九、紫星闌干之夜(三)
「驚いた、あんたがほんとに来てくれるなんて」
昨日と同じあばら家で、梅鈴を抱き抱えた雲花が喋る。
「そうかしら」
梅鈴が答えた。
実際彼女は猫のような者だった。気まぐれで神出鬼没、愛想よく近付けば手を引っ掻かれ、敬遠すれば涙目で誘う。まさに、悪女。釣られなかった男などいない。しかしそのせいか、たまに一昨日の夜のようなことがある。それも彼女は身から出た錆だと思っていたが。
「いや……嬉しいよ」
雲花が左の頬にキスをした。もう、と梅鈴がたしなめる。
「ねえ、小瀧、あなた前に見た時たしかあいつの船に、ええと、あいつ……」
梅鈴が空を見ながら言った。顔は分かるが思い出せないらしく、首を捻っている。
「アルダン=ラスツァな。落ちぶれたね、俺のお頭も。名前が思い出されないなんて」
ああその名前よ、と梅鈴は頷いた。
「あなたはアルダンの船にいるの?」
「そう。もう十年くらいかな」
ふと、ここに至るまでの経緯を喋ってみたくなった。今まで誰にも自分の過去など喋ったことはない。だが、思い直した。それは彼女を落胆させ、謝らせ、そして自分への新たな軽蔑の眼差しを産み出すことに他ならないと。
「あたし聞いたことあるわ。アルダンの船には、玉蘭の子がいて……あのシャルトレーズ国王、アイオロス五世冷酷王の庶子で」
その時雲花が彼女の口を塞いでしまったため、それ以上喋ることが出来なかった。
「どーでもいい。俺の昔話とか興味ない。『今』の方が大事だ」
そう言うと彼は、梅鈴をぎゅっと抱き締めた。そして、小声で囁く。
「俺……やっぱあんたのこと好きだ」
梅鈴は顔を赤らめて、彼の背中に手を回した。雲花は明日出港することを彼女に伝えた。暫く静寂が辺りを支配し、次に聞こえた彼女の声はやけに小さかった。
「あたしだってずっと……こうしてたいけどさ。あたしとあんたは……」
「海賊、だからな。仕方ない」
仕方ないんだ、ともう一度自分に言い聞かせるように彼は言った。彼女の頬を涙が伝った。それを舐めるように彼は口を寄せた。
そう、仕方ない、仕方ないんだ。全て仕方ない、何もかもどうしようもない。海賊であることも、生きてしまうことも、愛してしまうことも。
暁、空が白む。気の早い鳥が飛んでいる。
梅鈴はやはりもう起きていて、髪を結っていた。一つに縛ったうえで、漆塗りの髪止めで仕上げをする。
「よくやるねえ、女ってのは。鏡も無しに……」
感心した、呆れたように雲花が言う。
「あら、レディのたしなみよ。あたしだって立派にレディなんだからね」
梅鈴は当然のごとく返した。
「それ……その髪止め、綺麗だな。螺鈿細工?」
ええ、と梅鈴は後ろを向いて見せびらかした。黒い漆塗りで、螺鈿で蝶が描いてある。質素だが気品があった。
「あたしが死んだら形見に持っていていいわよ」
「やめろよ。縁起でもない」
二人は笑った。だが、どこか悲しげな笑い声だった。
船が出る直前、梅鈴が雲花に会いに来た。目立たないよう、市女笠をかぶっている。回りが口笛を吹き鳴らし、二人を冷やかした。
「どうしたんだ、梅鈴」
「ごめん、どうしても……どうしても会いたくて」
そう言って彼女は、茶色い鳥の羽根の耳飾りを片方渡した。
「持ってて。お守り……」
素直にそれを受け取り、雲花は微笑んだ。そして、すぐに左の耳へつけた。彼女の右耳には、同じものがついていた。
「ありがとう……」
あのさ、と彼は続けた。そして、彼女の耳元で囁いた。
「泉 雲花。俺のほんとの名前」
驚いた顔をして、彼女は顔をあげた。そして微笑む。
「綺麗な名前ね……雲花」
視線が交わった次の瞬間には唇を重ねた。そして、体温を確かめるかのように抱き締めた。
「梅鈴、またいつか会おう。その時はまた、潮風が当たらない所へ連れて行ってくれ」
「ええ……またいつか、雲花。海の女神があなたを導きますように。……女神ってのが気にくわないけどね」
二人は笑った。
「女神も何も、あんたに比べれば皆、木偶さ」
船が出て暫くしても、梅鈴はそこにいた。見えなくなるまでずっといた。
船の上では雲花が冷やかされていた。
「よっ、大将色男!どうやって銀狐なんかひっかけたんだ?」
「もしかして最後の二晩いなかったのって、あいつといたからか?やるねえ!」
顔を赤くして、雲花はその場を離れた。
「それにしてもねえ、あの銀狐が本気だったぜ。今まで男なんか虫けら以下の金づるでしかなかったあいつが」
「ああ……こっちも本気みてえだしな。世の中ってのは分かんねえな」
甲板での騒ぎなどそ知らぬふりをして、雲花は船室へ消えた。
あまりに短い出逢いだった。少々軽率だったかと後悔する場面もある。しかし、あの二日はまるで夢みたいだった。
今まで海賊の女なんてろくな奴がいなかった。助けたのも気まぐれだ。見ていて、ちょっと可哀想だと思っているうちに、なんだか愛らしく思えてしまったからだ。別にそれ以上するつもりは皆無だった。だが、あの瞳、あの唇!こうも綺麗な生き物がいるのかと思った。
いろんなことは口実で、ただ彼女が欲しかった。これじゃあ親父となんら変わりはない、そう思って諌めようとしても駄目だった。心の臓から沸き上がる熱い想いは冷めることなく体中を駆け巡る。
押さえきれない想いを胸に彼女を抱くと、彼女もまた同様だったことが分かった。少し安心するとともに、確信した。間違いなくたったあの時間で彼女に惚れてしまったのだということを。
だが、仕方ない。全て仕方ないことである。
雲花は薄暗い船室で一人、頭を抱えた。




