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昨日雨が降ったせいだろうか。舗装された道が太陽の光を反射してやたらとてらてら輝き、町を歩く人混みの生み出した巨大な影を強調している。
俺はそれを見て少しムッとしながらその人混みの生んだ闇の中に自分の影を忍ばせ、人混みの一員となりながらもそれをかき分けていく。
「あのくそ上司が……」
「次はどこに行く?……」
「ウォレインももう終わりさ……」
ありとあらゆる言葉が飛び交うものの、それらはほかの言葉と混じり合ってはノイズとなる。
余裕のあるような態度で―実際は割と必死目に―雑踏をかき分けかき分け、ようやく抜け出すころにはなんとなくのどの奥の方から何やら酸っぱいものがこみ上げ、さらには頭までふらふらするような状態になっていた。
「……最悪だ」
そうつぶやいた言葉も巨大な音の塊に吸収され、誰にも届かないだろう。そう思いながらポケットをまさぐり、煙草を取り出し、口にくわえた。
「……炎の精よ」
指先に魔力を込めて言葉を発すると、指の先に向かって小さな火の玉が中空から飛来し、私の指に停まった。炎の精を煙草にあてがうと、ジジジ、という音がして煙草から煙が立ち上り始め、火の精はまたどこかへと飛んで行ってしまった。
それを横目に見ながら大きく煙を吸い込み、肺が魔力の煙とシェリーの香りに満たされていくのを感じて再び目的地である新聞売りに向かって歩き出すと、ローブを着て顔や体を極力隠している女性(男性?)とぶつかってしまい、彼女は尻もちをついてしまった。
「……すいません、けがとか、やけどとかはしていないですか?」
「いえ、大丈夫です……」
非常に申し訳ない気持ちになりながら彼女に手を差し伸べると、彼女はおずおずとその手に応じてくれた。引っ張ろうと手に力を込めると手に固い感触が伝わってきた。それにちら、と視線を向けると、それは何層にもなったかさぶただった。
これがリストカットというものなのか……?と驚きはしたものの極力そのことを表情に出さないようにして、
「本当に大丈夫ですか?」
と聞いた。すると女性はクスリと笑い、微笑んで
「ええ。本当に」
といった。その笑みは自然な、そう、人間が通常形作るような笑みとは程遠い、口が裂けたような笑みだった。
この人はきっと写真写りがすこぶる悪いんだろう。気の毒だな……
女性は俺の手を離し、雑踏の中へと潜り込んでいった。その途中に何かを言っていたようだが、やはり何も聞こえなかった。
*****
「起きなって!!」
耳元で叫び声がして、思わず俺はガバ、と起き上がる。すると目の前には微妙に機嫌の悪そうな顔をしたステラが仁王立ちをしていた。
怒っていても綺麗だな…ほんと
まだしっかりしていない頭をガシガシと掻き、右側にとんでもない寝癖がついていることを確認しているとステラがそっぽを向いて
「何をバカなことを……あんたは私の笑顔と怒り顔、どっちが好きなのさ」
どうやらそのまま口に出てしまったらしい。朝はほんとに苦手だ。
「……すまない、明日はすぐに起きるように心がける。ところで、今日の朝食は?」
「いつもの」
俺を起こすためだろうか、カーテンが開け放たれ、全開になった窓の向こうには青空がずっと広がっており、小鳥たちのさえずりと車のエンジンの音が遠くで聞こえる。
「何やってんの?」
「いや……平和だな、と思って。」
「そりゃあ、そうじゃなきゃ困るもの。ほら、早く」
せっついてくるステラの後についてリビングに向かうとコーヒーの良い香りとベーコンの焼けたにおいがほのかに感じられ、食欲がどっと押し寄せてきた。しかしここでがっつくような態度をとるのもみっともないと思い、じっとこらえて席に着く。
「ちょっと待ってて」
そう言うとステラはリビングから出ていった。早く朝食をとりたいのは山々だが、以前先に食べていて怒られたこともあるうえ、何よりそれは紳士的行動とは言えない。何より、ステラの信条として、“食事は家族全員でとるべし”というものがあるので、おやつ以外は一人で食べることを許されないのだ。とはいえそれはステラの家族として認められているということでもあるうえ、それが彼女なりの愛情表現の一つでもあると考えるとむしろこの空腹感は喜ばしいものですらある。
どたどた、というあわただしい足音とともに、アンナがリビングへとはいってくる。
「おはようございます、坊ちゃん」
「いやだからアンナ、その呼び方はだな……」
「ですが、そう落ち着かないんですもの、でしょ?ほらお母さん、早く席について」
いつもならアンナが言うセリフをステラがかっさらい、ため息をついた。それでも、そこに迷惑さだとかめんどくささは一切感じられない。
少々ふとっているアンナが椅子に座ると椅子がギシっという音を立てる。いつかあの椅子は本当に壊れてしまうのではないかと少し不安だ。
「じゃあ、いただきます」
「「いただきます」」
ステラの声に合わせていただきますを言い、そこから食事が始まる。いつもの光景だ。平凡な日常。平凡な朝。平凡な、いや、平凡というには余りにおいしいご飯。すべてがいつも通りで、すべてがかけがえのないものだ。俺はそのことを知っている。この日常が、脆く儚いものであることも。