかして、あなたはそれを、望んでいるの?」

「正直、ちょっとね」僕は少し照れくさくなってしまった。

「なあんだ」彼女は笑った。「それなら、それでもいい。...あなたを愛していることには、変わりなかったから」


滑走路を示すランプが、一列に並んで、その先に続く航空路の見えない路線の入り口を指示している。その中へしずしずと舞い降りる一機の飛行機が見える。

暗闇で、僕らの影がひと時、重なった。


「...もう、行こうかな」

彼女が言った。

「ありがとう。...また、どこかで会えるかな」

「…顎に髭の生えた私とでも、また会いたい?」

彼女は悪戯をするような目をしてそう言った。

僕は答えた。


「会いたいよ。…君が男の人になってしまっても。...いずれにしろ、僕らのすることは、変わらないじゃないか」

「...結局、会うのはお酒の席、なんだろうね。私達」

彼女はあきれたように言った。

「...ホントに、あなたが私の最初で、最後の“彼”で、良かった」


そう言って、自分の荷物を手にとると、ゲートに向かって歩き始めた。


ゲートをくぐる直前、彼女は、くるりと後ろをふり返ると、みるみる愛らしい笑顔になって、僕の方を向いて手を振った。そして、いずれは切られてしまうのであろう、伸び始めた黒い後ろ髪をなびかせながら、空港の検査場の奥に消えた。




[終]










これで、この物語はおしまいです。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。


恥ずかしい、稚拙な文章ではありますが、この物語には、いろいろな思いを込めました。皆様はどんな思いを抱いたでしょうか。


大切な人との毎日の生活に、いつもとちょっと違う、新鮮な視点を持ち込むことが出来たとしたら、作者はもうそれ以上望むものはありません。


では、また次の作品で。

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