幕間その一 野伊木家にて
美鈴が午後九時になっても家に帰ってこないとわかったとき、恵理依は強烈な不安と後悔に捕らわれた。何かあったに違いないと直感し、そしてそれがへそを曲げて先に帰ってしまった自分のせいであることを理解していた。
何て失敗。
付き人としてあるまじき、という意味ではない。玲子などは世間体を気にするだろうが、そして浩一に至っては、何のための使用人だ、などと怒るだろうが、恵理依にとってはそんなことはどうでもよかった。
喧嘩さえしなければ、と思いかけ、そもそもあれは喧嘩だったのだろうか、と疑問が浮かぶ。美鈴が嘲るように言った台詞が許せなかった。けれど、そもそもなぜ美鈴はここまで恵理依を嘲るようになったのか。自分は、自分たちはどこで間違ったのか。
答えのない問いかけに息苦しくなって、階下へ降りると、ちょうど浩一が家へと帰ったところであった。
おかえりなさい、と言おうとする前に、浩一が口を開いていた。
「美鈴が帰ってないというのは本当か」
よくよく見れば、血相を変えていた。執事辺りに事を告げられ、仕事を切り上げて、とるものもとりあえず帰ってきたのが明らかだった。
その様子を見て、やっぱりか、と恵理依は納得したような、安心したような、あるいはがっかりしたような、嬉しいような複雑な気分になった。確証は全くなく、ただ漠然とこれまで感じていたことが、今、不自然な事態になって露わになってきたような感じだ。
「ええ、美鈴お嬢様はまだお戻りになっていません」
恵理依は、できる限りいつも通りを装って喋る。けれども、その言い方は、かえって浩一の神経を逆なでしたようだった。
「探しに行ったのか? 携帯電話はどうした? 警察に連絡したか?」
「いいえ。何か用事がおありになるかもしれませんので、今までお待ちしておりました。携帯電話は通じないようです」
「そんなわけないだろ! いつも必ず時間通りに帰ってくるんだぞ!」
浩一がどなり、何事かと玲子が姿を現した。
「どうしたんです、浩一さん」
「おい玲子、美鈴が帰ってないそうじゃないか。何でほったらかしにしてるんだ」
「そんなこといっても、すぐ帰ってくるかもしれませんし」
玲子は大して気にした様子もなく言う。当然だろう、何しろ自分の子ではないのだから。だが、そんな玲子の投げやりな態度を目にして、浩一はついに堪忍袋の緒が切れたようだった。
「お前だって覚えてるだろ! 前のときがどうだったか。あのときだってこうだったんだぞ」
浩一が言っているのは、前の美鈴、つまり今の恵理依が誘拐された事件を指している。恵理依自身には、ただ見知らぬ人たちに囲まれて怖かったという記憶しかないが、家では色々な言い合い、というより喧嘩があったらしい。今でも、玲子はあのときの話を嫌がる。
「わかってますけど、もう少し落ち着いたらどうです? お稽古が少し遅れているだけかもしれませんし」
玲子のいさめるような言葉は、しかしさらに浩一を怒らせたようだった。
「お前、いくら本当の自分の子供じゃないからって、あまりにも無責任すぎないか。今は、あの子がお前の子供なんだぞ」
ああそれは言ってはいけないのに、と恵理依は内心呆れる。『いいか、これからは恵理依は美鈴で、美鈴は恵理依だ。何があってもそれは変わらないし、みんな家族なんだ』と演説をぶっていたのが台無しだ。
恵理依は、この辺りが潮時だと判断した。
「ねぇ父さん、みっともないよ?」
最初にルールを破ったのは、ルールを作った浩一自身だ。文句は言わせない。
振り向いた浩一をにらみつける。
「あのさぁ、あの子だって中学三年にもなってるんだよ? いろんな人付き合いだってあるだろうし、たまに遅くなることがあったって不思議じゃないよ」
きっとそれは、自分自身に対する言い訳でもあったのだろう。自分は不安で仕方ないくせに、浩一がそうして心配してみせるのは気にくわないのだ。
そう、少なくともこの時点では、恵理依はこう考えていた。あの美鈴が、簡単に誘拐されたりなどするはずがない、と。
恵理依の言いぐさに、浩一は気圧されたように黙りこくった。恵理依は、とどめとばかりに押し込んだ。
「少なくとも私だったら、うんざりするね。一時間帰りが遅れたくらいで大騒ぎ? 何それ。操り人形じゃないっての。少しは子供のわがままを認めるくらいの器を持ったらどうなの?」
浩一はまだ何か言いたそうにしていたが、何とかこらえたようだった。やがて、ぼそりとつぶやいた。
「夕食まだなんだ。君らもまだなんだろう。久しぶりに一緒に食べないか」
玲子がええ、と頷き、恵理依は恵理依へと戻った。
「ただいま、ご用意いたします。今しばらくお待ち下さいませ」
久々に浩一を含めてとる食事は、いつもとは随分雰囲気が違っていて、恵理依にとっては満足のいくものだった。いつもならこうはいかない。
まず、美鈴が黙りこくっていて、会話には参加してこない。そればかりか、あからさまにあらゆる会話を無視しているので、恵理依にとっても玲子にとってもやりづらいことこの上ない。基本的には玲子と恵理依が化粧品やテレビ番組の話題で話しているばかりだが、まるで言下に全てを否定されているような空気は、不愉快といってもよいものだ。
それに比べれば、その日の夕食は、かつての野伊木家の普通の夕食風景に近いものがあった。恵理依が――つまり、本当の美鈴が誘拐される前の、今となっては懐かしい風景だ。
とはいえ、食事が終わればすでに午後十時を回っており、いよいよ恵理依の不安は全身を覆うほどに大きくなっていた。それは浩一も同じようで、ソファに座って新聞を読んでいる姿勢のまま、しかしどう見ても同じ場所を何度も目が行ったり来たりしている。
テレビを見て盛り上がっている振りをしながら、恵理依はただ、どうしようどうしようとだけ、呪文のように念じていた。浩一にあれだけの大口を切った手前もあり、一刻も早く警察に届けるべきだとは主張できず、けれども早く何とかしなければという焦燥感ばかりがふくれあがっていく。
午前零時を回った頃、リビングはまるで深海のような有様だった。誰も喋らず、誰も動かず、ただテレビから放たれる明るい笑い声が、空間を満たす。
午前一時に至り、ついに浩一が立ち上がった。
「警察に連絡するぞ。いいな?」
恵理依も、玲子も、何も言わなかった。言えるわけがなかった。
美鈴の身に何かあったのは明らかだった。
翌日、朝早くに警察から電話があり、美鈴の携帯電話が野伊木家のすぐ近くに落ちているのが見つかった、と連絡があった。誘拐されたとしか考えられない状況だった。昨夜の通報と合わせて、警察は本格的に美鈴を行方不明者として捜索を開始した。
その日、恵理依は、強制的に学校を休まされた。自分はもう大丈夫だ、と言い張る恵理依に対し、万一のことがあるかもしれない、と浩一も玲子も猛烈に反対した。心配してくれるのはありがたかった。けれども、その一方で、まるで予定調和のように、「身代わり」として連れてこられた咲州恵理依という少女が本当に誘拐され、本物の野伊木美鈴が安全に家の中で守られているという図は、恵理依にとっては我慢のならないものだった。
一日中、落ち着かずに部屋の中を歩き回ったり、階下へ降りて事態の進展がないかを確かめたりしながら、恵理依はそれでもまだ、少しだけ信じていた。美鈴なら、自分の力で何とかして帰ってきてくれるに違いない、と。
二年前の事件のときを思い浮かべ、すぐに何らかの反応があるに違いない、と踏んでいた一同だったが、予想に反し、その日、野伊木家には何の連絡もなかった。
時間が経つにつれ恵理依の中で不安ばかりが膨れあがっていった。もしこのまま、美鈴が帰ってこなかったら? もし身代金目的ではなく、変質者か何かの仕業だったとしたら? もし、美鈴がすでに生きていなかったら?
一度は会社へ出かけていった浩一も、およそ仕事が手につかなかったらしく、夕方早々に帰ってきた。帰って来るなり不機嫌そうな顔で、何か連絡は、と訊ねてくる。対して、恵理依はただ、ないよ、とだけ答えた。美鈴がいないのに使用人のふりなどしても、むなしいだけだった。
時々執事がお茶やコーヒーを持ってくる以外は、三人で黙ってリビングのソファに座っていた。これほど不愉快で不安な時間は、恵理依の記憶している限り、初めてだった。そして、同時に、二年前、浩一と玲子は同じような時間を過ごしたに違いないのだ、と思い至る。
何とかしてよ美鈴、と恵理依は心の中で念じた。もちろん、何も起きるわけがなかった。
ろくに眠れぬまま、ただ寝返りばかり繰り返して迎えた翌朝、恵理依はテニス部の友人数人からメールをもらった。『大丈夫か』といった、体調を心配するものに混じって、『今学校で話題になってるんだけど』という前置きで、ある動画共有サイトへのリンクが張られていた。いったいこの緊急事態に何を、と無視しかけたが、メールの最後にあった一文が気になった。『これ野伊木さんに似てないかってみんな言ってるんだけど、確かめてくれない?』
美鈴が行方不明になっていることは、学校の連中はまだ知らないはずだった。学校には、ただ体調が悪いので休むとだけ連絡してあった。
いやな予感がした。
はやる動悸を抑えながら、恵理依はパソコンに向かい、リンクのあったサイトへとアクセスした。
それは、たった三分余りの映像だった。地下室のような、薄暗い室内。まるでホラー映画のような、少し青黒い背景。工具のようなものが複数掛けられている壁。埃やゴミの散らばった、汚らしいコンクリートの床。おそらくは白熱電球一つだけの粗末な照明。そして、画面中央には、アイマスクを付けられ、椅子に縛り付けられた少女。
目が隠れていても、それが美鈴であると恵理依にはすぐにわかった。
心臓を射貫かれたような衝撃に呆然とする恵理依の前で、事態はただ淡々と進んだ。
腹を蹴り飛ばされて、美鈴が椅子ごと倒れる。倒れたところを、金属バットで滅多打ちにされる。頭を踏んづけられる。引き起こされて再び腹を膝蹴りされる。口の端から血が垂れており、たまに咳き込んでは血をまき散らす。美鈴はただされるがままになっており、反抗する気力もなくなっているようだった。音声は入っておらず、それがかえってことの凄まじさを否が応にも想像させた。
恵理依はしばらく茫然自失としていたが、はっと我に返り、慌てて階下へと駆け下りた。出勤の準備をしていた浩一、食卓で朝食にありついていた玲子と顔を合わせた途端、不意に熱い滴が両目に溢れた。
何であの子があんな目にという理不尽さと、自分のせいであんな酷い目に、という罪悪感が、恵理依からあらゆる見栄も意地も根こそぎ奪い去った。まるで小さな子供のように泣きじゃくりながら、恵理依は途切れ途切れに、今見たばかりの動画のことを両親に報告した。二人とも色を失った。