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紫星海風伝  作者: 沖津 奏
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四、月明星稀夜

「陛下……!」


 忍びでやって来た彼は、なんだか以前よりも疲れが漂っていた。部屋が暗いからだろうか?


紅榴ホンリュウ……!」


 彼女の無事を確認すると、彼は自分の息子を見た。王妃が病弱であるため、彼には初めての子だった。当然紅榴は、彼が喜ぶと思っていた。しかし、次に彼の口から出たのは想像もしなかった言葉だ。


「男児だったか……!」


 けれど、これには紅榴は黙っていた。男児ならば父に似てくるかもしれない。いくら黒髪だからといっても、目敏い者は目敏いのだ。庶子だと気付く者もいるだろう。そうなれば厄介なことになる。


雲花ユンホワ。そう名付けろ」


 雲のようにのびのびと?それとも、雲のように儚くなることを願って……?紅榴は恐ろしくて聞けなかった。

 アイオロスは従者を呼んだ。そして何かを紅榴に渡した。


「金だ。ここを出ていってくれ」


 頬をぶたれたような衝撃。紅榴は彼の足元に崩れ落ちた。


「なんで……!なんでですか!?」


 熱いものが彼女の頬を伝って床に落ちた。


「どうして!あたしが貧民だからですか!この子が男の子だったからですか!」


 思わず泣き叫ぶ紅榴を、彼は冷たい目で見た。


「言ったろう、仮寝かもしれないと。そなたはそれを受けた。……去れ。そなたの血には染まりたくない」


 彼はそのまま出ていってしまった。紅榴はうずくまって、ひとしきり泣いた。けど、どうしようもなくなり、泣くのを止めた。袋を確認すると、中には金が入っていた。金の他には宝石が入っている。売れば結構な値がつくだろう。遊んで暮らしても、この子と二人なら数年はもつ。

 紅榴はまだ鼻をすすりながらも、荷物をまとめた。荷物は少なく、日々の服と薬屋の道具だけだ。最後に彼女は我が子を見た。そっと抱き寄せる。


「雲花……」


 名前を呼ぶと、幼子は少し身をよじった。途端に紅榴の目に涙が溢れる。彼女は我が子を抱き締めたまま、狂ったようにその名を呼び、泣き続けた。

 彼女が家を出たのは、まだ朝日の光も見えないような暗闇の早朝だった。

 そしてその二年後、アイオロス五世には正式な世継ぎが誕生した。それからだ。紅榴は目を病み、徐々にこの世界が遠くなっていった。





「母さん、母さん」


 はっとして声のした方を見ると、七歳の雲花が心配そうにしていた。


「大丈夫?寝たら?」


 にこっと笑うと紅榴は言った。


「大丈夫。ちょっとうとうとしただけだから」


 雲花はまた西王桃の種を潰しにかかった。もうかなり潰れている。


「ねえ、雲花」


 なに、と返事が返ってきた。彼は顔を上げない。


「父様を……許してあげて」


 一瞬、彼の動きが止まった。しかし、すぐに何事もなかったかのように作業を続けた。暫くして、彼は言った。


「嫌だ」


「父様だって大変なんだよ。王様ってのはねえ……あたしら下々の者が思うよりもずっと気苦労が多いらしい」


 彼はやはり顔を上げないまま言った。


「……母さんは優しすぎる」


 そして雲花は鉢を紅榴に渡した。


「俺もう眠いから寝るね」


 彼は顔を背けて言った。そしてその声は僅かに震えていた。おやすみ、とだけ紅榴は言った。彼もおやすみと返す。


 もともと押し入れだったような狭い場所へ行き、雲花はぼろぼろのござの上に横になった。ぼろ布を引き寄せ、天井から提げられたカーテンのような簾の向こうから洩れる光に背を向けた。

 そっと右腕を見た。まだ新しい傷が残る。左手にも背中にも傷はある。どれもほとんどが紅榴につけられたものだった。

 母はたまにおかしくなる。人が変わったように雲花を叩き、物を投げつける。「お前のせいであたしは……!」とか、「あんたは災いの子だ、お前なんか産まれなきゃよかった!」とか言われる。別に自ら望んで災いの子になったわけじゃないんだけど、と悲しくなる。

 そんなふうにおかしくなった次の日、母はもとに戻る。そしてどうやら昨日分の記憶はないらしく、いつも丁寧に雲花を手当てした後ぎゅうっと抱き締め、どうやったらこんな怪我するの、と笑われる。彼女の顔を見るたび、彼は本当のことは言えなかった。だから彼は転んだとか喧嘩したとか、適当な嘘をついていた。

 俺は産まれちゃいけなかったの?生きてちゃいけないの?じゃあどうして母さんは父さんを選んだの?彼はいつもそう思い、涙を流した。あの母は、普段は大人しく優しい母の本心である―――彼はそう確信していた。


 少しすると紅榴は種を潰すのを止めたようで、灯りも消した。辺りが暗くなる。控えめな足音と簾のめくれる音がした。雲花は寝たフリをした。母の優しい温かい手が頬に触れた。


「おやすみ、雲花」


 雲花は寝たフリを貫いた。再び簾の音がして、どうやら母は自分の寝床に行ったらしい。


 頬に温かい感覚が残っている。

 だからだ。だから、この腕や背中の傷は痛まない。

 手を口に当て、息を整えると、彼の頬を涙が伝った。


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