六、香月松風
彼が海賊達と過ごすようになって、もう十年近く経とうとしていた。泉 雲花――――今は濊 小瀧だ。この名前は海賊組織の親玉であるアルダン=ラスツァからもらった。穢れた水の流れる小さな瀧という意味だった。
「おい、てめえら。これから玉蘭の南門に行くからな。補給をしておけ」
頭であるアルダンが言った。
「ああ、それから、狗」
雲花は振り向いた。アルダンは絶対に彼を小瀧とは呼ばない。自ら名付けたくせに、だ。その代わり、彼は雲花のことを狗とか孽と呼ぶ。狗はそのままの意味だ。孽は側妾から産まれた子という意味だ。いずれにしろ、いい意味ではない。
「薬の補給も頼んだぜ?」
歯軋りしたくなるほどの怒りを抑えて、雲花はにこやかに微笑んだ。
「了解、お頭」
あれから十年経ったのか。雲花はふと思った。玉蘭には幾度が寄ったが、南門は十年ぶりだった。頭であるアルダンは、わざと南門を避けていたような気もする。
変わらない街、変わらない匂い。この街は、いつだって汚いもので溢れていた。雲花の足は、知らぬ間に生家を目指していた。
「あなた……雲花!?え、雲花じゃない!」
聞き覚えのある声に振り向けば、小柄な中年女性が立っていた。
「まああ、すっかり大きくなって!」
誰だ……?誰だっけ……?いや、年を取って少し人相も変わったように思うが、なんとなく見たことはある。それもよく知ってるなんてレベルじゃない。相当世話になったような……。
「もしかして……香月女士!?」
女性はにこりと微笑んだ。彼女はよく紅榴と雲花の面倒をみてくれていた。
「心配してたのよ、十年前に海賊が街を襲ってから、あなたを見なかったから」
「今はその海賊のとこにいるよ」
香月の表情が固くなった。そして、彼女は呟いた。
「雲花、あなたのお母さんはね……」
「知ってるよ。あの海賊に殺された」
じゃあなんで、という声を背に、雲花は立ち去った。
「またね、香月。今度会ったら何かご馳走して」
その後彼は街を見て歩いた。以前母と住んでいた所は空き家になっていた。その側には新しい薬屋が出来ていた。その店の店主は雲花がよく薬の原料を買いに行き、ぼったくった値段をつけていた男だった。その男のところからは、いくらか高いものを盗んだことがある。
雲花はそこで薬を買っていった。物はいいが、相変わらずぼったくりだ。男の言う通りの値段を払い、雲花はまた西王桃の種をごっそりと盗っていった。
……まったく馬鹿らしい。この世はなんなんだ。何もかもが不条理だ。
夜、甲板で一人、酒を煽りながら雲花は思った。するとそこにアルダンがやって来た。彼も手に酒瓶を持っている。
「よお、どうした狗。お前さんは宿には行かねえのか?ここはてめえのクニだろうがよ」
それを壊したのはどこのどいつだ。よくもそんなことが言える。まったく寝言は寝て言いやがれ。
雲花はその言葉を胸の底に沈めた。
「行く場所がない。気違い野郎共の中には行きたくない」
「はん、てめえもとっくにその気違い野郎のお仲間だよ」
そうだな、と雲花は小さく呟き、また酒を含んだ。
「狗、俺を殺さねえのか」
驚いて雲花は瓶を落としそうになった。
「もうお前がこの船に乗って十年だ。剣も銃も体術も教えた。てめえは筋がいい、文句のつけようがねえ才能だ。なぜ俺を殺さねえんだ。それが目的だろう。いつか俺を殺すと。やろうと思えばいつだって出来るだろう、そうだな、今だって」
二人の間に沈黙が流れた。
「……俺はあんたに生かしてもらってる、お頭。それを返しきれないうちには殺さない」
「ふん、やっぱお前は狗だ」
もはや刀を握るのも疲れた。今日は一人でゆっくりとしたかったのに。
「俺はな、あんたのお袋に惚れてたんだよ」
突然の告白に雲花はむせた。こぼれた分を袖で拭う。
「お頭、酒がもったいねえ……」
だが彼はそれを無視して喋った。
「だがあんたのお袋はよ、シャルトレーズ国王の……アイオロスに奪われた。なんでかなあ、女ってのは分からん生き物だ。たかが一夜の仮寝だろうに、紅榴はそれを選んだ。俺のとこにくりゃあ、金をやるから帰れなんざ言わねえのによ」
雲花はどうして良いか分からなかった。こんな話を聞かせて、頭はどうしようと言うのだ。
「頭はお袋が憎い?それからあんたはいっつも教えてくれないが……なぜ俺を助けた。好きな女と余所の男の間に出来た災いの子なんざ、誰だって牌に欲しくはないもんだ」
アルダンはくすっと笑った。
「さあねえ、そこが人生の謎ってやつさ」
そのまま彼は船長室へ戻っていった。
ちくしょう、と雲花は舌打ちした。何もかも見透かしたような顔しやがって。だが自分の中にも言い表せない感情があることは分かっていた。