テセウスの臓器
日本の経済界を裏から牛耳るとまで言われた大富豪、神崎東吾は、豪奢な病室のベッドで死の淵に臨んでいた。
原因は、彼の家系にのみ発症する、DNAそのものに刻まれた遺伝性の不治の病。全身の細胞が段階的に自己崩壊を起こしていく病に、現代医学は無力だった。
神崎は、枕元に立たせた国内最高峰の天才外科医、黒崎を濁った眼で見上げ、枯れ木のような指を突きつけた。
「黒崎……私の莫大な資産をすべて使っていい。私をあと十年、確実に生き長らえさせろ」
死への恐怖に狂った老人の要求に、黒崎は静かに微笑んだ。
「お任せください、神崎会長。我が病院が開発した最新医療──『iPS細胞による全身置換技術』を投入しましょう。あなたのDNAは呪われているため、今回は『他人の健康なiPS細胞』をベースに、あなたの体をパーツごとに置き換えていきます。ただし……」
黒崎は淡々と医療の現実を告げる。
「複数のドナーの細胞を混ぜれば、深刻な拒絶反応を起こして即死します。あなたを生かすためには、たった一人のドナーの細胞から、すべての臓器、血管、皮膚、そして脳細胞にいたるまでを培養し、完全に適合させる必要があります。幸いにも、あなたと究極の適合性を持つ『最高のドナー』が一人だけ見つかりました」
神崎に拒否権はなかった。翌週から、前代未聞の延命プロジェクトが始まった。
最初の一年で肝臓、腎臓、胃が交換された。三年目には、力強く脈打つ心臓が埋め込まれた。
五年目には血管と骨、そして血液がすべて「新造されたドナーの組織」へと置き換わった。神崎の体からは、かつて流れていた彼自身の血液が一滴残らず消え去った。
そして八年目。ついに最も繊浅な領域である「脳の神経細胞」の置換が始まった。
神崎の記憶や人格を司る電気シグナルを完璧にコピーしながら、古い脳細胞を消去し、ドナーのiPS細胞から誘導した新鮮なニューロンへと少しずつバトンを渡していく。意識も、記憶も、冷酷な人格も、間違いなく神崎東吾のままだった。
手術のたびに神崎の肌は若返り、頭脳は明晰さを増していった。
しかし同時に、神崎はふとした瞬間に、自分の輪郭が霧のように曖昧になるような、奇妙な浮遊感を覚えるようになっていた。
そして、約束の十年が経った。
最高級の病室のベッドの上に腰掛けているのは、二十代前半にしか見えない、完璧な肉体を持った美しい青年だった。不治の病の兆候はどこにもない。
「おめでとうございます、神崎会長。約束の十年です。延命は百パーセント成功しました」
黒崎は静かな笑みを浮かべ、カルテを胸に抱いた。
「……ああ、素晴らしいな、黒崎」
神崎は、若々しく張りのある声で滑らかに答えた。彼は自分の白く滑らかな手をじっと見つめ、ずっと胸の奥に燻っていた疑問を口にした。
「ところで先生。私の脳も、心臓も、血液も、すべて一人のドナーのDNAから作られたものだ。……いま、この体の中に、私の『オリジナルの細胞』はどこに、どれくらい残っているのかね?」
黒崎はクスクスと、密やかに笑った。
「ご安心ください。たった一箇所だけ、わざわざ莫大なコストをかけて新調する必要のなかった、あなたのオリジナルのパーツが残されています。『盲腸』です。医学的には無用の長物ですが、それこそが、あなたが『神崎東吾だった』という唯一の証明です」
神崎は唖然とした。自分の全財産を注ぎ込み、手に入れた完璧な肉体。その中で、ただ一つ、機能もしていない醜い盲腸だけが自分なのだ。
しかし、黒崎の言葉はそこで終わらなかった。
「ただ……極めて遺憾なことに、あなたのオリジナルのDNAは『不治の病の原因』そのものです。つまり今、その残された盲腸の中で、あの自己崩壊の病魔が再び産声を上げました。隣接する新鮮な大腸へ向けて、転移を始めようとしています」
神崎の顔から一気に血の気が引いた。
「な、なんだと……!? 治ったのではないのか!? 今すぐ切り取れ!」
「ええ、盲腸を切除すればあなたの命は助かります。ですが会長。それを切除してしまった瞬間、この世から『神崎東吾の細胞』は零パーセントになります」
「ゼロ%?いったいどういう事だ?」
「あなたのDNAはこの世から消えてなくなるということですよ。」
「それがどうした?何が言いたいのだ?」
「私ですよ、神崎会長。あなたと究極の適合性を持つ健康なドナー。それは、十年間あなたを執刀し続けた、この私です。あなたの脳も、心臓も、肌も、すべて私のiPS細胞から作られました」
黒崎は静かにメスを構え、得体の知れない冷徹な目で神崎を見つめた。
「さあ、今からその盲腸を切り取りましょう。それがなくなった瞬間──あなたのDNAは完全に『私』と同一になります。その結果何が起きるかは医学的な前例が無いので分かりませんが……よろしいですか?」
完璧な若者の肉体の中で、ただ一つの「神崎東吾だったパーツ」が、どす黒い呪いのようにドクドクと脈打ち始めていた。




