六 三度目の身代金受け渡し
今日こそは美鈴が見つかるに違いない、と半ば確信を抱いて、恵理依は朝早くから警察の様子を窺っていた。そうでなければおかしい。
だが、期待に反して、昼になり、夕方になっても、何の連絡も入らなかった。犯人の手がかりに関する警察の捜査も、完全に行き詰まっているようだった。これまでにあるわずかな手がかりは、多数頒布された脅迫映像のディスク、美鈴からの手紙とパチンコ屋に置かれていた封筒のみだが、いずれも犯人特定に繋がる情報は含まれていなかった。
橋口駅のコインロッカーに置いたままの身代金は、相変わらず警察によって監視されていたが、誰かが接触しようとする形跡はなかった。警察ばかりでなく、恵理依や浩一にとっても、犯人がいったいどういうつもりでいるのか、全く見当もつかない状態で、ただ犯人側からの行動を待つ他なかった。
夜になり、警察が帰ってからは、恵理依はベッドに寝転がっては携帯電話を開き、机に座ってはパソコン側のメールをチェックし、という不毛な作業を繰り返した。何かしていないと、頭がおかしくなりそうだった。眠れるかと思って目をつぶっても、暴行を受ける美鈴の姿が目蓋の裏に浮かび、目を開けば、たすけて、と訴える美鈴の声がおそってくる。
身代金はすでに渡っているはずなのに、なぜ何もいってこないのか。なぜ犯人は現金を用意させつつも、小切手の方を選んだのか。現金の方こそ囮だったのか。それとも、小切手では満足できないということか。
そして何より、なぜ美鈴は解放されないのか。
何をしていても、恵理依の頭の中をぐるぐると疑問が巡り、何の連絡もないまま美鈴の遺体が見つかるという最悪の想像さえも脳裏にふと浮かぶ瞬間があって、結局眠れないまま、朝を迎えた。
翌朝の午前十時頃、浩一が恵理依の携帯電話に直接連絡してきた。珍しいこともあるものだ、と思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし父さん。仕事中じゃないの?」
「ああ、仕事中だ。今どこにいる?」
「自分の部屋だけど」
「警察はいないか? 盗聴とかされてないだろうな?」
妙にうわずった声で、緊迫した雰囲気が感じ取れた。それだけで、犯人から何か連絡があったのだとわかった。
「ちょっと確かめるから待ってて。後でかけ直す」
恵理依は浩一の返事も待たずに電話を切った。
こんなときには役に立つ奴がいる。携帯電話の電話帳の中からとある名前を探し出して通話ボタンを押した。
二十秒ほども鳴っていたが、不意にぷつりと切れた。もう一度掛けてみると、現在電波の届かないところに云々と言ってくる。面倒がって電源を切ったことが明らかだった。
仕方ない、とまたも昭島に頼ることにする。
「もしもし? ちょっと頼みがあるんだけど」
「またかよ。また野伊木さん関係?」
「まぁそうね。あのさ、C組の初島から電波探知機借りてうちまで持ってきてくれない? 命に関わるので大至急で」
「はいはい、了解」
何の不満も見せずに快諾してくれるところが、昭島のいいところである。
初島明莉。一見するとおとなしい普通の女子生徒だが、その実、中身は電子機器をこよなく愛する変人である。彼女の自室は三台ほどのパソコンと、十台台以上の何かを測定する機器と、そして六台のディスプレイが、壁一面に据えられた棚に押し込まれている。その中の一つが、特に盗聴器探索に使える電波探知機というわけだ。全て自分でバイトして貯めたお金で買ったらしく、恵理依には理解できない神経を備えているが、人はいいので仲良くしている。恵理依の持つ盗聴器は、彼女に見繕ってもらったものである。
三十分ほどして、玄関のチャイムが鳴った。玲子が眉をひそめるのも構わずに家の中を全力疾走し、扉を開けて昭島を迎える。
昭島は本当に大至急で来てくれたらしく、肩で息をしていた。手に下げていた紙袋をすっと恵理依に差し出す。
「ほら、言われたもの。絶対壊さないでってすごい睨まれた」
「ありがとう。初島がそう言うのはいつものことだから気にしなくていいよ。それから、今回も報酬については、言い値呑むから」
「あ、ああ。そりゃどうも」
「だいぶ借りができちゃったね。あまり貯めるとよくないよね」
「そうだな。あのさ、まとめて一つってのもあり?」
昭島が珍しく真剣な顔をしていた。いつもふらふらだらだらしているこの男らしくない表情だ。そうしていると、まるでひたむきな青年という風にしか見えない。
恵理依は考え込んだ。さて、こいつはいったい何を考えているのか。まとめて一つということは、逆に分割できないようなものがほしいということか。
バイク買ってくれ、くらいだったら呑むが、さすがに車買ってくれはなかなかに厳しいものがある。軽自動車くらいならなしでもないか。他に高価なものといえば――
「嫌だったら別にいいんだ。いつも通りにするし」
黙り込んだ恵理依を気遣うように、昭島は明るい口調で言う。恵理依は、うんとうなずいた。
「百万以下だったらオッケー。それ以上はなし、ってことでどう?」
「は? なに、百万?」
鳩に豆鉄砲という顔で昭島が素っ頓狂な声を上げる。
「あ、現金だったら、そうね――五十万ってところかな」
恵理依は自分の懐具合を考えながら言う。昭島は呆気にとられたように口をぽかんと開けている。
さすがに五十万は普通の中学生には高すぎる値段だったか、と顧みていると、昭島が笑い始めた。ふっと相好を崩したかと思えば、次第に笑いが深くなっていき、ついには腹を抱え始める。
「……なんで笑うわけ? 私、何か変なこと言った?」
「いや全然。さすが金持ちは言うことが違うなと思っただけだから」
「別に私、金持ちじゃないけど」
頭ごなしに金持ちと決めつけられるのは気に入らないな、と思いつつ言うと、昭島は両手を前に出して、いやいや、と恵理依の不満を押しとどめるように応じる。
「わかった、悪かったよ。報酬の件は、野伊木さんの件が落ち着いてから話し合うってことでどう?」
「いいよ、もちろん。だけど、いい? どう話し合ったって、百万以上にはならないからね? 私の自由に使えるお金なんてそんなにないの」
「わかってるわかってる」
なおもあははと笑いながら、昭島は去っていった。全く理解に苦しむ男である。
受け取った紙袋から、本体とアンテナ部を取り出し、本体を机の上に設置、アンテナを接続してスイッチを入れる。
本体のディスプレイに注意しながら、アンテナを持って部屋中を歩いて回った。応接室に仕掛けてある恵理依の盗聴器の電波や、誰かが使っているらしい携帯電話や無線LANの電波などが表示されるが、その他はなさそうだな、とほっとしたとき、ごくわずかな信号を見つけた。その信号は、恵理依の使っている周波数とはかなり離れており、なおかつアンテナ机の引き出しの辺りに近づけたときにだけ現れた。
引き出しを開き、一つ一つ注意深くアンテナで探索していく。ついに、発信源は一本のペンであると判明した。よくある普通のペンに見えるが、恵理依が入れた憶えのないものである。
やっぱり盗聴してやがったか、とため息をつく。恵理依はそのペンを、窓からそっと投げ捨てた。改めて部屋中をアンテナで探して回り、何もないことを確認する。
その上で、金庫の中に電波探知機を丸ごと隠し込んだ。これを警察に使われるのは、恵理依にとってはありがたくない。
ようやく浩一に電話をかけ直すことができたのは、午前十一時を回る頃だった。
「もしもし? ごめん、ちょっと時間がかかって」
「大丈夫なのか?」
「あ、うん、一個あったから捨てた」
「あったのか!」
浩一が驚いたように大声で叫ぶ。
「……もううるさいなぁ。いいから用件を言って」
「あ、ああ、そうだな。会社の方に封筒が届いてな」
ごくりと固唾を呑んで耳を澄ませる。紙をめくるような音が明瞭に聞こえてくる。
「内容を読むぞ。警察が監視しているために身代金を受け取ることができない。最後に一度だけチャンスをやる。今日中に、野伊木浩一本人が、一億円を入れたアタッシュケースを持参しろ。前回のものはそのまま警察に見張らせておけ。中野坂駅のコインロッカー二十一番の中にある紙を読め。次の指示はそこに書いてある。万一警察の追っ手が最後まで離れなかった場合、人質の命はないと思え」
淡々と読んでいるようで、浩一の声は震えていた。一言ごとに、視界が暗くなっていくような錯覚を覚えた。
終わってなどいなかったのだ。犯人は身代金を手にしておらず、美鈴の身はいまだに危険に曝されている。それどころか、警察の監視という厄介な要素によって美鈴はますます危うい立場にいることになる。
「……で、私に聞かせてどうしてほしいの?」
本当はわかっていた。浩一が恵理依と思いを共有していることも、それゆえに話さずにはいられなかったことも。全身を渦巻く暗い思いが、恵理依の神経を逆立てていた。
「どうしてって……言わない方がよかったか?」
「……ううん、言ってくれてよかった」
「ああ」
しばらくの間、電話口で押し黙っていた。お互いの息づかいだけが聞こえる状態で、妙に近くにいるように感じられた。
「行くんでしょ? 早くお金を用意して。警察の対処は私が考えとく」
「ああ、頼むよ」
浩一はほっとしたように息をついて電話を切った。
ぐったりと疲れた気分だった。
あの小切手は犯人の手に渡ったものとばかり思っていた。だが、よくよく考えてみれば、あの状況では、コインロッカー付近を歩く誰でもが箱を持ち去れたに違いない。こちら側も間抜けだったが、犯人側も間抜けだったと言わざるを得ない。少なくとも、あの小切手に関しては、しばらくの間、警察は監視していなかったわけだが、おそらく犯人はそこまでは読み取れなかったのだろう。あれだけぞろぞろと尾行が付いていったのを見れば、まだ周囲に何人か残っていると考えても不思議はない。
警察、警察、警察。役に立たないどころか、邪魔ばかりする。こちらから頼んだものならやめさせることもできるだろうが、すでに事件化してしまっている以上、捜査をやめてくれといってもやめることはあるまい。何かトリックが必要だ。どうあっても決して警察が浩一の追跡をできないような、巧妙なトリックが。
恵理依は、目前の状況と使えるものを、頭の中で並べてはこねくり回して最良の案を練り始めた。
全力を尽くして美鈴を守ってみせる、と固く心に誓う。
午後一時。じっと見守る恵理依の前で、林崎がばたん、と大型トラックの扉を閉めた。いそいそと駆けるようにして運転席に向かう林崎に、恵理依は問いかけた。
「ねぇ林崎。あなたは、私と美鈴、どっちが野伊木家の娘にふさわしいと思う?」
意地の悪い質問なのは承知していた。あまり深い意味はなく、真面目で誠実な林崎だからこそ、こういう質問にはどう答えるのか、興味があった。
林崎はぴたりと足を止め、しばらく虚空を睨み、次に恵理依の顔をしかと見据えた。思わず身構える恵理依に、林崎は淡々と言葉を並べ立てた。
「血筋から言えばもちろんあなたですが、その他の全てにおいて美鈴様の方がふさわしいかと存じます」
がーんと頭をぶん殴られたようなショックで足がふらついた。何て率直で忌憚のない物言い。そりゃ自分でもわかってたけど、と心の中で呟く。つい俯いた恵理依に、林崎は打って変わって柔らかな口調で言う。
「私は、昔のあなたよりは、今の立場になられてからのあなたの方が好きですよ」
「……お嬢様の柄じゃないって言いたいの?」
「というより、あなたの持つ良さがきれいに現れているということです。植物で例えるなら、あなたは今の立場になって花を咲かせたと表現できるでしょう」
林崎はその厳めしい顔と粛々とした態度に似合わず詩的なことを言い、一礼してからトラックの運転席へと消えた。
貶されたようで褒められたような、直截な物言いだったようで煙に巻かれたような、よくわからない言葉だった。ともかく、今の方がいいと言ってくれているのだからいいか、と割り切ることにした。
「じゃ、会社までよろしくね」
「はい、お任せ下さい」
林崎は恭しくそれだけ言うと、静かにトラックを発進させた。まるで高級車のようにしずしずとトラックが進んでいき、角に消えたところ恵理依は家の中に戻った。刑事が何か訊きたそうに近づいてくるが、完全に無視して自室に戻る。
盗聴器のレシーバーの電源を入れると、浩一や恵理依の行動に対する推測と、批判とも文句ともとれるような刑事たちの会話が流れてくる。とりあえずトラックを追跡することにしたらしい。
思わず頬が緩む。これから、彼らが驚き、困惑するであろうことを考えると笑えてくる。
三十分ほどして、浩一からの連絡が入った。これから出発する、とのことだった。
恵理依は盗聴器からの音声に耳を澄ます。
「トラックは沢木駅ロータリーに到着。……野伊木氏が荷台から鞄を出しました。茶色いボストンバッグです。……コインロッカーに向かって歩いています。……ロッカーの一つを開けて鞄を入れました。……野伊木氏はそのままトラックに戻って、発進しました」
「野伊木氏が富岡駅に到着。……野伊木氏が荷台から鞄を出しました。茶色いボストンバッグです。……コインロッカーに向かって歩いています。……ロッカーの一つを開けて鞄を入れました。……野伊木氏はそのままトラックに戻って、発進しました」
富岡は沢木の次の駅だ。
これから、浩一はこの路線の全ての駅のコインロッカーに新聞紙を詰めたボストンバッグを入れて回る。犯人から指示があった中野坂駅は、その路線の最後から三番目にある。それ以外の駅のコインロッカーについては、予め林崎に抜いてきてもらってある鍵を使い、中野坂駅のコインロッカーのみ、犯人から送られてきた鍵を使う。全部で二十六駅あるので、それなりの手間だが、一切情報を与えられていない警察は、まずそのボストンバッグが身代金だろうと思うに違いない。しかも、どの駅が本物かわからないので、全ての駅を見張らざるを得ない。仮に百人の捜査員がいても、各駅に四人程度配置するので精一杯というわけだ。
しかし、残念ながら、ボストンバッグは全部囮なのだ。本当の目的は、中野坂駅のコインロッカーに入れられているはずの紙を回収して、犯人からの次の指示を知ることにある。
盗聴器の向こうでは、刑事たちの間に動揺と苛立ちが広がっていた。さすがに、一つ一つ駅を回ってボストンバッグを入れるという行動が、警察を欺くためのものであると気付いたのだろう。
「そのまま騙されててね」
そっと、レシーバーに向かって呟く。
別に彼らに悪気があるわけではないことはわかっている。一部の者は、本当に美鈴を心配してくれているかもしれない。けれど、これだけ時間があっても何の成果も出せない彼らに、美鈴を任せることはできない。美鈴は、恵理依が自分で助けてみせる。
午後四時過ぎ。全ての駅を回り終わった浩一からの連絡が入った。
「もしもし、みす――恵理依か? 今、会社に戻った」
「あのさ、いい加減その美鈴って言いかけるのやめてくれない? 苛々してくるんだけど」
「……済まないな。電話だとつい、な」
「いいから、次の指示を教えて」
「ああ、読むぞ。自家用機で高科空港に行け。そこで二十分待ってから、立石空港で降りろ。タクシーで北春沢駅のコインロッカー十一番を開けろ。そこに次の指示を入れてある。ただし、自家用機は立石空港で二十分待ってから敷島空港へ飛べ」
高科空港といえば、ここから二百キロ近く離れているし、立石空港ともなれば、そこからさらに百キロ以上西だ。ネット上で検索すると、北春沢駅というのは、立石空港に最も近い駅のようだが、それでも十キロ以上離れている。
「ずいぶん遠い道のりね。全部で二時間はかかりそうよ」
「そうだな。警察の様子はどうだ?」
「今のところは駅の見張りのみ。ただし、父さんが会社から出たら追ってくるでしょうね。社用ヘリは今使える?」
「ああ、使えるが……それで空港まで行けと」
「さすがにヘリなら簡単には追っかけられないしね。今回はスピード勝負でいきましょう」
「わかった。すぐに準備する。それじゃ」
慌ただしく電話を切ろうとする浩一に、ふと思いついた恵理依は待ったをかける。
「念には念を入れましょう。ヘリを二機用意させて。一機目は、一時間くらいその辺を飛び回って戻ってくる。会社の人には、警察に何か訊かれたら、ヘリで取引先に向かったと答えるように言っておく。父さんは一機目が飛んでから十五分くらいして、二機目で空港に向かって」
「ああ、そうだな、その方がいいな。じゃあな」
今度こそがちゃりと慌ただしく電話が切れた。
間もなく、刑事たちの元に連絡が入った。野伊木浩一氏が社用ヘリで飛び立った、と。行き先を尋ねるよう命令が下り、会社側は取引先なのでそれ以上は教えられないと答える。
上出来、と恵理依はほっと一息をつく。
とはいえ、警察も指をくわえたままではない。無能なくせに装備だけは優れているようで、彼らもヘリを出して追跡し始めた。このままでは、二機目も同じように追跡される恐れがある。
浩一に電話を入れる。
「父さん? 予定は変更よ。二機目も出すけど、父さんはそれには乗らない。二機目は全然違う方向に飛んでいく。いい?」
「え? じゃあ空港には――」
「誰か会社の人で信用できる人いる? 車で来てて、早めの時間に帰っても変じゃない人」
「まあいなくもないけど」
「じゃ、その人に頼んで、トランクに乗せてもらう。途中で降りてあとは電車。ヘリがだめならこれが一番速いわ」
「……わかった、やってみる」
浩一はどこか自信なさげに言って電話を切った。
しばらくして二機目の社用ヘリが飛び立ち、追跡するべく二機目の警察のヘリが出動した。刑事たちがいらだっているのが、少ない会話の中からでも伝わってくるが、苛々しているのはこっちも同じだった。さっさと引き上げてくれさえすれば、こちらもこんな面倒なことをしなくて済むのに。
警察は突然飛び立った二機のヘリの行方に気をとられているようで、車の出入りに関する情報は特に入ってこない。ヘリはそれぞれ違う航路で、大きなビルの屋上を転々と移動しており、その度にそのビルが何なのか、誰か降りた形跡があるのか、を確かめなければならない。
二十分ほどした頃、浩一から電話が入り、空港に着いた、これから飛行機に乗る、との短い連絡があった。恵理依は気をつけて、とだけ返した。
それから一時半ほどの間、当然といえば当然だが、浩一からの連絡はなく、恵理依は応接室での動きに細心の注意を傾けていた。会社側は、会長は現在取引先で商談中なので場所は明かせない、との返答を警察に対して機械的に繰り返しており、警察はその場所を掴めずにいる。ボストンバッグをばらまいた駅での監視は引き続き続行中、ただし各駅二人ずつで、残りの人員はヘリが着地したビル付近の捜索に当たっているようだ。無難な戦略といえるが、全てブラフなので、的外れとしか言いようがない。
そろそろ着いているはず、と携帯を手にとって見つめていると、携帯電話が着信を告げた。
「もしもし? 父さん、着いた?」
「ああ、北春沢のコインロッカーから紙を出した。今、トイレにいる」
「トイレ? 何で?」
「いや、何て言うか、ものすごい田舎で。ほとんど誰もいないんだよ。電話とかしてたらものすごい目立つから」
「あ、そうなんだ……」
地図上では北春沢はほとんど山の中であり、よくこんなところに電車を通したものだと思っていたが、やはり田舎のようだ。犯人も、また随分と辺鄙なところを選んだものだ。
「いいか、読むぞ。北春沢駅前のレンタカー屋で赤または青のセダンを一週間の期限で借りて、トランクに金を入れ、花沢モールの駐車場、百二十五番に車を止めておけ。鍵はマフラーの下に置いておけ。野伊木浩一はすぐさまその場を立ち去れ」
いよいよこれが最後らしい、と恵理依は緊張した。
もはや恵理依の側から指示するべきことは何もない。警察は完全に撒いた。あとは、浩一が指示された通りに身代金を置いてくるだけである。
「気をつけて。事故とか起こさないようにね」
「わかってる。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
電話が切れる。ネット上で検索してみれば、花沢モールは郊外にある超大型のショッピングモールらしく、駐車場の大きさはサッカーのコート二面分ほどもあるらしい。
どうか上手くいきますように、と祈るような気持ちで、かたや盗聴器のレシーバーを、かたや携帯電話を握りしめていると、浩一からの連絡が入った。
「もしもし、今車を停めたところだ。ものすごい広さだな、さすがに。車も結構停めてあるし、あまり不自然じゃないな」
「そう」
「すぐに帰る」
「うん、気をつけて。そこからだと、新幹線が一番近いわ」
恵理依は、それから浩一に最寄りの駅までの道のりを教え、ついでに電車の時刻も教えた。ありがとう、といって浩一は電話を切った。
電話を終え、恵理依は大きくため息をついた。これでできることは全てやった。できる範囲内で最良の行動をとったと言っていい。警察は撒いたし、身代金は一銭違わず一億円用意したし、置くべき場所に時間内に置いた。全て犯人の指示通りだ。あの厄介な警察の追及を振り切ってここまでしてやったことに、犯人には感謝、感心してもらいたいくらいだ。
応接室では、浩一の居場所に関して侃々諤々の議論が飛んでいた。いくら何でも商談にしては長すぎるんじゃないか、会社に何としてでも吐かせろ、などなど。もはや何のために動いているのか忘れているのではないかと思わせるような、みっともない有様といえた。
美鈴、どうか無事でいて、とレシーバーを握りしめて祈った。
仮に犯人が身代金を入手できても、即座に美鈴が解放されて見つかるわけではない。いくら早くても、何だかんだで半日くらいはかかるだろう。その半日が、恨めしくて仕方ない。
その晩、恵理依は久しぶりにまともに眠った。もしかしたら今にも連絡が入るかもしれない、と午前二時頃までは粘っていたが、今回は間違いなく大丈夫だ、と安心できるせいもあって、ふた気が緩んだ瞬間に、机の前でこくんと眠り込んでいた。
はっと目が覚めると、すでに日は高く昇っていた。何だか暖かいな、と思って振り返ると背中に毛布がかけられていた。机の上にはラップのかかった大きなおにぎりが二個置かれている。
その少し大きすぎるおにぎりを見て、玲子が作って持ってきてくれたのだと気付いた。
ここ数日、ばたばたしていてまともに話していなかったが、いつも通り、というよりいつもよりもさらに、気遣ってくれているのだとわかる。ふっと胸が暖かくなる。
ラップをとっておにぎりを食べながら、こういうことを美鈴にもしてあげてほしかった、と思う。玲子は基本的に美鈴には厳しいが、それはかつて、恵理依が美鈴であった頃とそれほど違いはなく、要するに「野伊木の娘」という存在に厳しいのである。野伊木家の娘として恥ずかしくないように、というようなことを、恵理依は幼い頃から限りなく教え込まれており、それが逆に恵理依をエリィとのいたずらに走らせていた面もあった。
恵理依となってから、その制約がすっとなくなり、玲子は恵理依には緩く、美鈴にはきつく当たるようになった。美鈴は、概ね玲子の理想を守っていたように思うし、それゆえに林崎が「その他の全てにおいて美鈴の方がふさわしい」と評するのも、悔しいがうなずける話なのであった。美鈴は、たしかにあらゆる面において「お金持ちのご令嬢」と見なされるにふさわしい少女であった。
とはいえ、何も知らされずにいた美鈴からすれば、よそ者だから厳しく当たられている、と感じても当然かも知れない、と思う。今、このような状況になってみて、美鈴のことがかわいそうで仕方なく思えている自分がいる。
おにぎりを食べ終え、盗聴器のレシーバーを入れた。そろそろ何か連絡がある頃かもしれない、と思ってのことだったが、応接室にいる刑事は二人ほどらしい。昨日テレビ見てたらさ、というような緊張感のない雑談をしており、恵理依はがっくりときた。
まだかまだかと思いながら、恵理依は、自室を歩き回り、時に応接室の様子を窺い、たまにリビングに降りて玲子と話をしていた。
それは、すでに日も傾きかけてきた午後三時頃のことだった。自室のベッドでごろごろしていた恵理依は、こんこんとささやくようなノックの音で起き上がった。この、仮に寝ていても起こさない程度に絶妙に調節されたノックは林崎のものである。
「どうぞ。鍵はかけてないわ」
恵理依の声に、林崎が静々とドアを開いた。何かの知らせだろうと思っていたが、林崎はドアを開いたところで立ち止まったままだった。
「美鈴は? 何かあったの?」
警察の様子には特に変わったところは見られず、恵理依はどういう類の知らせだろうと不審に思いながら訊ねた。林崎は、一つの封筒を恵理依の方へと差し出して、付け加えるように言った。
「浩一様宛ですが、浩一様に確認しましたところ、恵理依様に確認してもらって欲しいとのことでしたので」
どくん、と心臓が高鳴った。ついに犯人からの連絡が来たのだ。
だが、同時に疑問が生じた。これまでの犯人のやり方からすると、この封筒も普通郵便で来ているのだろう。とすれば、投函されたのは、昨日の身代金搬送の前ということになる。なぜ、身代金を受け取る前にこちらに何か言ってきたのか。身代金受け取りの場所を変更したい、といったことだろうか。
立ち上がって、林崎の元へ歩いていくわずかな間に、恵理依はその小さな白い封筒が、よくない知らせあるように感じ始めていた。あれほど待ちわびた知らせだというのに。
封筒には、プリンタで印刷したと思しき無機質な文字が並んでいた。差出人は当然書かれていない。
次第に高鳴っていく鼓動に併せて、呼吸も速くなっていく。
ペーパーカッターを持ち出すのももどかしく、恵理依は封筒の端を手で破り取った。封筒を覗き込むと、白い紙が一枚と、USBメモリが入っているのがわかった。
USBメモリ?
何かがおかしいと直感が告げている。恵理依は、封筒を逆さまにしてどちらも一気に引っ張り出し、紙を表に向けた。そこには、封筒と同じように、プリンタによる無機質な文字が並んでいた。
『ふざけた真似の落とし前をつけさせてもらった。無関係の彼女には申し訳ないが、これは見せしめだ。一言遺したいというので、せめてもの情けに声だけを届けてやる』
目が字を追い、一瞬で意味を理解し、膝から力が抜けた。立っている場所が全て崩れ去り、奈落の底へとひたすら落ちていくような感触が全身を包み込む。
理解したくなかった。けれども、意味するところはあまりにも明らかだった。
美鈴は美鈴でないことを知られてしまった。美鈴は殺された。美鈴は死んでしまった。
身体の中がからっぽになったようだった。空虚だった。
「恵理依様?」
林崎が怪訝そうに声を掛けてくる。恵理依は、こちらに視線を向ける林崎を見上げて、呟いた。
「美鈴、殺された」
言葉にして、それはますます確定したように感じられた。林崎が目を見開き、はっと息を呑んでから、つと恵理依の手元に視線を落とす。
「そのUSBメモリは何ですか?」
「……美鈴からの、遺言、だって……」
美鈴からの遺言――こんな言葉を口にしなければならない日が来るなんて。じくじくと胸が痛んだ。
「確認されてはいかがですか?」
林崎がおずおずと言う。それももっともだ、と恵理依はゆっくり立ち上がった。
聞きたくない。けれども、それが彼女の希望であったなら、聞かないわけにはいかない。
恵理依は、メモリをパソコンに差し込んでフォルダを開いた。そこには、ぽつんとたった一つだけ、音声ファイルが入っていた。容量にして、一メガバイト。
これが、たったこれだけのデータが、彼女の生きた証だというのか。こんな僅かなものしか、彼女は遺せなかったというのか。
ファイルをクリックすると、自動的に再生ソフトが起動し、スピーカーから音が流れ始めた。
ひぐっという、喉を押さえられたような声。
「ごめんなさい、今喋りますから、待って、お願いします」
それは、久しぶりに耳にする美鈴の声だった。ぐったりと疲れ切ったような、弱々しい声だった。それだけで、恵理依の涙腺が強く刺激され、涙が溢れた。
「本当はいろいろ言いたいこともあったけれど、でも、何だかどうでもよくなっちゃいました」
ゆっくりと美鈴が喋る。よほどマイクが近いのか、呼吸の音さえもが鮮明に記録されていた。少し間が空いて、声が続く。
「お父様、お母様、今までありがとうございました。こんな私を引き取って育てて下さって、本当に感謝しています」
また少しの間と、そして鼻をすするような音――美鈴は、きっと泣いている。
「先立つ不孝をお許しください。でも、私は、咲州恵理依は、たしかにお役目を果たしました。本当の美鈴様をお守りしました。どうかそのことはお忘れなきよう、お願いいたします」
すでに内容を考えてあったのだろう。時折止まりながらも、美鈴はすらすらと、そして淡々と最期の言葉を口にしていく。言い終わってしまえばそこで全てお終いだと分かっているのか――いや、わかっているからこそ、言うべきことを言っておきたいのか。
「そして、美鈴様。どうか私の分まで、長く幸せに生きてください。私、あなたのことが苦手だったけれど、今はもう少し仲良くしておけばよかったと後悔しています。私のことは、どうか気にしないでください。こんな私が、あなたのお役に立てたというだけでも、生まれてきた意味がありました」
静かに、弱々しく紡がれる言葉が、恵理依を打ちのめす。
何でもっと仲良くできなかったのか。何で早く自分は姉だと、あなたは妹だと告げてあげなかったのか。
彼女は、孤独の中で死んでいく。引き取られた家には、血の繋がった父と姉がいたのだと知ることもなく、ただの「身代わり」として殺されていく。代わりに誘拐されたことに、たったそのことだけに、生まれてきた意味を求めるしかない彼女の寂しさは、悔しさは、どれほどだろう。
しばらくの間、美鈴は口をつぐんでいた。ただ、規則的な呼吸の音だけが、流れてくる。何か考えているのだろうか。やがて、美鈴が口を開いた。
「それだけです。もういいです。……一言遺させて下さって、本当にありがとうございます。もういいですから」
全身を引き裂かれたような気持ちで再生ソフトの停止ボタンを押そうとして、まだ少し残っていることに気づき、何だろう、と聞き入った。
その瞬間、ひぐっと再び喉を押さえられたような声が飛び出してきた。
どきっとして全身が固まった。もしかして、まさか――
誇張でも何でもなく全身に寒気が走り、凍りつく恵理依の耳に、その声――いや、音はしばらく聞こえ続けていた。ひぐ、うぐ、と苦しげに漏れる声、ああ、はあ、と弱々しく吐かれる息、ぎりぎりと何かを引き絞るような音。しだいに、声が弱まっていき、息は止まりがちになり、ついに無音になる。最後に、一度だけ、ごそごそと布がこすれるような音がしたかと思えば、ふたたびぎりぎりときつく布を引き絞るような音と、ぐきっと身体の一部が折れたような音が重なって、ぱたりと音が途絶えた。それが、ファイルの終わりだった。そして、美鈴が死んだ瞬間だった。
まるで自分が絞め殺されているかのような錯覚を覚えた。あまりの苦しさに、身体を動かすことができず、放心していた。もう涙も出なかった。
こんなのって、ないよ。
美鈴、ごめんね。
ごめんねごめんねと、心の中でひたすら美鈴への謝罪を繰り返した。




