五 身代金受け渡し
刑事たちは、再三に渡って手紙を見せるように要求してきた。お嬢さんを速やかに救出するためには少しでも多くの情報が必要ですだの何だのと、いかにも美鈴のためであることを強調する。だが、刑事たちの会話を盗聴している恵理依は、それがはったりであることを理解していた。彼らは焦っているのだ。誘拐から三日を経て、身代金の要求までされているのに、犯人に関して一切何の情報も得られていない、ということに。そして、自分たちが何もできずに犯人を逃し、人質を救出できないかもしれない、ということに。つまり、結局自分たちのことしか考えていない。彼らにとっては、こんな事件でさえ、得点を稼ぐための、あるいは失点しないための、ゲームのようなもののようだった。
だが、こちらにとってはまさに死活問題だ。万一、刑事がうろうろしていることに犯人が気付き、手紙の内容が守られなかったといって怒れば、美鈴にどんな危害を加えるかわからない。だから、恵理依は浩一に手紙を見せた後、すぐさま手紙を自室の金庫にしまい込んだ。念のため捨ててしまうべきかとも思ったが、美鈴が必死に書いたであろうものをぞんざいに扱うのはためらわれた。
俺が行く、という浩一に、恵理依は反対しなかった。もし犯人が見ているとしたら、持っていくのは浩一でなければならないだろう。ただし、口を酸っぱくして注意した。警察は絶対に尾行してくる。気付かれないように慎重に回り道を繰り返して、と。それでも、恵理依は心配だった。いたずらっ子かつ運動会系だった恵理依とは違って、浩一は文化系の人間であり、そうした行動には明るくない。おそらくは刑事が尾行しているかどうかさえ、気付かないだろう。
というわけで、恵理依は恵理依で浩一を尾行し、必要があればアドバイスを送ることにした。この期に及んでは警察など邪魔なだけだ。全力をもって排除し、美鈴の身の安全を確保しなければならない。
午前七時半。恵理依は、鞄にこっそり着替えを忍ばせ、学校へ行く、といって先に家を出た。もちろん、刑事がこっそり付いてくるのは計算済みなので、本当に学校に行った。二日ぶりで教室へと入るなり、わっと一斉に人が群がってきた。恵理依の心配をしてくれる人もいたが、何より皆、美鈴のことが気に掛かっているようだった。それはそうだろう。同級生のあれだけ酷い映像が、それもよりにもよって美鈴のものが目に入れば、誰でも衝撃を受けるだろう。
誰のどんな質問にも、恵理依はただ、今も行方不明で何もわからない、とだけ答えた。身代金はどうしただの犯人から何か言ってきたのかだのと、半ば興味本位に訊いてくる人もいて、その度に恵理依は怒りを抑えるのに苦労した。
一限目の授業中に、恵理依は体調が悪いので保健室へ行く、といって教室を辞し、先に部室に隠しておいた普段着に着替えた。裏門からこっそり出たが、そこも刑事に見張られていた。こういうときだけ無駄に有能な連中だ、とうんざりする。
少し大きな通りへと出てからタクシーを捕まえるが、当然彼らも追ってくる。これでは、どっちが被害者かわからないな、と呆れ気味に思う。
全く関係ない駅でタクシーを降り、トイレに入って、二度目の変装を試みる。ポニーにしていた髪を下ろし、羽織っていたパーカーを脱ぎ捨てて、素早く電車へと飛び込む。が、すんでのところで一人だけ飛び乗ってきた。どこかに連絡しているところからして、次の駅辺りでまた応援が駆けつけるのだろう。全く苛々させられる。
仕方ない、と恵理依は決意した。小学生時代に慣れ親しんだあの辺りの地形を使おう。
それは、恵理依がまだ美鈴と呼ばれていた頃、あるいはミリィと呼ばれていた頃、エリィと共に毎日探検し、冒険して回った、自宅近くの地区だ。この地区に関しては、およそ子供が一人通れるような場所は全て網羅している。家と家の狭い隙間や穴のある垣根の場所は当然のこと、下水道がどこからどこへと繋がっているか、また緊急貯水場へどう繋がっているか、なども知っているし、野伊木家の私有地として管理されている小さな山の構造も熟知している。
自宅近くの駅で降り、早足で歩く。思いの外、時間をとられてしまっている。浩一は、十時には家を出ることになっており、それまでに浩一の姿を確認できる場所へと、刑事たちに気付かれないようにたどり着いていなければならない。
何食わぬ顔で大通りを歩き、少しずつ繁華街から離れた住宅街へ、さらに住宅街の裏に広がる山へと歩いて行く。さすがにここまで来ると人通りも少なくなってくるので、追跡者の数や様子を確かめるのも容易だ。時々陰に隠れて後ろを確認してみた限りでは、背広姿の若い男二人が追ってきているようだった。いかにも、とりあえず下っ端に追わせておくか、という感じである。
やがて、「ここは私有地です」という古びた看板が架けられた門の前に到着した。一切のためらいなしに鉄柵に飛びつき、がしゃがしゃと辺りに音が響き渡るのも気にせずに一気に登りきり、柵の向こう側へと飛び降りた。
ちら、と振り返ってみれば、例の男たちが携帯電話でどこかに連絡をとっているのが見える。あまいね、と恵理依は内心ほくそ笑んだ。この中の構造など、野伊木家以外に、というよりエリィとミリィ以外に知りようもない。
恵理依は身をかがめて茂みをくぐり、木々の間をすり抜け、十分ばかり上がったところにある、低木にたどり着いた。記憶にあるものより、ぐっと大きくなっている。
まだ甲高かったエリィの声が耳によみがえる。
――ここは秘密の抜け道だから、木を植えておくの。知ってるのは、わたしとミリィだけよ。
この木は、エリィと二人で近くにあった小さな木を掘り返して、わざわざマンホールが隠れるように植え直したものだ。あのとき植えた木はこうしてさらに大きくなって残っていて、恵理依は――ミリィはそれを覚えているというのに、言い出した張本人であるエリィはきっと忘れてしまっているのだろう。
まるであの頃の楽しさを全て否定されたような苦しさが押し寄せる。
もう慣れたはずだった。一年前、「美鈴の代わり」として現れたエリィが何一つ覚えていないとわかったときの、あの衝撃。それから、毎日のようにいたずらをして見せても、エリィは、思い出すどころか、ただ恵理依を馬鹿にするような態度ばかりを見せた。最初のうちは、もう自分は子供じゃない、と暗に示唆しているように見えたけれども、しばらくして、彼女が本当に何一つ覚えていないとわかった。それこそ、美鈴――ミリィという存在さえ。
記憶喪失かとも思った。けれど、記憶喪失になるような事故や出来事に見舞われた様子もなかった。ただ単に、その記憶は彼女にとってそれほど大事なものではなく、時間と共に自然に忘れていった、という風で、そのことがまた、恵理依をひどく落ち込ませた。
まただ、と思う。こんなところに、あの頃の、二人だけの輝かしい時間の欠片がぽつんと転がっている。
自分は、これからもきっと、その欠片を一人寂しく拾いながら、それでも少しずつ忘れていくのだろう。そして、やがては今の美鈴のようになっていくのだろう。
茂みをかき分けて、落ち葉に埋もれているマンホールを探し当てる。そして、力一杯引っ張り、何とかずらした。ぽっかりと暗い穴が口を開ける。
あの頃は何とも思わずに二人で降りていったものだけれど、今こうして一人で穴を前にしてみると、ひどく不気味で不吉なもののように思えた。怖じ気づきそうになる心を叱咤してどうにか穴に飛び込み、少し降りたところで再び蓋を閉めた。ほぼ完全な闇が訪れた。
失敗したな、と内心焦った。
昔ならライトの一つはいつも持ち歩いていたものだけれど、さすがに最近ではそんなものは常備していない。かんかん、と梯子を下りながらも、いつ足が地面に当たるか、びくびくしていた。
やがて、靴が固い地面の感触を探り当てる。ぬるっとした、生臭くしめった空気が全身にまとわりついて気持ち悪い。本当に、昔はこんなところを平気で歩いていたのか、記憶に自信がなくなってくるほどに不快な場所だ。
それから、恵理依はわずかな記憶だけを頼りに下水道を歩き始めた。目が慣れてくると、どこからか差し込んでいるほんのわずかな光が朧気に空間を浮かび上がらせている様子がわかるようになってくる。とはいえ、周囲に何があるか、判別できるほどの明るさでもない。時々何かやわらかいものを踏んづけて足が滑りそうになったり、横をちょろちょろと流れる汚水に足を突っ込みそうになったりと、心許ないことこの上ない。
たしかこの辺に、と思いながら壁を探っていると、手が梯子を探り当てた。山の目の前にあるマンホールに繋がる梯子だ。ここではさすがに近すぎるので、さらに奥へ奥へと進んでいく。
それから、二十分ほどしたところで、恵理依は見つけた梯子を上り、そっと蓋を押し上げてみた。下手をすると車が真上を走っているので、慎重に静かな瞬間を狙う。
そこは、住宅地の真ん中だった。家の形や屋根の色、遠くに見えている鉄塔の様子などから、すぐに記憶がよみがえり、脳裏の地図に現在地が投影される。さらに二十分ほど歩けば、隣りの駅にたどり着く場所だ。
歩き出してから、念のため辺りを見回してみるが、付いてくる者はいないようだった。とはいえ、注意をするに越したことはない。恵理依は、古い記憶を総動員して、家と家の隙間を歩き、公園の裏から通りへと抜けて、思いつく限りの複雑な経路を歩いた。
駅へとたどり着いたのは、午前九時半だった。ぎりぎり間に合いそうだと見た恵理依は、駅前のデパートで次の衣装をそろえた。グレーの帽子、純白のブラウスにチェックのスカート、白い靴下に茶色のローファーという、普段ならまずしない格好を選んだ。意識したのは、普段の美鈴の格好だ。髪は軽く後ろでまとめるだけにとどめ、最後の決め手にサングラスをかける。
化粧室で鏡を覗き込んで仕上がりに満足し、さてと時計を見ると、ちょうど十時だった。
慌ててホームへと走りながら携帯電話で浩一に連絡すると、ちょうど家を出たばかりということだった。恵理依は、それならと来たばかりの電車に飛び乗って、自宅最寄りの駅で降りた。まずは、この駅に着くまでに刑事を排除しておくのがいいだろう。さらに、時刻表をにらみながらその先まで考えていく。
浩一に電話し、駅まで徒歩で走ってくるように要求する。その上で、恵理依はデパートの屋上から、何人が後を付けているかを確認した。その数はなんと六人にも及んでいた。二人ずつ組になって、三組だ。とりあえず、この三組に退場して頂くのがいいだろう。
紳士服売り場に行き、アロハシャツに白いズボン、野球帽という、普段の浩一がまず身につけない服装を選んで買っておき、男子トイレに忍び込んで、一番奥の個室にそれらの包みをそっと置いておく。
恵理依は、とある人物に電話した。
「あ、もしもし、昭島?」
「おう、咲州か。どうしたんだ、こんな時間に。授業中だぞ」
そういうお前はどうだとは聞かない。どうせ屋上に寝転がって本でも読んでいたのだろう。こいつは、頭はいいくせに、不良もかわいく見えるほどの不真面目な態度で知られる問題児である。恵理依にとっては、便利に使える男子生徒の一人であると同時に、大事な友人でもある。
「あのさ、頼みたいことがあるんだけど。すぐに西川駅のデパートに来てくんない?」
「いきなりだなぁ。まあ行くけどさ。報酬は?」
「今回はちょっとやばめだから、言い値呑むよ」
「……それはすごい重労働ってことか? 想像がつかないんだが」
「想像してくれなくてもいいから、とりあえず来てくれない? マジ急いでんの」
「はいはい」
昭島は面倒くさそうに言って、電話を切った。
他のひ弱な男子とは違って、頼めば何でもこなしてくれるところが、昭島のいいところである。もちろん、それ相応の報酬はいつも支払っている。それは、お金であることもあるし、物であることもあるし、あるいは試験勉強見てくれ、というものだったこともあった。彼には、この前のカエルの卵と合わせて、相当な借りができてしまっている。
十五分ほどで現れた昭島に、トイレの一番奥の個室に入って待っているように頼む。その間に、恵理依は大まかな事情を昭島に話した。浩一が美鈴の身代金を持っていくこと、そのために刑事の尾行をまきたいこと、昭島には身代わりになってもらうこと。
彼なら話しても問題ない、という安心感と、内心で燻る美鈴への心配が、恵理依をいつもよりおしゃべりにしていた。昭島は、ただうん、うん、と単調にうなずいているだけだったが、彼のそういう受け答えはいつものことなので、気にならない。
それから、十分ほどして現れた浩一に、同じトイレの隣りの個室に入って、隣りから服を受け取って着替え、着ていた服を昭島に渡すよう頼む。浩一はあからさまに動揺していたが、緊急事態なのでよろしく、といって押し切った。
同じ階のずっと離れた、小物売り場で時計を見繕うふりをしながら、恵理依はトイレから現れる人影を見守った。野球帽を目深にかぶり、辺りをきょろきょろと窺ってから、いきなり走り始める。恵理依に見えているだけでも、三人の人影がその遁走に反応した。さらに、別の二人がトイレへと駆けつけていく。まもなく、その二人はどこかに連絡しながら、互いに何かを言い合っているようだった。
アロハシャツに白ズボンという恥ずかしい格好をしてもらった昭島には、駅前のタクシーを捕まえて、別の路線の駅へと走り、さらに適当に遠くの駅へと向かうように頼んである。少なくともあの六人は釣れたものと見ていいだろう。
それから、十五分ほどして、学生服になった浩一がトイレから姿を現した。意外と様になっていて、ついぷっと吹き出してしまった。年齢の割に太ってはいないので、学生服を着ればどうにか高校生くらいに見えないこともない。
それから、浩一には複雑に路線を乗り継いで、目的地である黒崎駅へと向かってもらう。途中、恵理依は二両離れた車両から監視していたが、怪しげな動きをする者は見当たらなかった。全く、とそっとため息をつく。役に立たないどころか邪魔をするばかりとは、警察とは本当に困った連中だ。
午前十一時。浩一が黒崎駅の改札を出た。先に改札を出て、近くの喫茶店で窓際のカウンター席についた恵理依は、そこから浩一の動きを見守った。コインロッカーは改札を出てすぐのところにあり、どこが空いていてどこが使用中かも、恵理依の席からはっきり見える。
浩一がコインロッカーに近づき、しばらく視線を彷徨わせてから、ちょうど真ん中にある一つを見定め、鍵を差し込んで開いた。
中がどうなっているか、見えそうで見えず、少し身を乗り出そうとしたときに、恵理依のアイスコーヒーがすぐ隣りにあったコップへと当たり、がちゃんと音を立てた。
まずい、とひやりとする。あまりあからさまに変な動きをすれば、どこかから見ている犯人に何か感づかれるかもしれない。そっと店内を見回すが、少なくとも刑事の類はいないようだが、一方いかにも犯罪者という風体の人間もいない。
と、隣りの席でノートを広げていた、受験生のような少年が、ちっと舌打ちをして席を立った。どうやら、お隣りには迷惑をかけたらしいが、今はそんなことを気にしている場合ではない。恵理依は、できるだけ不自然にならない範囲で、あらぬ方向を見るふりをしながら、ひたすらロッカーを凝視した。
浩一が懐から白い封筒を出し、するりとロッカーの中に忍び込ませた。中の箱に入れて、と美鈴からの手紙に書かれていたが、ここからでは箱が入っているのかどうかわからない。浩一はきちんと言われた通りにしているのだろうか、と不安になる。
浩一が、再びロッカーを閉め、鍵をかけた。辺りを不安げに一度だけ見回してから、浩一が再び駅の改札へと入っていく。時間にしてほんの五分余りだった。果たして本当に犯人はこの一連の行動をどこかから見守っていたのか。浩一が身代金を持参したことが、犯人に伝わっているのか。恵理依の不安はきりがなくいろいろな形をとる。
それから、三十分ほども恵理依はその場に粘って、コインロッカーを見張っていたが、誰かがそのロッカーの前に立つことさえなかった。もしかして犯人は見ていなかったのではないか、実はもう美鈴がいらなくなったのではないか、とさらに不安がふくれあがる。
犯人が美鈴を必要としなくなったらどうしよう。
それは、あの映像の中に美鈴を見つけてからずっと、恵理依の中の最大の不安だった。もし、犯人が、誘拐してきたのは本当の美鈴ではなく、身代わりに用意された赤の他人だと知ったら、どう思うだろう。
言うまでもない。怒るに決まっている。そして、その怒りがどこに向けられるかと言えば、当然誘拐してきた、偽の美鈴に決まっている。
美鈴は馬鹿ではない。自分は偽物だなどと自分から漏らすことはないだろう。だが、あれだけの暴力を加えるような、非道な連中だ。拷問紛いのことをして、美鈴から無理にでも何かを聞き出そうとすることはいかにもありそうだし、その際に美鈴がうっかりしゃべってしまうこともあり得そうな気がした。
いけない、と頭を振る。考えても仕方ない。とにかく、今は犯人の要求してきた通りに行動するしかない。
再びコインロッカーを監視しようと目を上げた瞬間、携帯電話がポケットの中で震えた。
メールだ、昭島辺りだろうか、と思いながら開く。
『今日夕方までに、現金一億円をアタッシュケースに入れて橋口駅北口のコインロッカー五十番の中に入れて鍵をかけておけ。警察には知らせるな』
愕然とした。慌てて差出人を確かめるが、もちろん知り合いのものではなく、大手検索サイトに付属するメーラーからのものだということしかわからない。
液晶画面に表示される無機質な文字をじっと見つめる。そこから、何か読み取れるのではないかと何度も読み返した。けれど、美鈴直筆の手紙とは違って、そこには美鈴に関する何かを読み取ることはできなかった。現金を奪い取ろうとする、冷徹な意志が感じられるばかりだ。
犯人が美鈴からアドレスを聞き出して送ってきたのだろう。そこまではいい。だが、なぜこのタイミングに? なぜ浩一ではなく恵理依に送ってきた? もしかして、恵理依がコインロッカーを見張っていることを悟られた? それとも、浩一に持ってこさせたのは警察の目を欺くための囮で、こちらが本当の身代金になるのか?
そもそも、最初からおかしいような気がしていた。小切手一億円を持ってこいというのは、身代金の要求にしては奇妙だ。使おうとした瞬間に捕まってしまうだろう。
もしそれが、ただの囮であって、こちらが本命であるとすれば、全てがすんなりと納得できる。それでも納得できないことがあるとすれば、浩一ではなく、こっそりと恵理依にメールを送ってきたところだろう。
もしかして、犯人はすでに知っているのだろうか。恵理依こそが本当の美鈴であるということを。そして、現金を持って現れた恵理依を攫う? だがそれもおかしい。もし知っていれば、そもそも身代金を取れるとは考えないはずで、逆に言えば、犯人が身代金を要求してくる間は、犯人は何も知らない、と考えていいはずだ。
それに、と思う。
別に知られていても何でも構わない。あの子が――美鈴が自分の代わりに酷い目に遭うことなど、決して許容できない。恵理依が代わりに誘拐されて、美鈴が解放されるというなら、それでもいいとさえ思う。とても怖いけれど、それでもいいと思う。
とにかく、今は指示通りに動かなければならない。喫茶店を出て駅へ向かいながら、恵理依は携帯電話を浩一へと繋いだ。今頃はすでに家に戻っているはずだ。
「父さん、すぐに一億円を現金で用意して。アタッシュケースよ」
「何を言ってるんだ、みす――恵理依」
「身代金よ。わからない?」
「それなら、たった今、俺が持って行っただろう」
「あれはたぶん囮よ。今さっき、私の携帯にメールがきた。私が持って行く」
「何を言ってるんだ。だめに決まってるだろう」
浩一は頭ごなしに言う。これはだめだ、と恵理依はため息をついた。
「家に戻るから、ゆっくり話しましょう」
浩一の返事を待たずに、携帯電話を切った。これだから頭の堅い人間は、とうんざりしつつ、次はどうやって警察をまけばいいかを考え始めた。さすがに、今回は難しいかもしれない。
浩一の書斎をノックする。厚い扉の向こうから、どうぞ、と小さく声が聞こえてくる。
ちら、と階段の方を見ると、刑事の一人がこちらを見上げる視線にぶつかった。ここで盗み聞きしようとしている、と疑いたくなるような胡乱な視線だ。おそらく、こちらの会話に興味があるのだろう。
恵理依は扉を開けて中に入ってから、厳重に施錠した。
浩一は、机に両肘をのせ、組んだ手に頭をのせるようにしていた。そうしていると、まるで敬虔な信者が神に祈っているようにさえ見える。だが、神など毛頭信じていないこの男のこと、たまたまそうしていただけだろう。
「神様にでも祈ってるの? どこかの宗教画みたいよ」
「……そう馬鹿にするなよ。お前のときだって、実は神とやらに祈ってみたこともあるんだ」
机に背中から飛び乗って腰掛ける。
「へぇ、じゃ、本当にいるのかもね。で、今回も願いを聞き入れてくれる、と」
「正直なところ、全然そんな気がしないよ、今回は。あれは――あの映像は、ひどすぎるだろう」
「……そうね」
浩一は本当に弱り切っているようだった。いつも自信満々なだけに、殊更弱く、頼りなく見える。
もうわかっていたことだけれど、恵理依はその哀れなほどに憔悴した姿を見て確信した。押せば必ず通る。
「お金、用意してくれるでしょう? まさかあと一億も用意できないなんて言わないよね?」
「金ならいくらでも用意するさ。十億でも百億でもね」
「そんなに持って行けないって。一億でも相当かさばるし」
「だが、なんでお前が行く必要がある?」
浩一が、そのとき初めて顔を上げた。暗く光る目が、恵理依をじっと見つめた。
「私の携帯に来たんだもの。私が行くわよ。私が行くべきでしょう」
「本当にそうなのか? 犯人は、知ってるんじゃないのか。本当のことを。それで、今度はお前を誘拐するつもりなんじゃないのか」
「本当のこと、ねぇ。……私、本当の本当のこと、もう気付いてるんだけど」
「……何が言いたい?」
じっと見つめ合った。いや、睨み合ったという方が的確かもしれない。
どれくらいそうしていたか。
この一言で、全て伝わるだろう、と恵理依は確信していた。
「DNA鑑定、してもいいのよ?」
浩一はぴくりとも表情を変えなかった。だが、しばらくして、視線を落とし、囁くように言った。
「あれは、本人から直接サンプルを採らないと、うまくいかないそうだよ。……今の場合、難しいだろうな」
「……詳しいのね」
「ああ。俺も同じことを考えたからな」
浩一のその言葉は、恵理依に一つの質問を投げかけさせた。それは、その可能性に思い至ってから、幾度となく浩一に尋ねようとした、根源的な疑問だ。
「何であの子の母親が亡くなったとき、すぐに引き取ってあげなかったの?」
あのとき、引き取ってさえいれば、恵理依はエリィのまま、美鈴はミリィのままで、そして、エリィはミリィの妹になっていたはずなのに。全てがうまくおさまったはずなのに。
「引き取ろうとしたさ。だけど、あの子がいやだと言ったんだ。どこの誰とも分からない人の子供になんてならないって」
「何で言わなかったの? 自分が本当の父親だって」
「信じられると思うか? 法律上、俺は全く関係ないんだ。余計怪しいだろう……」
「じゃあそもそも、何で最初に認知してあげなかったの?」
「あの子の母親が、やめてほしいと言ったんだ。俺はもう、玲子と結婚していたし、お前は生まれたばかりし、それを壊すことはしたくない、と」
「へたれ! そのつまんない意地のせいであの子がどれだけ苦労したかわかってんの!」
思わず詰め寄って怒鳴っていた。だが、浩一はそんな恵理依に、一見柔和そうな、けれども咎めるような視線を向ける。
「そういうけど、お前だってあの子に随分きつく当たっていたみたいじゃないか」
「それは……そう、かもしれないけど……」
全く浩一の言う通りだった。恵理依は、二年もの間、彼女に素直に接することができなかった。自分から、実は自分はミリィなのだと告白する勇気がなかった。また一緒に遊ぼうと誘う勇気がなかった。もし全然覚えていなかったら? 覚えていても、もうどうでもいいと言われたら? そのときこそ、自分はどうしようもなく傷つき、きっと彼女を嫌いになったに違いない。
ねぇ、あなた、ミリィでしょう。
そんな、美鈴の言葉を夢想して、思いつく限りのいたずらをして見せて、けれど彼女は何の反応も見せないまま、いたずらに二年が過ぎた。過ぎてみれば、ただ空しいだけの時間だった。たぶん、自分は愚かだったのだ。DNA鑑定でも何でもして、早く妹であると認めさせて、強引にでも仲良くするべきだった。今度は友達としてではなく、姉妹として。
たしかに、恵理依の美鈴への接し方は適切ではなかった。けれども、それを言うなら――
「少なくとも、私は父さんほど嫌われてない。あの子が父さんをどれだけ忌み嫌ってるか、理解してる?」
にらみ返すと、浩一はあっさり視線を逸らした。そのまるで逃げるような目の逸らし方に、恵理依はぴんとくるものがあった。
「何かしたの? 嫌われるようなこと。心当たり、あるのね?」
「ないこともない」
「なに? なにしたの?」
「わかるだろう、お前とあの子を入れ替えたこと、だよ。あれが気に入らなかったんだろう。それより、身代金だな。今用意させるから待っててくれ」
浩一は何気ない風でパソコンの画面に向かい、マウスで何かの操作をし始める。
恵理依は、手を伸ばしてモニタの画面を切った。
「言いなさい。本当のことを。ただ名前入れ替えただけで、あんなに嫌うわけないでしょう」
それでも、浩一は真っ黒になったモニタを見ていた。そして、そのままモニタに話し掛けるように言う。
「いや、別にそんなに大したことはしてない。むしろ、総合的に見ればいいことをしたといってもいい。それは保証する」
「今は総合的な話が聞きたいわけじゃないの。つまんないこと保証しなくていいから」
「ああ。つまりだな、」
浩一はぼそぼそとモニタの中の誰かに電話でもするように話した。
養子としてうちに来る気はないか、という話は、あの子の母親が亡くなってから、何度もしていたんだが、あの子は何があっても絶対嫌だと断ってきた。頭のいい子だからな、そんなうまい話があるわけがないと思って、警戒してたんだろう。
お前の誘拐事件が収束した後、野伊木美鈴としてうちに来る気はないか、という話をしても、やっぱり断ってきた。はっきりした、わかりやすい理由があれば納得してくれるのかと思っていたんだが、甘かった。何か裏があると感づいていたようだった。だが、俺も本気だった。
施設で、あの子が仲良くしていた子が三人かいたんだ。で、俺はその子たちに、里親を見つけてあげたんだよ。もちろん、その子たちが大人になるまでの金銭的な援助も併せて、だ。その上で、改めて話を持って行った。あの子は、それで諦めて、うちに来ることにした、というわけだ。総合的に見ればいい話だろう。何しろ、あの施設にいた子供の四人が里親に引き取られたわけだからな。
恵理依は呆気にとられた。
「何それ? 脅迫したってこと? うちに来ないなら友達取り上げてやるって?」
「……そういう言い方をされると、ものすごく悪いことに聞こえるな」
「ものすごく悪いことをしたのよ! 信じらんない、何それ、非常識にもほどがあるわ。中学生にもならない子供に向かってなんて大人げないことしてんの!」
怒鳴りつけながら、なるほど、そこまでされれば嫌いにもなるな、と恵理依は心の片隅で考えていた。
どんな気持ちでこの二年間を過ごしてきたのだろう。半ば脅迫されて、何の関係もない金持ちに「誘拐されてもいい身代わり」として引き取られて、本物を守るためだけに「野伊木の娘」を演じさせられて。何事にも揺らがない、泰然とした振る舞いの奥で、彼女は本当は怯えていたのだろうか。それとも、あの悠々とした態度は、単に全てを諦めて投げ出していることの、裏返しに過ぎなかったのだろうか。
そして、実際に誘拐され、ひどい目に遭っている今、彼女は少しでも希望を持っているのだろうか。それとも、身代わりなど助けてくれるわけがないと、絶望しているのだろうか。
ふと気づくと、頬を熱い滴が流れ落ちていた。
「ひどい。ひどすぎるじゃない。あの子は本当のことは何も知らずに、脅されて身代わりになって、実際に誘拐されて、あんなにひどいことをされて……」
浩一は何も言わずに、ただぎゅっと両拳を強く握りしめた。
それからどれくらいしただろう、静かにしゃくり上げている恵理依に、すっと浩一がハンカチを差し出した。恵理依は素直にそれを受け取って、涙をぬぐい去った。
浩一が、モニタの電源を入れながら、振り返って恵理依の目を見つめた。
「何より、今は身代金だ。本当にお前のところにメールが来たのか? 見せてくれないか」
まだ鼻がぐずぐずしている恵理依は、それでも頑とした意志を込めて首を振った。
「だめ。場所は教えない。それにもうメールは削除済みだしね」
「さすがに抜け目ないな。だがなんでお前なんだ? 常識的に考えれば俺宛か、あるいは家族宛だろう。そこが理解できないし、どうにも胡散臭いんだが」
「まさか本当の犯人じゃない無関係の人間が送ってきたって言いたいの?」
いいながらも、もしかして、と恵理依は疑い始めていた。美鈴が誘拐されたことは、もはや秘密でも何でもなく、誰でもが知っていることだ。恵理依の携帯のアドレスを知ってさえいれば、つまりは恵理依の知り合いでさえあれば、原理的には誰でも適当なアカウントから脅迫するメールを送ることが可能だ。
最初の手紙は、美鈴の筆跡という動かしようのない証拠を含んでいた。だが、今回のメールには、少なくとも直接、誘拐犯であることを示す証拠はどこにもない。最初の浩一への手紙とタイミングとしては合っているようにも思える、という程度に過ぎない。
「……それはあまり考えてなかったな。いや、俺が言いたいのは、わざわざお前のメールだけに、ある意味こっそり送って、犯人に何の得があるのかってことなんだが」
「それはたぶんね」
恵理依は、漠然と頭の中で形を成していた考えを説明した。
小切手は身代金の形態としてはおかしいこと。犯人は警察を恐れていること。浩一宛の手紙を出す一方、恵理依だけにメールを送れば、手紙が目くらましになり得ること。つまり、今回の現金一億円こそ本当の犯人の目的である可能性が高いこと。
浩一は腕を組んで、机の上の一点を睨むようにしていた。やがて、なるほどな、とうなずく。
「たしかに筋が通っているように聞こえるな」
「そりゃ通ってるわよ。私が考えたんだから」
「どうでもいいがお前、もう少しまじめにやったらどうなんだ」
「はい? 何のこと?」
「学校の勉強――いや、テストだよ。思いきり手を抜いてるだろう」
どきっとした。それは確かに全く浩一の言う通りだったので、恵理依は曖昧に視線を逸らせるのが手一杯だった。
「……怒る?」
「いや別に怒りはしないし、何となく理由も想像つくからいいんだが。実際のところ、どうなんだ? 本気でやったら美鈴より上なのか?」
「……仮定の話は無意味よ。私は常に平均点をキープする、平凡な使用人なの」
万一美鈴よりいい成績をとってしまえば、彼女の機嫌を損ねるかもしれない、という配慮が、どんなテストでも恵理依の手を途中で止めていた。全部わかるのになぁといつも思いながらも、悪い点を付けられて、低い順位に名を連ねることよりも、恵理依にとっては美鈴の機嫌を損ねる方がよほど耐えがたいのだった。
「まあいいけど、勉強だけはきちんとしとけよ。定期テストなんてどうでもいいが、馬鹿な人間にはなるな」
「はいはい、仰せのままに。それより身代金よ。私が持って行く。用意してくれる?」
「ああ、いいだろう。ただし、危ないと思ったらすぐに逃げるんだぞ」
「わかってるって。そもそもそんな危ない場所じゃないしね。お金は林崎に家まで持ってこさせて。できるだけ早く、できれば一時間以内に」
恵理依はぽんと机を飛び降りた。
絶対に助けるよ美鈴、と心の中で呼びかけた。
扉に向かって歩きながら、恵理依は警察について思いを巡らした。今回はアタッシュケースを持っての移動になる。さすがに途中で変装しようが何しようが、完全に撒くのは難しいだろう。それなら、端から気にせずに、迅速に行動することを考えるべきだ。尾行してくるなら、させておけばいい。こちらから知らせずにいて、警察がこそこそと勝手に嗅ぎ回るのなど知ったことではない。
振り向いて、浩一に告げておく。
「今回は警察には好きにさせておくから。その代わり、情報こっちに流してくれる?」
「情報っていってもなぁ。訊いても教えてくれるかどうか……」
あぁそういえば浩一には言っていなかった、と恵理依は足を止めて、浩一の前に戻り、そっと耳打ちした。
応接室に盗聴器しかけてあるから。
目を白黒させる浩一の姿にあはは、と声を上げて笑いながら、恵理依はポケットの中のレシーバーを浩一の目の前に置いた。
午後三時。恵理依はずっしりと重いアタッシュケースを携えて、橋口駅の改札を出た場所に立っていた。耳元のインカムからは、十分に一度ほどの頻度で、最新の警察情報が浩一を通じて入ってくる。
野伊木家の執事である林崎が銀行からお金を持ち帰る間に、恵理依は盗聴を通じて警察の動きを探っていた。驚いたことに、彼らは最初の身代金受け渡しの場所が黒崎駅であることを突き止めており、ロッカーの大まかな番号まで把握しているようだった。刑事たちの会話から推測すると、浩一が電車で移動するに違いないと踏み、百人以上を投入して各駅に数人の警官を待たせるというばかばかしい人海戦術で、一度は完全に見失った浩一の姿を再発見したらしかった。
いまだに犯人の情報を一切つかめていないくせに、こういうときだけ無駄に能力を発揮する連中である。だが、同時に恵理依にとっては新鮮な感覚でもあった。こんな頭の悪いやり方でも、とにかく結果を出してしまうことがあり得るのだ。少なくとも、警察がこういうやり方をとるということは今後の参考になるに違いない。ちなみに、現在のところ、美鈴を尾行しているのは四人、各駅に二人ずつ待機しており、最初のコインロッカー付近にも四人が張り込んでいるとのことだ。
ぐるりと辺りを見渡すと、コインロッカーはすぐに見つかった。アタッシュケースじゃなくてスーツケースなら楽だったのにな、と思いながら、恵理依はゆっくりコインロッカーへと近づいた。さりげなく周囲を見回しても、美鈴を注視しているであろう犯人はおろか、尾行してきているはずの刑事の姿さえ見つけられず、のどかな昼下がりの人混みが広がっているばかりである。これなら、ここで誘拐されることはまずないな、と恵理依は内心ほっとしていた。
ロッカーの前で一つ一つ番号を確認していき、指示された五十番を見つけた。それは、スーツケースも入るような、大型のロッカーだった。アタッシュケースをどうにか縦にして押し込み、コインを入れて鍵を抜く。簡単な作業だった。
これで本当に美鈴が戻ってくるのか。本当にこんな単純な作業で全てが終わるというのか。
どうにも釈然としないものを感じながら、再び駅の改札を抜け、家へと戻る電車をホームで待っているときだった。突然インカムから浩一の声が飛び出してきて、思わず耳元を押さえていた。
「聞いてるかみす――恵理依。あっちの、最初のコインロッカーで何か動きがあったらしいぞ。どうもはっきりしないが――あ、いや、どうも男が一人、ロッカーを開けたらしい」
そんなばかな。あちらは囮でこちらが本命ではなかったのか。
愕然とする恵理依の耳に、浩一が実況中継のように、黒崎駅での状況を伝えていく。
「男がロッカーから封筒を出した。服の中に隠して――そのまま逃げていくようだ」
鼓動が高鳴っていく。それがもし犯人であるのなら、そのまま尾行していけば、という恵理依の考えを読んだかのように、浩一の声が続けていく。
「刑事が六人、尾行についた。男は辺りを気にしているらしい――男が券売機で切符を買った。改札を抜けた。ホームで電車を待っている――行き先の方向にある全駅に刑事を待機させ始めた」
まるで全力疾走した後のように、心臓がどくどくとうるさいほどに脈を打っている。
どうなるのか、このまま犯人が美鈴を監禁している場所まで戻ってくれれば、警察が場所を突き止めてくれれば、美鈴は助かる。このタイミングなら美鈴は無事に違いないと信じたい。
お願い、と祈るような気持ちで、恵理依は胸の前で両手を組んで心臓を押さえた。目の前に電車が滑り込んでくるが、今はそんなことより事件の行方が気になる。
浩一の声がさらに、淡々と状況の変化を告げていく。
「男は、名美川駅で降りた。電車で尾行していた刑事と、駅で待機していた刑事が、合計八人で尾行中」
「男は駅を降りて歩いて行く。バスに乗った。三人が同時に乗り、残りは次の同じ行き先のバスに乗った」
「男はバスの最後部の席に座っている。窓の外を眺めている。おかしな様子は見られない」
「男がバスを降りた。刑事は一人だけ同じバス停で降り、残りは次のバス停で降りる。次のバスで来る三人は、あと十分ほどで到着する予定」
「男は住宅地に入った。ゆっくり歩いており、周囲を気にしている様子はない」
「男がアパートの敷地に入った。そのまま階段を上がっていく。二階だ。二階の一番端の部屋へと歩いて行く。鍵を取り出してドアを開けた」
いよいよか、と思うと、恵理依は緊張のあまり立っていられなくなって、しゃがみ込みそうになり、慌てて近くの待合室へと駆け込んで席に座り込んだ。耳元のインカムに全身の神経を集中させる。
「追跡していた八人の刑事が男のアパートに到着した。窓側に四人、扉の前に四人」
「捜査本部が中に入るよう指示を出した。刑事がチャイムを鳴らしている」
「男は反応しない。居留守のつもりか」
早く早く、と恵理依は祈るように警察の突入を願った。犯人が尾行されていたことに気づけば、美鈴にどんな危害を加えるかわからない。そこまでたどり着いたなら、扉を壊してでも早く美鈴を助けて。
「男がドアホンに出た――いや、男が窓から飛び出してきた。窓側で待機していた刑事が取り押さえた。男は暴れているが凶器は所持していない。完全に拘束した」
「刑事が窓から男の家に侵入した」
美鈴、美鈴、美鈴。心の中で叫ぶ。無事でいて。
「いない――そんな。家には誰もいない。誰かがいた形跡もない。一人暮らしのようだ。散らかってはいるが、犯罪の形跡は一切ない」
そんな、と恵理依は今度こそ全身から脱力して、だらりと背もたれに身体を預けた。
なぜ。どうして。美鈴は別の場所に監禁されているということだろうか。
しばらく、インカムからは何の音も聞こえてこなかった。恵理依は何も考えることができずに、ぼんやりと待合室のガラス窓の向こうに広がる、鮮やかな青空を眺めていた。
やがて、インカムが浩一の声を伝えた。
「その場で尋問した結果、男は事件には関係ない様子。男は白い封筒を所持していたが、中に入っていたのは、現金十万円だった」
頭の中が混乱していく。どういうこと? 何がどうなってる?
「男はパチンコ屋で、このロッカーの中にある箱の下に現金十万円を入れておいてあるので好きに使ってほしい、というメッセージと鍵の入った封筒を見つけた。そのメッセージ通りにロッカーへと行き、実際に現金を発見したため、それを持って自宅まで持って帰ってきた――ということらしい」
そんな、と恵理依は混乱する頭を必死に働かせた。浩一は確かに封筒に小切手を入れて持って行った。それは、恵理依も確認した。小切手には、たしかに一億円と書かれており、浩一のサインも入っていた。浩一はあのロッカーに小切手一億円の入った封筒を置いたのだ。恵理依も見ていたのだから、絶対に間違いはない。
だが、そこで、ふと今し方浩一の告げた言葉が耳によみがえり、疑問が湧く。
浩一は、こう言わなかったか。男は、このロッカーの、箱の下に、現金十万円を入れておいてあるので云々、と。だが、手紙に指示されていたのは、箱の中、ではなかったか。
はっとなった。
ぱっと飛び上がるようにして席を立ち、待合室を出て、ホームに滑り込んできた電車に乗った。黒崎駅は、ここ橋口駅から電車で二十分ほどのところにある。電車で行くのが一番速い。
まさかまさかまさか。
恵理依の中で、嫌な予感が頭をもたげていた。自分たちは、誘拐犯にいいように踊らされていたのではないか。
黒崎駅で降り、飛ぶようにして階段を駆け上がり、改札機を壊す勢いで通り抜け、コインロッカーの前へと走り込んだ。肩で息をしながら、おそるおそる三十二番のロッカーへと近づく。
すでに開かれた後なのだから当然だが、鍵は戻っていた。
まさかまさかまさか。
違いますように、と思いながら、恵理依はぱっとロッカーを開いた。
そこには、何もなかった。
今朝方、そこには箱があった。浩一はそこに、身代金である一億円の小切手を入れた白い封筒を入れた。そこまでは間違いない。
そして、警察はつい今し方まで、このロッカーを見張っていた。誰も、何も取り出していないのは間違いない――あの男が現れるまでは。
男は、封筒を箱の下から取り出した。だが、それは浩一が入れたものではない。最初から入っていたのだ。現金十万円と共に。
そして、警察はその男が身代金を受け取りに来た誘拐犯に違いないと信じ込み、見張っていた人間全てを、その男の追跡に回した。その結果、恵理依が訪れるまでの一時間ほどの間、ここは誰にも見張られていなかった。
そして、犯人はその間に、悠々と箱を取り出して、そのまま持ち去ったのだろう。
まるで映画かドラマでも見ているかのような、鮮やかな手口だった。厳重に警戒していた警察と、それなりに頭を働かせているつもりだった恵理依の双方をあざ笑うようにして、犯人はあっさりと何の手がかりも残すことなく、小切手一億円を盗んで見せた。
そう、それは盗んで見せた、という他ないやり口だった。
脅迫動画の広め方や脅迫状の見せ方から、犯人が恐ろしく狡賢いことはわかっていたはずだった。だが、身代金の受け渡しなど、単にロッカーに入れておき、後から取りに来るくらいしかやりようがないと高をくくっていた。よもや何の証拠も手がかりも残さずに、ただ身代金だけを奪っていくような手に出てくるとは思いも寄らなかった。
悔しさが全身を包み込む。そして、同時に大きな疑問が浮かぶ。
すでに身代金は要求通りに犯人の手に渡ったはずだ。美鈴はこれからすぐにでも解放されるのか。それとも、すでにどこかで解放されたのか。
沈黙したままのインカムをもどかしく思い、恵理依は直接浩一へと電話をかけた。
「父さん? その後、どうなってるの? 美鈴は?」
「……いや、何も進展はない。例の男は本当に何も知らないらしい。パチンコ屋で見つけた、という文章入りの手紙も実際に確認された。いったい何が何だか――」
いまだに何も気づいていないらしい浩一に、恵理依は目の前の状況と、そこから推測される事の顛末を淡々と話した。気をつけていないと、苛々のあまり大声で怒鳴ってしまいそうだった。
聞き終えた浩一が絶句する。恵理依は、繰り返し尋ねた。
「美鈴は? もう身代金は渡したんだから、解放されるはずでしょう。警察は何してるの?」
「ああ、警察も混乱しているようだが、お前からの話、伝えておいた方がいいな」
「だから美鈴はどうしたのって訊いてるの! 何で何もないわけ?」
ついに怒鳴り散らしていた。横を歩いていたサラリーマンが、びくっと飛び上がり、恵理依を大きく避けていった。
「まあ落ち着きなさい。仮に解放されても、そんな瞬間的には見つからないだろう。とにかく、一度家に帰ってきなさい」
浩一の言う通りだった。今は待つしかない。
恵理依は暗く沈んだ気分を抱えて、家路についた。
その日、恵理依はずっと自室にこもって応接室の様子を窺っていた。美鈴が見つかった、という知らせが入る瞬間を今か今かと待ち構えていた。だが、耳に入ってくるのはどうでもいい話ばかりだった。
男に現金をコインロッカーから取り出すよう促す手紙はパソコンで作成されたものだった。指紋を含めて犯人の特定に繋がりそうなものは一切見つからなかった。男の供述に基づき、パチンコ店で封筒の置かれていた場所を捜索したものの何も見つからなかった。監視カメラの映像には、その付近に座った男がのべ十人以上写っていたが、封筒そのものは死角になっており、誰が置いたかを特定することはできなかった。
一方、黒崎駅近辺の監視カメラのチェックも行われたが、浩一の説明に該当するような箱を持った人物は映っていなかった。コインロッカーを直接映しているカメラはなく、警察は、犯人はコインロッカーから箱を取り出してすぐに鞄か何かにしまい込んだのだろうと結論した。
橋口駅におけるコインロッカーの監視は引き続き行われていたが、誰かが近づこうとsる形跡はこれまでのところなかった。
要するに、何もわからないまま、ただ小切手一億円だけが消えたのだった。
そして、結局美鈴に関しては何の知らせもないまま深夜になり、刑事たちは帰って行った。
何かが間違っていたのか。
何かがおかしいような気がする。
時間が経てば経つほど不安が膨れあがっていき、恵理依は一睡もできずに翌朝を迎えた。