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一 彼女と私

 朝、美鈴が下駄箱から上履きを出して履いてみると、何かやわらかいものが入っていて、それをぐちゃりと踏みつぶしていた。今日は何だ、と思って脱いでみれば、ミミズらしき褐色の細いものがつぶれていた。ご丁寧にも、左右両方に一匹ずつ入れられており、美鈴は見事に両足の靴下にミミズの体液をしみこませることになった。

 まだ早い時間で、周囲に誰もいなかったのが幸いだった。美鈴がいつも早めに登校する理由の一つは、こういうことをされる隙を作らないためであると同時に、仮に何かされても回復するだけの時間を確保するためでもある。

 今日の場合は簡単だ。ただ、足を洗って靴下と上履きを取り替えるだけでよいのだから。靴下や上履きくらい、電話すればすぐに届けてくれる。泥がはねたから、といって電話すると、五分ほどで執事が駆けつけてきた。

「お嬢様、大丈夫でございますか?」

 慇懃な物言いだが、この男の美鈴を見る目には、何か偏りがある。まるで、美鈴の中にある何かを探るような、名状不明の態度。それはきっと、美鈴が「偽物」であることに関係しているのだろう。正直なところ、彼が美鈴をどう思っているかなど、全く興味がない。

「大丈夫よ。汚れた靴下と上履きはもう捨てたから」

「さようでございますか」

 新しい靴下と上履きを渡すと、恭しく頭を下げてから、彼は素早く去った。まるで、一刻も早く、美鈴から離れたい、とでもいうように。

 教室にはまだ誰もいなかった。机や席にいたずらされていないか、念入りに確かめてから、一人ぽつんと席に座り、窓の外を眺める。美鈴が、長い学校生活の末に獲得したスキルの一つに、窓の外を眺めていると話しかけてくる人が少ない、という経験則がある。小学生の頃はもっと自由にしていたけれど、今や誰もが知るお嬢様、下手なところでぼろを出してはまずい、などと思っているうちに、勝手に身についてしまったスキルだった。

「おはようございます、美鈴お嬢様」

 それでも、毎朝必ず話しかけてくる人物はいる。中学一年から毎年同じクラスにいる恵理依だ。窓から目を転じて机の傍らを見上げれば、口の端にうっすらと笑みを浮かべた恵理依が立っていた。大抵の人は、この笑みを見て、かわいらしい笑顔だと評するようだが、家での恵理依も知っている美鈴にはわかっている。この笑みは、『今朝のいたずらはどうだった?』と問いかけている、嫌みな顔なのである。

「おはよう、咲州。今朝はとても気分がいいわ」

 美鈴のこのクラスでの立場は、かなり特殊だ。この時間になれば、すでに数多くの生徒が思い思いの場所で談笑しているが、こうして美鈴と恵理依が話す瞬間だけは、全員が神経をとがらせており、どことなく会話が滞りがちになるため、いつも妙に美鈴と恵理依の声が響く。

「さようでございますか。何かよいことがおありでしたか?」

「ええ。他者を踏みつけにして虐げる歓びを知ってしまったわ」

 他者といってもミミズだけどね。

「それはようございました。これからもますます、人々を虐げられる立場になられていくかと思うとこの咲州、今から美鈴お嬢様の将来が楽しみでございます」

 美鈴と恵理依の仲の悪さは、この学校にいる者なら誰でも知っている。それは、美鈴が野伊木グループのお嬢様だからというだけではなく、恵理依がその使用人だから、という変わった状況のせいもあるに違いない。

「お褒めにあずかって光栄ね」

「いえ、使用人として当然のことでございます」

 それだけ言うと、満足したのか、恵理依は自分の席へと歩いて行く。その背中で揺れる、ポニーテールにした長い髪を見ながら、そういえば恵理依のポニーテールの動きはちょっとミミズっぽいなと思った。席に鞄を置くなり、恵理依はまず隣りの女子に声を掛けて、何か話し始める。そうこうしているうちに、二人、三人と人が集まり、恵理依の周りには自然と人垣ができあがる。恵理依が笑う。周囲も笑う。恵理依が喋る。何人かが応じる。恵理依が鞄から雑誌を引っ張り出して見せる。みんなが覗き込む。恵理依が頬を膨らませる。一人が謝る。恵理依が目を輝かせる。周囲も引き込まれるように目を輝かせる。

 いつもの光景。彼女はいつも光の中にいて、その中でも一際明るく輝いている。

 そんな恵理依が、美鈴はとにかく嫌いだった。そして、恵理依もまた、美鈴を蛇蝎のごとく毛嫌いしているようだった。実際のところ、美鈴たちの最大の不幸は、お互いに嫌い合っているのに、生活のほとんどの時間と空間を共有しなければならない、という点にあるのだ。


 放課後、掃除を終えてからテニス部の部室へ向かうと、すでに恵理依は着替え終わっており、ラケットを鞄から出すところだった。

「早いのね、咲州」

 へたなのに。

 元々、テニスは美鈴の趣味の一つで、小学生の頃から毎日打ち込んでやっていた。「お嬢様」になってからはさすがにそういうわけにもいかなくなり、美鈴は部活で週に三回、三時間ほど練習するだけになっている。

 一方の恵理依は、「咲州恵理依」になったために、それまでかじったこともなかったテニスを中学生になってから始めた。すでに二年ほど経つわけだが、一向に上達する様子がなく、空振りはするわコート外へ外しまくるわと、いまだにへたくそとしか言いようがない。

「これは美鈴お嬢様、随分遅いお着きで」

「掃除よ。あなたこそ、掃除はどうしたの?」

 周囲で、他の部員たちが固唾をのんで見守っている。美鈴と恵理依が話すと、いつでもどこでもこんな雰囲気になる。最初の頃は、毎度毎度緊迫した一幕になって申し訳ないと思っていたが、今はもう慣れてしまい、何とも思わない。

「もちろん致しましたよ。まさか私がサボったとでも?」

 何か含むところのありそうな笑みを浮かべる。サボったとしか思えない早さだが、彼女のことだから何かしら上手くやったのだろう。以前、宿題だったか課題だったかのことで咎めたら、思いがけない反撃を受けたことがあり、以来美鈴は慎重になった。

「まさか。一応確認しただけよ」

「それでは、私は先にコートに出ております」

「ええ」

 去り際、恵理依がちら、と美鈴に例の嫌みな笑みを向けたのに気付いて、美鈴はまたか、とうんざりした気分になった。どうせ美鈴のロッカーの中に何かろくでもないものが入っているに違いない。彼女の美鈴に対する嫌がらせは、性懲りもなく、というより、もはや勤勉の域に達している。といっても、彼女が自分で手を下すことはあまりないらしく、取り巻きの誰かが実行犯になっているらしい。

 何かの死骸だと片付けが面倒だなぁと思いつつ、表面上は何気なくロッカーを開けてみて、美鈴は唖然とした。男物としか見えない下着がいくつか押し込まれている。これはブリーフというのだったか。やたらと汗臭いので、おそらくどこかの誰かが履いていたものを、更衣室から盗んできたのだろう。

 くすくすと笑う声がいくつも背後で上がるが、美鈴は気にせずにそれらを掴み、窓から外へ放り投げた。

 表だって美鈴に突っかかってくるのは恵理依だけだが、陰で美鈴の悪口を言ったり、嫌がらせに荷担しているのは、相当な数なのではないかと思う。もちろん、それは、恵理依という急先鋒がいるからこそであって、さもなければ美鈴の名前と立場に、誰もが恐れをなして手を控えるに違いない。

 別にブリーフの仕返しというわけではないが、恵理依に対してだけ、美鈴はいつもより強めに打ち返した。恵理依は、あるときは空振りし、あるときはネットに引っかけ、ほんの十回に一回くらい、まともに弱々しいボールを返してきた。それをまた思いきり、恵理依の足下辺りをめがけて打ち返すと、今度こそ恵理依は手も出せずに立ちすくむのだ。

 ざまあみろ。

 悔しげに俯く恵理依に対して、美鈴は心の中で勝ち誇った。そして同時に、そんな情けない自分に嫌気がさした。下手な人相手に勝ち誇ってどうする。

 自分に言い訳をするなら、この学校のテニス部にはあまり上手い人がおらず、実質美鈴が一番強い。したがって、誰と試合をしても、結局美鈴が相手をこてんぱんにのしてお終いになることが多く、それもまた、美鈴を嫌われ者にしている要因なのだろう。だからといって、手加減する気は全くない。

 テニスは、「お嬢様」になってしまった美鈴が、唯一、元の自分を取り戻せる貴重な時間だった。どれだけ強くても、どれだけ勝とうとも、そのことで文句を言う者はいない。だから、週に三回だけのこの時間、美鈴は自分ではこう思っている。私は咲州恵理依なんだ、と。つまり、何だかんだいっても、これだけは捨てきれなかったということだ。


 部活動の後、部室を出て赤く染まった夕空を見上げながら歩いていると、どこからともなく数人の喋り声が聞こえてきた。部室の裏にいるようだ。

 すぐに、恵理依の声も含まれていることに気付いた。

「あの人、絶対わたしたちを馬鹿にしてますよね」

「ねー! 野伊木グループだか何だか知りませんけど、お嬢様だからってあの態度はないですよねー」

 テニス部の後輩のようだった。馬鹿にしているつもりはないんだけど、と思いつつ、何となく足を止めて聞き入ってしまう。聞かない方がいいと、わかってはいても。

「まぁまぁみんな、そう悪口ばかり言うなって」

 これは恵理依。こういう場面は初めてじゃないので、彼女がどう立ち回るのかはだいたい知っている。要するに、ちょっといい人になるのである。

「だって先輩! あの人、今日、絶対仕返しのつもりで打ってましたよ」

「あ、あのブリーフ! 超ウケたっ! あのときのあいつの顔!」

「さすが先輩、よくわかんないもの持ってきますね。あれ、どうしたんです?」

「あれねぇ、まあ出所は秘密ってことで」

 へぇ、と意外に思う。どうやら恵理依が自分で盗んできたようだ。これはまた珍しい。

「何ですか秘密って。もしかして彼氏?」

「違うって。ま、ちょっと貸しのある奴がいてね」

「へぇ、さっすが先輩、人脈ハンパないですね」

「次は何するんです?」

「そうねぇ、今色々考えてるところ」

「でも先輩、わたし前からフシギだったんですけど、何でこんな嫌がらせ、するんですか? 先輩、あの人の付き人、みたいなカンジですよね? 家にばれたらヤバいんじゃないですか」

「まぁねぇ。あの女はそういうの、ばらす奴じゃないから、そこはまあ、大丈夫なんだけど」

 続きを聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちとが、美鈴の中でせめぎ合い、結局、僅差で後者が勝った。

 そっと身を翻して歩き始める。それでも、聞こえてしまった。

「ひょっとしてテニスで負けてて悔しいから、とか」

「あはは、それはないない。そうじゃなくてねぇ、何ていうかな。苛々するんだよね、あの女、見てると。本性隠してんじゃないよ、ってね」

「なんですかそれ、全然わかんない」

 あはは、と笑う数人の声から逃げるように、美鈴は足早に学校を後にした。意味が分からないのは、美鈴も同じだった。本性? 何それ。どうでもいい。嫌いな人間の悪口など、何通りでもありえるということだろう。

 

 家に着くなり、美鈴を迎えたのは、冷たい嘲笑だった。

「シャワーくらい浴びてこれないの? 汗臭くて息が詰まりそう」

 形式上、母親ということになる、野伊木玲子だった。

 とはいえ、わざわざそれを言うために、玄関の辺りをうろうろしていたのかと思うと可笑しくなってくる。と、どうやら本当に笑みが零れていたらしく、いきなり玲子が眉を怒らせた。

「何がおかしいの! 人を馬鹿にして!」

「申し訳ありません、お母様。汗臭い娘で」

「ああいやだいやだ。野伊木の娘がこんな格好で街中を歩いてきたなんて、想像もしたくないわ」

 玲子は恵理依の――つまり、本物の美鈴の、実の母親である。恵理依と美鈴を入れ替えるという、浩一の提案に最も強固に反対したのは、玲子であった。それは今でも尾を引いていて、美鈴は毎日毎日、汗臭いだのテニスなんてやめてしまえだの、果ては頭がおかしいだの人格が歪んでいるだのと、果てしない罵詈雑言を聞かされて暮らしている。

 まあ、考えてみれば、哀れな人ではあるのだ。せっかく金持ちと結婚して娘を産んだと思いきや、その娘が誘拐された挙げ句使用人にされてしまったのだから、同情もしたくなる。というわけで、向こうは恵理依に負けず劣らず美鈴を嫌っているが、美鈴自身は、それほど玲子を嫌っていない。特に、恵理依に対する愛情は間違いなく本物であって、たとえばお風呂上がりに二人で話し込んでいたりとか、一緒にテレビを見て笑っていたりする様子を見て、ああいいな、とただ感じるのだ。

 自室に入って、扉を閉めている間だけが、唯一心を落ち着ける時間といえた。この瞬間、美鈴は何者でもなくなる。野伊木美鈴も、咲州恵理依も、関係ない。私は、私。

 着替えてからベッドで寝転がった瞬間、ふっと眠気が美鈴を包んだ。

 こんこん、というノックで目覚めたときには、一時間近く経っていた。はっと起き上がるのと、扉が開くのとは同時だった。

「あら美鈴お嬢様、お眠りでしたか」

 恵理依が扉の脇にもたれかかって、にやにやしながら言う。夏の間の彼女のお気に入りスタイル、タンクトップにショートパンツという活動的な私服に着替えている。美鈴がいつもブラウスにスカートというスタイルを好むのは、ひとえに恵理依とは違う格好をしたいという何とも消極的な理由による。

「何か用?」

「お召し物の回収とシーツの交換に参りました。しばらく居間の方にいらっしゃって下さい」

 要するに部屋を出て行けという催促であった。こういうとき、自室といいつつも、自分は借り物に住まうよそ者なのだと痛感する。

 黙って立ち上がり、扉の脇へと身を引いた恵理依の脇を通り過ぎる。その瞬間、恵理依が何か言おうと口を開いたように感じて、振り向いた。

 それまでにやにやしていたのが嘘のように、恵理依は不満げな顔をしていた。何か言いたそうに口を開きかけており、美鈴は自分の勘が正しかったことを知る。

「……何か?」

 問いかけると、恵理依は口を閉ざした。不機嫌そうな顔のまま。

 毎日毎日顔を合わせ続けて二年になるわけだけれど、いまだに恵理依という人間を見失う瞬間がある。咲州恵理依は、野伊木美鈴を嫌っている。だから、あらゆる嫌がらせをする。美鈴はいつも、そんな軽薄で単純な彼女を、心の底から軽蔑していた。こんなに愚かで矮小な人間は、相手をする価値もない、と思ってきた。

 けれど、ふとした瞬間、彼女の見せる表情や仕草に、美鈴は唐突に不安に陥るのだ。美鈴は、実は恵理依という人間を全く理解していないのではないか、と。軽薄なのは自分の方ではないのか、と。たとえば、今がそうだ。

「言いたいことがあるなら、言ったら? 私は別に怒らないわ」

「言いたいことがあるのはそっちじゃないの?」

 逆に問い返されて、美鈴は考え込む。さて、何か言うほどのことがあっただろうか。

 ああそういえば、と思い出した。

「そういえば、今朝ふと思ったわ。あなたの髪って、ちょっとミミズっぽいなってね」

 言っていて可笑しくなって、ふふふと笑ってしまう。一方の恵理依は、再びむっつり黙り込んだ。

 彼女がどんな言葉を期待していたのかは知る由もないし、そもそも知る必要さえないのだ。最後には美鈴はいつもこう結論する。バカな人間の考えることなど、気に掛ける必要などないのだ。それは、きっとどうしようもなく下らなくて、救いようもなく愚かしいものなのだから。


 翌朝、登校した美鈴が見つけたのは、ここ最近ではとりわけ手の込んだいたずらだった。

 机の中に、どこで見つけてきたのか、カエルの卵がぎっしり詰め込まれていた。それはもう、持ち運ぶのに苦労したであろうという量、重さであり、美鈴は仕方なく、掃除用のバケツに全て流し込んでから、中庭にある池に放り込んできた。今年、中庭はさぞかし多くのカエルで賑わうことであろう。

 毎回思うが、発想が小学生レベルである。これが、本当は大企業グループのお嬢様のしていることだと思うと、ただ可笑しくて笑えてくるというものだ。

 彼女はわかっているのだろうか。こうして下らない行為を繰り返せば繰り返すほど、自分を貶めていくだけなのに。

 机の中に残るぬめっとした物体を丁寧にティッシュでぬぐい去っても、水の腐ったような匂いはなかなか消えず、美鈴は途中で諦めた。数日経てば匂いもとれるだろう。

 ぼんやりと窓の外を眺めているうちに、あんなものを見たのも久しぶりだと気付いた。かつては野山を駆け回って遊んでいた美鈴にとってみれば、カエルの卵など珍しくもない代物だった。オタマジャクシをとってきて、カエルになるまで育てたこともあった。もう今となっては、悠久の彼方のように思える、まぶしい記憶の欠片だ。

 基本的に恵理依の嫌がらせはただ煩わしいだけなのだけれど、時々、懲りずに毎日いたずらする彼女を羨ましく思うこともある。自分にはもう決して許されない、馬鹿げた行為の数々を、恵理依はまるで呼吸をするように自然とやってのける。そんな側面が、ますます彼女を輝かせているように感じる。

「おはようございます、美鈴お嬢様」

 傍らで足音が止まったので、恵理依が来たのだと気付く。振り向くまでもなく、またあの嫌みな笑みを浮かべているのがわかる。

「ええ、おはよう、咲州」

 言いながら見上げると、恵理依の視線は美鈴を見ているようでいて、机の辺りに向いていた。なるほど、あの大量の卵がどうなったか気になるのだろう。だが、特に教えてあげる必要も感じない。

「そういえば咲州、カエルの肉って、鶏肉みたいだそうよ」

「え、は?」

 突然の話題に、恵理依は目を白黒させている。珍しいこともあるものだ。

「私、今度食べてみたいわ。何か、作ってもらえるかしら?」

「は、はい、お望みとあらば」

「ねぇ咲州、オタマジャクシっておいしいのかしら」

「さ、さぁ、それはさすがにわかりかねますが」

「ねぇ咲州、カエルの卵っておいしいのかしら。見た感じ、ちょっとキャビアみたいよね」

「そ、それもわかりかねますが……」

 何やらうろたえている恵理依が珍しく、頬が緩む。

「じゃあ、今度私が卵から育てるから、全部料理してもらえる? おいしければ、活け作りとかでもいいわ」

「は、はい、そう伝えます」

 何となく這々の体といった感じで、恵理依は自席へと歩いて行った。

 案外、カエルの類は苦手なのだろうか。もしかすると、今朝のいたずらも、どこかの男子生徒辺りにやらせたのかもしれない。自分が嫌いだから、美鈴も嫌がると思ったのかもしれず、だとすればその単純で貧困な発想は、いかにもバカで単純な彼女らしいといえた。


 昼休み、本を読もうと図書室へと赴き、書棚の間を歩いていると、数人がこそこそと話しているのが聞こえた。特に盗み聞くつもりもなく、ただ目当ての本を探していただけだったが、自然と耳に入ってきた。

「なんか頭おかしいよね、絶対」

「うんうん、今日咲州さんと話してたのとか、わたし、はぁ?っ思ったもん」

 どうやら同じクラスの女子に、他のクラスの女子も何人か混じっているようだった。美鈴の情報網は、はっきり言ってこういった盗み聞きだけである。友達らしい友達がいないのだから当然なのだが、こと自分に関する情報については、たぶん友達がいるよりずっと効率よく集められていると思う。

「毎朝思うんだけどさ、あの一触即発みたいなの、ほんとやめて欲しいよね」

「咲州さんも懲りないよねぇ。わたし、あの人が何かしてるの一度見かけたことあるけど、なんか妙に張り切ってたわ」

「あの人、基本的にいい人だけど、野伊木さんにだけは異様に攻撃的だよね」

「ねーっ、何があったんだろうね。絶対教えてくれないの」

 なるほど。恵理依は、人気者ではあるが、美鈴のせいで比較的危うい橋を渡ってもいる、ということのようだ。

「でもわたし、なんかわかるな、咲州さんの気持ち。だって、野伊木さん、変だもん」

「お嬢様だか何だか知らないけど、ちょっとおかしいよね。オタマジャクシ育てて食べるとか、何考えてんだろ」

「あれで家も一緒で、世話とかしなきゃいけないってなったら、ねぇ」

「うんうん、わたしでも苛々してくる気がする」

 どこに行っても嫌われ者だなぁとしみじみしつつ、美鈴はそっとその場を離れた。

 ちょっとした軽口のつもりだったが、どうやらあのカエル話は思いの外反響を呼んでいるらしい。野伊木グループお嬢様の影武者としては、あまり評判を下げることは避けるべきだろう。明日からはもう少し常識的な話を心がけるようにしよう、と心に決める。

 それにしても、と思う。みんな暇というか地獄耳というか。もう少し他に話題はないものかと、呆れてしまう。

 

 その日は、その後も何度かカエル、オタマジャクシ、という単語が聞こえてきて、美鈴はその度にうんざりしていた。だから、放課後、美鈴は恵理依と共に逃げるように教室を後にした。

 テニス部の部活のない日、美鈴は習い事へと赴く。茶道、華道、ピアノという、定番中の定番である。今日は、ピアノの日。

 表向きは、恵理依も付き合って一緒にいることになっている。けれど、実際には、恵理依はいつもどこかへ遊びに行く。もちろん、それは家人の知るところではなく、美鈴の習い事は、恵理依が羽を伸ばす言い訳に体よく使われているわけだ。美鈴としても、彼女と過ごす時間が少しでも減るのは大歓迎なので、いつも黙認していた。

 その日、学校最寄りの駅までの道すがら、美鈴はふと恵理依の鞄がいつもより少し膨らみ気味なことに気付いた。着替えなのだろう、と直感した。制服ではまずいことをするのかもしれない、と危惧した――といっても、正直なところ、彼女がどこで何をするつもりか、など興味はなく、当然心配などしていたわけでもない。ただ、どこかで補導でもされて、美鈴が口裏を合わせていたことが露呈したらまずいな、とだけ思ったのだ。

「捕まるようなことは、しないでね」

 前を歩く恵理依に声を掛けると、恵理依は立ち止まった。少ししてから振り向く。いつもの、皮肉めいた笑みはなかった。目が、爛々と光っているように感じられる。

 怒っている?

「わたしを何だと思ってるわけ?」

 恵理依の口調は、こうして学校でも家でもない場所では、敬語ではなくなる。誰にも気兼ねする必要がない、ということなのだろう。その区別の明瞭さにだけは、美鈴はいつも感心していた。とはいえ、今日みたいに剣呑な口調になることは滅多にない。美鈴は何の気なしに逆鱗に触れたようだった。

「別に何とも思ってないけど、私に迷惑はかけないでよ」

「何を想像したのか、訊いてるの」

 何がそんなに気に入らなかったのか、美鈴には全く理解できなかった。だから、思ったままを口にした。

「どうせ男と遊んでるんでしょう。そういうの、好きそうだもの」

 絞め殺されそうな視線で睨まれた。違ったのか、図星だったのか。しかし、どちらであれ、美鈴には関係ないこと。

「別にあなたがどこで何をしていようが、家の人たちに言うつもりはないから安心して」

 恵理依はそれから、何も言わず、美鈴を置いて足早に歩き去って行った。あの勝ち気な恵理依が一言も言い返さなかったところからして、きっと図星だったのだろうと美鈴は推測した。とはいえ、彼女が図星を指されて憤る理由には思い当たりがない。大方、何かつまらない意地でも張っているのだろう。

 いつもなら、美鈴が習い事を終えて駅に着く頃には、恵理依は改札の辺りで待っており、そこから三駅、自宅最寄りの駅まで一緒に帰る。けれども、その日、駅には恵理依の姿はなく、十分待っても、二十分待っても、現れる様子はなかった。仕方ないか、と思う。あれだけかっかしていたのだから、しばらく顔を合わせたくなくても不思議はない。美鈴は、一人で電車に乗り、一人で駅から自宅までの道を急いだ。

 いつも恵理依と歩く道も、すっかり暗くなった状態で一人歩くのは、随分と心細いものだった。がさっと茂みが動く音でどきっとして見やれば、ネコが両目を光らせていた。後ろからこつこつ、と足音がずっと着いてきているような気がして、はっと後ろを振り向くと、すでにその人陰は近くの家へと入っていくところだった。

 恵理依と歩くといっても、喋りながらということは稀で、先を歩く恵理依を、後から追いすがるように行くのが常だった。とはいえ、今はその背中がないことに、美鈴は心底不安を感じ、そしていつもその背中をどれだけ心強く感じていたかに気付いた。

 自分らしくない、と思った。つまらない感傷だ。あんなのがいなくても、美鈴は一人でやっていける。

 立ち止まって、大きく息を吸う。

 その瞬間、口元に何か押し当てられた。いやな匂いの何かを思いきり吸い込み、そしてくらっと目眩におそわれる。

 混濁する意識の中で、あ、誘拐だ、とだけどうにか認識していた。


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