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二 誘拐

 何か人声がする。

 大人の男何人かが、談笑していた。誰だろう、とくらくらする頭の中で考えてみる。けれど、どう考えても、美鈴の知っている人ではないようだった。

 うっすら目を開けてみると、小さな蛍光灯に照らされたテーブルを囲んで、三人の男が何かを飲んでいた。あのコップの中で揺れる黄褐色の液体はビールだろうか。

――いや、でも俺、緊張したわぁ。

――俺もだって。誘拐なんて初めてだもんなぁ。

――そりゃそうだ、みんな初めてだっての。

 あっはっは、と大声で笑う男達。なんだこの緊張感のなさは。美鈴は、半分呆れ気味に男達の様子を観察していた。

――いやぁでもなんかもう、俺一仕事終えた感じっすよ。

――あれっすかね、プロジェクト完遂、みたいな。

――そうそう、それそれ。

――何言ってんだおまえら、これからが大仕事なんだぞ。身代金せしめないといけないんだからな。

――ですよねぇ、俺今から憂鬱になってきましたよ。本当に上手くいくんですかねぇ。

――なんか俺、あの子がかわいそうになってきちゃって。あんな子を人質にとるなんて、俺ら最低じゃないっすか。

――何だ神崎、今さらだろ。血塗られた道よ。

――かっこよく言ってもだめっす、先輩。俺も神崎に同意っす。もっとこう、図太そうな子にしませんか。

――ばかいえ、今さらすり替えられるわけないだろ。

――ですよねぇ。

 口々にため息をつく男達。

 なんだこの茶番は。ため息をつきたいのは、美鈴の方だった。文句の一つも言ってやろうと身を起こす。けれど、すぐに両手両足を拘束されていることに気付いた。何だ、ちゃんとやることはやっているではないか、となぜかほっとしている自分に驚く。

 美鈴が身じろぎしたことに気付いた男達が、はっとしたようにこっちを見た。何と、どいつも目出し帽を被っており、さながら銀行強盗のようだ。

 リーダーらしき男が立ち上がり、近づいてくる。

「お、お嬢ちゃん、悪いが誘拐させてもらったぜ」

 少しどもり気味で、びくびくしているのがばればれである。なんて情けない。しかも、手足は拘束しておきながら、口には何もなし。これでは、悲鳴でも何でも上げ放題ではないか。別に誘拐のプロに誘拐されたかったとは思わないが、しかしこれは、あまりにもあまりではないか。

 いわばこのためにお嬢様の座に担ぎ上げられた美鈴が、ようやく本物の美鈴を守る、という役目を全うした美鈴が、なぜこんな奴らに、という不満が胸の奥で燻っている。

「次は?」

「は?」

 問いかけると、リーダーは本気で意味が分からないという顔をした。バカかこいつ。

「次は何するのって訊いてるの。私、暇じゃないの。身代金取るなら早くとって解放して。それとも、殺す? それならそれで早くしたら? 逃げるわよ」

「ば、ばかいうなよ、こここ、殺すわけないだろ、何恐ろしいこと言ってるんだ」

「じゃあ早く身代金でも何でも取ったら? とにかく、私は忙しいの」

 もっとも、と心の中で呟く。きっと身代金なんて取れないけどね。なにしろ、美鈴は誘拐されてもいいようにと担ぎ上げられた、身寄りのない人間。浩一が美鈴のために金を出すとは思えず、ただ次の「身代わり」を探してくるだけだろう。全く、二年余りの間に二度も身内を誘拐されるなんて、どれだけ呪われた家系なのか。

 そう。おそらく、身代金など要求しても全く音沙汰はないだろう。そのとき、美鈴はどうなるのだろう。大人しく解放されるとは思えない。こんな、虫も殺せないような顔をしているけれど、きっとこいつらとて、要求が通らないと見れば、ある時点でぷっつりと切れて、凶悪な本性を見せるに違いない。

 急速に不安が心を占めていく。二年前に、全て諦めたつもりだった。けれども、まさか生きることまで、諦めなければならなくなるなんて。

 悔しい。

 それは、二年前にとうに捨てたはずの、美鈴の嫌いな感情。何かに固執していることを思い知らされる、醜い感情。

「お、お嬢ちゃん? 大丈夫?」

「だから! 次はどうするのか、訊いてるの!」

 思いきり叫ぶと、リーダーは何歩も後ずさった。

「いや、ほら、少し落ち着いて。なんか飲む? 牛乳とかあるよ」

「あんたたち、バカにしてるでしょう。私なんかのために、金を出すとでも思ってるの?」

「だってお嬢ちゃん、あの野伊木浩一の娘なんだろう?」

 野伊木浩一の娘。

 その言葉を聞いたとき、美鈴の中で何かが弾けた。いや、吹っ切れたというべきなのだろうか。そう、美鈴は、野伊木浩一の娘のはずだった。けれど、誘拐された途端に、美鈴はそうではなくなってしまうのだ。なんて儚い立場に、なんて脆い場所に、自分はいたのだろう。もうどうでもいい。全てがばかばかしくなる。あいつが、美鈴から全てを奪ったあいつが、少しはうろたえればいいと思った。

「そうよ。けど、あのがめつい男がちょっとやそっとのことで金を出すわけないでしょう」

「いやちょっとやそっとって、娘が誘拐されたんだよ? 俺なら全財産出しちゃうけどなぁ」

 リーダーは本気で言っているようだった。この男は、妻子持ちだろうか? もしそれが本気なのだとしたら、その娘はなんて幸せなことだろう。

「甘い。そうね、少なくとも指くらい送ってやらないと、全く無視されるでしょうね」

「は? ゆ、指? 何それ、どういうこと?」

 はっと他の二人もまた息をのむ。三人の、あまりにもぬるい態度に、善人ぶった振る舞いに、加虐的な歓びがじわじわと美鈴を包み込む。

「私の指を切って送れって言ってるの。当然でしょう?」

 沈黙が室内を満たす。やがて、リーダーが焦ったように身振り手振りを交えて美鈴に語りかけてくる。

「な、何言ってんだかお嬢ちゃん、ね、少し落ち着こう。ほら、何か飲み物を用意してあげるからさ」

「その気がないなら、私は帰らせてもらいます。だって時間の無駄だもの」

「いやその気がないわけじゃないんだけど」

「だったら早く斧か何か持ってきなさい――あ、なんだあるじゃない」

 ぐるりと部屋を見渡すと、どうやら小さな工場の一室か何からしく、様々な工具に混ざって斧が壁に掛かっている。

「ほら、それ。見えないのそこのロンゲ」

 一番近くにいた、目出し帽から後ろに長い髪がはみ出している男に、顎で指さす。

「ひっ! お、俺っすか」

 びくっと飛び跳ねてから、ロンゲは斧を壁から外して、恐る恐る歩いてくる。

「そこの栗毛、私の手足の拘束を解きなさい」

「は、はい! 俺っすか!」

 目出し帽から茶髪がはみ出している男に、両手両足の拘束を解かせる。美鈴は、近くの小さな机に左手をのせ、ロンゲを見やった。

「ほら早く! 小指よ小指、他の指切ったら許さないから」

「そ、そんな、俺っすか」

 泣きそうな声で、ロンゲが斧を両手で抱えたまま、恐る恐る近づいてくる。その足取りは、まるで生まれたての子馬のように心許なさげで、苛々させられること甚だしい。

「あんたそれでも男? 指の一本で何をがたがたしてるわけ?」

「そ、そんな、指は大事っすよ」

「私がいいって言ってるからいいのよ」

 ようやく美鈴の傍らまでたどり着いたロンゲが斧を振り上げる。さすがに美鈴はぎゅっと目をつぶって、左手の小指にさようならを言った。今までありがとう、主に左耳をほじるときとかに役に立ってくれて。

 今か今かと待ち構えて一分近く、美鈴は変だと感じて目を開いた。目の前で、ロンゲが冷や汗をかいて固まっていた。美鈴と目が合うなり、ひっと小さく叫び声を上げて斧を取り落とし、だだっと後ずさる。

「やっぱムリムリ、俺絶対ムリ!」

 は? 何こいつ。ふざけてんの? よっぽど口に出して言ってやろうかと思った。

「お、おい本田、おまえ……」

 後ろの方で何もできずに立ち尽くしていたリーダーが、ようやく口を開く。だが、その口調は震えており、何が言いたいのかも不明だ。傍らで凍りついたように事態の推移を見守っていた栗毛もまた、恐る恐るロンゲに声を掛ける。

「本田……どうすんだよ……」

「だっておまえ、考えても見ろ、指なんて切ってみろ、大変なことになるぞ!」

「何だよ大変なことって」

「だって血が出ちゃうじゃん。しかも断面とか見えたら、俺気絶する自信あるね!」

「あ、当たり前だろ、切ったら断面見えるだろ」

「だだだ、断面とかいうなよ、想像しちゃうじゃんか。あ、ダメ、俺も気絶するかも」

 三人で、おまえがやれ、いやおまえがやれ、と押し問答が始まる。

 へたれだった。三人とも、まるでなってない。誘拐なんてことをしたんだから、もっと誘拐犯らしく非道に振る舞って欲しい。でないと、誘拐されて全てを喪失した美鈴は誘拐され損だ。

 床に無造作に転がっている斧を見つめる。刃が、禍々しい光を放っている。

 私が、自分で切ってやる。

 命さえ保証されない今、今さら指の一本なんてどうということはない。それに、あの男を少しでもうろたえさせられるなら、代償としては安いもの。

 ずっしりと重みのある斧を拾い上げ、机に置いた左手の上に振り上げた。一呼吸もためらうことなく、ぐっと力を込めて斧を振り下ろす。

 その瞬間、

「ああぁっ!」

 背後から上がった大声にどきっとして、思わず右手の力が緩み、斧は左手の少し先の机にどすんと突き刺さった。この程度の声に驚くなんて、なんて情けない。

 振り向くと、三人とも目を見開いて固まっていた。

「なに? 大声出すから外しちゃったじゃない」

 しんと静まりかえった室内に、美鈴の不満を漏らす声だけが広がっていく。

 たっぷり一分ほど経ってから、ようやくリーダーの凍結が解けた。

「……な、なにしてんだよお嬢ちゃん」

「あなたたちができないっていうから、私がやってあげようと思ったまでよ」

「……いや、お嬢ちゃん、もう少し自分を大事にした方がいいと思うよ」

「誘拐犯に説教される覚えはありません」

「ごもっともで……」

 リーダーがうなだれる。栗毛とロンゲの凍結も解除され、二人してこそこそ内緒話をしている。いや、普通に聞こえてるから。

――なあ、こえーな、お嬢様。

――ああ、今時のお嬢様ともなると、自分で斧振るっちゃうのな。

――しかも、自分の小指切り落とすとか、ねぇわ。

――もう意味分からんな。貧乏人には理解しがたい奇行だな。

――きっと誘拐されたときの訓練とか受けてんだろうな。金持ちこえぇぇ。

――ああ、俺貧乏でよかったって今心から思ってるよ。

「全部聞こえてるんだけど」

「す、すみません」「も、申し訳ありません」

 二人で声を揃えて謝るばかりでなく、頭まで下げている。全く、人を何だと思っているのか。誘拐犯としての心構えがまるでなっていない。

「あまり理解していないみたいだから、教えてあげるけれど――」

 美鈴は、三人に人差し指を突きつけた。

「――誘拐なんてする奴は、人間のクズなのよ。善人面してへたれて見せれば罪に問われないとでも思ってるの?」

 三人は、ただしゅんとうなだれた。いらいらして仕方がない。この偽善者共め、と思う。もう一度念押しに罵らずにはいられない。

「このクズ!」


「なぁ悪かったって、お嬢ちゃん。俺たちもう反省したから」

「そうそう、もう二度と誘拐なんてしないし」

「それに、もうお嬢ちゃん、帰っていいからさ。何なら家まで送っていくよ?」

 三人はすでに目出し帽を取っており、口々に美鈴をいたわるような言葉を掛けてくる。

 美鈴は、差し出されたカップラーメンやらおにぎりやらをひたすらむしゃむしゃほおばり続けていた。こういうのをやけ食いというのだ、と初めて実感する。もうどうでもいいのだから。

 こいつらはわかっていない。全然わかっていない。いや、もしかしたら、こいつらは、本当に自分たちはいい人だとでも思っているのかも知れない。だったら、美鈴は人質として思い知らせてやらなければならない。自分たちが何をしてしまったのかを。

「そこのリーダーの人」

「は、はい、何か」

 リーダーは三十くらいの、コンビニ辺りで店長でもしていそうな、のほほんとした男だった。

「家族がいるんですね?」

「え? あれ、僕言ったっけそんなこと」

「こんなことをして捕まったらどうするつもりなんです? 家族がどうなるとか考えないんですか?」

「……そりゃ、考えないわけじゃないけど、娘にはいい教育受けさせてやりたいし、そのためなら捕まったっていいっていうか――」

「私だったら、犯罪で稼いだ金なんかで教育されたくないし、犯罪者の父親なんて一生会いたくもありません」

 リーダーは、虚ろな目で凍りついた。ははは、と乾ききった笑いが、かすかに口から漏れている。

 栗毛とロンゲもまた、鳩に豆鉄砲を食らったような顔で沈黙した。

「まあそれはどうでもいいです」

「どうでもいいのかよ」

「よくないだろ……先輩、かわいそうに……」

 栗毛とロンゲがうるさい。こいつらは漫才コンビでもやっているのだろうか。

「私を解放したら、真っ先に警察に行きますよ? あなたたちの名前と人相をあらいざらい喋りますよ? 三人ともすぐに捕まるでしょうね」

 ふふふ、と笑って見せると、三人とも気まずそうに顔を合わせた。

 そうだ、思い知れ。悪人のくせに。偽善者のくせに。悪人ならもっと悪人らしくしたらどうなの? そうすれば、美鈴の方も、もっと素直に全てを呪うことができるのに。

 美鈴は、この世界のからくりを知っている。みんな優しそうな顔をして近づいてきて、そして色々なものを奪っていくのだ。黙りこくった三人に、美鈴は冷たく宣告する。

「やっと気付いた? あなたたちはもう、後戻りできないところにいるのよ」

 栗毛とロンゲがリーダーの顔を見つめる。リーダーが頷く。

 また捕まる、と身構えそうになった。けれど、すぐに力を抜いた。もう何をしたって遅い。逃げようもない。

 リーダーが、よし、と膝を叩く。

「じゃあ今から警察に行こう。それが一番手っ取り早い」

「さすが先輩、決断の早さだけはぴかいちっすね」

「ほんと褒められるのそこだけっすけどね」

 リーダーの言葉に、栗毛とロンゲが相づちを打つ。

 思わず立ち上がっていた。はぁ?あんたたちバカ?と罵詈雑言が口から飛び出しそうになるのを、すんでのところでこらえる。

「……何言ってんの? 私の話聞いてた?」

「お嬢ちゃん、君こそ何を言ってるんだい? なぜ後戻りできないと思うんだい?」

 リーダーの双眸の中で静かに燃えさかる、理知的な光に射すくめられた。まるで何もかも見透かされているような恥ずかしさを覚えて、かっと頭が熱くなる。

「わかってんの? 警察に捕まるのよ? 犯罪者になるのよ? 社会の恥さらしなのよ?」

 たたきつけるように言っても、リーダーの落ち着きには一片の揺らぎもなかった。

「いやぁ心配してもらってありがたいんだけど、それがなんだい? 別に死ぬわけじゃない」

「死ぬより恥ずかしいことよ! 恥知らず!」

 ははは、とリーダーが小さく笑い、栗毛とロンゲもまた、応じるように笑みを浮かべた。ばかにしてんの、と口に出そうとした途端、ちょっと待った、という風にリーダーが手を広げた。

「いやこう見えても僕たちワルでね」

「……目出し帽とか、どこからどう見てもワルにしか見えないけど」

「うん、まあとにかく、そんなわけで警察にお世話になるのだって初めてじゃない」

 そんなことを、こんなにも穏やかに言われては、何も言えなくなる。リーダーが、まるで昨日の夕食の献立でも語るように淡々と続けるのを、美鈴は黙って聞いた。

「僕ら、高校の頃はバイクが大好きでね。夜な夜な走り回っていたところを、ちょくちょく警察の方々にお咎め受けてたんだよ。今でも顔なじみの人がたくさんいるんだなぁ」

「あ、そういえばこの前、中さんに会ったんすけど、なんとお孫さんが生まれたそうで」

「あーそれ俺も聞きました。まさかあの中さんに孫ができる日が来るなんてねぇ」

 何の脈絡もなく、警察関係者の噂話へと話題がシフトしていく。

 どこの誰が喧嘩したの、捕まったの、結婚したの離婚したのと、どうでもいい話を、わははは、と大笑いしながら実に楽しそうに交わす三人。

 一人置き去りにされた美鈴は、ぼんやりとその光景を眺めていた。

 まるで違う生き物のようだった。

 ただのバカな奴らだと思いたいのに、むしろ自分の方が底抜けのバカなんじゃないかという気がしてくる。私は、間違っている? 私の見方は、子供っぽい? 

 わからない。ただ、一つだけ確かなのは、この人たちは、美鈴のこれまでの人生では遭遇したことのないタイプだということ。

 たとえば、どこかの深海に遙か昔からシーラカンスが生き残っていたように、もしかしてこの世の中には、物語の中で見かけるような「いい人」が稀に生息しているのだろうか。そして、この人たちはその類だというのだろうか。

 そんな馬鹿な、と思う。美鈴は信じない。自分の身は自分で守る。

 そっと立ち上がってみた。誰も気付いた様子はない。

 ソファの陰に隠れて、古びた木のドアまで這っていく。三人の談笑が止む様子はない。

 そっと扉を開けて、素早く外に滑り出る。話し声はやむどころか、ますます盛り上がっていくようだった。

 なぜだか無性に孤独を感じた。世界の果てに置き去りにされたような気分。私はいったい何のためにここにいるの? 誘拐されても構わない「身代わりの偽物」でありながら、誘拐されても相手にもされない私は、どこで何をしていればいいの?

 惨めな気分で、目の前の階段を下りた。かんかんと足音が響くのも、もう気にならなかった。

 階段を下りると、そこは大きな倉庫のような空間だった。車か何かの整備をするための場所だろうか。暗くてあまりはっきりしないものの、様々な工具に混じって巨大なクレーンなどもつり下がっているように見える。

 階段の脇にある、勝手口のような扉を開けて外に出た。しばらく意識を失っていたせいで時間の感覚はなかったが、満月がほぼ真上に上がっていることから、午前零時前後とわかる。つまり、本来家に着くはずの時間から、すでに四時間は経っていることになる。

 帰りたい気持ちと、それを恐れる気持ちがせめぎ合う。まだ、大げさな話にはなっていないかもしれない。けれど、もし、すでに「次の身代わり」がそこにいたら、私はどうすればいい? 「あぁ君はもういいよ、もう次の子に来てもらったから」と、あの柔和な顔で浩一が言う様が、リアルに想像できる。

 そういえば、とふと思い出してポケットを探ってみたが、抜き取られたのか落としたのか、携帯電話は入っていなかった。今までの美鈴の品行方正ぶりからすれば、四時間以上音沙汰がないというのは異常だ。何の行動も起こしていないということは、なさそうな気がする。警察に知らせたか、それとも次の身代わりを探しているか。

 現在地がどこなのかわからないので、街明かりを目指して、ゆっくり歩き始めた。工場の周りは、少し古びたアパートやマンションと、一軒家が入り乱れた住宅街だった。この時間ともなれば、どの家もひっそりと静まりかえっている。とはいえ、明かりがついている窓もちらほらあり、寝静まっているという雰囲気でもない。

 やがて、比較的新しく、清潔な感じのする街へとたどり着いた。どうやら駅前に開発されたばかりの街のようだった。それは、美鈴がいつも通学に使っている路線の、学校とは反対側へ五駅のところにある駅だった。

 あまり考えもなく、ホームに入ってきた電車に乗り、そして自宅最寄りの駅で降りていた。車内は意外と混み合っており、こんな時間まで働いている人がいかに多いのかに驚く。

 どんな顔で家に戻ればいいのか、そればかり考えながら歩いているうちに、いつの間にか自宅の前に立っていた。普通の一軒家にして四個分くらいの大きさの、明らかに周囲から浮いている邸宅だ。

 ここはまだ、美鈴の自宅なのだろうか。

 隣りの家との間の塀の一部に、セキュリティの甘い場所があるのを知っていた美鈴は、難なく敷地内に潜り込むことができた。こういう悪さは、小学生で卒業したつもりだったけれど、一度身体に染みついた癖というのはなかなか抜けないものらしい。途中、茂みに髪が引っかかった以外は、すんなりと家の前の庭に侵入することができた。野伊木グループなどと威張ってみても、こういうところは全然大したことがない。

 リビングに面する大きな窓から、明かりが漏れている。薄いカーテンが掛かっているだけなので、外から丸見えだった。そっとテラスに上がって、窓の中を覗き込む。

 浩一がいた。玲子がいた。恵理依がいた。三人はリビングの奥の方にある食卓についていた。遅い夕飯をとっているらしい。それとも夜食だろうか。

 それだけだった。

 玲子と恵理依はテレビの方に目を向けている。時々、恵理依が笑う。つられて、玲子も笑う。玲子が浩一の袖を引いてテレビを指さす。あまり興味のなさそうな浩一が、渋々とテレビへと目をやる。

 家族の姿がそこにあった。過不足のない、ごくごく普通の、家族だ。

 なんだ、そうか、とすとんと納得した。

 警察でもない。次の身代わりでもない。そもそも、いらなかったんだ。美鈴は、この家に余分な欠片だったのだ。

 ずっと信じていた。美鈴は、せめて「身代わり」としての役割を持っているのだ、と。けれども、今、目の前に広がる穏やかで暖かな光景が教えてくれる――この家では、美鈴には何の役割もない。

 大きくて深い、底なしの穴が、胸の中にぽっかりと空いていた。

 ふらふらと、自分でもよく分からないままに家を出て、歩き始めた。適当に歩いて、適当に電車に乗った。適当に降りて、適当に歩いた。

 気付くと、美鈴は再び、あの工場の前に立っていた。何も考えずに中に入り、階段を上り、あの部屋の前に立った。

 何と、あの談笑はまだ続いているようだった。中からは、絶えることなく、和気藹々とした話し声と笑い声が漏れてくる。どこに行ってもこんなのばかり。ここにいれば、せめて人質としての役割はあるのだろうか、と思いながら扉を開くと――

「あ、場所わかった?」

 くるっと振り向いたリーダーの質問は、美鈴には全く意味不明だった。

「は?」

「トイレでしょ?」

 リーダーが当然のように言う。どこからその脳天気な発想が出てくるのか、理解不能だった。思わずため息が出た。人質が逃げて、一度は自分の家に帰ったというのに、こいつらは気付いてもいないのか。

「何言ってんすか先輩、そういうこと年頃の女の子に訊いちゃだめっす」

「あっ悪い悪い、ほんとごめん」

 ロンゲがとんちんかんなことを言い、リーダーが慌てて両手を合わせて謝ってくる。

 はは、と小さな笑いがこぼれた。そうすると、胸の奥に溜まっている、暗く重い何かが、ほんの少しだけ薄まったようだった。

 とりあえずしばらくは人質でいるのもいいかもしれない。

 たとえこの後の展望が全く見えなくても、こっちの方がまだましのような気がし始めていた。ただ受け入れられているだけでも、こんなに気分が軽くなるのか、と初めて知った。

 黙って俯いていると、あぁ、とリーダーが思い出したように言った。

「もう夜遅いし、警察行くのは明日にしようかってみんなと話してたんだけど、どうする? やっぱり今すぐ帰りたい?」

 まったく、なんて脳天気なんだろう。

 思わず頬が緩みそうなのを抑えて、できる限りまじめな顔を作った。

「何でそんなに当たり前の顔してるんです? 少しは申し訳ないとか思わないんですか?」

「いやそりゃ思ってるけど、さすがにこんな時間じゃもう眠いかな、と思って。まぁでもそういうことなら今行くか」

 ぱんと膝を叩いてリーダーが立ち上がると、ロンゲと栗毛もまた立ち上がる。

 要は、美鈴が彼らにとって価値のある存在でさえあればいいのだ。それだけで、美鈴は居場所を確保できる。そして、美鈴にとって得があることさえ納得させられれば、彼らとていやとは言うまい。

 美鈴は、できるだけ慌てた風に見えないように、ゆっくり言葉を選んで喋った。

「私、協力してあげようか? 条件つきでよければ、だけど」

 上着を羽織りかけていたリーダー、ポケットの財布をチェックしていたロンゲ、うろうろと何かを探していた栗毛が、一斉に動作を停止して美鈴の顔を見た。

 にやっと笑って見せる。

「身代金、四分の一を分けてくれるなら、協力してあげてもいいよ?」

 今度こそ、三人とも人形のように固まった。本当に驚くと人間は表情を失うものなのだ、と実感して、つい楽しくなって、くすくすと笑ってしまった。


 目の前でこそこそと話し合うこと十分。こそこそといっても、元から静かな場所なので、洗いざらい聞こえている。曰く、今時の女の子は何を考えているのか全然わからんな、おしゃれするのに金がいるんじゃないんすか、やっぱお嬢様こえぇ、だってあの野伊木のお嬢様だったらしたい放題だろ、いやいやお嬢様だからこそかごの鳥で窮屈なんすよ、云々。

 残念ながら全部的外れもいいところだが、もちろん本当の理由を教えてやるわけがない。美鈴は、てんで方向違いの井戸端会議を端から楽しんで聞いていた。なるほど、大人から見るとそういう風に見えるのか、と目から鱗が落ちるようだ。

 やがて、結論が出たようで、三人がこちらを見やった。

 と、いきなり三人が土下座する。頭を下げたまま、リーダーが床に喋っている。

「本当にすまないことをしたと思ってはいる。けれど、君が構わないというなら、ぜひとも協力をお願いしたい。条件の方は、もちろん喜んで呑ませてもらう」

「実はもう一つ、条件があるんだけど、いい?」

 端から三人の話を聞くともなく聞いている間に、今後のあり得るプランを考えていた。やるからには、本気で身代金を掠め取ってやりたい。浩一に、そしてあの幸せそうな家族に、少しでも迷惑をかけてやりたい。とはいえ、身代わりであり偽物であるという美鈴の立場を考えれば、ありきたりなやり方ではまず身代金など手に入れることはできないだろう。何かしらのうまい仕掛けがなければならない。さらには、美鈴が偽物だとこの三人に知られることも避けなければならない。

 この特殊な状況を考えれば、こいつらに頼って動くことはできない。美鈴の方が、絶対こういう企みには向いている、という自信があった。それは、もう五年以上も封印していた、自らの本性といってもいいもの。久々に、思う存分にやれると思うと、身体の奥から元気がわき出してくる。

 リーダーが、不安そうな表情で顔を上げる。

「な、何でしょう? あまりすごいのじゃなければ」

「どう動くかの立案は、私に全部任せて。大丈夫、悪いようにはしないから」

 え。は。はぁ。

 三者三様の、もはや吐息とも感嘆ともつかない声がむなしく空気を揺らす。

「いいでしょ? 私、人質なのよ?」

 改めてにっこり笑ってみせる。なんかもう首領も兼ねてるんじゃね、と栗毛が呟き、今時のお嬢様は誘拐犯だってこなすってことだろ、とロンゲが返す。リーダーは、しばらくの間、ぽかんとしたままだった。


 以降この部屋は私の部屋とします、と宣言して三人を追い払う。窓から扉まで、全て念入りに施錠したとき、まるで本当の自分の家に帰ったかのような安心感に包まれた。それは、もう何年もの間味わっていなかった、やわらかく、あたたかな感触だった。

 これどうぞ、とリーダーが差し出してくれた粗末な布団をソファにかけて、簡単なベッドができあがる。しばらく、ぎゅっと目をつぶって眠ろう眠ろうと念じていたけれど、浮かんでくるのは、あの穏やかなリビングの光景ばかり。いいな、と思う。自分も欲しかった。かつては、美鈴にもあった。きっと、もう美鈴には縁がない。

 何とかして思い知らせてやりたい。人間二人を入れ替えるなんてばかばかしい思いつきの結果がどうなるか。

 頭が冴えて仕方がなく、美鈴は頭をフル回転させて作戦を練り始めた。美鈴の本当の目的は、この新しい居場所での時間にあるわけだけれど、一方身代金をかすめ取ることだって大事な目的の一つだ。一度大金さえ手に入ってしまえば、一人で生きていくことだってできるだろう。次の居場所は、そのときに考えればいい。つまり、こういうことだ。あまり素早すぎないように、しかし確実に身代金を手に入れればいい。

 何をすればいいか。何が効果的で何が無意味か。何が確実で何が不透明か。

 目まぐるしい思考の中で、最適なプランがゆっくりと少しずつ形をなしていく。あの男とその家族を徹底的に貶めるための、そして美鈴自身が幸せになるための、一番確実なやり方だ。

 考えながら、美鈴は自分自身に少しばかり驚いていた。まだやれるとは思っていた。何しろ、あれだけ悪さをしてまわっていた自分のことだ。たとえ六年近くもの間、おとなしく普通の女の子をやっていたとはいえ、本性は変わっていないつもりでいた。

 ある意味で、その予感はとても正しい。けれど、六年経った今は、昔なら考えもしなかったような、悪辣なやり口が次から次へと脳裏を掠めていく。自分は本当に心底、悪者であるに違いない、と思う。

 くくく、と笑みがこぼれた。こういうのも、悪者っぽくていい。

 何しろ、自分はあの野伊木グループから大金を巻き上げてやるのだから。


 翌朝、美鈴は窓から差し込む朝日で目を覚ました。時計を見ると、午前九時を少し過ぎた頃だった。耳障りな目覚まし時計で飛び起き、慌ただしく支度を調えて家を飛び出すいつもの朝と比べれば、心地よさは雲泥の差だ。

 部屋の隅にある小さな流しで顔を洗い、ソファに掛かっていた、汚らしい手ぬぐいで顔を拭いた。残念ながら、その粗末な工場の一室には鏡は装備されておらず、通学鞄にいつも忍ばせている小さな手鏡で髪を整えざるを得なかった。いつも前髪を留めるのに使っているお気に入りの髪留めはいつの間にかなくなっていて、仕方なく、美鈴は二番目のお気に入りを髪につけた。念のために持ち歩いていてよかった、と心の底から思う。何しろ、前髪を少し長めにしているので、髪留めがないとお化けのようになってしまうのだ。昨夜は、あの三人にそんな姿を見られていたかと思うと、少しばかり憂鬱になる。

 はぁとため息をついたのとほぼ同時に、扉がこんこん、とノックされた。改めて手鏡を見直して、服装におかしなところがないか確かめてから、扉の鍵を外す。

 まるで敵陣に乗り込む戦士のような足取りで、リーダーを先頭とした三人が扉の前に立つ。美鈴は、にっこり笑った。

「おはよう。調子はどう?」

「トラトラトラ! サイコーであります!」

「トラトラトラ!」

 栗毛が敬礼して応え、ロンゲが全く理解していない顔で追従する。下手をするとトリトリトリとでも言い出しそうな顔だった。リーダーは、そんな二人に一瞬、苦い顔をした。

「……それでお嬢ちゃん、いったいどういうつもりなのか、そろそろ聞かせてもらっていいかな?」

 もっともな質問だ。

 美鈴は、当座の計画を話して聞かせた。初めはふんふん、と目を光らせて聞いていた三人は、間もなく死んだ魚よりもどよんとした目で、絶望したような表情を浮かべた。

「……あ、あの、それ、本当にやるの? 本当にいいの?」

 リーダーの戸惑いがちな質問に、美鈴は大きく頷いた。

「お金、欲しいでしょ?」

 にっこり笑うと、三人は気まずそうに目を逸らした。美鈴は、改めて声を掛ける。

「別に気にしなくていいの。だって、あなたたちはいたいけな女子中学生を誘拐した凶悪犯よ? これくらいのこと、軽くこなしてもらわないと」

 ますますしょぼんとする三人だった。

 栗毛がぼそっと呟く。これ脅迫されてんの俺たちじゃね、と。


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