十一、六鶃退飛(二)
「何、何をくれるの?」
宵闇の町外れの海辺で、きらきらした目で梅鈴が雲花を見た。何だと思う、と焦らしておいてから、彼は懐から小刀を取り出した。赤い木で出来た女物の小刀。母が使っていたものだ。花の螺鈿細工が月明かりに反射した。
「俺は使えないからさ。……あれだけ期待させといてって思うかもしれないけど……これ、お袋の形見なんだ」
梅鈴は小刀を受け取った。
「そんな大切なもの……」
いいんだ、と雲花は笑って返した。
「大切なものだからこそ、梅鈴に持っててほしい」
ありがとう、と呟き、梅鈴はそれを大事そうに懐へ仕舞った。
「俺はこれと対になる小刀を頼んだから……」
それから、と雲花は続けた。
「俺、今度アストレーズで酒の密売するんだ」
「あら、邪魔してもいいの?教えてくれるなんて」
違うよと彼は笑った。もちろんそれは梅鈴にも分かっていた。彼女の肩を抱き寄せ、海を見ながら彼は言った。
「お頭がさ、言ったんだ。そこで儲けた分から、俺が金を取っていいって……」
暫くは海の音だけが聞こえた。雲花は彼女が寝てしまったのではないかと心配したが、瞬きをしているのが見えた。
彼女の頬に手を添え、目を合わせた。ほとんど闇の中であっても、瞳に輝きはたしかにあった。
「だから……だから、それが上手くいったら……俺と一緒に来てくれ。二人で玉蘭に帰ろう。……ずっと一緒にいよう」
胸の痛みを抑えて、雲花は返事を待った。すごく長い間待たされた気がした。しかし、ほんの一分も経っていない。
返ってきたのは承諾の声ではなかった。その代わりに、優しいキスだった。目を閉じ、彼は梅鈴の背中に手を回した。
銀髪が風に揺れている。潮風が、なんだかものすごく心地よい。空には天の川がさざめく。白く、青く、澄んだ光が流れ落ちる。
「約束よ、絶対」
ああ、と彼は頷き返した。
雲花がアストレーズ王国の王都イーストラへ向かって旅立った数日後の夜のことだ。夜、誰かが梅鈴の袖を掴んだ。
誰、と声を荒げると、相手は黙るように口許に立てた人差し指をもっていった。どうやら男のようだ。掴む手が大きい。
「よお、銀狐さんよ。最近妙に浮かれてるじゃねえか……新しい鴨でも取れたかい?」
「あんた……たしか、ジル=エグモントとかいう海賊ね……」
そう、彼女が雲花と出会った夜―――彼女を拘束し、酒場で賭けをした若い海賊だ。
彼はご明察、と呟いた。
「なに、たいした話じゃねえ……。一晩俺につきあってくれよ。覚えてんだろ?前にあんたを逃がしちまったからなぁ」
放せ、と彼女は彼を睨み、見えにくい闇の中、たしかに彼の頬を叩いた。
「いいじゃねえか、俺にも付き合ってくれよ。せっかく面白い土産もあるのによ。あのドブネズミ野郎相手なら素直なくせに、他の男には駄目なのか?」
ぐっと梅鈴が唇を噛んだ。焦りと嫌悪が滲み出る瞳。彼女はそれに少しの怯えを加え、エグモントを見た。
「土産、ですって?いらないわよ、そんな得体の知れないものなんか」
得体の知れないものねぇ、とエグモントが呟いて空を見上げた。梅鈴はどうして良いか分からず、曖昧に頷いた。
「そんなこと言ってられるのも今のうちかな、銀狐さん」
どういうこと、と彼女はエグモントに詰め寄ったが、彼は彼女が伸ばした手をひらりと交わした。そして、なんとも楽しそうに笑う。悪魔のような笑い声が、彼女の頭でこだました。
「お前は俺の土産をいらねえっつったろ。教えない」
子どものような反応。梅鈴はむっとした。なおもエグモントに詰め寄ると、彼はひらりひらりと交わしながら、心底嬉しそうにした。
「シュリーアへ行け。そうすれば分かるさ」
彼はそれだけ言うと、闇に消えた。
シュリーア。アストレーズ王国の港町、ケルーニャの近くだ。たしか、アルダン=ラスツァがそこで武器を買ったという。当然ながら雲花も行っているだろう。
でも、いったいそこに何があるというの?シュリーアなんて少し寂れた街なのに……。
だが数日かけてシュリーアへ赴き、彼女はこの世を、人間を、そして神を恨んだ。
「なんで……なんでよ……」
梅鈴はすっかり青ざめ、その場にへたり込んだ。がっくりと肩の力が抜ける。天を仰ぐと、そこには場違いな太陽が輝いていた。
彼女が見たものは、一人の女だった。正確に言い表すとすれば、もともと女だったもの。装飾品がなければ性別の判断もつかないほどに残虐に捻り潰されている。それはシュリーアの小さな港の開けたところに横たえられていた。
最初に発見した者は、恐ろしさのあまり寝込んでしまったという。
「桃鈴……」
妹の名前が口をついて出た。
なんで、なんでこんなことに。いったい誰が!
神様がいるなんて信じない!嘘よ、嘘よ!だってもしいるなら……こんな酷いこと、あるわけないもの。
「あんた、こいつの知り合いかなんかか」
呆然としていると、通りすがりの男が声をかけた。感情の無い涙で潤んだ瞳をそちらへ向けた。そして、私の妹です、と震える声で呟いた。男は一瞬言葉を探し、宙を見た。
「そうか……気の毒に。一つ、分かることがある。やったのは多分……リーラだ」
梅鈴が息を飲んだ。懐に、雲花がくれた小刀がある。思わず着物の上から握りしめた。
彼女の殺気だった様子を見て、男が慌てた。
「た、多分だ多分!殺し方が似てるし……。馬鹿な考えはよせ、どうしたって仇討ちなんて出来ねえよ!相手はあのリーラだぞ!?無理だよ!」
分かっている。リーラは海賊の間でも有名な、一流の殺し屋だ。闇と共にやって来て、音もなく人を黄泉へ送る。そしてまた闇と共に消え去る。そんな殺し屋だ。
だけど、このままではいたくない。……何も出来ずに泣き寝入りなんてまっぴらだ。せめて、あいつの利き腕を使い物にならなくしてから……。
彼女は男に妖しく微笑みかけた。
「謝謝。あと一つ、あなたにお願いがあるの。……桃鈴を、海に還してあげて……」
リーラを探し出さなければ。それよりもまず、エグモントだ。なぜ桃鈴がこんなことになると分かったのだろう?もしリーラと接触していて知った上で見殺しにしたなら、あいつも許さない。身勝手は承知だ。けど、許さない。絶対に許すものか。
立ち上がり、梅鈴は水平線の向こうをみつめた。海と空の青が混じっている場所に、何かがある気がした。
エグモントを探すのは簡単だった。彼はまだエートスにいたからだ。問いただすと、意外にも無駄な金を積まずにエグモントはあっさりと喋った。
「前に……ケルーニャで見たんだ、俺の手下がな。泉のドブネズミ野郎と殺し屋リーラが会っているのを」
雲花が……?ああ、嘘でしょ……?
混乱寸前の頭で話を聞きながら、梅鈴は続きを促した。
彼は更に続けた。
「あんたの妹、気の毒だがな。俺は知ってるぜ。あんたの妹はアストレーズの酒の密売に目をつけてたんだって?」
それだけ聞くと、彼女ははっとした。雲花。彼もアストレーズで酒の密売に関係すると言っていた。儲けられるとも。まさか、妹が邪魔で……!?
彼女が愕然としていると、エグモントは闇に消えていった。後に残された彼女は涙を浮かべた目で闇を睨んだ。拳を握り、怒りを露にして肩を震わせている。
闇夜を睨むその目は、さながら狼のようだった。
それから僅か数日後のことだ。アストレーズの都に程近い小さな港で、一人の女の亡骸が見つかった。くすんだ栗色の髪に、いつもなら空のように澄みわたる青の瞳は濁っていた。
港近くに住む人は、ただその事実を恐れた。だが、海賊達は別の理由で恐れを抱いた。『あの殺し屋以上の腕を持つ者が現れた』、と。




