三 脅迫
脅迫映像の作成は簡単なものではなかった。
理由は簡単だ。三人とも、きわめて臆病で、そもそも美鈴を殴ったり蹴ったりすることに極端な抵抗を示したためだ。紳士的なのは人質としてはありがたいのだけれど、誘拐犯参謀としては全く頂けない。最後は、「言われた通りにできないなら、私が自分で指を切り落として送りつける」と脅して、どうにか了承をとりつけた。なぁ俺らやっぱり脅迫されてね、だよな、この場合どっちが被害者なんだろな、そりゃ俺らだろ、などと栗毛とロンゲが話しているのは、聞こえなかったふりをした。
必要なものは実に多岐に及び、ロンゲと栗毛の双方に買い物をいいつけた。化粧セット、血糊、ゴムシート、ロープ、真っ黒な衣装、美鈴用の着替え数着、電源延長ケーブル、ビデオカメラ、三脚、DVD-R、封筒、切手、木製バット、度なし眼鏡、アイマスク、人間大のぬいぐるみ、リュックサック、銀色のラッカー、ゴム手袋、ウェブカメラ、映像編集ソフト、通信用カード、野球帽、小型ノートパソコン。これだけともなると、それなりの出費だが、そこはリーダーが快く出してくれた。
ロンゲと栗毛がそこら中を回って買い出ししている間に、美鈴はリーダーにさらに詳しい計画を話していく。とはいえ、全部は話さない。あくまで、話しても問題ない部分だけ。
一通りの説明を聞き終えると、リーダーは額に手を当てて俯いてしまった。
「どうしたの? おかしなところがあったら言って欲しいんだけど」
リーダーがいやいや、と首を振る。
「そうじゃなくて、こう、何というかだな……いや文句はないし、それどころか完璧に聞こえるけどさ」
顔を上げて美鈴の目をリーダーがじっと見つめる。何か感づかれたかと、どきっとした。
「なに?」
「つまりね……きみ、なんというか、ワルだね。いっそもう、鬼か悪魔のようだと言っていい気がするよ」
あぁそういうことか、とほっとした。
天使のような悪魔。
それが、五年と少し前までの美鈴の代名詞だった。町中を巻き込んで毎日ひたすらいたずらの限りを尽くしていた美鈴は、同級生からは尊敬と畏怖の眼差しで、町内の人々からは悪ガキの象徴として、そして教師陣からは稀代の問題児として、見られていたというわけだ。
美鈴は、何だか少し懐かしくなって、ぽつりぽつりと昔の話をした。
昔は離れた場所に住んでいた。あの当時は、何も気にする必要がなくて、毎日ただ遊んで暮らしていた。美鈴にとっては楽しい遊びでしかないものが、しかし他の人たちには迷惑だったり突拍子もないものだったりするのが、当時は不思議だった。こんなに楽しいのに、と思いながら、それこそありとあらゆる思いつく限りのいたずらをして回っていた。
そういえば、と話していて思い出す。あのときは、一緒にいたずらをする仲間がいたのだ。何をするにも一緒の、大事な遊び仲間だった。あれ以来、あの子とはもう随分会っていないけれど、今頃はどうしているだろう。あの子の名前は何だったか、もうはっきりとは思い出せない。マリだったかメリーだったか、そんな感じだった気がする。
黙って美鈴の話を聞いていたリーダーは、話し終えて口をつぐんだ美鈴に、優しい笑みを浮かべた。いつもは大人の笑みの裏に何かを感じ取って不安になる美鈴も、不思議と、そのときは偽善的だとは感じなかった。
「何だかほっとしたよ」
「なにそれ? 私が悪ガキだとほっとするわけ?」
きっと睨むと、リーダーは慌てて両手を振った。
「違う違う、そうじゃなくてね。つまり、昨日からの君の物言いとか、自分の家から身代金とってやろうとか、ちょっとおかしな子だなと思ってたからね」
何となく、「おかしな」の前に「頭の」がついているような失礼な言い方だったが、美鈴は黙って聞いていた。
「つまり、今回のこういうことも、君にとっては自然ないたずらってことなんだなぁってね」
「……別に、自然じゃないけどね」
結局、少し冷静になって考えてみれば、二年の間堪えていた不満がついに爆発した、というだけなのかもしれなかった。あるいは、所詮美鈴のような人間には、お嬢様は荷が重すぎたという言い方でもいいかもしれない。
「だけどさ、いまいちよくわからないのは、そういう悪ガキだった君が、あるところでぱったりとやめておしとやかになった、っていう風に聞こえたんだけど、何かあったの?」
それはごくごく自然な疑問といえた。
話は本当は単純だ。五年前に母親を事故で亡くし、元々父親はおらず、他に誰も親戚はなく、したがって養護施設へ引き取られることになったというだけ。母を亡くしたばかりでショックだったことに加え、さすがに見知らぬ人々に養ってもらっているという事態を理解した美鈴は、養護施設では大人しくならざるをえなかった。施設にいる子供たちが皆いい子ばかりだった、という事情も関係しているだろう。
けれど、今その事情を話すわけにはいかなかった。美鈴が、偽物だと知られてはいけない。美鈴はもっともらしい嘘を並べ立てた。
「あるとき、両親がついにキレて。習い事だらけにされてしまったので、仕方なく」
「あぁなるほど」
言いながら、リーダーはあははと穏やかに笑った。
彼には、何か人を素直にさせる空気のようなものがあった。身構えずに自分の思うこと、感じることを話せた。こういうタイプの人間もいるのか、とある種の感動のようなものさえ覚えた。ロンゲと栗毛が慕っているのもうなずけた。
だからこそ、気になっていたことがある。
「ねぇ、そっちの事情も聞かせてよ。何で誘拐なんてしようと思ったの? ふつう、誘拐して身代金なんてうまくいかないでしょ」
特にあなたたちみたいに脳天気だとね、と内心付け加える。
リーダーが、ああそうだね、とうなずく。それから、リーダーは窓の外の青空を、流れる白い雲を眺めるともなく眺めながら、話し始めた。ちなみに、ここにきてようやく、彼らの名前は、リーダーが西島伸治、ロンゲが本田龍一、栗毛が神崎啓介である、ということを美鈴は認識した。
まず断っておくけど、僕が話したってことは、神崎や本田には内緒だ。彼ら、そういうのを知られて同情されたりするのを嫌うからね。
僕ら三人は本当に仲が良かったんだよ。高校時代からね。一心同体というほどでもないだろうが、まあとにかく、困っている奴がいたら全力で助けたいと思う。そういう、間柄だ。
さて、実は話はそんなに複雑でも特殊でもないんだ。神崎には妹がいるんだが、この子がとても身体が弱くてね。ついに、移植手術をしないと命が危ない、というところに来てしまった。普通なら募金でも呼びかけるところなんだろうけど、あいつ昔から優柔不断でね。どうしようどうしよう、といっている間に余命数ヶ月なんていうところまで来てしまった。話を聞いたのが、本当に一週間前とかでね。僕も本田も驚いて、三人でどうしようどうしよう、なんて悩んでいる間にもどんどん時間が経ってね。
二日前に一度、お見舞いに行ったんだ。前から、数ヶ月に一度くらいは行っていたんだけどね。話を聞いて、改めて行ったんだ。
いや別に変な意味じゃないんだけど、本当にかわいい子でね。神崎が目に入れても痛くないってくらいにかわいがってるのも、もっともなんだ。本当なら高校に通ってるくらいの年なんだけど、もう随分学校も行っていないらしい。
で、僕や本田の前で、カナちゃんっていうんだけど、カナちゃんは言うんだよ。とても楽しい人生でした、ってね。もう知ってるんだ。それでぼろっときてしまってね。何泣いてるんですか、大の男が、なんて笑ってて。
僕も本田も、端的にいえばすっかり絆されてしまったんだな、その笑顔に。何でもやってやるぞ、と覚悟したわけだ。銀行強盗か誘拐くらいしかないんじゃない、という話になったんだけど、残念ながら、僕らには銀行を襲うほどの武器も手際も甲斐性もないのは明らかだったからね。消去法で、どこかのお嬢様をさらって身代金をとるのがいいんじゃない、ということになったんだ。
いやほんとに、君には済まなかったと思ってるよ。危害を加えるつもりなんて、端からなかったけど、まあそんなこと言っても信じてくれないだろうね。
何て普通な、と思いながら、美鈴は涙ぐんでいた。巧妙な嘘かも知れない、と心の片隅で思いながらも、たぶんちがう、とそれなりに磨き抜かれた美鈴の人間センサーは告げていた。
「……あの、今度お見舞い、行ってもいいですか」
嘘かどうか試すつもりもあったし、大の男三人を犯罪へと走らせたのがどんな子か見てみたい、という思いもあった。
西島は、あぁ、とあまり気乗りしない様子で頷いた。
「いいけど、あいつらには絶対言うなよ。あいつら、変に気取ってるっていうか、ちょっと古くさいっていうか。つまり、弱味を見せない方が格好いいと思ってるようなところがあってな」
それから、西島は病院の名前と部屋の番号、そして神崎香奈という名前であることを教えてくれた。どうやら本当のようだった。
とはいえ、だからこそ、気になることがある。
「でも、だったら何で、昨日、すぐに警察に行こうなんて言ったの? そんな命がかかった話なら、何が何でも身代金を取るべきでしょう」
「うーん、それについては、僕らの認識が甘かったとしか言いようがないね」
「なにそれ?」
「昨日、君が自分で言ったじゃないか。指でも送らなきゃ身代金なんて出すわけがないって」
「そうよ、指でも何でも送ってお金を取るべきよ」
あはは、とまた西島は穏やかに笑った。
「僕らにはそんなことはできないよ。というより、それはしたくない、というべきか」
「何甘いこと言ってんの? その香奈さんの命がかかってるのよ、使えるものは何でも使うべきよ」
人質という立場からすれば全くもっておかしな話だが、美鈴は憤っていた。助けたい人がいるなら、何を犠牲にしてでも助けるべきだ。
けれども、そんな美鈴の激昂を知ってか知らずか、西島はふっと視線を窓の外へ逸らした。
「君はどうやら僕とは少し違う考え方をするようだから、わかってもらえるかわからないけどね。僕は、僕らは人を傷つけるようなことはしない。僕らはワルだし、色々と人に迷惑をかけて生きてきたけれど、人を傷つけたことは一度もない……と、自分で信じているだけかもしれないけどね」
「何それ。格好いいと思ってんの? 結局助けられなかったら意味ないじゃない。ただの自己満足じゃない」
西島がこちらを向いて、珍しく真剣な顔をした。
「自己満足かもしれないね。でもとにかく、僕は人を傷つけることはしたくない。そんなことをするくらいなら、他の方法を探す」
甘い手ぬるい覚悟が足りない、と噴水のようにとめどなく不満が美鈴の中でわき上がる。美鈴は余程不機嫌そうな顔をしていたのだろう、西島は少しだけにやりとしてから、何だか寂しそうな顔をして言う。
「たぶんね、僕らは弱い人間なんだよ。他人が傷つくのを黙って見過ごせない。香奈ちゃんが死にゆくと知れば、何とか助けたいと思う。けれど、君が傷つくのだって黙って見過ごせるわけがない。君のような人にとっては、回りくどくて非効率的で下らないやり方かもしれないけれど、僕はこうして生きてきたんだ」
それは、弱いとは言わないと思う、と喉元まで出かかった。それは、優しいと言うんだ、と今にも言いそうになった。
何も言わずに口をつぐんだのは、西島のその独り言のような台詞が、美鈴をある意味で打ちのめしたからだ。彼らは優しい人間で、美鈴は優しくない人間なのだ。それらは、まるで水と油のように、永遠に混ざり合うことのない、全く異質のもの同士なのに違いない。だって、美鈴が西島のように考えられる日がくるとは思えないから。
美鈴の部屋の隣りには、ちょうどおあつらえ向きの陰湿な部屋があり、美鈴はすぐにそこを気に入った。どうやら倉庫のつもりで作られたようで窓がなく、いかにも、悪辣な誘拐犯が人質を監禁しておくのに、もってこいの部屋のように思えたからだ。
部屋から机を運び出し、階下から椅子を調達し、壁にかかっている工具の中から禍々しいものだけを残し、天井の蛍光灯を外して別の部屋から持ってきた白熱電球に交換し、部屋の中に転がっているカップラーメンの空容器や漫画雑誌といった緊張感のないものを全て捨て、とやることはいくらでもあった。
美鈴がそうして撮影場所の準備をしているうちに、ロンゲと栗毛が大荷物と共に帰ってきた。
「俺もうだめっす」
「もう一週間分の体力使い果たしたっす」
情けない男たちだった。
今さらながら、リーダーから内輪話を聞いたこともあり、美鈴はしげしげと二人を観察した。ロンゲ――つまり本田は、まず髪を少し伸ばしていることもあり、かつ優男という顔立ちと、三人の中で一番の上背のせいもあって、とても軟派な雰囲気である。アロハシャツでも着て、もう少し日焼けすれば、間違いなく女たらしに見えるだろう。
一方の栗毛――つまり神崎は、イケメンといっていいくらいには顔立ちは整っているが、背はそれほど高くないのが少し残念ではある。とはいえ、美鈴から見て一番残念なのは、競馬でよく見かけるような、まさに栗毛としかいいようのない色に染められた髪であった。端的に言って、似合っていない。
美鈴がじろじろ見るのに閉口したのか、神崎はあの、と声を掛けてきた。
「俺、なんか変ですか」
一回りも年下の美鈴に向かって敬語なのは、どういうわけだろう、と思いながら、美鈴は思ったままを口にした。
「髪の色」
「え?」
「髪の色、似合ってない」
神崎は、あからさまにショックを受けた顔をした。横で見ていた本田がぷっと吹き出し、西島はにやにやしながら目を背けた。
「ね、思うでしょ、二人とも?」
西島と本田に向かって同意を求めると、西島がちょっと、といって手招いた。美鈴を少し離れたところに連れて行ってから、小声で告げる。
「あのな、あれな、例の香奈ちゃんの希望なんだ。香奈ちゃん以外はみんな似合わないと思ってるけど、本人もたぶんそう思ってるけど、なんていうかさ、こう、……そっとしてあげておいてくれないか」
はぁ、と美鈴は頷いた。例の香奈ちゃんとは、どうやらかなり変わったセンスの持ち主のようだ。やはり一目見てみたい。
脅迫映像における犯人役は、単純に背が高くて怖そう、というだけの理由で本田に決定した。もちろん、それは美鈴の独断であって、当の本田は『そんなの絶対ムリっす』と見るも哀れなくらいに青ざめていたが、「斧で私の指吹き飛ばすのとどっちがいい?」と笑いかけると、さながら死刑場に向かう囚人のような表情で沈黙した。ちなみに、犯人役はとりあえず一人だけである。複数犯か単独犯か、また複数犯ならどれくらいの規模か、警察に悟られたくないからだ。
西島には映像編集および動画入りDVD作成のためのノートパソコンやビデオカメラ、プリンタの用意をしてもらい、神崎には映像中に使用する小道具を作ってもらう。そして、美鈴は本田に付き添って演技指導だ。
とりあえず、まずは買ってきてもらったぬいぐるみを椅子に縛り付けて、本田に殴ったり蹴ったりさせてみた。だが、はっきりいって全く様になっていない。まるで、蛇を棒でつつくようなへっぴり腰で、仮に映像にすれば、いったい何がしたいのかさっぱりわからない滑稽な絵になるであろう。
「本田さん、そうじゃなくてもっと、野球をする要領で思いきり殴り飛ばして」
「そ、そんな、俺女の子にそんなことできないっす」
へたれ。本田を表現するのに、これほど適切な言葉はないように思う。
「そこにいるのはぬいぐるみでしょ。いいから野球して」
「は、はい」
しかしながら、それでも本田は、せいぜいがゲートボールくらいの感じなのであった。美鈴は本田から、新聞紙で作った棒を無理矢理奪い取って、力任せにぬいぐるみを殴り飛ばした。非力な美鈴でも、ぬいぐるみは椅子ごと吹き飛んで、がたんと倒れる。
「私は、こういう感じの絵が欲しいの。わかった? わかったらやってみて」
「そ、そんな」
本田は泣きそうだった。何だかかわいそうになって、美鈴は少し休憩にすることにした。陰気な撮影部屋から移動して、窓のある美鈴の部屋へと向かう。
「本田さんは、普段どんな仕事してるの?」
「何もしてないっす」
「え? だって、お金は?」
「それを訊かないでください」
まるで頭を殴られているかのように、本田は頭を抱えた。
「まさかニート?」
特に声色を付けたつもりもなかったが、ますます本田は頭を抱えた。
ソファに座って、小道具を作る神崎や、パソコンをセットしている西島を見ながらぼんやりしていると、傍にいた本田が、ぽつりとまるで独り言のように口を開いた。
「俺、イラストレータになりたくて、今は修行中って感じなんすよ」
イラストレータ。そういう職業が存在することは知っていたが、それはまるでどこか遠い国の出来事のようにリアリティのない言葉だった。
なるほど、と思う。つまり、彼は非常に繊細な仕事を志していることになる。指は大事っすよ、と昨夜言った彼の意図するところが不意に実体を持って迫ってくる。
「専門学校とか行ってるの?」
「もう出ました。今はひたすら絵を描いて実力を磨いているところっす」
それから、本田はどんな絵が好きとか、どんな絵を描いているとか、どんな画家が好きとか、あるいはこれまでどんな風に絵を勉強してきたかを、話しにくそうに、けれども目を輝かせて話してくれた。
これまで、ただへたれているだけだった本田は、その瞬間だけ、夢と希望に満ちた若者になっていた。そんな本田は、美鈴にとっては全く異世界の住人のようだった。
生き生きと絵について語る本田をまぶしく思い、そして美鈴は自分を顧みていた。美鈴は、いったい将来何になるのだろう。何になりたいのだろう。
昔は映画に感化されて海賊になりたい、とか思っていた時期もあったが、さすがに今はもう、それが現実的でないことを知っている。ここしばらく、野伊木の姓を名乗るようになってからは、状況は不明瞭だった。美鈴はこう予想していたのだ。成人する頃になれば、誘拐なども心配する必要はなくなり、恵理依は美鈴へと戻り、美鈴は恵理依へと戻され、そしていらなくなった美鈴は放り出されるのだろう、と。ただし、それはきわめてあいまいな予想で、それゆえに美鈴は未来を描くことができなかった。
けれども、こうして自由になる可能性を得た今、美鈴は真剣に将来を考えなければならなくなった。全ては自分の手にある。本田のように、ただ好きなものを追いかけていくのは、素敵な生き方だと思う。一方、もっと堅実な生き方だって悪くはないだろう。美鈴は、自分で選べるようになり、選ばなくてはならなくなったのだ。
「でも本田さん、誘拐で捕まったらイラストレータどころじゃないよね」
半分冗談のつもりで笑いかけると、本田はまじめな顔をした。
「別にそれはいいんすよ。先輩にはお世話になってたし、絵だけならどこでだって描けるし、俺だって――」
本田が何かをいいかけ、ちら、と神崎を見て口をつぐんだ。神崎香奈のことを言いかけたのだと美鈴は気付いたが、あえて知らんぷりを決め込んだ。少しだけからかってやろう、と美鈴は揺さぶりをかける。
「神崎さんがどうしたの? もしかして、今回のことって神崎さんに関係あるの?」
「いやいやいやいやいや、何でもないっす」
本気で焦っている本田に、美鈴は思わず声を上げて笑っていた。
不意に本田が、じっと美鈴の顔を見つめて黙り込む。
「……なに? 笑っちゃ悪い?」
「実はずっと訊きたかったんすけど」
「なに? 変なことだったら殴り殺す」
「ちちち違いますよ、もう怖いなぁ。そうじゃなくて、」
本田がいったん言葉を止めた。何か言いにくいことだろうか、と訝る美鈴に、本田は実に言いにくそうに訊いてきた。
「何で、その、……そんなに、嫌ってるんですか?」
一瞬意味を掴み損ねたが、その意図するところはすぐに理解した。それは、美鈴の「野伊木家」あるいは「野伊木浩一」に対する態度のことを指しているに違いなかった。
困ったぞと思った。
美鈴のやろうとしていることを考えれば、もっともな疑問だろう。分け前を四分の一よこせ、といっただけでは納得してもらえなかったというわけだ。
美鈴はしばらく、それこそ数分くらいは考え込んだ末、今教えるわけにはいかない、という結論に達し、そしてこう告げた。
「話せるときがきたら話すよ。それまでは、秘密」
「りょーかいっす」
本田は、どことなく楽しそうだった。美鈴の返答は、意外にも本田のお気に召したようだった。美鈴は立ち上がって、隣りの部屋を指さす。
「さ、演技指導、再開よ。急がないといけないから、びしばしいくよ」
「お、お手柔らかに」
本田の動きがそれらしくなってきたところで、一人で練習しておくように言ってから、美鈴は別の仕事にとりかかることにした。身代金受け渡しの場所選びである。これは慎重にも慎重を要するので、美鈴が自分で探すしかない。まずは、階下にある粗末なトイレで、制服から、ティーシャツにジャケット、ジーパンという、普段まず着ることのない服装へと着替えた。さらに、髪を結い上げて野球帽の中に隠し込む。最後に眼鏡をかけて、変装は完成だ。鏡の中の自分は、もはや少しほっそりした少年にしか見えない。
リュックサックに必要となるものを色々放り込んでから、二階に上がって、相変わらずパソコンの設定に手間取っている西島の背中に声を掛ける。
「じゃあ西島さん、私少し偵察に行ってくるので、あとよろしく」
「え、偵察? 何それ?」
西島は面食らっていたが、いちいち説明するのも面倒だったので、ばいばい、と手を振って工場を出た。
最寄りの駅までゆっくり歩く。外はからっと晴れていて、ただ歩いているだけでも気分が良くなってくるような、そんな日だった。時刻は午後一時過ぎ、少し急がなければならない。今日中に脅迫映像の撮影と編集を終えて、夜には頒布しなければならないのだから。
小一時間ほど電車に乗って、県下最大の都市に到着した。さすがにここまで来れば、人の賑わいも相当なものだ。営業マンらしきスーツ姿の人も数多くいるし、早めに学校が終わったらしい学生も、デートでもしているかのようなカップルも、そして買い物に勤しんでいるらしい主婦もあちらこちらにいる。
美鈴は、駅周辺のコインロッカーを探して廻り、三カ所に発見した。美鈴の計画では、コインロッカーを二個使う。うち一つ目は小さくてよいが、二つ目はかなりの大きさが必要になる。そして、どちらの場合も、ファミレスか喫茶店から様子を見張れることが重要な条件だ。
残念ながら、二つ目に適した大きさのものはなく、この駅では一つ目だけを用意しておくことにした。手袋をしてロッカーを開け、まずは中にお金を入れた白封筒を置き、その上に、新聞紙を入れた小さな箱を置いておく。最後に鍵を閉めておしまいだ。
すぐに電車で隣りの駅まで移動し、鍵屋を探して、コインロッカーの鍵を複製してもらう。わざわざ隣りの駅まで移動するのは、念には念を入れ、足がつきにくいように、と考えてのことだ。といっても、多少の時間稼ぎくらいができればそれでいい。
続いて、再び電車に乗ること三十分足らず、別の大きな駅へとたどり着く。ここで、美鈴は再びコインロッカーを探した。二つ目のための、大きなサイズのロッカーを探し当て、中には何も入れずに鍵だけ抜いた。電車で隣りの駅に移動し、鍵屋を探して複製してもらう。そして、改めて元の駅に戻り、鍵を戻しておく。
とりあえずは、これで二つ目までの準備は完了である。この後にさらに、三つ目、四つ目も考えてはいるけれど、それは今後の相手の出方次第になるところがあるので、今日のところはこれでいい。
このまま直帰して早く映像製作にとりかかるべき、ということは分かっていたけれど、西島から聞いた、神崎香奈のことが気に掛かって仕方なかった。電車の中で散々迷った末、軽くちらっと見るだけでも見ていくことにした。
病院は、アジト最寄りの駅から三駅ほどいったところにある、巨大な総合病院だった。何百室も病室を備えているであろう建物、テニスコート何面分にもなりそうな広大な駐車場、そしてひっきりなしに人が出入りしている、両開きの自動扉。見ている間にも、退院するらしき人が花束をもらってタクシーに乗り込んでいる。かと思えば、救急車が到着して、ストレッチャーに乗せられた患者が救急口へと吸い込まれていく。
こうした大きな病院に入った経験はなく、美鈴は緊張していた。敵陣に乗り込むつもりで自動扉をくぐり、受付の前でカードをもらって順番を待つ。自分の順番が呼ばれたところで受付に行き、病室の番号と名前を行って、場所を教えてもらった。受付の人がどことなく怪訝そうな顔をしていたが、自分の格好が変だからではない、と信じたい。
三階までエレベーターで上がり、明るいはずなのにどこか暗く感じられる廊下を歩く。一つ一つ病室を確かめていき、十個目くらいで目当ての名前を見つけた。六人で共有する部屋の一番奥、窓辺にいるようだった。
もうわかっていたことだけれど、本当に神崎香奈はいた。それは、余命数ヶ月で、もう人生を諦めていて、そしてあの三人を美鈴の誘拐へと走らせた少女なのだ。
恐る恐る病室の入り口から顔だけを覗かせて、ベッドを仕切るカーテンの向こうを伺う。とはいえ、手前に二人のベッドがあるわけで、さすがに見えるわけがなかった。
ちょっと顔を見てみたいだだけ、というつもりだったが。この状況ではそういうわけにもいかない、と美鈴は覚悟した。対面して喋るとなれば、さすがに声で女とわかってしまうだろう。髪を隠す野球帽を脱ぎ、眼鏡を外してリュックの中へ隠す。
そして、美鈴はゆっくり中へ足を踏み入れた。
同室で他のベッドに横になっているのは、お年寄りばかりだった。みな脇にあるテレビを見ているか、眠っているようで、室内は静まりかえっていた。廊下を忙しく歩く、おそらくは看護師の足音ばかりが聞こえてくる。
そんな中、時々、ぱらり、という紙をめくるような小さな音が聞こえてくることに気付いた。目当てのベッドの方向からだった。
彼女は本を読んでいるらしい。
病弱な少女、窓際にあるベッド、静かに本を読む姿。
どうやらこれは本物に違いない、という思考が、美鈴をますます緊張へと誘う。
ゆっくり、なぜだか足音を忍ばせるようにして歩き、そして最後のカーテンの向こうへと踏み出した。
一見して、華やかな少女だった。日本人形のような長い黒髪、透き通るような白い肌、ぱっちりと大きな瞳、すらりと通った鼻梁、そしてきゅっと結ばれた薄い唇。
完璧な造形だと感じた。しばらく息をするのも忘れて見とれていた。現実にこれほど美しいものが存在するのだと、初めて知ったような気分だった。
やがて、手元へと目を落としていた香奈がふっと視線を上げた。視線が交錯する。
さて何を言ったものやらと頭を巡らせる美鈴に対し、香奈は特に不審がる様子もなく言葉を発した。
「どちら様?」
りん、と鈴が鳴るような、耳に心地いい声だった。
ここまできて、美鈴は自分を何と紹介してよいのか考えてなかったことに気付いた。お兄さんに誘拐されて人質になっています、などと言えるわけがない。
とっさに、美鈴はかつての自分の名前を名乗っていた。
「咲州恵理依、といいます。神崎啓介さんにお世話になってまして」
言うなり、香奈はぱっと顔を輝かせた。そして、手を上げて小指を見せる。
「これですね? これですよね?」
「はい?」
意味が分からずに首を傾げると、さらにはしゃいだように、香奈はにこにこと笑った。
「兄さんの彼女でしょう? もう兄さんったら、いつの間にこんなきれいな人を」
「いえいえいえ、全くそういう関係ではありませんで」
高校生という西島の話からして年上だろう、という考えが、美鈴の言葉を奇妙な敬語まじりのものにしていた。美鈴の言葉を聞くなり、香奈はがっかりといった顔をした。
「なんだ、違うの。じゃあ、どういうお知り合い?」
「あの、お仕事で少しご一緒させて頂いた関係でして」
美鈴はしどろもどろに適当なことを答えた。そういえば、神崎の個人的な話は聞いたことがないのだった、といまさらに思い出す。
だが、その答えは香奈には十分だったらしく、大きく頷いてくれた。
「兄さん、頼りないでしょう。ご迷惑だったんじゃない?」
「いえそんなことはないです、むしろ私の方が迷惑をかけているくらいで」
どうにも調子が狂う。なぜだか、恵理依や同級生と話すときのようにはいかない。年はそれほど違わないはずなのに、ぐいっと人の心に迫ってくるようなストレートな話し方が、香奈をぐっと大人びた雰囲気にしていた。
「そうなの。年はいくつ?」
「高校一年です」
少しだけさばを読んでみた。舐められたくない、という思いだったが、香奈がそういうことをする人間ではないことも、すでにわかっていた。香奈が、再びぱっと顔を輝かせる。
「じゃ、私と同じね。私も、学校に行っていたら高校一年なの。敬語じゃなくていいから、普通にお話しましょ。私のことは香奈でいいわ」
「え、ええ。そう、ね」
それから、香奈は、最近読み始めた漫画の話や、ネットで話題になっている面白い話などを、生き生きと語ってくれた。それはもう、何でこんなに何もかもを楽しめるのか、といぶかしく感じるほどに。そして、そうした話をあまり面白いと思えない自分が恥ずかしく思えるほどに。
曖昧に笑って相づちを打つ美鈴に、感じるところがあったのだろう。香奈は、不意に口をつぐんでじっと美鈴の目を見つめた。全てを見通すような、澄んだ眼差しだ。何だかわからずとも、やばい、と本能的に感じた。
「あ、あの、何か……?」
「あなたって、本当は、中学三年でしょ」
心臓が跳ね上がる。思わず後ずさっていた。香奈の人並み外れた美貌が、その澄み切った瞳が、今は美鈴を糾弾する鋭い矢のように感じられる。
答えられずにいる美鈴を見つめながら、香奈は口の端にうっすらと笑みを浮かべた。
「あなた、エリィでしょ」
「……ええ、私は咲州恵理依、です」
「そうじゃなくて、エリィとミリィのエリィでしょ、っていう意味」
一瞬、意味が分からずに視線が宙を泳いだ。だが、次の瞬間、それは強烈な天啓のように美鈴の中でくっきりとした意味をなした。
エリィとミリィ。
たしかに、かつて自分は――自分たちは、そう呼ばれていた。それは、もう六年も前、同級生たちが、凶悪ないたずらをして回る美鈴たちを指して使っていた呼び名だ。
だが、なぜそんなものを、この人が知っている?
香奈の笑みが深くなる。
「当たり、だね」
「なんで、知ってるの?」
「だって、私も同じ学校だったもの。一つ上だったの。一つ下に、面白い子たちがいるって話を聞いて、私、毎日わくわくしてた。有り体に言えば、あなたたちのファンだった、ってことね」
香奈は当たり前のように言う。けれども、美鈴の中では、なぜ、なぜ、という疑問がいまだに頭の中をぐるぐると巡っていた。
もうすっかり過去の話だと自分では思っていた。こうして覚えている人がいるというのは、ありがたいような気もする一方、こそばゆいものだった。
「よく、覚えてますね、あんな昔のこと。それに、名前も……」
「そりゃ覚えてるわよぉ、名前もそうだけど、やっぱり外見ね」
外見、と言われて、美鈴は自分のなりを見直し、顔をぺたぺたと触っていた。確かに、男物に身を包んだ今の格好では、男の子とあまり区別がつかないかもしれないが、それにしても香奈の言いようにはがっくりくる。
「私、そんなに、成長、してないですかね……」
「あはは、そういう意味じゃないんだけどね」
そう言って、香奈はなおも可笑しそうにふふふと笑った。何がおかしいのか、全然わからない。
美鈴がふくれっ面をしていると、香奈は身を乗り出して訊いてきた。
「ね、ミリィは? まだコンビ組んでるの?」
「いえ、彼女とはもう、長いこと会ってません……」
養護施設へと移ってからはミリィとは会う機会もなかったし、そもそも美鈴はあれ以来「いい子」になったので、コンビも何もあったものではなかった。
「そうなんだ。ね、急にいなくなっちゃったよね、あなた。どうしたの?」
「家の都合で、やむなく引っ越しまして」
「そっか。ところで、敬語じゃなくて普通に話してよ。私、別に気にしてないから」
「あ、うん……あの、嘘ついてごめん」
「いいっていいって。エリィなら、それくらいナチュラルに嘘ついてくれないと」
何だかひどい言われようだった。美鈴はもう、あの頃みたいな悪ガキではない、と言いかけそうになったが、同時に、今の自分の状況を思い出して、思いとどまった。
今、美鈴は、あの頃どころではない悪さをしようとしているのだ。急激に、美鈴の思考は現実へと舞い戻ってきて、今回の出来事の全ての元凶である、目の前の美しい少女を見つめた。この人は、死が迫っているというのに、なぜこんなにも楽しそうに生きているのだろう?
「あの、一つ訊いていい?」
「どうぞ、一つでも二つでも」
「私、あなたのこと、啓介さんに訊いて知ってるの。その、病気が――」
「なんだ、そんなことかぁ。まさかあのエリィに、そんなこと訊かれる日が来るなんてねぇ」
美鈴の詰問を、香奈はしみじみとした様子で遮る。私が訊きたいのは、と言いかけようとすると、香奈は手の平を出してまたも遮る。
「エリィ、あなたはもうエリィじゃないってこと?」
「どういうこと?」
「簡単よ。あなたは、エリィは、そこら中に楽しいものを見つけて、毎日遊んで遊んで暮らしてた。でしょ?」
「……あの頃はね」
「今は違うって? 何だかつまらないなぁ。大人になった、とでも言いたいの?」
柔らかなのに、香奈の言葉にはとげとげしたものが含まれていた。どうやら、美鈴の訊ねようとしたことは、彼女にとっては訊くに値しないものであったようだ。
「あの頃の私と、今のあなたの状況は全然違う。私は、私には、あなたみたいには、きっとできない……」
独り言のように呟いた美鈴の言葉に、香奈は答えなかった。
香奈がふっと顔を窓の方へと向ける。そのまま、独り言のように香奈は淡々と喋った。
「そりゃね、怖いとは思うよ。今までずっと続いてきたものが、次の瞬間にはぱったりと途絶えている。そういうことでしょ、死ぬっていうのは」
美鈴は、ただ黙ってその独白に聞き入った。余裕に満ちていてとらえどころのない彼女の、それは心の片隅で燻っている生の不安に違いなかった。
「悔しいとも思うよ。生きていれば、できることも、やりたいことも、いっぱいいっぱいあるんだし。だけど、逆に考えてみてよ。もし、やりたいことを全部やってしまったら? それでも生きていたら? 私は、きっと絶望する。だからね、これくらいが、ちょうどいいのよ。やりたいことがいっぱいある中で、一番やりたいこと、面白いことだけをやっていって、間に合わなかったら、そこまで。それって、とても幸せなことだと思わない? 私は、あふれる希望の中で死んでいくの」
どう?と香奈がまっすぐに美鈴の目を見つめる。
美鈴は、その言葉に含まれる嘘に気付いていた。それは、彼女が自分自身を納得させるための、絶望に沈みそうになる心を守るための、砦なのだろう。
だから、もちろん、美鈴は、その砦を崩すようなことは決して言わない。本当に、やりたいことは全部できるの? あなたの夢は、希望は、この小さな空間で叶えられるものばかりなの? あなたが思い描く未来は、このベッドの上で実現できるものばかりなの?
脆く、儚く、切ない砦に守られて、彼女は真摯な瞳を美鈴に向けている。
あぁ、なるほど、と美鈴は思った。西島が、本田が、そして神崎が何とかしたいと思ったのは、無理からぬ――いや、とても自然なことだった。
美鈴だって、何とかしたい、と思う。優しくない美鈴でも、彼女にもっと未来をあげられたら、と夢想してしまう。
美鈴は、彼女の問いに対して、問いかけで応じることにした。それは、今の彼女には、自ら作り上げた危うい砦にこもっている彼女には、残酷な問いかけだろう。けれど、とんでもないことをしでかそうとしている美鈴は、婉曲的にでも、訊ねなくてはならない。仮に身代金がとれたとして、彼女は本当にそんなお金に頼ってでも助かりたいと思うのか、を。
「ね、たとえば、の話よ。たとえば、サンタクロースが、あなたにクリスマスプレゼントをくれるとする」
「何よ、それ」
「いいから、聞いてて。そのサンタクロースは、とても現実的なの。だから、お願いさえすれば、たとえば移植手術に必要なお金なんかも、全額くれたりする」
香奈が、はっと息を呑む。美鈴の意図を汲んだであろう彼女を、美鈴はじっと見つめた。どんな感情の揺らぎさえも見逃すまい、と注意深く観察する。
「でもね、そのサンタは実は、結構ワルなの。お願いとあらば、どこかで奪ってきたお金なんかも、平気で持ってきたりする。あなたは、そんな悪徳サンタにでもお願いする?」
「……ばかばかしい仮定ね。でも、」
彼女は静かに涙をこぼした。小さく呟く。でも、きっと願ってしまう、と。
訊くまでもないことだったかもしれない。それでも、美鈴は彼女の心の底からの叫びが聞きたかった。そして、小さな呟きとして放たれたそれは、美鈴の心を苦しいほどに揺さぶった。
その願い、承ったよ、と美鈴は心の中だけで答える。
とはいえ、まさか泣くとは想像もしておらず、美鈴は言葉に詰まっていた。やがて、香奈が、濡れた、恨みがましい目で美鈴を見た。
「意地悪ね。まさかこんな仕返しされるとは思わなかった。ちょっと昔の話をしただけなのに」
意地悪のつもりでは全くなかったけれど、美鈴は話に乗っておくことにした。
「このくらいで意地悪なんて言ってたら、私の話相手は務まらないけどね」
「じゃあ次はどんな意地悪をしてくれるの?」
「そうね。カエルは好き?」
「どちらかといえば、きらい」
「じゃ、ちょうどいいかな」
それから、美鈴はつい昨日の、学校での出来事を話した。香奈は、えぇ、とあからさま嫌悪感を示し、美鈴はその様子を楽しんだ。話せることはいくらでもあった。何しろ、恵理依とその一派のばかばかしいいたずらはほぼ毎日に及んでいたのだから。いじめられてるの、と不安そうに訊く香奈に、美鈴はないない、と笑い返した。あれは、単にあいつらが頭悪いだけだから、と。
一時間ばかり話し込んでから、美鈴ははっと時計の示す時刻に気付いた。すでに午後三時を回ろうとしている。今日中に脅迫映像の撮影を終え、凄惨に見えるよう編集し、少し面倒なやり方で一般の目にさらさなければならない。今から全力でやっても間に合うかどうか、というタイミングだった。
そろそろ帰るね、と告げた美鈴を、香奈は寂しそうな目で見つめた。じゃ、と手を上げると、心細そうに言葉を投げかけてきた。
「もう一度くらい、来てね」
きゅっと胸が苦しくなる。もう一度、の前にさりげなく隠されているであろう言葉――それは、「私が死ぬ前に」であるに違いなかった。
美鈴は気付かなかったふりをした。
「暇になったら来る来る。何度でも来るから」
「ほんとね?」
「ほんとほんと。私が嘘ついたことなんて……まぁいっぱいあるね」
次々と脳裏を過ぎる、かつての悪行の数々に、美鈴はうんざりしてため息をついた。香奈がにやり、と意味ありげに笑って言う。
「そうね、エリィに約束なんて似合わないよね。どっちかっていうと、しといて破る方?」
何か今の時点でしてあげられることがないか、考えた。エリィを覚えていてくれた香奈にとって、楽しいに違いないこと――それは、これから美鈴がやろうとしていること。
美鈴は、これからの計画を鑑みて、進行に支障のない部分に少し面白い企画を導入することにした。香奈にも、この事件に関わってもらおう――ただし、美鈴の敵役として。
できるだけ不敵に見えるように笑って見せる。
「じゃ、条件付けちゃおうかな。クリアできたら、来てあげる」
「え、なにそれ? ぜんぜん話違わない?」
美鈴は、枕元の小さな机にあったメモ帳にとある電話番号を書き付ける。
「今から一週間後に、この番号に電話してみて。そこに、私のボイスメッセージがあるはずから、それを聞かせてください、って頼む。オッケー?」
「うんうん、オッケー」
香奈は目を輝かせる。浮き浮きしている彼女を、多少なりとも傷つけてしまうかも知れないのは申し訳ないなぁと思う。だが、ここで美鈴がこの内容を話しているというところから、香奈ならば事の顛末に気付いてくれるはず。
「それを聞いた上で、私がやろうとしていることを当てて、止めてみせて」
「止める? どういうこと」
「つまり、私の敵になってってことね」
「えぇ、そんなの無理、私、ここから動けないのよ?」
「まぁ別に使えるものは何でも使っていいし、体力が必要なものでもないと思うし」
「うーん、すごく難しそうね。エリィの敵なんて」
「大丈夫大丈夫、香奈ならいい敵になってくれそうだから話してるの。そうそう、言っとくけど、最初のメッセージを聞くのがまずそんなに簡単じゃないかもしれないから、聞けなかったらもうそこで香奈の負け。私はもうここに来ません」
そんな、と香奈は寂しそうな顔をする。美鈴は、あえてすっぱり断ち切るように、じゃ、と手を上げた。
「健闘を祈る」
「そっちも。何だか知らないけど」
美鈴は香奈と笑い合って別れた。
足早にアジトへと帰還してみれば、仕事を言いつけておいたはずの三人はのんびりソファに腰掛けたり、椅子に座ったりして、談笑していた。仲のいいのはいいことだけれど、今はとにかく一刻も惜しい状況だ。美鈴は思わずキレていた。
「やる気がないなら警察に突き出すわよ?」
言っていてどうも変かもと思ったが、きりきりとにらみつけていたのが功を奏したのか、三人ともしょんぼりと俯いて黙りこくった。まずは本田を呼びつける。
「本田さん、どれだけ上達したか見せてもらうから来て」
本田は、ひっと悲鳴のような声を上げてから、のろのろと美鈴について撮影部屋へとやってきた。ほら、早く、と促すと、本田は椅子に縛り付けられたぬいぐるみを、ばこん、と新聞紙を丸めた棒で殴る。ぬいぐるみは、椅子ごとごとん、と後ろに倒れ込んだ。
じっと見つめる美鈴の前で、本田は一仕事終えた、というようにふぅとため息をついた。
「で?」
「は、はい?」
「これだけかって訊いてるの。まさかこれでお終いじゃないでしょうね?」
「い、いや、そんな、まさか……」
しどろもどろの本田から棒を奪い取って、倒れたぬいぐるみの腹の辺りをえぐり込むように叩き抜いた。吹っ飛んだところを足で力一杯蹴飛ばし、ごろごろと転がっているさなかに頭部をこれでもかと踏み抜き、とどめに再び棒で腹の辺りを打ち据える。
「私はこういう絵がほしいわけ。わかった?」
「そ、そんな、こんなことしたら死んじゃいますよ……」
「そういう風に見せたいんだから当然でしょ。私は大丈夫だから。クッションとか入れとくから、あなたはとにかく力一杯やって。いい? できなきゃ警察行きだからね?」
本田は、はい、と力なくうなずいた。
本田が、今度こそもう少しまともにぬいぐるみを殴打しはじめたのを確認してから、美鈴は神崎の元へと赴いた。神崎には、映像に使用する小道具を作ってもらっていた。
見せて、と頼むと、神崎はおそるおそる作品を差し出してきた。
一つは、木製のバットにゴムシートを巻き、銀色のラッカーで色を付けた、疑似金属バットだ。さすがに、本物の金属バットでは危険かもしれない、と感じる感性は美鈴にもある。神崎作の疑似金属バットは、明るい場所でよくよく見ればあまり出来のいいものとは言えなかった。だが、薄暗い部屋で使う分には、問題ないだろう。
試しに思いきりスイングして、神崎の腰辺りを殴ってみた。ぐはっとうめき声を上げて、地面に倒れ伏す神崎に、美鈴はにっこり笑いかける。
「いい感じね。どうもありがとう」
「……いえ、お褒めにあずかって光栄です……」
ところで妹さんに会ってきたの、と言いかけた。どうにか思いとどまったのは、言わないで欲しい、という西島の言葉のせいもあったが、どちらかといえば、この期に及んでも何も言わずにいる神崎に、理解できないものを感じたからだ。妹の命を救うためにどうか人質になってください、と懇願されたとしても、美鈴はきっと人質になってやっただろう。けれど、神崎は何もいわずに、警察に行こうという西島の言葉に賛同し、そして今は美鈴の命令に従って手を動かしている。
香奈のことがそれほど大事ではない? それとも、他人にすがりつくのはみっともないと思っているだけ? ふと気付く。神崎は、どの程度今回の件に積極的なのか、あまり見えてこない。
「この映像を見せたら、私の家族、どう思うかな。神崎さん、どう思う?」
すでに、美鈴を縛るためのロープの準備に移っていた神崎は、美鈴の質問に答えないまま、黙々と手を動かしていた。聞こえなかったのだろうか、といぶかしく思い、しゃがみ込んで目線を合わせようとしたが、ふっと目を逸らされる。
何だろう、この腹立つ態度は。バットで殴り倒したからか。もう一度殴り倒してやろうか、と立ち上がりかけたところを、神崎の言葉に引き留められた。
「君は、家族を何だと思っているんだい?」
そのさらりとした問いかけは、杭か何かのようにぐさりと美鈴の心に突き刺さった。
家族って何? そんなの、美鈴が訊きたかった。脳裏に過ぎるのは、もう六年も前に死んだ母と過ごした、ほんの一時の記憶。彼女は、一人で美鈴を育てるために忙しく働いていた。一緒に食事をとれるのは、週に二、三度くらいだった。あまり喋るのが上手な人ではなかった。代わりに、美鈴ばかり喋っていて、時々笑ったり相づちを打ってくれたりした。
彼女が生きていたら、美鈴の人生は違うものになっていたのだろうか。
そんなことをぼんやり考えつつも、美鈴は全く別のことを口にしていた。ドラマとか小説だと、たしかこんな感じだったはず。
「一緒に暮らしていて、心から信頼できて、思いやり合うことのできる間柄。でしょ?」
なにそれ。そんな嘘っぽくて曖昧で危ういものを、信じられるわけがない。月には天使が群れをなして棲んでいるとでも言われた方が、よほど信じられそうだった。
神崎が、美鈴を見ることなく、ぽつりと言う。
「君、それ、全然本音じゃないよね」
「わかったようなこと、言うのね」
「そりゃ言うさ。だって、もしそれが君の本音なら――」
神崎が、不意に視線を上げた。思いがけず真摯な瞳に射すくめられた。
「――こんなこと、できるわけがない。君は、家の人たちを、家族だとは思ってないんだろう? 別に事情を詮索するつもりもないし、僕らに協力してくれるのはありがたいけど、僕には君という人が全く理解できないよ」
神崎は、自分の家族については何も語っていない。それなのに、美鈴を糾弾するための言葉が、彼に関する全てを雄弁に語っていた。彼は、自分の家族を、香奈を大事にしているのだ、と。
「神崎さんは家族、いるの? 結婚してるの?」
「結婚はしてないけど、妹がいる。もちろん、両親もいる」
神崎は、それ以上は何も言わなかった。黙々と作業を続ける彼に、美鈴は「バット、ありがとう」とだけ告げて、その場を去った。どうやら、美鈴の作戦は彼にとっては許容しがたいものであるようだった。とても誘拐犯とは思えない人情派だ。だが、不思議と悪い気はしなかった。大事に思われている香奈を、羨ましいと感じた。
最後に西島の元へと赴くと、神崎とのやりとりが聞こえていたのだろう、にやにやと笑いかけられた。こそこそと小声でからかうように言う。
「あいつな、あれで結構純情なんだよ。君は香奈ちゃんと年も近いし、香奈ちゃんがこんなことしたらショックだとか思ってたんじゃないのか。まぁ許してやってよ」
「怒ってない。ただ、なんかね……」
神崎に問われて考え込んだこと。美鈴も、あんな風に思ってくれる家族が欲しかった? それは、少し違うのだろう。そうではなくて、なんで美鈴にはあんな風に思ってくれる家族がいないのだろう、という理不尽さであったり、寂しさであったりするのかもしれない。
「ま、いいや。それより、西島さん、パソコンの用意できた? あと、ビデオカメラはもう使える?」
「おう、もうばっちり。元システムエンジニアを舐めるなっての」
「……それにしては時間かかってなかった?」
「それを言われると痛いが……」
苦笑いしつつ、西島は窓の外に向けたビデオカメラを作動させ、録画した映像をパソコンに取り込んで見せた。へぇ、と画面に見入る美鈴の前で、さらに西島は得意気に映像編集ソフトを開き、撮ったばかりの映像にエフェクトをかけたり、トリミングして見せたりする。この手の作業は全くしたことがなかったが、彼に手伝ってもらえばそれほど時間をかけずにそこそこのものが仕上がりそうだった。
少し触らせて、といって映像を切り取ったり貼り付けたりしていると、黙ってその様子を見ていた西島が再び小声になって訊ねかけてきた。
「本当にやるのかい? 君は本当にそれでいいんだね?」
その言葉に二重の意味があることにはもちろん気付いている。本田と神崎、どちらとの会話もさりげなく聞いていたのだろう。
まるで美鈴の心配をしているような――いや、この人は本当に心配しているのだろう。
暖かな光を全身に浴びているような、不思議な感覚が溢れてくる。
どう答えてよいものかわからなかった。もちろん答えはイエスに決まっている。それなのに、ただイエスとだけ答えることはためらわれた。それは失礼だと思った。
いつもの美鈴なら、昔のエリィなら、美鈴は構わずにゴーサインを出し、突っ走ったに違いなかった。けれども、今の美鈴には、それがひどく愚かな行為に感じられる。
言葉はするりと自然に出てきた。
「私、自暴自棄になってるだけなのかも」
西島は何も言わない。ただ、聴いている雰囲気だけが確かに伝わってくる。
ぽつり、ぽつりと締め切れていない水道から滴り落ちる水滴のように、美鈴は自分の事情を断片的に語っていた。本当は野伊木美鈴でないことも、誘拐されてもいいように担ぎ上げられただけの孤児であることも、そして家での扱いも。
「でも、お金さえあれば、私はあの家から逃げられる。一人で生きていける。それは事実でしょう?」
「……そうだね」
「だからね、実際のところ、ためらう理由なんてないのよ。あいつからお金をぶんどってやれるなら、気分もせいせいするし。その上、自分の未来まで自由にできる」
「……そうだね」
西島が、ぐずっと鼻をすすり上げた。何かと思ってみれば、西島はだぁっと両目一杯に涙を溢れさせているのであった。
「なに号泣してんの。こんなの、よくある話でしょ?」
「いやないね、僕はこんな不遇の人生を歩んでる人、見たことも聞いたこともない」
「じゃ、人生経験が足りてないのよ。さ、いいから始めましょ。急がないと間に合わなくなっちゃうから」
ちょっとメイクするから待ってて、といって三人にカメラの設置や照明の具合の確認といった調整を頼んでから、美鈴は鏡に向かった。洗面所にある大きな鏡の前で、買ってきてもらったメイクセットを開き、まずはパテで傷に見えるような形を頬や顎などに作る。ペイントで地肌の色に合わせてから、赤や茶、紫などのライニングカラーで打撲痕のような色へと塗り替えていく。さらに、ところどころに切り傷に見えるような筋を入れて紅く色を付ける。ほんの十分ほどで、見違えるように痛々しくなった美鈴がいた。正直、自分で見ていても気分が悪くなるレベルだった。
さらに、同様のメイクを二の腕や手、足などにも施し、全身ぼろぼろであることをアピールする。その上で、念のため、服の下に段ボールをたくし込んで、お腹の辺りを保護しておく。三十分もしないうちに、全身を殴打されてぼろぼろになった少女が一人できあがっていた。これだけでも十分脅迫に使えそうな気がするが、念には念を入れたい。下手をすると警察に通報すらされていない可能性もあるので、この一般公開する映像がショッキングであることが重要となる。
美鈴が撮影部屋へと入っていくと、三人とも昨夜のように完全に凍りついた。無視して椅子に縛り付けられているぬいぐるみを外し、その椅子に座る。
「ほら神崎さん、早く縛って。アザができるくらい強めでいいから」
声を掛けると、はっと我に返ったように神崎が足下のロープを拾ってやってきた。まずは手だけ、次に上半身、足、と縛ってもらう。
黙々と作業していた神崎だったが、そろそろ身体も全く動かなくなってきたな、というところで、不意にぼそっと呟いた。
「さっきは、少し言い過ぎた。ごめん」
「いきなりどうしたの?」
「いや、別に」
それ以降、神崎は口をきかず、いったいどういう心変わりなのかと首を捻っているうちに、そういうことかと思い至った。おそらくは、西島に打ち明けた話が聞こえていたのだろう。そして、同情でもしたのだろう。いらない同情だ。彼の語ったことは、結局正しいのだから。
「じゃ、西島さん、アイマスクお願い」
「はいはい」
なぜだか苦笑しながらやってきて、アイマスクを美鈴の目に被せる。このアイマスクは、もちろん一般公開しても名前と顔が一致しないように、という程度の配慮でしかないが、おそらくは映像の痛々しさを増幅させる作用も持っているはず、という期待も少しはある。
「西島さん、カメラ回ってる?」
「今撮り始めた。後から適当に編集するから、このままにしておくよ」
「了解。じゃ、本田さん、準備はいい? 時間は適当だけど、三、四分で十分よ」
「は、はい、……」
本田には、全身真っ黒の服装をつけてもらってあり、念のため、目出し帽もかぶってもらっている。カメラに映っても特に問題はないはずだが、どうやら緊張しているようだった。緊張してるのはこっちの方よ、と言いたくなる。
「あ、それと、本田さん以外は絶対にカメラの視界に入らないように。本田さんも、できるだけ全身が映らないように気をつけて」
西島と神崎が口々に返事し、大分遅れて本田が蚊の鳴くような声を返してくる。
本当に大丈夫なのか、急に不安になった。やはり本田には無理だったのでは? ただ体格が大きいというだけで決めるべきでなかったのでは?
そのまま数分待っても、誰も動く気配はなく、次第に美鈴はいらいらし始めた。いったいいつまでこんな状態でいればいいの、と怒鳴りそうになるのを堪えた。代わりに、カメラの前で硬直しているであろう本田に、噛んで含めるように話しかけた。
「いい? 本田さん。あなたが少しでも手加減したら、私は撮り直しを命じる。そしたら、それだけ余計に私が痛い目に遭う。私がぬいぐるみにして見せたみたいになるまで、私は何度でも撮り直させる。私を少しでも思いやってくれるなら、最初の一回で決めて見せて」
本田が息を呑むのが、音だけでわかる。
本田が動いたのがわかり、美鈴はぎゅっと目をつぶった。こうしてみると、アイマスクというのは便利だった。本当は怖くて仕方ない、自分の本心を余すところなく隠してくれる。
全身に神経を尖らせていたおかげで、最初の一撃に見舞われる瞬間が見ているかのように予測できた。息を止める。覚悟していたけれど、胴に巻いた段ボールのおかげか、打撃そのものの痛みはそれほどでもなかった。それより、椅子が倒れて肩と腕を床に打ち付けた方が痛い。
続いて腹や肩をバットが叩きつけるが、本田になおもためらいがあるのか、痛いというほどでもない。それでも、練習のときの臆病な様子に比べれば、本田はよく頑張っている方といえた。
それから、幾度かバットがふるわれ、時々身体が右を向いたり上を向いたりと転がった後、全てがしんと静まった。近くから聞こえる呼吸音で、本田が疲労困憊の体でいるらしいことがわかる。
これ以上は意味がないと考え、美鈴は「もういいわ」と声を掛けた。すぐに、アイマスクが外され、西島と神崎が顔を見せた。二人とも、顔面蒼白になっていた。
「すぐにほどくから」
焦ったように神崎がいい、西島が椅子を起こし、美鈴はじっとしていた。
何度か床に打った両肩と、二の腕やすねが床とこすれてできた傷が痛い。それ以外にはどうということはなく、美鈴としてはちょっと外で遊び回って怪我をした程度の感覚だったが、周囲から見ると全く違うらしい。目の前の西島と神崎は、まるで死にかけの病人を前にしているかのように青い顔をしている。
緊張が緩んだせいか、縄をほどかれても、すぐには動けなかった。首を巡らして辺りを見回してみるも、本田の姿だけ見当たらない。
「……本田さん、どうしたの?」
「泣きながら外に走っていったよ。かわいそうに」
西島がさも憐れそうに言う。なんて貧弱な精神してるんだろ、と美鈴は情けない気分になった。別に泣かなくてもいいんじゃないの、と思う。
立ち上がろうとしたが、うまく力が入らなかった。痛みがどうこう、という以前に、自分は結構疲れているらしい、と気付く。
「……肩、貸してくれない?」
西島と神崎は、無言で肩を貸してくれた。美鈴の部屋のソファまでどうにか連れて行ってもらう。ふかふかしたクッションに座り込むなり、そのまま寝てしまいたい誘惑にかられた。そんな美鈴の様子を察したかのように、西島が恐る恐る声を掛けてくる。
「……病院行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫だから。ちょっと疲れただけ。それより、映像、見せて」
西島に言うと、西島は間もなくパソコンを持って現れ、美鈴の目の前に机を置いて画面が見やすいようにしてくれた。西島がマウスを操作すると、映像が再生され始める。
薄暗く陰気な部屋。椅子に縛り付けられた美鈴。メイクのお陰もあって、すでに悲惨な姿となっている。何の気なしに俯いていたが、そうしていると相当のダメージを受けてぐったりしているように見えた。
不意に、全身黒ずくめの大柄な男が現れ、これでもかというくらいに暴行を加えていく。うめき声を上げながら、見るも無惨に翻弄され、全身痣と傷だらけになっていく(ように見える)美鈴。実際のところは、次第にメイクが崩れていっているだけだが、意外にも傷がどんどん増えていくような効果を作っている。見ていて初めて気付いたが、口元から血が流れていた。慌てて自分の口元を拭うと、かなりの量がこびりついていた。
数分の後、椅子は横向きになり、美鈴の首はだらんと無造作に垂れ下がり、ぴくりとも動かなくなっている。死んでしまったのではないかと思うほどに不気味な静けさがあった。
心臓がどくどくと高鳴り、嫌な汗をかいていた。こういうのが欲しかったのだ。これなら大丈夫。誰が見ても、美鈴をかわいそうだと感じるだろう。誰が見ても、美鈴の命が危ないと察するだろう。
もちろん、端から身代わりのつもりで美鈴を家に招き入れた野伊木浩一だけはそんなことは思わないに違いない。だが、そんなことはどうでもいい。これを野伊木の名前と共に一般公開さえしてしまえば、彼は少なくとも誠意ある対応をしてみせないわけには行かなくなるだろう。そこが、普通の誘拐事件との最大の違いだ。「人質の安全を保証したいから身代金を払う」のではなく、「人質を見殺しにしないことを見せるために身代金を払う」という形に、持って行かなくてはならない。そして、そのためにはできるだけ多くの人に、今、野伊木家の娘が酷い目に合っているということを知ってもらわなくてはならない。
「……で、これからどうするの? 君の家に届ければいいのかな?」
のんきに訊ねてくる西島をにらみつける。
「何間抜けなこと言ってんの? これからこれを一般公開するのよ」
「はい? 一般公開? 何それ、どうやって?」
素っ頓狂な声を上げた神崎に、美鈴は、少し詰まったり戻ったりを繰り返しながら、ゆっくり説明していく。
話を聞き終えた西島と神崎は、いつかのようにぽかんとした顔をしていた。
「わかった? わかったら早くとりかかって。急がないと間に合わなくなるわよ! そうそう、必ず手袋をつけて作業してよ、指紋ついたらまずいから」
は、はい、と神崎が、少し遅れてはぁとため息をついた西島が作業に取りかかる。
ソファに深々と座って、彼らの仕事ぶりを眺めているうちに、ようやく一番難しい部分が終わったのだ、という満足感と達成感が全身を包み込んだ。そういえば、怪我したところを早く消毒しないと、とか、メイクを落として風呂に入りたいな、と考えているうちに、うつらうつらとしていた。
はっと気付いて顔を上げると、二人は全く同じ姿勢のまま作業を続けていた。ただし、パソコンの前に座る西島の脇には、映像を焼いたDVDが積み上がっており、その隣りで神崎がせっせと宣伝文句を印刷した紙をディスクケースに挟み込んでいる。
ぼうっとそんな二人を眺めているうちに、再び眠くなってくる。が、その眠気はすぐに吹き飛んだ。本田が扉の隙間から顔を覗かせていたからだ。何気なく視線をやると、本田は思いきり後ずさって尻餅をついた。
「何やってんの? 仕事手伝ったら?」
声を掛けると、本田はそのまま廊下で正座し、速やかに土下座の体勢になる。
「ほんっとうにすみませんでした!」
建物を揺らすような大声で、本田はそう謝ってきた。虚を突かれて、美鈴はしばらく無言にならざるを得なかった。そうか、こういうときには謝ったりするものなのか、と妙なことに感心していた。美鈴がやれって言ったんだから気にしなくていいのに。
何分経ったのだろう。本田はいつまでもそうしていた。
美鈴の中に、いじめてやりたい気持ちがわき上がってくる。
「謝れば済むと思ってるの?」
「いえ思ってませんが、まずは謝らねばと……」
「どう落とし前を付けてくれるつもり?」
「は、あの、何でもさせて頂きますので何なりと仰って下されば……」
「じゃ、死んでくれる?」
「は……え?」
本田がまさか、という表情で顔を上げた。その、少しタヌキっぽい雰囲気に、美鈴は思わず吹き出していた。可笑しさが果てしなくこみ上げてきて、腹を抱え、声を上げて笑った。腹が痛くなってくるのも構わずに笑い転げた。ちら、と見ると、本田は土下座の体勢はそのまま、きょとんとした顔をしていてますますタヌキっぽかった。
はぁおかしい、と俯いてどうにか呼吸を整えていると、西島が声を掛けてきた。
「じゃ、僕ら、これ配ってくるんで。おい本田、神崎、行くぞ」
「へーい」「は、はい」
三人が、紙袋一杯のDVDを携えて部屋を出て行った。
その足音が工場を出て行くのを確かめてから、美鈴はどうにか立ち上がって、机の方へと向かった。手で口元を拭い、手全体に血を広げてから、印刷前の白い紙をとり、ペンを握る。最初の脅迫状の文面はすでに頭の中にあった。あとは、できるだけまともでない状態を思わせる字に注意して書くだけでいい。
書き終わった紙を三つ折りにして封筒に入れ、野伊木の家の住所を書くところまでは素手で行った。それから、手袋をはめて封筒に切手を貼り、ビニール袋に入れて西島たちへのメッセージを貼っておく。これで、明後日には脅迫状が届くことだろう。
その安心感と共に、美鈴はソファにばったり倒れ込んだ。