15秒のリグレット
恋をした。
その人の名前も顔ももう思い出すことはできない。雪のような白い肌と、淡い色の髪が真っ直ぐに肩を覆っていたこと。それだけが今もぼくの記憶の彼方を彷徨っている。
その人は、ぼくと同じ教室にいた。他の女の子と同じ制服を着ていたがぼくの眼にはその人の制服だけ、何か特別な、例えばシンデレラが着ていた魔法のドレスのような、そんなふうに、映っていた。
家に帰ってからも、その人のことが気になって気になって仕方がなかった。
何とかしてその人に近づきたい。
何とかしてその人にぼくのことを見てもらいたい。
ぼくはどうすればその人の気持ちを自分の方に向けられるか、毎日毎日考え抜いた。そしてぼくは、その人がぼくのことを好きになり、二人で海へ行ってはイチャイチャし、山へ行ってはイチャイチャし、川へ行ってはイチャイチャし、毎日楽しく過ごす、という完全無欠のラブストーリーを作り上げた。
物語の中のぼくは、通常、いや現実よりカッコよく、声も森本レオ風の渋めの声をしている。そしてその人がドラえもんのジャイアンのような大男にイジメられているところへ二枚目かつ渋め声のぼくがはやてのように現れて、
「女の子をイジメる奴はオレが許さん!」
とか何とか言ってジャイアン系イジメっ子を倒しその人がそんなぼくに電光石火の勢いでラブラブファイヤーしてしまい、二人は結ばれ毎日楽しく過ごす。
何とも我田引水で馬鹿丸出しの物語だが、ぼくは真剣だった。
冬が近づいてきた。
その日もぼくはいつも通りの授業を受けていた。
だが、物語というのは、そんな何でもない平凡な日に生まれるものだ。
昼休みになった。
ぼくは何ということもなくグラウンドへ出た。外はそれほど寒くなかったのか、何人もの男女が清々しく冬の午後を楽しんでいた。
と、その時。
ぼくの眼の中にその人の思いがけない姿が飛び込んできた。
その人はプール横の鉄棒の下で男子生徒にイジメられているようだった。男はM(彼女のことは思い出せないのにこいつのことは名前も顔もはっきり覚えている。だからぼくは日々、己の記憶を恨んで過ごしている)という奴だった。チリチリの天然パーマの狐顔の上に乗せた双子の兄弟だ。兄か弟かはわからない。ジャイアンとは月とすっぽんの弱々しい男だったが、そんなことはどうでもよかった。
「チャーンス!」
ぼくは心の中でそう叫び、同時にMとその人のいるプール横へダッシュした。
十分すぎる程の助走をとったぼくは大地を蹴ってジャンプし、その昔ブルース・リーが『燃えよドラゴン』の中で見せたものと寸分違わぬ飛び蹴りを繰り出した。Mは突然現れたぼくの動きに素早く反応し、ぼくの蹴りをよけようとしゃがんだ。しかしその行為が逆に災いし、跳躍力のないぼくの飛び蹴りはMの顔面にジャストミートした。
いま思えば、この飛び蹴りが余計だった。
着地するまでの間、それまでの日々を煩悶と二人の未来がぼくの脳裏を駆け巡った。それこそ走馬灯のように。
「女の子をイジメる奴はオレが許さん!」
あとはそう言うだけだった。
0,1秒後。
着地と同時にぼくは獲物を追いつめた野獣のごとき鋭い眼光でMを睨んだ。
すると、Mは、なななな何と、驚いたことに鼻血を出したのだ。しかしただの鼻血ではない。そんじょそこらの鼻血ではない。まるでホースの口を指で抑えた水、三原山の大噴火、はやい話が《鼻血ブー》であった。
その瞬間、台詞をすっかり忘れたぼくの心を突いた感情は、
「やっべぇ、先生に怒られる」
というものだった。
ぼくはここへ来た時よりも速く猛スピードでダッシュし、キセルがばれて駅員から逃げる女子高生のように、後に自分が頂戴するであろう叱責を想像しながら逃げ去った。
グラウンドの片隅でその人を眼にしてからここまで、やく15秒。
はやてのように現れて、はやてのように去っていったぼくをその人はいったい何だと思っただろうか。
イジメられている女の子を助けたのだから、もしかしたら怒られなどしなかったのではないか。
しかし、その時のぼくにそんなことを考えられる程の余裕も、勇気も、なかった。
なぜなら、その時、ぼくらは、5歳の幼稚園児だったのだから。
「この話で完結します」