第20話:本戦の幕開け
決戦の当日、午前10時。
レイは、自室のデスクの前で、自分の右手が小刻みに震えているのを他人事のように見つめていた。
窓の外からはいつもの街の喧騒が聞こえる。けれど、この部屋の中にだけは、肺の奥まで凍てつくような鋭利な沈黙が満ちていた。
目の前のモニターには、本戦の公式待機画面。同時視聴者数はすでに7万人を超え、チャット欄はかつてない速さで流れている。
『TRは何者だ』『スクリムの幽霊、本番でも見れるのか』『11位の下剋上期待』
数日前まであれほど彼女たちを苦しめていた嘲笑いは、今や重圧という名の巨大な塊となって、レイの心臓を締め上げていた。
「……っ。……はぁ、はぁ……」
呼吸が浅い。
スクリムでガソリン缶を撃ち抜いた時の「正解」の感覚を思い出そうとしても、今はただ、マウスが氷の塊のように冷たく、重く感じる。
『……レイちゃん。……聞こえる?』
ボイスチャットから流れてきた、ほむらの静かな声。
レイは弾かれたように顔を上げた。
「……ほ、ほむらちゃん。……おはよう。……ごめん、ちょっと、準備に手間取っちゃって……」
『嘘ね。……あなたの心拍数、デバイスの同期ソフトで見ているわ。……130を超えている。……深呼吸して。……今さら、不安になる要素なんてどこにもないわ』
ほむらの声は、いつも通り冷徹で、刃物のように鋭かった。だが、その裏側に、自分と同じ「熱」が潜んでいるのをレイは感じ取った。
「……ねえ、ほむらちゃん、ねねちゃん。……一つ、提案があるんだけど」
レイが、震える指先をマイクのスイッチにかけながら切り出した。
「……本番まで、まだ時間があるから。……このまま黙って待ってるのは、心臓に悪いよ。……だから、今から少しだけ『朝活配信』を行わない?」
『……ええっ!? このタイミングで配信ですかぁ!?』
ねねの素っ頓狂な声が響く。
『……だって、今配信を付けたら、絶対「本番どうなんですか」とか「昨日のスクリムは」って質問攻めになっちゃいますよぉ!』
「……いいの。……大会に関わることは、一切回答しない。……ただ、いつも通り、私たちがここにいるってことだけをリスナーに見せるの」
レイの瞳には、先ほどまでの怯えはない。
「……情報の遮断を、自分たちの手で行う練習にもなると思うんだけど……どうかな?」
『……。……合理的ね。……外野が勝手に憶測を膨らませる中で、私たちが「普段通り」であることを誇示する。……それは、一種の心理戦にもなるわ。……いいわよ、やりましょう』
ほむらの承諾を受け、レイは震える指で配信開始ボタンをクリックした。
数秒のラグの後、暗転していた画面に Trinity Raid の三人のアバターが躍り出る。
瞬く間に数万人の視聴者がなだれ込み、チャット欄は予想通り、飢えた狼のような質問で埋め尽くされた。
『本選の意気込みは?』『昨日のスクリム、ガソリン缶を撃ち抜いたのは狙い通りか?』『1週間、逃亡してた間に何をしていたんだ?』
レイは、流れるコメントの中から「逃亡」という言葉を拾い、自嘲気味に微笑んだ。
「……逃亡、ですか。……そう見えても仕方なかったかもしれませんね」
レイの声が、スピーカー越しに世界へ響く。
数日前まで彼女たちを「プロごっこ」と嘲笑っていた外野は、今やその「正体」を暴こうと血眼になっていた。チャット欄は瞬きする間に流れていくが、レイの瞳はもう、そこに踊る悪意に揺らぐことはなかった。
『……でも、私たちは逃げたんじゃないわ。……情報を遮断して、泥を啜っていただけよ』
ほむらが、キーボードを叩く音を響かせながら淡々と継ぎ足す。
『……コーチに言われたの。外野の評価なんて、最後にスコアで上書きすれば済む話だって。……だから私たちは、スマホを捨てて、ただマウスを振り続けた。……1日14時間、指先の感覚がなくなるまで、同じ動作を繰り返したわ。……偏差150メートルの標的を100回連続で射抜くまで、寝ることすら許されない地獄をね』
「……うん。……ねね、最初は泣いてばかりでした。……偏差計算とか、パルスの予測とか、難しすぎて。……キーボードのWASDの指の形が固まって、お箸が持てなくなったこともあるんですよぉ。……でも、あの地獄みたいな一週間があったから、予選も昨日のスクリムでも、目の前が真っ白にならずに済んだんです」
ねねの、少しだけ大人びた声。
視聴者たちは、彼女たちが「大会の話題を完全スルー」しながらも、その裏でどれほどの狂気的な訓練を積んできたのかを突きつけられ、戦慄に近い静寂に包まれていった。
『……1日14時間? マジかよ』
『……ってか、声のトーンが予選の時と全然違う。……こいつら、本当に人間か?』
困惑するリスナーたちをよそに、レイは自分のマウスを優しく撫でた。
そのマウスパッドには、激しい練習によって削れた白い跡が残っている。それは彼女たちが「怪物」へと変貌を遂げた証拠だった。
「……私たちのことを『お飾り』だと思っていた皆さん。……今日は、その認識を上書きしに行きます。……質問には答えられませんが、私たちが今日、何を信じて戦場に立つのか。……それは、スコアで証明します」
配信開始から1時間が経過し、視聴者数は10万人を超えた。
かつてのアンチは沈黙し、代わりに「もしや本当に何かを起こすのではないか」という期待が、インタ-ネットの海を支配し始めていた。
その熱狂の渦中。
都内のワンル-ムマンション。遮光カ-テンで昼の光を拒絶した暗い部屋の中で、葉月はモニタ-をじっと見つめていた。
画面の中、三人のアバタ-はいつも通りの可愛らしい姿で笑っている。だが、その声のト-ン、言葉の端々に宿る「情報の遮断」の徹底ぶり……。
葉月は無意識に、手元のマウスを一回、クリックした。
「本当は、やり切れるとは思わなかったがな」
葉月はボソリと呟き、薄く口角を上げた。
三人の言葉、三人の空気。配信を通じて伝わってきたのは、世間への媚びでも、恐怖でもない。ただ、「自分たちの領域」に他者を一歩も踏み込ませないという、競技者としての絶対的な自立だった。
一方、葉月の部屋から数キロ離れた、同じく本選の配信を注視していた Minty は、タブレットを手にソファに深く背中を預けていた。
彼女の目元は、少しだけ赤く潤んでいる。
「……信じられないわね。……あの泣き虫たちが、あんな顔で笑うようになるなんて。……冷たい男ね、葉月。……でも、あの子たちをあそこまで熱くさせたのは、あんたのその、凍りついたロジックなのね」
姉の感慨など知る由もなく、三人の配信は終わりを告げようとしていた。
『……。……十二時よ。……マウスパッドの滑りも確認した。……湿度45%。……静電気の発生率も許容範囲内。……準備、完了ね』
ほむらの声が、わずかに低く、鋭利な響きを帯びる。
カチリ、とマイクが入る無機質な電子音。
「……。……配信を切れ。……十三時より、最終ブリ-フィングを開始する」
葉月の冷徹な声が、三人の部屋に同時に響き渡った。
その瞬間、ゆるやかだった「配信」という名の仮面は剥がれ落ち、肺を刺すような戦場の静寂へと書き換えられた。
配信画面が暗転し、『THANK YOU FOR WATCHING』の文字が浮かび上がる。
その向こう側で、三人は同時に、本物の「怪物」としての呼吸を始めた。
外野の嘲笑いは、もう聞こえない。
彼女たちの耳に響くのは、ただ一つ。
勝利を掴み取るための、冷徹なロジックの律動だけだった。




