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魔王降臨 奈落都市ネザリアから始まる人類征服戦記  作者: たゆたう
第一章 争いの無い世界を目指して

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第9話 黒炎の魔王子、奈落都市を発つ

出発の日のネザリアは、いつもより少しだけ静かに感じた。


深淵から吹き上がる風は変わらない。底の見えない裂け目から立ちのぼる魔力の霧も、黒石の塔の影も、昨日までと同じはずだ。

それでも、城門前の広場に並ぶ黒鉄の馬車と騎兵の列が、街全体の空気に「これから何かが動く」という線を引いていた。


俺は、魔王家の紋章が刻まれた胸甲に手を添える。

戦場用より軽装だが、礼装用よりも厚い――和平に向かうのか、戦争の続きに向かうのか、まだ誰も断言できない場に出るための装いだ。


「……腰の剣、ちゃんと差さってるか?」


背後からかかった声に、振り向かなくても誰か分かった。


「差さってる」

柄に軽く触れてから、ちらりと顔だけ向ける。


そこには、腕を組んだまま口をへの字に曲げているビーストがいた。

黒い獣毛に覆われた巨体。額から突き出た二本の角。閉じていても覗く牙。

ネザリアの城門前で、この男より「門番」に似合う姿はないだろう。


バルバロス・グリム。

今日からしばらく、ネザリアを預ける相手だ。


「鎧の留め具、外れてねぇか?マント踏んづけて転ぶなよ?靴紐――」


「子どもか、俺は」

さすがに眉をひそめる。


「昔、木剣抱えた坊ちゃんが階段から転げ落ちたときの顔、まだ覚えてんだよ」

バルバロスは獣耳をぴくりと揺らし、にやりと牙を見せた。

「“いてててて……”って言いながら、まず剣の心配してたろ。あのとき“ああ、こいつはこういうやつだ”って思ったんだよ」


「剣が折れてたらアスモドに怒られるからな」


ガッハッハ、と肩を揺らして笑う。


笑い声が、出発を待つ騎兵たちの緊張を少しだけ和らげた気がした。

そのことに気づいているのかいないのか、バルバロスはいつも通りの顔をしている。


今日、ネザリア城門前に並んでいるのは、選りすぐりの随行部隊だ。


魔王家近衛のデーモン部隊を中心に、悪魔の魔導兵、ビーストの騎兵。

それに、ルクスベルク家の紋章を掲げた黒鉄の馬車――聖都までの長い道のりを、威容と共に進むための顔でもあり、何かあったときの盾にもなる。


アスモドはいない。

すでに前線を離れ、中立地帯の砦で父上の一行に合流しているはずだ。

マルシエルも、父上の側だ。

アバドは二日前に影を連れて聖都へ潜った。残された影のひとつが、このネザリアのどこかで静かに息を潜めている。


ここにいるのは――ネザリアを預かるバルバロスと、これから聖都へ向かう俺たち。


「坊ちゃん」


バルバロスが少しだけ真面目な声を出した。

さっきまで笑っていた口元が、わずかに引き締まる。


「一応、もう一回確認しとくぞ。

アスモドは父上の護衛。ベリアルドは前線。アバドは聖都の影。

で、ネザリアは、このバルバロス様がぜ〜んぶ預かる。……それで間違いねぇな?」


「ああ」

頷く。


「不満か?」


「不満しかねぇよ」

即答だった。

けれど、その目に浮かんでいるのは不満だけじゃない。


「本当なら、坊ちゃんのすぐ後ろに立って、聖都の連中ビビらせたかったしな」


「それをやったら、和平交渉が破綻する前に聖騎士が斬りかかってくるだろう」


「だよなぁ」

バルバロスは大きく伸びをした。筋肉と鎧がきしむ音がする。


「でもよ、誰かがネザリアに残らなきゃなんねぇのも分かってる。

ここが空になってたら、帰ってくる場所がなくなっちまうからな」


そこまで言ってから、肩をすくめる。


「助かる」


短くそう返すと、バルバロスは一瞬だけ視線をそらした。

獣耳が、ほんの少しだけ伏せられる。


「……助かるとか、素直に言うんじゃねぇよ」


「なぜだ」


「なんかこう、泣かせにきてるみてぇだろうが」

ぶっきらぼうにそう言ってから、また牙を見せる。


「坊ちゃんは、いつも通りでいろ。

“助かる”とか“頼んだ”とか、そういうのは帰ってきてからいくらでも言え。

行く前に言い過ぎると、縁起が悪ぃ」


「……そういうものか?」


「そういうもんだ」


バルバロスなりの、最後の守りの魔法みたいなものなのかもしれない。

そう思うと、軽く受け流すこともできず、ただひとつ頷くしかなかった。


城門の上から、角笛の音が響いた。

ネザリアの外門が、ゆっくりと開き始める。


「時間だな」


馬車の御者が、手綱を握り直す。

近衛たちが一斉に片膝をつき、俺のほうを向いて頭を垂れた。


「ルシアン様、いつでも」


誰かの声が聞こえた。

ネザリアの空を見上げる。

いつもの薄暗い空だ。深淵の霧が、黒い街並みの上に低く漂っている。


この景色を背にして、人間の聖都へ向かう。

その事実が、ようやく現実として胸に落ちてきた。


「坊ちゃん」


もう一度、バルバロスが呼び止める。

振り向くと、あの巨体が少しだけ身をかがめていた。俺と目線を合わせるために。


「次期魔王は坊ちゃんだ」


低い声で、はっきりと言う。


「それはネザリアでも、戦場でも、聖都のど真ん中でも変わらねぇ。

頭を下げるにしても、横並びに立つにしても、それだけは忘れんな」


「……忘れない」


自分でも驚くほど、すんなりとその言葉が口から出た。

怖さも、不安も、消えたわけじゃない。

それでも、「どこに立つべきか」だけは見失わずに済む気がした。


「よし」


バルバロスは満足げに頷くと、いつもの調子を取り戻したように大きな声を張り上げた。


「ネザリア代表、黒炎の魔王子様のお通りだ!

道中で変な真似したやつは、帰ってきた坊ちゃんと俺とでまとめてぶん殴るから、覚悟しとけよ!」


近衛たちの間に、微かな笑いが走る。

緊張をほぐすには、これ以上ないやり方だった。


「行ってこい、坊ちゃん」


最後は、それだけだった。

短く、単純で、それゆえに重い言葉。


「行ってくる」


馬車には乗らなかった。

俺は先頭の騎兵の列に加わり、ネザリアの門を正面からくぐる。

深淵から吹き上がる風が、最後の挨拶のようにマントを揺らした。



ネザリアを離れると、景色は少しずつ変わっていった。


魔力の霧は薄くなり、代わりに乾いた風が頬を打つ。

深淵の裂け目から離れるほど、空の色は「普通」に近づいていく。


西へ向かう街道は、三百年の戦争の跡で満ちていた。


焼けて黒くなった砦の跡。

石だけが残された橋。

誰のものとも知れない剣や槍の柄が、土に半ば埋もれている。


そこに、新しいものも混ざっていた。

粗末な木の小屋が寄り集まった集落。

魔族と人間の区別がつかないほど疲れ切った顔の者たちが、畑とも呼べない痩せた土地を掘り返している。


ネザリア城下にも報告が上がっていた難民たち。

その一部は、こうして道の途中に根を下ろそうとしているのだろう。


「……和平が、本当に進めば」


思わず小さく呟く。


この者たちの扱いも、いずれは条約のどこかに書き込まれることになる。

「どの国の民として」扱われるのか。

魔王領に逃げ込んだ者は、戻るのか、そのままここで暮らすのか。


馬の歩調に合わせて揺れる視界の中で、答えの出ない問いだけが増えていく。


聖都セラディア――人間の「正義」が凝縮された場所。


魔王の息子として、そこに立つ。

それがどんな意味を持つのか、正確にはまだ分からない。


分かっているのは、ただひとつ。


父上は、そこで線を引こうとしている。

三百年続いた戦争に、終わりという言葉を刻もうとしている。


俺は、その場に立ち会うために馬を進めている。



何日かの行程ののち、空の色がまた変わった。


灰色が濃くなり、風の匂いが戦場のそれに近づいていく。

前方に、かつて幾度も争奪戦が繰り広げられた「境界地帯」の気配がまとわりつく。


「ルシアン様」


先頭を走っていた斥候の悪魔の一人が馬を返し、こちらへ駆け寄ってくる。


「前方、視界に入りました。中立地帯の砦です」


視線を上げる。


丘の上に、古い石造りの砦が見えた。

魔王領の黒い石とは違う、やや明るい灰色の石。

それを、後から継ぎ足したような黒い補強材がところどころ繋いでいる。


三百年のあいだに、何度も持ち主を変えてきたのだろう。

そのたびに増築され、修理され、色の違う石がパッチワークのように積み上げられている。


砦の上には、二つの旗が翻っていた。


一つは、ルクスベルク王家の黒い旗。

もう一つは、セラディア聖王国の白い旗――その中央に、金の聖印。


「……着いたか」


胸の奥が、少しだけ重くなる。


父上が待っている場所。

第一次会談が行われた場所。

そして、この先、聖都セラディアへの道が開かれている場所。


馬の歩調を落とす。


石畳の上に、蹄の音が規則正しく響く。

砦の門の前には、すでに列をなした兵がいた。

魔王軍の黒い鎧と、セラディア側の白銀の鎧が、ぎこちなく同じ場所を守っている。


「ルシアン・ルクスベルク様。お待ちしておりました。」


門前に立っていた魔王兵が、胸に拳を当てた。

その横で、白銀の鎧をまとった聖騎士が、ほんのわずかに顎を引く。


互いに、まだ一歩も信用していない距離感。

それでも、剣は抜かれていない。


ネザリアを出るときよりも、小さな緊張が胸の奥で固まっていく。


奈落都市を発った黒炎の魔王子は、

今、戦場と聖都のちょうど境目に立とうとしていた。

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