八、紫星闌干之夜(二)
「じゃあ、遠慮なく。……俺、あんたが欲しい」
「……」
梅鈴は固まった。
……幻聴、ですか?私の耳がおかしくなりましたか?今、なんと?
黒髪の海賊は、不敵に笑った。
「嫌って言わねえなら、構わないっていうことでいいんだな?」
雲花は彼女を抱えあげ、そのまますたすたと歩いていった。だんだんと暗くなる。人の気配もなくなる。路地裏の、あばら家ばかりのところへ行った。
適当に一軒に入ると、彼は腐りかけた絨毯の敷いてある上に梅鈴を横たえた。
「ちょ、ちょっと待って!いくらなんでも……!」
慌てて彼女は抵抗した。その様子を面白そうに彼は見た。
「ちょっと待ってから、それからどうするんだ?」
「だ、だから……人が……」
彼がもしこの辺りに詳しくはないなら―――。
「人なんか来ねえよ、ここは淤廃窟だぜ。叫びたきゃ叫びな。可愛がってやるから 」
ああ、彼は知っていた。ここはもはや人が住むべき場所ではなく、今は宿を持たぬ者すらここには訪れない。
「やっ……やめて……!」
梅鈴は上に覆い被さる雲花の肩に手をかけた。すると、彼は眉をひそめて呟いた。まるで悪戯っ子のように。
「右腕痛ぇなあ……」
顔を赤くして、梅鈴は抵抗するのを止めた。
そうよ、たった一度―――今だけ我慢すれば済むこと……!今だけ、今だけ!
雲花はそっと着物を脱がせた。白い肌に口づけする。梅鈴が甘ったるい声をあげた。
彼は決して梅鈴が本気で嫌がるようなことはしなかった。
「ん……」
東の空がうっすらと白む頃、梅鈴は目を開けた。ぼんやりする頭で着物を手繰り寄せる。それに気付いて雲花が目を開けた。
「早いんだな……」
彼は眠たそうに目をこすっている。彼もまた着物を着直した。長い黒髪が乱れている。
「昨日の酒場の奴ら、どうしたかな。決着がついても景品がなけりゃあ骨折りだ」
ふと空を見ると、西の方にはまだ白い月があった。
「さあね。でも、あたしは構わないよ。変な男に狙われるよりかは、あんたの方がいいよ」
梅鈴が笑いながら言う。雲花はきょとんとして、それから笑った。
「へえ、嬉しいこと言ってくれるな。なら、今晩も逢ってくれるか?」
いいわよ、と梅鈴は頷き返した。そして、疑問を口にした。
「あのさ、あんたいくつなの?」
十七だよ、と彼は答えた。髪をまとめる梅鈴の手が止まった。
「じゃあさ、あたしはいくつに見える?」
彼女の顔を眺め、彼は自信なさげに言った。
「さあ……十六かな。俺よりは年下……かな?」
梅鈴は大笑いした。髪をまとめる手が離れ、長い銀の髪はふわっと下りた。
「口八丁だね、大将。あたしはあんたより五つ上だ」
まじかよ、と雲花が声をあげた。見えねえなあ、と続ける。
「萎えたかい、こんな年増」
まさか、と彼は笑った。けれどその笑いは先程とは違い、どこか安心させるようなどっしりとした笑いだった。
「ますます興味が湧いたよ」
そう、と微笑んで梅鈴は立ち去った。それから少しして雲花もそこを去り、船に戻った。
船の甲板に、雲花と親しくしている海賊が寝転んでいた。起きてはいるらしい、腹をぼりぼりとだらしなく掻いている。足音に彼が振り向き、手だけでこっちへ来い、と合図した。
「何やってたんだ、こんな時間まで。昨日はどこに泊まったんだ」
彼の隣に座って、雲花は答えた。
「どこだっていいだろ、詮索するなよ」
「親代わりに言わねえってのか、この不孝者」
「なおさら言いたくねえわ」
そして彼は続けた。まんざら言いたくなさそうでもない。
「銀の狐を探して、朝気付いたら溝川の中だったってこと」
ひゅうっと海賊は口笛を吹いた。
「やるねえ、お前もなかなか。ふうん、銀狐がねえ。年下趣味か?にしてもお前が女に興味を示すとは……俺はてっきりあっちばかりかと、いてててて……」
海賊は口をつねられた。
「腐った雑巾口に詰めて縫うぞ。……っていうか、俺が女の味を知る前にそうなったのはどこのどいつらのせいだよ」
自分で言っておきながら、彼は背筋に寒気を感じた。嫌な記憶が蘇る。あれはいつだったか、まだ十を少し過ぎた頃だったか?ある晩、頭に連れ込まれて―――。思い出しただけでもぞっとする。今はもう慣れたが、あの頃は夜が恐ろしくてならなかった。
「悪かったな、食いもんが切れて山羊を食っちまったからな」
舌打ちして雲花は海賊を放した。
「んで?銀狐とは今夜も逢うのか?俺も連れてってくれよ」
「却下!!まじでお前、皮引っ剥がして帆の修繕に使ってやる!」
雲花は気を悪くしたようで、船室へ行ってしまった。あとに残された海賊は、瓶の中身を喉を鳴らしながら飲んだ。
「分かんねえなあ、世の中ってのは」
あいつがあんなに誰かに興味を示すなんて、今までなかったのに。喜ばしいことだが、よりにもよって銀狐だ。厄介な相手だ。ま、それも本人達が良いってんなら関係ねえことだが。
「ほんと、分かんねえなあ」
呟きが、白い朝霧の中に立ち消えた。




