八 最後の賭け
美鈴はパソコンの前に座って、十分に一回くらいの頻度でメーラーをチェックしていた。
無視されたらどうしよう、という思いが美鈴の心をかき乱していた。
時刻は午後四時。ちょうど香奈との面会から一週間が経った。香奈はほぼ間違いなく、恵理依に電話しただろう。けれど、恵理依は? 彼女は本当に香奈にメッセージを聞かせただろうか。そして、美鈴の送ったメールや香奈の話から事態の真相に気付いただろうか。
いや、肝心なのはそこではない。気付かないわけはないのだ。そうではなく、気付いた上で、もう美鈴なんていらないと考えて無視していたら、恵理依も香奈も何の反応も返してこなかったら、どうすればいいのだろう。
完全に勝ったつもりでいた。ここまで、全ては計画通りにきた。だが、ここにきて、揺らいでいる自分がいる。自分は、本当にこのまま野伊木家から逃げて、生きていっていいのか。自分は、本当にこのまま、誰とも何の縁もない場所で、一人で生きていくしかないのか。
西島たちには世話になることはできない。彼らには彼らの人生があり、そこに美鈴が入り込む余地はないと思う。
かちっとマウスをクリックし、メールを送受信する。何もなし。すでに、恵理依の携帯電話にメールを送ってから一時間以上経っている。
このまま、永遠に反応がなかったら?
それは考えるだに恐ろしい孤独だった。美鈴は本当に、あらゆるものから切り離され、忘れられ、一人で生きていかなければならない。それは、母親が死んでから一度は慣れ親しんでいたはずの感覚であるにもかかわらず、今はとてつもなく恐ろしいものに思われた。
午後五時。やはり、何のメールも返ってこない。このアドレスの前に美鈴がいることは、少なくとも恵理依だけは気付いているに違いないのに。結局のところ、彼女が全てを握っている。もし、彼女が永遠に美鈴と手を切りたいと思えば、香奈にメッセージを聞かせることもなく、こちらに何の連絡もすることなく、浩一たちに何も言うことさえなく、そのまま全てが流れて消え去ってしまうだろう。
午後六時。二、三分に一度は送受信ボタンをクリックしていた。惨めな気分だった。完全に負けた気分だった。野伊木家という巨大で憎き敵を相手取り、三億円を強奪してみせた。警察さえもいいように翻弄して、完全に勝ったつもりでいた。
だが、実はそうではなかったとしたら?
彼らにとっては、三億円など端金でしかなく、ただ「人質のために全力を尽くしている」という姿勢をアピールするだけに使われたのだとしたら?
それこそ、いいように翻弄され利用されていたのは、美鈴の方だということになる。そして、人質が死亡した可能性が高い今、美鈴は真の意味で要らない存在になったことになる。美鈴は、自らの手で自らの価値を完全に葬り去り、戻るべき場所をきれいに消し去ったことになる。
午後七時。ついに、メーラーを閉じた。そうか、これが恵理依の答えか、と暗く惨めな気持ちの中で悟った。考えてみれば、当然だった。彼女にとっては、美鈴は「野伊木の娘」という心地よい立場を横取りした、不愉快な存在だ。これで、彼女は再び元の立場に戻ることさえできるのだ。
あの誘拐された日、恵理依とにらみ合った瞬間を懐かしく思い出した。美鈴の言葉に、恵理依はなぜか憤った。だが、何も言わずに去った。あれが、彼女との最後だったということになる。なぜあのとき、彼女は怒ったのだろう。今になって気になってくる。
恵理依がクラスメートに向ける、朗らかで邪気のない笑顔を思い出した。それは、ついぞ一度も美鈴に向けられることのないものだった。いつも端から、他の誰かに向けられているのを眺めていた。
あの笑顔を自分に向けて欲しかったのだ、と今になって唐突に気付く。
恵理依は、いつも美鈴に対してだけ、何か透明の壁のようなものを立てて接していた。使用人という立場上、仕方のないことだといつも思うようにしていた。けれど、そうではないことも、気付いていた。いつもできるだけ考えないようにしていた――恵理依は美鈴が嫌いで、それゆえに距離を置いていたのだ。
なぜ? 美鈴が彼女の立場を横取りしたから?
けれど、それは美鈴のせいではない。野伊木浩一という男のつまらない思いつきに過ぎず、美鈴はその被害者でさえあるのに、なぜそんなことで嫌われなければならないのだろう。ただ立場だけで敬遠されてきたことが、今になって悔しくて仕方ない。
立ち上がって、机の前を離れた。そろそろ、夕飯を用意し、風呂に入らなければならない。そして、その後で、これからどこでどうやって生きていくか、考えよう。
部屋を出て、階段を下りると、三人のたまり部屋からはぼそぼそと話し声が聞こえてきた。顔を出してみると、西島はおらず、神崎と本田が深刻そうに顔をつきあわせていた。
「何か夕飯買ってくるけど、何がいい?」
美鈴の問いかけに、二人は少し顔を上げ、美鈴をちらりと見てくるが、どこか暗い雰囲気は変わらない。
「……どうしたの?」
「それが、先輩が帰ってこないんだ。ちょっと夕飯を買ってくるっていって、もう二時間も経つのに」
神崎が情けない顔で答えた。本田が視線を落としてぼそっと呟く。
「まさか、警察に捕まったんじゃ……」
「なわけないでしょ。何の証拠もなしに。家に帰ったんだじゃないの?」
西島は二日に一度ほどは、奥さんと子供がいるという家に顔を見せに帰っていた。もちろん、彼らには誘拐のことは何も言っていないはずだ。
「そっちにも電話してみたんすけど、帰ってないって」
本田が泣きそうな顔で応じる。ついに、神崎がじめじめした表情でこんなことを言う。
「まさか誘拐されたんじゃ……」
美鈴は思わず吹き出していた。誘拐犯が誘拐されるなど、そんなまぬけな話があろうはずもない。人類の歴史長しといえども、一度も発生したことがないに違いない。
「いいからもう少し待ってみたら? 単に買い物が長引いてるだけかもしれないし。だいたい、考えてもみなさいよ。私みたいな女の子ならともかく、大人の男の人がそうそう事件に巻き込まれたりするわけないでしょ?」
美鈴の言葉に、二人はどうにか納得したようだったが、それでもどんよりと落ち込んでいるのは明らかだった。何て情けない奴ら。
美鈴は、彼らの希望を聞くのを諦め、適当に弁当を買ってくることにした。
周期的に並ぶ街灯の下を歩きながら、泣きたいのはこっちなのに、と思う。彼らはいい。今まで通りの人生を続けていけばいい。神崎は香奈のためにやることが色々あるだろう。本田は、イラストレータになるためにひたすら絵を描き続けていくだろう。そして、西島は家庭を守って生きていくだろう。
けれども、美鈴はこれから新しい場所を探して、独りで生きていかなくてはならない。一週間前は、それが希望に満ちた、素晴らしいものに思えていたのに、いざ全てが終わってみると、それはすっかり色あせ、輝きを失っていた。未来は、暗いぬかるみの中へと繋がっているような気がした。
道すがら、ぱこん、という聞き慣れた威勢のいい音に顔を上げてみれば、煌々と照らされた照明の下、テニスに興じている人たちがいた。道のすぐ脇には、スポーツクラブのテニスコートが四面も広がっており、こんな時間になってもナイターで営業しているらしかった。どうやら、ナイターは特別の時間枠らしく、コートを走り回っているのはほんの数人だが、いずれも水際だった上手さだ。
いいな、と思った。もう一週間もテニスをしていない。今すぐにでも加わりたいくらいだったが、ラケットもスポーツウェアもない状態では、できるわけがない。何より、スポーツクラブのコートなのだから、入会しなければ使えるわけがない。そして、名前も立場も失った今、そんなことができるわけがないのだった。
これから、自分はいったいどんな名前で、どんな立場で、生きていけばいいのだろう。一週間前、そんなことは全く考えていなかった。
コンビニで弁当を四つと飲み物を買い、再び同じ道を戻る。
お金はたっぷりある。節約して使えば、このまま一生働かずに好きなことをして生きていくこともできるに違いない。だが、それは、まるで拷問のようだと思った。なぜなら、今の自分には、せいぜいテニスくらいしかしたいことがなく、それとて、一年中毎日朝から晩までやりたいというほどでもない。やるべきことが何もないというのは、もしかすると生きている中でも最も辛い状態なのではないか、と初めて気付いた。
再びテニスコートの脇を通る。
何気なく、ボールを打ち返す人たちを目で追っていた。あの人、ものすごくうまいな、と思ったその人は、長い髪をポニーテールにまとめていた。いつか、ミミズのようだとこき下ろした、あの髪だった。
恵理依だ。
驚きのあまり心臓が止まるかと思った。足は自然に止まっていた。
白いテニスウェアに身を包んだ恵理依は、すでに薄暗くなり始めている夕闇の中、煌々と照らされたスポーツクラブのテニスコートの上で、俊敏に駆け回っていた。高く跳んで、素早くラケットを振るう。滑らかで力強いスイングを、右にも左にも繰り出す。好機と見れば、ぱっと前に出てボレーで応じる。彼女が動く度に、ボールは目の覚めるような黄色い軌跡を残して相手のコートに吸い込まれていった。美鈴との打ち合いではいつも繰り返している空振りなど、ただの一度もない。
上手いなどというものではなかった。それは、全く美鈴の知らない恵理依だった。こんなにも鮮やかなテニスを生で見たのは初めてだった。
静かに静かに、理解が美鈴の中に浸透していく。恵理依は嘘をついていた。クラス中、学校中ばかりでなく、美鈴にまで。いつも部活ではへたくそなふりをしていた。美鈴は、いつも思いきり手加減されていたのだ。週三回の「遊び」は、実のところ、家にも内緒でテニススクールに通うための方便だったのだろう。そして、美鈴はただそのために利用されていたのだ。
何より、美鈴が生きているとわかったばかりのはずの今、こうしてのびのびとテニスをしていることが全てを雄弁に物語っている――恵理依にとっては、美鈴などどうでもいいのだ、と。
恵理依がどこで何をしていようと関係ない。そう自分に言い聞かせようとするほどに、ショックを受けている自分に気付く。なぜショックを受けるのか、自分でも理解できない。ただ、自分の根本を揺らがされたような感触が、気に入らなかった。
美鈴は、フロントに立つ女性にメモ用紙とボールペンを借り、ただ「ウソツキ」とだけ書いてから二つ折りにして渡した。練習が終わった後、恵理依に渡して欲しい、と頼んだ。
別に何かを期待したわけでも、何かを意図したわけでもなかった。ただ、二年間続いた関係の終わりとして、美鈴はそう伝えずにはいられなかった。美鈴が知ったことを――というより、美鈴が受けたこの衝撃を、その四文字はどうにか表現できているはずだ。
暗い道を歩きながら、何て寂しい別れ方だろう、とぽつんと思った。
重い足取りでアジトに戻ると、本田も神崎も出かけるときよりさらに暗い表情になっていた。
「まだ帰ってこないの、西島さん?」
「そうなんすよ、もう俺、どうしたらいいか……」
「やっぱり警察に届けるべきなんじゃないか……」
本田がおろおろと途方に暮れたように言い、神崎はもはや自分たちの立場を忘れているとしか思えない台詞を口走る。
「落ち着きなさいって。言ったでしょう、あの人にそうそう何かあるわけがないって。自分たちが頼りにしてる人なんだったら、もう少し信じたらどうなの?」
美鈴の言葉は、二人に大きな影響をもたらしたようだった。神崎が、たしかにそうだな、と頷き、本田も、もっともらしい顔つきで、うんうん全くその通りだ、と何度も頷いている。
美鈴は買ってきた弁当のうち三つを二人に渡してから、二階へ上がって一人で弁当を食べた。もう一週間くらい続けていることなのに、その日は無性に寂しかった。
食べ終わってから、ほんのごくわずかな期待と共にパソコンを開き、メーラーを起動したが、メールは何も届いていなかった。やはり恵理依にはもう見捨てられている。
本当はこれからの計画を立てなければいけなかった。銭湯に行くべきだった。だが、全てが億劫で、その日、美鈴は早くにソファに転がって眠った。
翌朝、こんこんというノックの音で目覚めた。起き上がって、寝ぼけ眼のまま、どうぞ、というと、ドアの隙間から本田が顔を覗かせた。
いつにもまして、心細げな顔をしていた。
「どうしたの?」
「あの、それが、神崎もいなくなっちゃって……」
「はい? いなくなったって、どういうこと?」
「文字通りっす。朝、起きたらいなくて、一時間くらいは待ってたんすけど、おかしいなと思って携帯に連絡しようとしたんすけど、電源切れてるみたいで」
どうにもおかしい。どういうことだろう。警察に感づかれたのか? 一人ずつ拘束されていっている?
「西島さんはまだ戻ってないのね? 連絡もつかない?」
「はい、先輩も完全に音信不通っす」
泣きそうな顔で本田が言う。
またも思う。泣きたいのはこっちだっていうのに。
「とりあえず、今動くのは危険よ。この工場から出ないこと。いい?」
「は、はい」
少なくとも、この工場にはまだ気付かれていないはずだ。もし気付いていれば、一斉に乗り込んでくるはずだからだ。監視カメラか何かで、身代金の回収をしてもらった西島や神崎の人相が知られており、買い物でも行った際に発見されて捕まった、ということはあり得そうだ。
それなら、とにかく今はこの工場で身を潜めているしかない。
本田が階段を下りていく足音を聞きながら、これから本当にどうしよう、と美鈴は考え始めていた。香奈にはできる限り早く、お金を届けなければならない。いくらお金があっても、移植のためのドナーがすぐに見つかるとは思えず、手続きを急がなければ、彼女の命は本当に危ない。だが、頼みの綱の神崎は、もしかするとすでに捕まっているかもしれず、そうなると美鈴が香奈の両親に直接お金を届けるしかない。奪取したお金は全て美鈴が管理している。持っていこうと思えば、今すぐにでも香奈の元へ行ける。
とはいえ、いったい何と言ってお金を渡せばいいのだろう。考えてみれば、もらいものの大金を、使ってくれるものだろうか。その辺りに関しては、神崎や西島辺りが手はずを整えてくれるものとばかり思っていたので、何も考えていなかった。どう考えても、いきなり一億円も手に入るというのは不自然だ。
どうしようどうしよう、と焦りばかりが先行して、考えがまとまらない。
こんなときに西島も神崎も何をやっているのか、と苛々がつのってくる。
それから一時間が経ち、二時間が経ち、昼が過ぎる頃になっても、西島や神崎からの連絡はなかった。
まさか、と思いながら、ネット上でニュースを読みあさってみたが、彼らが逮捕されたという情報は一切なく、一方、美鈴の誘拐事件に関してもここ数日は何も新しい情報は出ていないようだった。美鈴が送ったボイスメッセージの内容は、いまだ公開されていないようだった。美鈴の生死を危ぶむ声はちらほら見かけたが、それとて下火になってきている。
午後二時近くになった頃、空腹を覚えて買い置きのカップラーメンを探しているとき、不意にパソコンのメーラーがメールの受信を告げた。
どきっとした。
ついに恵理依が何か言ってきたのかと、不安と期待の混じり合った気持ちを抱きながら、メールを開いた。
『神崎です。香奈が手紙だけを残して病院から失踪したので、みんなで探しています。手紙の内容がよくわからないので、困り果てています。もし心当たりがあれば、そちらでも探してみてもらえないでしょうか?』
不意打ちもいいところだった。香奈が失踪した? いったいどういうことだろう。ほんの一週間前は元気そうに見えたのに。
その瞬間、一週間、という言葉にはっとなった。一週間後に、美鈴のやろうとしていることを止めてみせて、と告げたのは、他でもない美鈴自身だ。
手紙の内容でわからずに困り果てている、という神崎の言葉が、次第にいくつかの想像へと繋がっていく。もし、これが、美鈴を止めるための行動だとしたら。香奈が、一人で何かをやろうとしているとしたら。心臓の弱い身体で、無理をしようとしているとしたら。
俄にいても立ってもいられなくなって、美鈴は部屋を飛び出した。かんかん、と金属製の階段を駆け下りて、一階の部屋に飛び込んだ。
当然いると思っていた本田は、しかし、忽然といなくなっていた。本田もまた、捜索に刈り出されたのだろうか。
だが、それならそれで構わない。
美鈴は美鈴にできることをやるまでだ。
自室に散らかしてあった中から、適当な服装を選んで着替えて工場を飛び出す。
まずは、その手紙というのを確認しなければならない。もし、これが美鈴を止めようとしてのことであれば、その意味は美鈴にしかわからない。
駅まで全力疾走し、発車寸前の電車に滑り込む。
窓の外を流れる景色がやけにゆっくりと感じられて、苛々が募る。香奈が何をしようとしているのか、思いを巡らせてみるが、全く見当もつかなかった。元々の美鈴の想定では、仮に香奈が動くとしても、それは恵理依に頼むという形になるはずだった。「美鈴が生きている」ことと、「美鈴はさらに一億円を掠め取ろうとしている」ことを、恵理依と香奈が察し、そして恵理依が美鈴の居場所を突き止める、というような展開を想像していた。
だが、事態は思わない方向へと転がっている。
香奈が工場の場所を突き止めた? それならば、慌てて飛び出さずに待っていればよかったということになる。神崎か西島辺りを経由して情報が漏れたことは、あり得ない話ではない。
戻るべきか、このまま病院に寄るべきか。
迷っている間に電車は、病院最寄りの駅まで近づいていた。神崎からのメールにあった、「手紙の内容がよくわからない」というフレーズがふと頭に浮かび、とにかくまずは香奈が残したという手紙を確認しておくことにした。
病院は、一見すると前と何も変わらないように感じられた。エレベーターで四階まで上がり、香奈の病室までゆっくり歩く。すれ違う看護師が、どこか怪訝そうに美鈴を見てくるが、気にせずに堂々と病室まで行き着いた。ネームプレートは当然、神崎香奈のままになっている。
同室の年寄りたちには目もくれずに、窓際の香奈のベッドへと歩み寄り、カーテンの向こうをそっと覗いた。
まるで退院した後のように、ベッドの上には真っ白な布団がきれいに畳まれておかれていた。
誰もいるわけがないとわかっていたのに、その光景はなぜか美鈴にショックをもたらした。その光景を見て、香奈が死んだらこうなるのかと想像している自分がいた。
視線を巡らしてみて、枕元の小さな机の上に、一枚の紙が置かれているのに気付いた。遠目にも、几帳面な手書きの文字が並んでいるのがわかる。
そっと後ろを振り向き、誰も見ていないのを確かめてから、カーテンの内側に隠れるように滑り込んで、紙を手に取った。そこには、こんな文章が並んでいた。
『父さん、母さん、兄さん、突然のことで申し訳ありません。とてもショックなことがありました。小さい頃からの知り合いの女の子が亡くなりました。幸か不幸か、彼女の遺言を聞く機会がありました。かわいそうな彼女の境遇を思うと、孤独に不条理に死んでいった彼女の寂しさを思うと、苦しくて仕方がありません。だから、私も彼女と一緒にいくことにしました。今まで大変お世話になりました。どれだけ感謝してもし足りない思いで一杯です。これからも、どうか三人仲良く暮らしていって下さい。――神崎香奈』
目の前が真っ暗になった。足がふらついて、どうにかカーテンを掴んで身体を支える。病室の様子も何もかもが遠のいて、香奈の綴った、淡々とした文章が繰り返し脳裏に浮かんでは消えていく。
――ショックなこと。知り合いの女の子。遺言。かわいそうな。孤独に不条理に。
――だから、私も一緒にいくことにしました。
違う違うと思いたいのに、並んでいるあらゆる言葉が美鈴を責め立てる。美鈴の聞かせたボイスメッセージが原因だと、香奈がそれを本気にとってしまったのだと、香奈は美鈴に殉じて死のうとしているのだ、と。
完全に読み違えていた。香奈はもっと神経が太いと感じていた。恵理依はせめて美鈴の与えた情報から真相を突き止めるくらいはできると考えていた。恵理依が香奈に事の真相を教え、ひいてはそれが香奈を面白がらせることになると想像していた。
全ては美鈴の勝手な妄想だった。
いつも、自分は賢い方だと思っていた。他人の心など容易に、手に取るようにわかるつもりでいた。今度も、恵理依という人間を、そして香奈という人間を見切っていると思ったからこそ、香奈にあのメッセージを聞かせるように仕向けた。
急速に胸の内で焦燥感が膨れあがる。いったい香奈はいつ頃いなくなったのだろう。そして、今どこにいるのだろう。
あるいは、すでに死んでしまっているのだろうか。
香奈の鮮やかな笑顔が、静かな涙が、生き生きとした言葉が、洪水のように押し寄せてくる。ともすれば、そのままぱったりと膝をついて座り込んでしまいそうで、一度そうしてしまえば、そのまま永遠に立ち上がれなくなりそうな気がした。
カーテンを固く握りしめて、香奈の遺書をかき抱いて、どうにか気持ちが落ち着くのを待つ。まだ死んだと決まったわけではない。神崎たちが探していて、まだ見つかっていない以上、生きていることだって十分あり得る。美鈴が元気にしている様子さえ見せることができれば、香奈もまた再び元気になるだろう。死のうとは思わなくなるだろう。
何より美鈴が最初に発見することだ大事だ、と自分を鼓舞した。
遺書を畳んで、そっとポケットにしまい込み、美鈴は病室を後にした。
それから、二時間近く、病院の周辺から徐々に範囲を拡大して歩き回ったが、香奈の姿を見かけることはできなかった。
一度話しただけの間柄だ。知っていることは少ない。手がかりになりそうなことといえば、小さい頃からこの辺りに住んでいたことや、家があまり裕福ではなく、賃貸住宅に住んでいることくらいのものだった。そもそも、彼女をよく知っているはずの神崎でさえ困り果てていると言っているのだ。美鈴にわかろうはずもない。困り果てたのは、美鈴もまた同様だった。
くたびれきって、バス停のベンチにぐったりと座り込んだ。時折バスが停車し、乗客が怪訝そうに美鈴を見ては通り過ぎていく。
人が死にに行く場所といえば、どこだろうか。
わざわざ病院から去ったということは、どこか思い出の場所で死にたいということか、あるいは単に病院ではできないような死に方を選んだということだろう。前者なら美鈴にはどうしようもない。後者だとすれば、一番あり得そうなのは、高いところから飛び降りる、だろう。
この辺りで高いところといえば――しかし、辺りをぐるりと見回してみて、その考えもまたおかしいことに気付く。一番高い場所は、香奈が入院していた病院だ。もし飛び降りるつもりなら、ただ屋上まで上っていけばいい。
まさか、と立ち上がる。何かあればすでに騒ぎになっているはずだとは思うが、万が一ということがあるかもしれない。
病院の屋上を見やりながら、小走りで病院へと戻る。エレベーターで一気に屋上まで上がり、恐る恐る足を踏み出した。
見渡す限りの白いシーツが風にはためく合間を縫って、屋上を見て回った。だが、時折すれ違う看護師を除けば、人影はほとんど見当たらない。
わずかにほっとして、しかしすぐに不安が膨れあがる。振り出しに戻ってしまった。
屋上をぐるりと取り囲む金網の前に立って、遠くを眺めた。飛び降りて死に至るくらいの高さの建物なら、数え切れないほどもある。この一つ一つを巡っていくことは、本当に意味があるのか。もう手遅れではないのか。ひょっとしたら、すでにどこかで騒ぎになっている頃かもしれない。
だが、それでも、奇跡にかけてみようと思った。
ここでほんの少し頑張りさえすれば、香奈を止められるかもしれない。香奈にお金を持っていって、手術を受けてもらうこともできるかもしれない。香奈が、これから何十年も生きていくことだってできるかもしれない。
今、この瞬間の自分の行動が香奈の全てを決めている、と思えば、立ち止まっていることはできないのだ。
三階以上ある建物を、一つ一つ巡っていく。時には階段で、時にはエレベーターで屋上まで上がり、一回りして誰もいないことを確かめてから降りる。
それは、どこか宗教的な巡礼に似ていた。ただし、宗教的な巡礼が、信仰を深めるためのものであるのに対し、美鈴のこの行動は、自らの軽はずみな行動を戒めるための罰のようなものに思われた。
夕方になり、辺りが暗くなり始める頃には、美鈴はもう一歩も歩くことができないというほどに弱り切っていた。上った建物の数は優に三十を越えているはずだ。だが、香奈を見つけることはできなかった。
もしかしたら、神崎から何か知らせが来ているかもしれない、と暗い気持ちで工場へと戻った。
わかっていたことではあったが、工場には誰もいなかった。みんなまだ香奈を探しているのだろう。だが、自分にできることはもうきっと何もない。
二階へ上がり、自分の部屋へと入って、ソファに倒れ込んだ。そのまま眠りに落ちてしまいたかったが、まさにその瞬間、メールの到着を告げる音がなった。
心臓が苦しいほどに大きく鼓動を打ち始める。
もし、『香奈の遺体が見つかった』という内容だったら。
自分はどうすればいいのだろう。散々殴打され、方々を駆け回り、一週間もかけて、そんな酷い結末へと突き進んでいたとしたら。自分の社会的価値も居場所も全て捨て、心から救いたかった人を死へと追いやり、そしてただ大金だけを手にする結末だとしたら。
ソファから起き上がり、足を忍ばせてパソコンの前にたどり着く。
震える手で、メールを開いた。
『神崎です。高野西小学校跡の近くで香奈を見かけたという人がいるようです。僕もこれから行きますが、もし工場にいれば、そちらの方が近いと思うので、見に行ってみてもらえませんか』
安堵のあまり、そして溜まりに溜まった疲労に負けて、床にがくっと座り込んでいた。
よかった、まだ香奈は生きている。
机に手を掛け、全身の力を振り絞って立ち上がる。
高野西小学校跡――それは、恵理依に身代金と引き替えに美鈴の死体を渡す、とメールで知らせた場所だ。果たして、恵理依を経由して香奈にその情報が渡っていたのだろうか。
だが、今はそんなことはどうでもいい。とにかく、その場に赴いて香奈を説得するだけだ。
会談を転がるようにして降り、工場を出て走り始めた。酷使した足は、もう満足に動かず、時折足がもつれて転びそうになる。二度ばかり、実際に転び、両手をひどくすりむいて、けれども美鈴はただ走り続けた。
辺りはすでに暗くなっていた。買い物帰り、仕事帰りの人を追い越し、あるいはすれ違いして、住宅街であるこの辺りでは一番高い、古びた建物を目指す。
二十分ばかり走り、ようやく遠くから見えていた、大きな建物の入り口へとたどり着くことができた。門には、関係者以外立ち入り禁止と書かれた、古ぼけた看板がかかっている。
門に手を掛けてよじ登ろうとしたが、力が足りずにうまくいかない。仕方なく、有刺鉄線のかかった金網を、傷だらけになりながら乗り越えた。
どこに行けば屋上まで上がれるか、建物を半周ほど回ってみて、外側に非常階段がついているのを見つけた。あれを上れば、と足を踏みだそうとしたそのとき、それが目に飛び込んできた。
白い病院着姿の女の子が屋上の縁に立っている。
顔が判別できる距離ではないが、月明かりに浮かび上がる背格好や、何より風になびく黒い髪が、それは香奈に違いないと物語っている。
「香奈!」
全身の力を込めて叫んで走り出した瞬間、しかし、それは、ゆっくりとスローモーションのように動き始めた。美鈴の見ている目の前で、香奈の身体がゆっくりと傾いでいく。
「待って! 香奈!」
もう何をしても無駄だとはわかっていた。香奈の身体は、すでに宙に投げ出されていた。
それでも、美鈴は懸命に足を動かした。もしかしたら、受け止められるかもしれない、とさえ思っていた。
香奈の姿が、夜闇に一筋の白い筋を描いて落ちていく。
ほんの数瞬の後、香奈の身体は闇に消えた。
ぐしゃり、と何かが潰れる音が辺りに響き渡った。
何か――考えるまでもなかった。香奈の身体に決まっていた。
恐る恐る、近づいていく。美鈴の前には、中庭のような空間が広がっており、木々が植えられている。もしかしたら、何とか木が衝撃を吸収してくれたかもしれない。
一歩踏み出してそれを見た瞬間、身体の奥から凄まじい吐き気が襲ってきた。
あの絶望的なまでに激しい音でわかっていたはずだった。だが、今、こうして目の前にして、それはあまりにも強烈な刀となって美鈴の心を引き裂いた。
見ている間にも、ゆっくりと、しかし確実に血だまりが広がっていく。
もしかしたら、違う人かもしれない。そんな淡い期待を抱いて、もうほんの数メートルというところまでどうにか足を進めた。生臭い、むっとする血の臭いに美鈴の全身が絡め取られる。
血の海に沈んでいる横顔をどうにか覗き込み、その整った顔立ちを確かめ、美鈴は魂が抜けていくような錯覚を覚えた。全身から力が抜け、膝をつき、座り込み、両手をついて身体を支えるだけで精一杯だった。あまりの衝撃に、何もしていないのに、呼吸が速くなっていく。
香奈の鋭い眼差しが。
香奈の華やかな笑顔が。
香奈の寂しげな涙が。
香奈の語った言葉が。
次から次へと怒濤のように押し寄せてくる。一週間前は、あんなに生き生きとしていたのに。生きる希望に溢れていたのに。それなのに、今はこうして、物言わぬ死体となって横たわっている。
助けたいと心から思っていた。もっと生きて、色々なことをしたい、という彼女の願いに共感していた。
それなのに、その美鈴が、その香奈を、絶望させたのだ。
美鈴のせいで。美鈴の余計な計らいが、美鈴のつまらないメッセージが、香奈を死に導いたのだ。
美鈴が、殺したのだ。
殺した。殺した。殺した。
何度も何度も、殺した殺した、と俯いて心の中で唱えていた。そうすれば、せめて自分を咎めることができるような気がしていた。
どれくらいそうしていたのか、唐突に、ざっと背後に何かが置かれる音ではっとなった。
振り返ると、大きなアタッシュケースがすぐ後ろに置かれていた。
「ほら、約束の一億よ。私、あんたの死体引き取りに来たんだけど。これはどういうことかしら?」
恵理依のひんやりした声が、闇を破るようにして、凜と鋭く響く。最後に会話してからほんの一週間しか経っていないのに、その声は美鈴には本当に久々に聞くもののように思われた。
ゆっくりと視線を上げると、まるで親の仇と言わんばかり苛烈な眼差しに出会った。それだけで、美鈴はもう何も言えなくなった。
恵理依の疑問はもっともだった。
だが、いったい何と説明すればいいのだろう。
逡巡している美鈴に、恵理依は容赦なく言葉を投げつけてきた。
「言えないって? 自分が死ぬのはいやだから、代わりに他の子の死体で我慢してくれってわけ? 何考えてるの?」
言い返したいのに、何も思い浮かばなかった。ただ、小さく首を横に振ることしかできなかった。
「これは何なのって聞いてるの」
あくまで冷静な恵理依に、反発心が芽生えた。そもそも、香奈にあのメッセージを聞かせたのは恵理依のはずだ。
「……私のせいだけど、恵理依が聞かせたんじゃない……」
「は? 何いきなり人のせいにしてんの? 頭おかしいんじゃない?」
小馬鹿にするような口調に、ついかっとなった。
「あの私のボイスメッセージを、香奈に聞かせたでしょって言ってんの! そのせいで、香奈は私が死んだって勘違いして、こんな、ことに……」
「あぁ、あの薄気味悪い音だけのやつね。たしかにどうしてもってうるさいから電話で聞かせたけど、それが何? 私のせいだって? あんたがその子に吹き込んだでしょう」
淡々と言われて、美鈴は返す言葉を失った。全くその通りだった。恵理依はただ、請われたことをしたに過ぎない。彼女に非はない。
黙って俯く美鈴に、まるで精密にできた機械のように淡々と、恵理依が言葉を投げつけてくる。
「電話で聞いたわ。何でも余命数ヶ月くらいだったらしいわね。あと数ヶ月は生きていられたはずなのに。あと数ヶ月は色々やりたいことできたはずだったのに」
その一言、一言がぐさりと美鈴を突き刺して、傷口を広げていく。
「私、だいたいのところはわかってるのよ。あんた、うちから盗んだお金で、その子の手術代出してあげようとか思ってたんでしょう?」
とりわけ鋭い台詞が、美鈴をどうしようもなく打ちのめす。
「ざまぁないわね。助けるどころか、何ヶ月も寿命を縮めるなんて。よりにもよって、一瞬一瞬を大事に生きている子から、何ヶ月もの時間を奪うなんて」
全身が引き裂かれたかと思うような、目眩さえするような痛み。
「よくも平気でできたもんね」
それは、恵理依のとどめの一言だった。ぞっとするような、冷たい色を持って放たれたその言葉に、美鈴の中に、今度こそ血が沸騰したかと思うような憤りが生まれていた。
「平気なわけないでしょ! 私がどれだけ苦しいと思ってるの。私がわざとやったとでも思うの? 違う! わざとじゃない! 私はただ、香奈が面白がるんじゃないかと思って言っただけ!」
「へぇ、わざとじゃなきゃいいんだ? 殺しても」
恵理依の口から聞く、殺しても、という言葉は、美鈴にとってはあまりにも残酷に感じられた。
涙があふれ出ていた。両目からこぼれて、頬を伝って、顎へとたまり、ぽたりぽたりと地面に落ちていく。
不意に恵理依が、ぐっと顔を寄せた。襟元を掴まれて、鼻と鼻が触れあうような至近距離からにらみつけられる。
「今の気持ちを言ってごらん」
「なんで、そんなこと――」
「いいから言いなさいって言ってんのよ!」
それまでと打って変わった激昂に、美鈴は気圧された。視線を逸らしたくても逸らせなずに、ただ恵理依の爛々と光る双眸に据えるしかなかった。
「苦しい……悔しい……」
「それだけ?」
「悲しい……申し訳ない……もっと一緒に何かしたかった……心に穴が空いたみたい……」
恵理依に鬼気迫るものを感じて、脅されるようにして美鈴は自分の内面を吐露していた。もう恥ずかしいと思うことさえ許されないように感じた。
二分か、三分か、あるいは十分か、時間感覚を失ってにらみあっていた。
ふと恵理依の目が逸れ、同時に手が襟元から離れた。
あらぬ方向を見やったまま、恵理依が小さく呟いた。
「それが、私の味わった気持ちよ。よく覚えておきなさい」
何を言っているかわからずに、美鈴はただ恵理依の顔を見ていた。美鈴が黙っていると、恵理依が立ち上がって、美鈴の背後に声を掛けた。
「香奈、もういいわ。ごめんね、身体冷えちゃったんじゃない?」
びちゃ、とあり得ない音が背後から聞こえて、美鈴は飛び上がった。後ずさりながら振り返ると――
血まみれの香奈が、ゆっくりと起き上がろうとしていた。
全身を恐怖が襲った。頭がおかしくなるかと思うくらいの、凄まじい恐怖が、心臓を締め付け、思考をかき乱す。自分の声とは思えない悲鳴が口から漏れていた。
起き上がった香奈が、顔の半分を血に染めたまま。にぃ、と笑う。
ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝っていた。そうしなければ自分は殺されるのだと思った。それでもいいとも思った。とにかく、起き上がった香奈は、自分を咎めているに違いないと思った。
謝罪を繰り返し、土下座さえする美鈴の耳を、ふふふ、あはは、くくく、といつか聞いた笑い声が打った。
え、と思って顔を上げると、香奈が血だまりに座り込んだまま、腹を抱えて笑っていた。可笑しそうに、幸せそうに、病院で見たあのときのように。
呆気にとられる美鈴の前でひとしきり笑ってから、香奈がなおも腹を抱えつつ、どうにか言葉を発する。
「ごめんね、エリィ。私、ちゃんと生きてるから」
そんなはずはない、という美鈴の内心の思いを読んだのだろう。香奈が、振り返って西島さん、と呼んだ。その名前にはっとする間もなく、西島が何かを引きずって現れる。
それは、香奈とよく似た背格好で、よく似た服を着せられたマネキンだった。
「屋上から落としたのはこれ」
「で、でも、私、音聞いた……ぐちゃって……」
「ああ、それなら、これよ」
背後から恵理依の声が聞こえ、ほぼ同時にぐしゃっとあのいやな音が響き渡る。
振り返ると、恵理依がリモコンのようなものを持っていた。恵理依がボタンを押すと、再びぐしゃっと音が響く。
「そこの木立の中にスピーカー隠してあるの」
恵理依がさらりと何でもないことのように言う。
事ここにいたって、美鈴はようやく嵌められたのだと気付いた。あまりにも壮大でばかばかしいだまし討ちだった。
ほっとしても、笑うことさえできなかった。あまりにも安堵が大きいと、放心したようになってしまうらしかった。
「……何で、こんなこと……」
非難の意味も込めて香奈を見やると、香奈が西島から上着を受け取りながら、呆れたように言う。
「まだ分からないの? 本気で言ってるなら、私がっかりよ」
「そんなこと、言われても……」
「あーあ、やっぱり本当の血は生臭いなぁ。気持ち悪くなってきちゃう」
「……これ、本当の血なの?」
「そう。もったいないけど、輸血用のを十リットルほどね」
何て面倒なことを、と半分感心し、半分呆れながら香奈と話していると、鼻をすすり上げる音がすることに気付いた。背後からだった。
いったいどうしたのだろう、と振り向くと、恵理依が地面に座り込んで背を向けていた。俯いて、目元を手で拭っているようだった。
泣いている?
訝しく思いながらも、事情が理解できない美鈴は、声を掛けるのをためらっていた。戸惑う美鈴の前で、香奈がぴちゃぴちゃと血を滴らせながら、恵理依の元へ歩いていく。
「ミ――ミスズ。ほら、いつまでツンデレやってんの」
恵理依の傍らにしゃがみ込んで、香奈が優しく、いたわるように声をかけた。恵理依が、首を横に振る。
「私ツンデレじゃないもん。美鈴なんてもうしらない」
「それがツンデレだっていってんの。ほら、こっち向いて」
香奈が半ば無理矢理に恵理依を振り向かせた。
恵理依は、ぼろぼろと涙を零していた。小さな子供のように、両手で涙を拭いながら、鼻をすすり上げている。
美鈴の視線に気付くなり、恵理依は濡れた瞳できっとにらみつけてきた。
「何? 私が泣いたらおかしい?」
「お、おかしくないけど……その、どうしたの……」
美鈴の戸惑いがちな言葉に、恵理依はいきなり飛びかかるようにして美鈴の襟元を掴んできた。
「何澄ましてんの! 私が、私が、どれだけ……」
それ以上言いたくないのか、それとも言葉が見つからないのか、恵理依はどれだけ、どれだけ、と繰り返す。恵理依に襟元を掴まれたまま、美鈴はされるがままになって、恵理依の顔を見上げていた。目の前の恵理依の瞳から涙が流れ、頬を伝って、ぽたり、ぽたりと、美鈴の顔に温かな滴を垂らす。美鈴の頬を、恵理依の涙が流れていく。
ああそうか、と理解が胸の内に深く静かに広がった。
香奈の偽装自殺。恵理依の言葉。美鈴に言わせた気持ち。恵理依の温かな涙。
全てが繋がり、一つのやわらかく、あたたかな思いを浮かび上がらせる。
それは、まっすぐに美鈴に向かう、恵理依の思い。
誘拐された美鈴の身を案じ、美鈴の死に苦しみ、傷つき、悲しんだであろう、恵理依の気持ち。
香奈の自殺という形で味あわされたばかりだっただけに、嗚咽を漏らす恵理依の痛みが苦しくなるほどに理解できてしまった。
こんなにも想ってくれる人に、自分は何て酷いことをしてしまったのだろう。
自分はなぜ、今の今までこの想いに気付くことができなかったのだろう。
その想いの深さに心がふわりと温まるのを感じ、そしてだからこそ、恵理依の覚えたであろう絶望の深さを思うと、胸が締め付けられた。
言葉は自然に口からこぼれた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度も、何度も、恵理依の涙が止まるまで、ただ謝罪を繰り返した。
ふらつきながら立ち上がった恵理依を支えようと伸ばした手は、すげなく払われた。何なの、と反発を感じながら、美鈴もまた立ち上がる。
ふと気付くと、すぐ傍でにやにやしている香奈の後ろに、西島、神崎、本田の三人が顔を揃えていた。すでに状況は理解していたが、やはりこいつらも恵理依の手先になっていたわけだ。文句の一つも言ってやりたいところだったが、恵理依の手前、ためらわれた。
恵理依はしばらくの間、そっぽを向いて鼻をかんだり、顔を拭ったりしていたが、やがてすっかり何でもないという様子で振り向いた。
「じゃ、帰りましょうか」
その傲岸な口調に、そして何よりきらきらと光る双眸に、美鈴はほっとため息をこぼしていた。やはり恵理依はこうでなくては、と心からほっとする。
恵理依は言いたいことを言うなり、他の面々の方は見向きもせずに歩き出した。その後ろ姿に、いまだにマネキンを引きずっている西島が声を掛けた。暗くてはっきりしないが、すでに片腕、片足はとれ、胴体も半分くらいになっているように見える。
「あの、咲州さん? このマネキンとか、血とか、どうしましょう? 暗くてちょっと片付けしにくいんですけど」
西島は、美鈴に対していたときとは違って、妙にかしこまっていた。まるで女王に傅く騎士のような態度である。少し前の美鈴なら、何で恵理依だけ、と敵愾心めいた思いを抱いていたに違いない。だが、今は、それが当然という気がした。恵理依の整った容姿を考えれば自然なこととも思えるけれど、それだけではない。
恵理依は、これだけの仕掛けを考えて、人と場所を揃えて、美鈴を完全に騙しきって見せた。自分が狙い撃ちされたということも気にならないくらい、鮮やかで胸がすっとするような手際だった。その周到さと労力には頭が下がる。それは、活発で派手で人気者だけどバカな子、という美鈴の理解をはるかに越えるものだった。
もう一つ、謝らないといけないな、と思う。彼女は、決して美鈴が見下せるような存在ではない。
美鈴のひそかな決心をよそに、恵理依が、西島の問いかけにさらりと答える。
「そのうち誰かにやらせるから、その辺に置いといて」
「でも、血はどうするんです? これ、見つかったら大騒ぎになると思うんですけど」
神崎がもっともな疑問を口にした。たしかに、本物の血液がこれだけ大量に地面に広がっていれば、誰かが死んだと考えるのが自然だ。
だが、神崎の問いにも、恵理依は澄ましたままだった。
「大丈夫よ。誰も入ってこないから」
「え? でも、ここ学校の跡ですよね?」
「元、ね。今は私有地よ」
「え、そうだったんですか。知らなかったなぁ。ここ、子供の頃から知ってるんだけどなぁ」
へぇという顔をする西島に、恵理依がああそれはね、と付け加えた。
「うちで今日買い取ったの。急いだからちょっと高くついちゃった。そのうち、マンションでもできるんじゃない?」
美鈴だけでなく、西島も神崎も本田も、呆気にとられていた。唯一、事情を知っているのであろう香奈だけが、にやにやしている。血塗れの顔でそういう表情をされると、怨念のこもった化け物が今にも襲いかかろうとしているようで本当に怖い。
何も言う気がなくなった美鈴と三人衆とを睥睨してから、恵理依は踵を返して門の方へと歩き始めた。毅然としていてどこか声を掛けづらい雰囲気だったが、美鈴は早足で追いかけた。背後からは、神崎の大丈夫か、という心配そうな声と、香奈の、全然平気、と応じるあっけらかんとした声が聞こえてくる。
風を切って歩く恵理依に追いつき、そっと声を掛けた。
「あの、恵理依……」
「なに?」
恵理依は歩く足を止めず、振り向きさえしない。いつもの、どこか壁を感じさせる態度だ。だが、美鈴を想う恵理依の気持ちを知っている今、そんな態度は気にならない。
「ごめんなさい……」
「なにが?」
「だから、その……今までバカにしてて……」
美鈴がおずおずと言うなり、恵理依はぴたりと足を止めた。
「……バカにしてたの?」
振り向いた視線が痛い。痛いが、怖くはない。
「してたの。ただのバカだと思ってた。ごめんね」
「……仮に本当にそう思ってても、言うかなぁ、そういうこと。ま、知ってたけどね」
「気付いてた、よね、やっぱり……」
「いいよ、別に。私にとっては、そんなことはどうでもいいことなの」
恵理依がいたずらっぽい表情を浮かべて、美鈴の目を覗き込んでくる。思わず後ずさる。
「……どうでも、いいの……?」
「そ、どうでもいいの。あんたがどれだけ私を嫌ってようが、どうバカにしようが、傍にいてくれればそれでいいの」
不意打ちだった。あまりにもストレートな物言いは、美鈴の心を強烈に打ち抜いた。粉々に砕けたかと思うほどの衝撃だった。照れる余裕もなく固まった美鈴を見て、恵理依がふふ、と笑い、スカートのポケットから何かを取り出した。美鈴の目の前で、紙切れのようなものをひらひらと揺らして見せる。
何だろうと首を傾げたのも一瞬のこと、すぐにそれが何かに気付く。それは、美鈴が昨日、スポーツクラブに残していった、たった四文字のメッセージだった。
そうしてからかうように見せられると、ものすごく恥ずかしいことをしてしまったような気がしてきて、美鈴は思わず俯いた。恵理依が、なおも可笑しそうにしながら、俯いた美鈴の目を覗き込んでくる。
「テニスのこと、黙っててごめんね。私、美鈴に勝ちたくて一生懸命練習したんだから。今度、本気で勝負しようね」
一言一言が嬉しくて、どう答えたらいいか分からなかった。だから、美鈴はただ頷いた。そして、ただ笑った。




