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転機

約束の時間になった。


僕はもう1時間も前からスタバの入り口の脇のテーブルに座って、朱音さんと、彼女の先輩がやってくるのを待っていた。本当はもう少し後から店に入ろうと思っていたのだが、ゆっくり時間を潰す場所が見つからず、随分早めに店に来てしまっていた。


本来、秋葉原の街は、僕のテリトリーではないのだ。日比野がいたから、時間がつぶせたけれど、僕一人では、彼とよく行っていた店に入る気さえ、とてもなれなかった。朱音さんの働くメイド喫茶を出てから、あちこちさまよった挙げ句、僕は結局無難に全国チェーンの書店に入り、適当な文庫本を立ち読みしていた。本屋なんて、どの店に入っても置いてある本はほとんど同じなわけだし、僕の興味も限られているから、その立ち読みにもまもなく飽きてしまった。


だんだん、立っているのに足も疲れてきたので、僕は立ち読みしていた本を買い、時間よりまだ大分早かったが、待ち合わせの店に入って待っていることにしたのだった。


気配を感じて、ふと、目を上げると、通りの向こう側の露地の入り口から、私服に着替えた朱音さんが出てくるところだった。店の入り口近くに座った僕に気がついたらしく、片手をあげて小さく手を振った。通りを真っ直ぐ、こちらに横断してきた。


しかし、彼女の後にはだれも付いてくる様子がなかった。


「ごめんなさい、祐介さん。」朱音さんは僕の所まで来ると、残念そうにそう言った。「...先輩ったら、今日はテニスの練習しようと思っていたから、ごめん、なんて言うんです。」眉根を寄せて、朱音さんは溜息を吐いた。


「いつも、こうなんだから。…人が、せっかく心配しているのに...。祐介さんも言ったように、先輩、こういう事に関しては、とっても不器用な人なんです。だから...。」

「...そう、ちょっと残念かな」

僕は彼女と知り合えることを期待していただけに、言葉以上に内心は落ち込んでいた。

「...ちょっと、予定が狂っちゃったね」


朱音さんは困ったように微笑んだ。僕より、さらに落ち込んだ様子に見えた。


「...そうですね。私も、時間が余っちゃいました。」朱音さんは言った。「何処か、買い物でもしてこようかな...。」

そう言って、午後になっても人通りの絶えない秋葉原の通りを何気なく見渡した。


僕にはその時、朱音さんが何か言いたげな様子に見えたが、彼女は特に何も言わなかった。


僕は正直、もうこのまま、帰ってしまってもいいかと思っていた。そもそもが、棚から牡丹餅のような話なのだし、それが思い通りに行かなかったからといって、どうということでもないのだ。自分の中で何もかも、始めからなかったことにすればいいだけのことだった。そもそも、この話は、はじめ、断ろうと思っていた話ではなかったか。今の僕の生活に恋愛が特に必要である理由などなかった。昨日と同じ、いつも通りの、それなりに充足した僕の生活が、また明日もまた始まる、というだけのことだった。この日比野の妹さんと、知り合いになれたというだけでも、収穫ではないだろうか。


しかし、その一方で、朱音さんの先輩だという彼女をもう単なる他人とは割り切れなく生っていることに僕は気がついた。それは、一種の親近感のようなものだった。一度できかけた彼女とのかすかなつながりを簡単には失いたく無くなっていた。もう一度、もっと傍で彼女を見たかった。単なる興味本位な関心だったと言われれば、そうなのかもしれない。彼女に対する、純粋な好意では無かったのかも知れない。


でも、必要以上の人付き合いを避ける傾向にあった僕としては、このような気持ちを抱くこと自体が、これまでなかったことだった。自分から進んで、他人と新たな関係を築くなど、大学に入ってすぐに、勢いにのまれるように日比野と親しくなってしまったあのときを除いて僕には経験の無いことだった。


なぜそのような気持ちが急に湧き出してきたのか分らなかった。目の前にいる朱音さんは確かに素敵な女性だった。だが、彼女に対して働く興味とはまた少し違った興味が、一目見ただけの彼女に対しては働いているように思った。まだ、出会ったばかりであるというのに、その身体に触れた感覚が、未来の記憶のように鮮明に僕の体に蘇ってきて、しようがなかったのだ。


僕はその感覚に突き動かされるように、アカネさんに尋ねた。


「…彼女の練習場所って、どこ?」


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