第9話 黒炎の魔王子、奈落都市を発つ
出発の日のネザリアは、いつもより少しだけ静かに感じた。
深淵から吹き上がる風は変わらない。底の見えない裂け目から立ちのぼる魔力の霧も、黒石の塔の影も、昨日までと同じはずだ。
それでも、城門前の広場に並ぶ黒鉄の馬車と騎兵の列が、街全体の空気に「これから何かが動く」という線を引いていた。
俺は、魔王家の紋章が刻まれた胸甲に手を添える。
戦場用より軽装だが、礼装用よりも厚い――和平に向かうのか、戦争の続きに向かうのか、まだ誰も断言できない場に出るための装いだ。
「……腰の剣、ちゃんと差さってるか?」
背後からかかった声に、振り向かなくても誰か分かった。
「差さってる」
柄に軽く触れてから、ちらりと顔だけ向ける。
そこには、腕を組んだまま口をへの字に曲げているビーストがいた。
黒い獣毛に覆われた巨体。額から突き出た二本の角。閉じていても覗く牙。
ネザリアの城門前で、この男より「門番」に似合う姿はないだろう。
バルバロス・グリム。
今日からしばらく、ネザリアを預ける相手だ。
「鎧の留め具、外れてねぇか?マント踏んづけて転ぶなよ?靴紐――」
「子どもか、俺は」
さすがに眉をひそめる。
「昔、木剣抱えた坊ちゃんが階段から転げ落ちたときの顔、まだ覚えてんだよ」
バルバロスは獣耳をぴくりと揺らし、にやりと牙を見せた。
「“いてててて……”って言いながら、まず剣の心配してたろ。あのとき“ああ、こいつはこういうやつだ”って思ったんだよ」
「剣が折れてたらアスモドに怒られるからな」
ガッハッハ、と肩を揺らして笑う。
笑い声が、出発を待つ騎兵たちの緊張を少しだけ和らげた気がした。
そのことに気づいているのかいないのか、バルバロスはいつも通りの顔をしている。
今日、ネザリア城門前に並んでいるのは、選りすぐりの随行部隊だ。
魔王家近衛のデーモン部隊を中心に、悪魔の魔導兵、ビーストの騎兵。
それに、ルクスベルク家の紋章を掲げた黒鉄の馬車――聖都までの長い道のりを、威容と共に進むための顔でもあり、何かあったときの盾にもなる。
アスモドはいない。
すでに前線を離れ、中立地帯の砦で父上の一行に合流しているはずだ。
マルシエルも、父上の側だ。
アバドは二日前に影を連れて聖都へ潜った。残された影のひとつが、このネザリアのどこかで静かに息を潜めている。
ここにいるのは――ネザリアを預かるバルバロスと、これから聖都へ向かう俺たち。
「坊ちゃん」
バルバロスが少しだけ真面目な声を出した。
さっきまで笑っていた口元が、わずかに引き締まる。
「一応、もう一回確認しとくぞ。
アスモドは父上の護衛。ベリアルドは前線。アバドは聖都の影。
で、ネザリアは、このバルバロス様がぜ〜んぶ預かる。……それで間違いねぇな?」
「ああ」
頷く。
「不満か?」
「不満しかねぇよ」
即答だった。
けれど、その目に浮かんでいるのは不満だけじゃない。
「本当なら、坊ちゃんのすぐ後ろに立って、聖都の連中ビビらせたかったしな」
「それをやったら、和平交渉が破綻する前に聖騎士が斬りかかってくるだろう」
「だよなぁ」
バルバロスは大きく伸びをした。筋肉と鎧がきしむ音がする。
「でもよ、誰かがネザリアに残らなきゃなんねぇのも分かってる。
ここが空になってたら、帰ってくる場所がなくなっちまうからな」
そこまで言ってから、肩をすくめる。
「助かる」
短くそう返すと、バルバロスは一瞬だけ視線をそらした。
獣耳が、ほんの少しだけ伏せられる。
「……助かるとか、素直に言うんじゃねぇよ」
「なぜだ」
「なんかこう、泣かせにきてるみてぇだろうが」
ぶっきらぼうにそう言ってから、また牙を見せる。
「坊ちゃんは、いつも通りでいろ。
“助かる”とか“頼んだ”とか、そういうのは帰ってきてからいくらでも言え。
行く前に言い過ぎると、縁起が悪ぃ」
「……そういうものか?」
「そういうもんだ」
バルバロスなりの、最後の守りの魔法みたいなものなのかもしれない。
そう思うと、軽く受け流すこともできず、ただひとつ頷くしかなかった。
城門の上から、角笛の音が響いた。
ネザリアの外門が、ゆっくりと開き始める。
「時間だな」
馬車の御者が、手綱を握り直す。
近衛たちが一斉に片膝をつき、俺のほうを向いて頭を垂れた。
「ルシアン様、いつでも」
誰かの声が聞こえた。
ネザリアの空を見上げる。
いつもの薄暗い空だ。深淵の霧が、黒い街並みの上に低く漂っている。
この景色を背にして、人間の聖都へ向かう。
その事実が、ようやく現実として胸に落ちてきた。
「坊ちゃん」
もう一度、バルバロスが呼び止める。
振り向くと、あの巨体が少しだけ身をかがめていた。俺と目線を合わせるために。
「次期魔王は坊ちゃんだ」
低い声で、はっきりと言う。
「それはネザリアでも、戦場でも、聖都のど真ん中でも変わらねぇ。
頭を下げるにしても、横並びに立つにしても、それだけは忘れんな」
「……忘れない」
自分でも驚くほど、すんなりとその言葉が口から出た。
怖さも、不安も、消えたわけじゃない。
それでも、「どこに立つべきか」だけは見失わずに済む気がした。
「よし」
バルバロスは満足げに頷くと、いつもの調子を取り戻したように大きな声を張り上げた。
「ネザリア代表、黒炎の魔王子様のお通りだ!
道中で変な真似したやつは、帰ってきた坊ちゃんと俺とでまとめてぶん殴るから、覚悟しとけよ!」
近衛たちの間に、微かな笑いが走る。
緊張をほぐすには、これ以上ないやり方だった。
「行ってこい、坊ちゃん」
最後は、それだけだった。
短く、単純で、それゆえに重い言葉。
「行ってくる」
馬車には乗らなかった。
俺は先頭の騎兵の列に加わり、ネザリアの門を正面からくぐる。
深淵から吹き上がる風が、最後の挨拶のようにマントを揺らした。
◇
ネザリアを離れると、景色は少しずつ変わっていった。
魔力の霧は薄くなり、代わりに乾いた風が頬を打つ。
深淵の裂け目から離れるほど、空の色は「普通」に近づいていく。
西へ向かう街道は、三百年の戦争の跡で満ちていた。
焼けて黒くなった砦の跡。
石だけが残された橋。
誰のものとも知れない剣や槍の柄が、土に半ば埋もれている。
そこに、新しいものも混ざっていた。
粗末な木の小屋が寄り集まった集落。
魔族と人間の区別がつかないほど疲れ切った顔の者たちが、畑とも呼べない痩せた土地を掘り返している。
ネザリア城下にも報告が上がっていた難民たち。
その一部は、こうして道の途中に根を下ろそうとしているのだろう。
「……和平が、本当に進めば」
思わず小さく呟く。
この者たちの扱いも、いずれは条約のどこかに書き込まれることになる。
「どの国の民として」扱われるのか。
魔王領に逃げ込んだ者は、戻るのか、そのままここで暮らすのか。
馬の歩調に合わせて揺れる視界の中で、答えの出ない問いだけが増えていく。
聖都セラディア――人間の「正義」が凝縮された場所。
魔王の息子として、そこに立つ。
それがどんな意味を持つのか、正確にはまだ分からない。
分かっているのは、ただひとつ。
父上は、そこで線を引こうとしている。
三百年続いた戦争に、終わりという言葉を刻もうとしている。
俺は、その場に立ち会うために馬を進めている。
◇
何日かの行程ののち、空の色がまた変わった。
灰色が濃くなり、風の匂いが戦場のそれに近づいていく。
前方に、かつて幾度も争奪戦が繰り広げられた「境界地帯」の気配がまとわりつく。
「ルシアン様」
先頭を走っていた斥候の悪魔の一人が馬を返し、こちらへ駆け寄ってくる。
「前方、視界に入りました。中立地帯の砦です」
視線を上げる。
丘の上に、古い石造りの砦が見えた。
魔王領の黒い石とは違う、やや明るい灰色の石。
それを、後から継ぎ足したような黒い補強材がところどころ繋いでいる。
三百年のあいだに、何度も持ち主を変えてきたのだろう。
そのたびに増築され、修理され、色の違う石がパッチワークのように積み上げられている。
砦の上には、二つの旗が翻っていた。
一つは、ルクスベルク王家の黒い旗。
もう一つは、セラディア聖王国の白い旗――その中央に、金の聖印。
「……着いたか」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
父上が待っている場所。
第一次会談が行われた場所。
そして、この先、聖都セラディアへの道が開かれている場所。
馬の歩調を落とす。
石畳の上に、蹄の音が規則正しく響く。
砦の門の前には、すでに列をなした兵がいた。
魔王軍の黒い鎧と、セラディア側の白銀の鎧が、ぎこちなく同じ場所を守っている。
「ルシアン・ルクスベルク様。お待ちしておりました。」
門前に立っていた魔王兵が、胸に拳を当てた。
その横で、白銀の鎧をまとった聖騎士が、ほんのわずかに顎を引く。
互いに、まだ一歩も信用していない距離感。
それでも、剣は抜かれていない。
ネザリアを出るときよりも、小さな緊張が胸の奥で固まっていく。
奈落都市を発った黒炎の魔王子は、
今、戦場と聖都のちょうど境目に立とうとしていた。




