一、紫絳之月
海賊ばかりが行き交うような荒れた港街。ここは玉蘭帝国の都である霞都に程近い南門という。
石造りの家や店が建ち並ぶ石畳の道を、裸足の少年が駆けていく。黒い髪を首の後ろで乱雑に一つに束ね、彼はみすぼらしい着物を着ていた。手には植物と瓶がある。
「母さん、買ってきた!ニガヨモギ!それからヒルも生きたまま!」
様々な薬を出している一軒の小さな家に彼は駆け込んだ。店先には、同じ黒髪を赤い紐できれいに結った女性がいた。均整のとれた顔がとても美しい。白っぽい着物を着て、客の相手をしていた。
少年は奥の台に植物と、中にヒルの入った瓶を置いた。
「ちゃんと値切ってきたんだろうね」
女性が振り向いて言う。客はまだ品物を眺めて迷っていた。
「値切ったよ。でもあいつ、ぜんぜん負けないんだ。ぼったくりだよ。他の人にも負けないんだ。だからしょうがないけど二〇蓮と五 杏払ったんだ。でもあいつの荷物から西王桃の種盗ってきた」
そう言いつつ彼は懐から種を取り出した。大人でも片手で握れば二つが限界であろうほどの大粒の種が五つある。
「よろしい」
女性が微笑む。少年は淡々と包丁でヨモギを切っていく。
「さすが紅榴の子だな」
客が店奥を見ながら言う。
「決まったかい?」
「ああ、やっぱこっちにする。あんたの勧めた方が効きそうだ」
彼は金を払いながら、女性―――紅榴という名の女性―――の顔を見て言った。
「あんたもその目で精が出るねえ……あんたが子持ちなのが残念だぜ。あれさえいなきゃあ、お前を掻っ拐うのによ」
紅榴がじろりと客を睨む。
「おやめ。もうあんたに売らなくなっちまうよ」
「おい冗談だ。本気にするなよ」
客は笑った。
「でも可哀想な子だな。あんたも残酷だ、阿嬌薬師さんよ」
当の少年は、そんな大人の会話は素知らぬふうでヨモギを縛っていた。
その夜、僅かの灯りの下で桃の種を割る紅榴の横で、少年はぽつりと呟いた。
「ねえ母さん。俺……やっぱりここにいない方がいいんじゃないの」
突然、彼は頬に平手打ちを食らった。驚いて母を見つめると、彼女は涙ぐんでいた。
「馬鹿言うんじゃないよ。あんたがここを出てっても野垂れ死にするだけさ。それとも何かい、あんたは目の悪い母さんを残して死んでしまうの」
少年は頬を擦りながら、ごめんと一言呟いた。紅榴は少年を抱き寄せ、頭を撫でた。
「雲花、あんたはここにいるんだよ。どこにも行かなくていいんだよ」
こくんと少年は頷いた。
「食べるかい」
紅榴は干したイチジクを雲花に渡した。少年は受け取ると、それを半分に裂いた。すっと母に差し出す。
「半分」
驚いた顔をしたが、紅榴はそれを受け取り、微笑んだ。
「まったく、お前は優しい子だね。誰に似たんだか」
「母さんだよ」
イチジクを食べながら彼は即答した。
「俺の髪の色も目の色も、性格も全部母さんに似たんだ」
それでも父親に似ている顔立ちを眺め、紅榴は言った。
「でもお前の父様は……」
「知らないよ、あんな奴。王様だかなんだか知らないけど、俺は大嫌いだ」
遠く異国を治める王を、紅榴は思い描いた。
「ごめんね雲花。母さんが貴族だったらねえ……せめてお金持ちなら、あんたも今頃はシャルトレーズ王国の王子様だったのに……」
「いいよっ!俺は王子なんかじゃなくてもいいよ。あんな頭沸いた奴らといるなんて、嫌だ。俺は母さんと二人で暮らす方がいいよ」
雲花は母を遮り、言った。
「お前は優しい子だね」
紅榴はイチジクを噛みながら、手元の桃の種を見た。そして気分を変えるように、努めて明るく言った。
「それにしてもあんた、西王桃の種なんて、よく五つも懐に入ったね」
ふふっと少年は笑った。
「あれ高いんだね。陽で採れたんだって。一つ五蓮だった」
「ぼったくりだね。一つ三蓮十五杏が相場だよ」
イチジクを食べ終え、紅榴は桃の種が入った鉢を雲花に渡した。
「あんた、やるかい」
「うん」
雲花はそれを受け取り、あぐらをかいて鉢を固定し、棒で潰していった。その顔を眺め、紅榴は再び過去に思いを巡らせた。
もう、あれから七年経つのか。霞都に条約更新に玉蘭を訪問していたシャルトレーズ国王アイオロス五世に出会い、夢のような時間を過ごして。あれからもう七年。七年―――。
蝋燭の灯りが揺らめき、いつの間にか紅榴は記憶の中の、七年前の霞都にいた。