四 前夜、アジトにて
はっと目覚めたとき、時刻はすでに昼頃だった。
身体の何カ所かに鈍く走る痛みを堪えながら起き上がる。まず最初に思ったのは、お腹が減ったということであり、次に感じたのは、汗臭い、ということだった。よくよく考えてみれば、昨夜は何も食べていないし、お風呂など二日ほど入っていない。もうほとんど女捨ててるな、とやけっぱちに思う。
食べるもの食べるものと辺りを見回すが、部屋には誰もおらず、食べ物も見当たらない。次に、お風呂お風呂、と考えてみるが、こんなさび付いた工場にそんな洒落たものがあるわけもない。最悪の生活環境だった。
部屋を出て、一階にある洗面所に行き、美鈴は絶句した。鏡に映る自分は、もはやこの世のものとは思えない恐ろしい様態だった。昨夜のメイクはすでにメイクとしての役割を果たしておらず、顔も腕も足も、ただ赤や茶、紫の汚れがめちゃくちゃに塗りたくられているようにしか見えない。髪はぼさぼさにほつれており、制服もメイクやら埃やらでぎとぎとに汚れている。呆然と鏡の前で立ち尽くしていると、ぐるぅ、ぎゅるる、とお腹が鳴った。
はぁぁ、と深いため息がでた。いくらもうお嬢様に戻る気がないとはいえ、なんというか、女として――というより、人間として終わっている。
と、いきなり洗面所の扉が開いた。鏡の中で、扉から顔を出した本田と目が合った。一瞬後、本田はひぃぃぃと悲鳴を上げて逃げ去っていった。ばたばたと階段を駆け上がっていく足音を聞きながら、美鈴は固く決意した。何はともあれ、普通の女の子として恥ずかしくないように生活しよう、と。
ある程度汚れを落としてから銭湯に行き、帰りにディスカウントストアでカジュアルな服装を、コンビニでカップラーメンや弁当、お菓子を買い込む。どちらの店でも店員がどこか怪訝そうな顔をしていたが、気にせずに大量の袋を提げて工場に戻った。
三人はどうしたのだろうか、と工場の中を歩いていると、一階にある事務室のような場所から笑い混じりの、和気藹々とした話し声が聞こえてきた。
顔を出してみると、三人は何かの雑誌を一緒に覗き込んでいるようだった。隙間にちらりと見えたのは、女性の写真のようだった。なるほど、と美鈴は納得した。話には聞いていたけれど、男とはこういう生き物なのか。
見なかったことにして立ち去ろうとしたが、きびすを返したところで、西島の声が追いかけてきた。
「あ、美鈴ちゃん、もう大丈夫なの?」
仕方なく、美鈴は再び部屋へ顔を出した。
「私はもう大丈夫だけど、そういうの、私の前で開くのやめてもらえる?」
顎でしゃくってみせると、神崎がはっと気付いたように雑誌を隠した。
「違う違うこれはそんな変なのじゃなくて」
「おい神崎、それじゃ逆に怪しいっての」
本田が慌てたように雑誌をかすめ取って開いて見せた。う、と顔を逸らす美鈴に、本田は焦ったように言葉を並べ立てる。
「本当に違うんです、これは車の雑誌で、そんな変なのじゃなくて、ほら見て、車しか写ってない……」
目の端で見てみれば、なるほど車は確かに写っているが、本田の言葉は嘘だった。横に際どい服を着た女が立っている。
「私の目には、車だけの写真には見えないけど」
「え、いや、あれ? おっかしいなぁ、でもとにかく、車を愛でる人のための雑誌だから、ほら、」
「わかったわかった、もういいから。別に何読んでても見ててもいいけど、私の目に触れないようにしてね?」
「いやだから違いますって」
「わかった? わからないなら警察に通報するよ?」
「……はい、わかりました」
本田がしょげた様子で俯く。その横で神崎がおかしそうににやにやしていた。どうやら神崎は人ごとだと思っているようだった。一応釘を刺しておく。
「神崎さんも。次に私が不愉快に思うものがあったら、香奈さんに言いつけるからね?」
「え? え? うそ……」
まさか何で知ってるの、という顔で慌てる神崎の姿に満足した美鈴は、二階の自室へと戻った。
買ってきた食べ物の一部を、今日はこれだけ、と決めて机の上に乗せてから、残りを部屋の隅にひっそりと置かれている冷蔵庫の中へ放り込む。そうして、美鈴は遅い昼食をとりながら、パソコンでネット上を見て回った。
すでに脅迫映像は出回っていた。見て回った限りでは、最初に投稿されたのは、昨夜の午後零時頃だった。それから数時間おきに違う場所で投稿されている。ハンドルネームはそれぞれ違っているが、同じ人間が複数回投稿したのか、あるいは全て異なる人間なのかは判断がつかない。
これは大変、ぜひとも世間に広めなくては、と思って慌てて投稿するどこかの誰かの様子を思い描いて笑みがこぼれた。騙されているとも知らずに。彼らはきっと考えないのだろう。実はこの映像が、身代金を要求するための映像であり、無造作な投稿が誘拐犯を手助けする、ということなど。これだから善意というやつは大嫌いだけれど、同時にこの場合はたまらなく可笑しい。
一部の人間はおそらく興味本位で投稿している。二、三の投稿の、投稿者によるコメントは、美鈴がディスクに添付したものとは異なっていて、『衝撃! 少女が暴行されている生映像!』などとただ煽るだけの内容だった。こんな衝撃的な映像をせっかく入手したのだから、見せびらかさないわけにはいくまい、といったところか。結局のところ、彼らにとってはこんな映像でさえ完全に人ごとなのだろう。
とはいえ、どちらにしろ、美鈴にとってはただ都合がいいだけ。広まれば広まるほど、美鈴たちの勝利は確実となる。そして、投稿者の数が増えれば増えるほど、警察の捜査の対象は膨れあがり、時間稼ぎへと貢献してくれる。愚かで醜い人間たちなど、ただ利用してやればいい。
投稿につけられたコメントを見て回ったが、今のところ最後の二フレームに気付いた人はいないようだった。そろそろ気付いて欲しいなぁとは思うが、自分から投稿することなどはできない。ただ待てばいい。絶対に気付く人が現れる。世の中には暇な人がいっぱいいるものだ。
その日の夜遅くになって、最後の二フレームを指摘する最初の投稿がされた。それから一時間もしないうちに、騒ぎは一気に広まっていった。理由は明白だ。野伊木グループ会長野伊木浩一、と実在の人間を相手として名指しにしているからだろう。
どうやら野伊木浩一の娘が誘拐されており、酷い目に遭っているようだ、という噂が、掲示板やブログなど数え切れないほどのサイトで取り上げられ始めた。それは、想像以上の広がり方で、美鈴を十分に満足させるものだった。あれだけ痛い目を見た甲斐があったというものだ。美鈴の身の安全を心配するものから、犯人の非道ぶりを厳しく非難するもの、あるいは犯人の手口を分析するもの、犯人像を推測するもの、など実に様々な記事が次々に現れていく。一つ一つ眺めているうちに、まるで美鈴自身が全国から注目されているような、高揚した気分になっていった。もちろん、美鈴は理解している――本当に注目されているのは美鈴自身ではなく、あくまで、「野伊木浩一の実の娘」という存在だ。
ブログの一つが、「これだけ非道なことができるのは、日頃暴力沙汰に慣れている証拠であり、したがって暴力団が絡んでいるに違いない。おそらく野伊木グループと対立する企業と手を結んでいるのだろう」などと全く見当違いの結論に行き着いているのを見て、ついふふふ、と笑ってしまったちょうどそのとき、ふと扉の方からの視線を感じて振り向いた。
神崎が扉を少しだけ開いて、顔を覗かせていた。だが、目があった瞬間、彼は「す、すみません」となぜか謝ってだだっと後ずさっていた。
「……何謝ってるの? 話があるなら来なさいよ」
なおも逃げようとする神崎をきつくにらみつける。やがて、神崎は観念したように部屋に入ってきた。
自分に関する記事を読みあさっていたというのは、どうにもきまりが悪く、美鈴はできるだけさりげなく、ブラウザを閉じた。後ろから神崎が、呟くように言う。
「あの、誰にも言わないんで……」
どうやら美鈴の行動はばれているようだった。
「何の話?」
「いや、だから、誰にも言わないんで、安心してください」
「だから何の話って訊いてるの!」
恥ずかしさから、つい怒鳴っていた。神崎は動じた様子もなく、目をそらして、そしてなぜかにやにやしながら言う。
「でも意外だな」
「何が!」
「女の子でも、やっぱりそういうの、見たりするんだ」
「はい? 何の話?」
本気で何を言っているのかわからない。どうも話がかみ合っていないような気がする。
「その……いかがわしいサイト、見てたんだよね。大丈夫、誰にも言わないから」
ぷつんと切れた。
目の端に、例の偽金属バットが見えた。ソファに何気なく立てかけられているそれを、いまだに少しだけ美鈴の血がついているそれを、美鈴はぐいっと掴んで思いきり振りかぶった。
「何考えてんのよ!」
「え、いや、ちょっと、だから誰にも――」
肩の辺りを力任せに、それこそ肩を潰してやるつもりでぶちのめした。いたっと叫んで、神崎は床に座り込む。その鼻先にバットを突きつけて、冷たく宣告する。
「ほら、謝りなさい。次は顔、いくわよ。その次は急所だから」
「ごごごごめんなさい。だ、誰にもいわないから――」
「だからそれが違うって言ってんの。私はあの映像を取り上げてる記事を見てただけよ」
「あ、そうなんだ……」
「いくら自分がスケベだからって私と一緒にしないでくれる? 次変なこと言ったら、私にセクハラしたって香奈に言いつけるから」
「そそそそれだけは勘弁して! お願いします! どうか!」
ついに神崎は土下座した。本田といいこいつといい、土下座すれば何でも許してもらえるとでも思っているのだろうか。そして、何て情けない男たちだろう。
だが、嫌いではない。
「……で、何しにきたの?」
恐る恐る顔を上げた神崎は、うん、と言いながら立ち上がってソファに座った。
「妹のこと、ちゃんと話しておこうと思って。先輩が君に話したって教えてくれてね。でも、ここは当事者がきちんと話すべきだと思うんだ。そもそも、この誘拐の話だって香奈のためにっていって始まっちゃったものだから」
神崎は俯いて、美鈴に説明するというより、独り言のような感じで話し始めた。美鈴は椅子について、黙って聞いた。本人に会ってきたことは、しばらく黙っていようと思った。
神崎香奈。それが、俺の妹の名前だ。俺の八つ年下で、今年で十六になる。学校に行っていたら、高校一年だ。
小さい頃から心臓が弱くてね。弱いというより、先天的な欠陥があるということらしいけど。とにかく、今まであまり学校にも通えずに、入退院を繰り返してきた。ここ数年は、病院で過ごした時間の方が長いくらいだと思う。
年が離れていることもあって、俺たちはあまり仲はよくなかった。俺は高校の頃は悪さをしていたし、その頃香奈は小学生だ。そもそも会話なんて、あまりなかったんだ。
香奈はいつも、俺と顔を合わせる度に何か言いたそうにしていた。俺はあまり気にしたこともなかったし、実際にあいつが何か言ってきたこともなかった。
大学を出てどうにか就職して、働き始めてからは一人暮らしするようになったってこともあって、顔を合わせることもあまりなくなった。
ちょうどその直後くらいだ。ある日曜日の朝、香奈は突然俺のアパートにやってきて、にこにこしながらこう言うんだ。なんかプレゼントちょうだい、ってね。いったい何かと思えば、その日はあいつの誕生日だったんだ。十三歳、いつの間にか中学生になっていた。俺は誕生日なんてすっかり忘れてたし、誕生日祝いなんてあげたこともなかった。俺はあまりまじめに考えてなかった。
たぶん、あのとき、香奈はもう覚悟してたんだろうな、今考えると。もう先が長くないって。
何が欲しい、と俺は聞いた。バイクに乗せて欲しい、とあいつは答えた。俺はダメだと言った。もっと女の子っぽいものがあるだろう、と俺は思ったんだ。あいつは、じゃあいいや、と笑って言った。それで終わりだった。あいつは帰った。
翌日、会社で、俺は母親から電話で知らされた。あいつがバイクで事故を起こして、意識不明の重体だ、と。俺のバイクをどうやってか勝手に動かして、一般道で六十キロ以上出して、カーブを曲がりきれずにガードレールに激突した。
病院の集中治療室で静かに横たわるあいつの前で、医者は淡々と語った。元々の心臓疾患の影響もあり、長時間の手術ができない。全力は尽くすが、非常に厳しい状況であると思って欲しい。
あいつは一週間、生死の狭間を彷徨っていた。俺はその間、仕事も休んでずっと傍にいた。そうしなくちゃならないと思ったんだ。医者はもうほとんど諦めているように見えた。
だが、あいつは何とか還ってきた。目を覚まして、ベッドの横にいる俺を見て、人工呼吸器を付けながら何を言うかと思えば、ごめんなさい。バイク、壊しちゃった。
そのときの俺の気持ち、わかるか? 言葉で説明できる気が全然しないけど、とにかく一言でいうなら、俺は香奈を愛しいと、そのとき初めて思ったんだ。絶対守らなくちゃいけないと思ったんだ。そんな気持ちは、本当に生まれて初めて感じたものだった。
それから、体調も落ち着いて、普通に話せるようになって、俺は初めてあいつの意図を知った。昔から、バイクに乗っている俺のことを見て、羨ましいと思っていた。格好いいと思っていた。だから、せめて一度、乗ってみたかった。
自殺のつもりでは、なかったみたいだった。本当に、調子に乗ってスピードを出しすぎて、曲がれなくなっただけだった。あー気持ちよかった、なんて笑ってた。
それから、俺は時間があればあいつのところへ行くようになった。色々話すようにしたし、欲しいものがあると言われれば買って持っていった。
あいつは確かに何とか九死に一生を得た。けど、結局、あの事故があいつの身体に大きなダメージを与えたのも事実だった。あれ以来、香奈はまともに生活することさえ難しくなって、退院してもまた入院する、の繰り返しだ。それでも、俺はあいつがそのまま大人になっていくんだと思ってたんだ。
半年くらい前、突然医者が俺と両親だけを呼び出した。医者はただ客観的な事実だけを並べ立てた。心臓の状態が悪化し始めている。このままいけば、一年も持たないだろう。延命のためには心臓移植が必要だ。だが、国内ではドナーが見つかる可能性が非常に低い。国外での移植について考えて欲しい。
俺と両親は、ほとんど毎晩のように議論した。いや、口論したというべきか。俺は何としてでも金をかき集めてあいつを手術に連れて行くべきだと主張した。両親はもっと現実的だった。借金でもしなければ無理だ。だが、借金をして返しきれるか、いや無理に決まっている。貯金を全部はたけば。いやそれでも足りない。
はっきり言って、うちは貧乏な方だ。父は公務員だが、大した役職でもない。家だって借り物だから財産らしい財産は、貯金くらいしかないが、それでも全然足りない。俺だって働き始めたばかりで、大した貯金もない。
まあとにかくだ。ああでもないこうでもないと金の話ばかりしているうちにどんどん時間が経った。俺や両親の間の関係も険悪になっていった。それに、香奈が感づいた。
二ヶ月くらい前か。見舞いに行って、しばらく話をして、話すこともなくなって、何となくため息をついた。あいつは、静かに言った。私のことは気にしないで。もう覚悟はできているから。手術もしなくていい。
鋭い奴だからな。たぶん何もかもお見通しだったんだな。自分のせいで家族の仲が悪くなるのは堪えられない、というようなことを言った。もっと仲良くして欲しい。見舞いに来るなら一緒に来て欲しい。最後の思い出が、仲の悪い家族とだなんて嫌だ。
それからは香奈との口論だ。俺はもっと生きるべきだという。あいつはもういいという。
で、まあそんなことをしているうちに、先輩に気付かれ、みんなでお見舞いし、誘拐でもするかという話になり、そして君を攫ってきたというわけだ。
「別に言い訳したいわけでも正当化したいわけでもないよ。ただ、君にしてしまったことを考えたら、せめて経緯についてきちんとした説明はしておくべきだと思っただけだ」
神崎は、そう言って話を締めくくった。
いいな、と美鈴は話の最中からずっと思っていた。こんなにも思われている香奈が、羨ましい。彼女の境遇そのものは決して羨ましくなるようなものではなく、たぶん美鈴より悲惨だけれど、それにもかかわらず、神崎にこれだけ思われている彼女を、美鈴は羨んだ。
そうか、とすとんと納得する。
これが、家族。こんな風に、心の底から大事に、特別に思い合う関係。美鈴には、もうずっと縁のない状態。まるで、宇宙の果てで起きている出来事のように現実感がなく、代わりに美鈴に寂しさだけを感じさせる言葉。
美鈴は、香奈の心の底で渦巻く本当の思いを知っている。生きたいという渇望、もっと色々なことをしたいという切望を知っている。だが、きっと香奈は、一度たりともその片鱗を神崎や両親に見せたことはないのだろう。それは、香奈もまた彼らを思っているから。彼らに苦労をかけたくないと思っているから。
両目にじわりと熱いものがたまり始めていた。
慌てて目をそらして、窓の外を眺めているふりをした。全然面白くも何ともなかったという風を装った。
自分に全く関係ないことなのに、この家族が幸せになってくれればいいと、心から思う。そして、そのために自分ができることがあるなら、何でも手伝いたいと思う。野伊木浩一の娘をやっていたということさえ、もしそれが香奈の命を救うことにつながるのなら、許せる気がした。
「まあそんなわけで、迷惑をかけて申し訳ないけど、俺としてはこれで本当にお金が手に入るなら、ありがたくそれを使わせてもらいたい」
神崎が言いながら、立ち上がった。話は終わりだと言外に告げていた。
美鈴は、何食わぬ様子を装いながら、さらりと訊ねた。
「もし、香奈さんが、いたいけな女の子を誘拐してぼこぼこにしてぶんどったお金だと知ったら、どう思うかしらね?」
きっと願ってしまう、という香奈の切ない呟きが今なお耳に残っていた。だが、もちろん神崎はそれを知らない。この人は、ただ自分の思いを押しつけているだけなのではないか、という疑問が美鈴の中で燻っている。
「いたいけって……」
その言葉に、ちら、と振り向いてみれば、神崎は呆気にとられたような顔をしていた。反応するのそこかよ、と美鈴は少しだけ傷つく。まあ確かに、美鈴はいたいけと呼ぶにはあまりにも悪逆だけれども。
「いいから、質問に答えてよ。教えようと思えば教えられるわけだから。香奈さんは、本当にそんな、ある意味汚いお金でも助かりたいと思うかしら?」
神崎の目をじっと見つめた。神崎は目をそらさずに、当たり前のように語った。
「そんなの、どうでもいいんだよ。ただ俺が、あいつを失いたくないだけなんだから。別にあいつは死にたいと思ってるわけじゃない。それは確信できる。だったら、俺が生きていてほしいと望んだって構わないだろう?」
さも当然のことのように言われて、美鈴は返す言葉を失った。何て傲慢な、とも思った。けれど、それは最も自然な答えであるように思われた。それ以外にない、とさえ感じるくらい。
だから、美鈴はうん、と頷いた。
「いいと思うよ、それで」
自然に頬が緩んでいた。
そろそろ寝ようかと思っていた頃、こんこん、とささやくようなノックに気付いた。時刻は午前霊時近く、いったい誰が何の用だと苛々気味に扉を開いてみれば、西島が立っていた。
「悪い、こんな時間に。ただ、ちょっと確かめておきたくて」
「なに?」
ぎろりとにらみつけると、西島はたじろいだ。
「いや本当に悪いんだけど、その、……身代金の要求とかってしなくていいのかな、と」
「もうしたでしょ。第一弾があの映像、第二弾が昨夜出してもらった手紙。とりあえずそれでオッケーよ。っていうか今頃何言ってんの」
「いや、全くそうなんだけど、ふと気付いてさ。俺たち、今誘拐犯なんだってことに」
「必要な指示は適宜出すから、その都度てきぱき動いてくれればいいの。私もう寝るから、おやすみ」
「あ、あぁ、おやすみ」
西島はきまりが悪そうに微妙に会釈などしてから、階段を降りていった。
世の中に最も誘拐犯に適していない種類の人間がいるとしたら、西島たちだろう。そして、最も適しているのが美鈴のような人間というわけだ。
明日から、いよいよ本格的な仕事が始まる。身代金をかすめ取るという、最も慎重さが要求される仕事だ。警察にしっぽを捉まえられないように、けれども確実に回収しなければならない。
頭の中で作業手順を再確認し、西島たちに出すべき指示を整理する。どこにも書いてはおかない。ある意味では、彼らさえ騙すことになるのだから。