第8話 配置変更
バルバロスが去ったあと、執務室には静けさが戻った。
扉のひび割れだけが、さっきの騒ぎが幻ではなかったことを主張している。
あの獣じみた足音も、乱暴な叫び声ももうない。代わりに、紙とインクと、魔力灯の微かな唸りだけが耳についた。
「……さて」
机の上の封書を、もう一度指先で叩いた。
黒い封蝋には、ルクスベルク王家の紋章。見慣れたそれが、今日は妙に重く見える。
第一次会談、無事終了。
数十日以内に、聖都で条約締結と和平式典。
次期魔王として、俺の出席を求める――。
文字としては短い。だが、その一文の向こうに広がっているものの大きさを思うと、胸の奥でじわじわと冷たいものが広がっていく。
「こっちの手駒も、並べ直さないとな」
独り言を落としてから、呼び鈴を鳴らした。
「アバドを呼べ。それと、前線連絡用の魔導鏡を」
「はっ!」
文官が慌てて駆け出していく。
その背中が扉の向こうに消えるより早く、壁際の影がすっと濃くなった。
「お呼びでしょうか、ルシアン様」
黒衣の魔人が、影からにじみ出るように姿を現した。
影喰いのアバド・ネリウス。いつ見ても、足音というものが存在しない。
「早いな」
「“呼ばれそうだ”と思って、近くの影にいましたので」
本気か冗談か分からないことを、いつもどおりの抑揚で口にする。
そういうところも含めて、こいつは「影」という言葉がよく似合う。
「「第一次会談の報告は聞いているか」
「ええ。現地でお供していましたから。剣も魔法も交わさずに終わったところまでは」
「そこまではそのとおりだ」
封書を軽く掲げて見せる。
「だが、その先の話が増えた。数十日以内に、聖都セラディアで正式条約の締結と和平式典。
そこに、魔王と――次期魔王である俺の出席が求められている」
「……なるほど」
アバドの目が、わずかに細くなる。
その細め方は、何かを疑っているときのそれだ。驚きよりも、予想の一つが現実に近づいたことを確認しているような。
「“あの場”では、そこまで踏み込んだ合意はまだ口にされていませんでした。
続きは、こうして封書で伝えてきた、というわけですか」
「“聖都”ということは、会場はおそらく大聖堂か、王城中枢のどちらか。
人も、神も、政治も……全部ひと所に詰め込むつもりでしょうね」
「詰め込みすぎて、何かこぼしてくれれば分かりやすいんだがな」
「こぼさないように“隠し蓋”を用意するのが、あちら側の得意技でして」
淡々と返しながら、アバドは机の上の地図に視線を落とした。
魔王領と人間世界が描かれた羊皮紙。その上に落ちるアバド自身の影が、じわりと濃くなる。
「ご命令は?」
「先行して、聖都に潜り込め」
ためらいなく言い切る。
この男に任せなければならないことは、最初から決まっていた。
「お前たちは、式典の少なくとも十日前には聖都に入っていてほしい。
聖堂周辺の出入り、人の流れ、臨時で増えた兵の数、“いないことになっている聖職者”の顔ぶれ――
お前が洗える限り、全部洗え」
「十日前……」
アバドは小さく復唱した。
細い指先が、自分の足元に伸びる影を軽くなぞる。
「移動日数と、中継地点での潜伏を考えると、二、三日中には発ちたいところですね」
「必要な人員は?」
問いかけると、アバドは少しだけ目を伏せて考えるふりをした。
実際には、もう答えは決まっている顔だ。
「私の本体は聖都へ潜ります。《影残し》で分身を三つ。
そのうち二つは私と共に聖都に入り、もう一つはネザリアに縫い付けておきましょう」
「ネザリア側に残す“影”か」
「はい。城下と城内の情報網の結び目として。
もし聖都側でこちらの“腕”をすべて落とされても、その影だけは最後まで生き残るように仕込んでおきます」
さらりと言うが、それはつまり――何かがあったとき、聖都側のアバド本体と影二つは切り捨てる前提、ということだ。
「……自分を、簡単に捨て駒みたいに数えるな」
「捨てるのは“影”だけですよ、ルシアン様」
アバドは、わずかに口元だけで笑った。
「本体は、そう簡単には死にません。死ぬときは、きっと陛下かルシアン様のすぐそばです」
軽口とも、誓いともつかない言い方だった。
だが、その目は冗談を言っている色ではない。
「式典の少なくとも十日前には、聖都に入っていてほしい」
俺は気持ちを切り替えて続けた。
「聖堂周辺の出入り、人の流れ、臨時で増えた兵の数。
“いないことになっている聖職者”の顔ぶれ――お前が洗える限り、全部洗え」
「承知しました。聖都は“光”が多すぎて、影の質がいい。
歩きやすいはずですよ、影喰いには」
アバドは胸に手を当てて一礼すると、そのまま足元の影へと沈んでいった。
執務室の空気が、彼の気配だけを置き去りにして、静かに落ち着いていく。
残ったのは、魔導鏡と、沈黙だけだった。
◇
魔導鏡の表面に、黒い魔力を落とす。
中心からじわりと波紋が広がり、ぼやけた戦場の空が映し出された。
『……ルシアン様か』
低い声とともに、画面の向こうに黒鉄の兜が現れる。
八枚翼の影が、鏡越しにも重く見えた。
「アスモド。前線の状況は」
『予定どおりだ。ヴァルン側は、こっちの兵を見てしっぽを巻いている』
兜の奥から、くぐもった笑いが漏れる。
その笑いには、いつもの戦場の空気と同時に、どこか張り詰めた響きも混ざっていた。
『で、その顔を見るに、ただの“様子見”の通信じゃなさそうだな』
「父上から報せがあった。第一次会談、無事終了。
数十日以内に、聖都で条約締結と和平式典だそうだ」
『……なるほど』
短い沈黙。
アスモドの魔力が、鏡越しにわずかに揺らいだ気がした。
「その席に、俺も出ろとさ。次期魔王として」
『そうか』
それきり、アスモドはしばらく何も言わなかった。
重い鎧の内側で、何かを噛みしめているような沈黙だった。
『――で、俺は?』
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「父上の護衛として合流してくれ。
中立地帯の砦から聖都に向かう途中で、陛下の一行に合流する形になるはずだ」
『前線は?』
「一時的に、ベリアルドに預ける。
お前とベリアルドを入れ替える。……前線にお前を貼り付けておくのは、今回は得策じゃない」
鏡の向こうで、鉄の指がコツ、コツと何かを叩く音がした。
『俺を、ルシアン様と陛下のほうに回すか』
「不満か?」
『いや』
即答だった。
『不満はない。ただ――』
「ただ?」
『ルシアン様と陛下、ふたりまとめて“同じ場所”に置くって判断は、どうにも、な』
アスモドの声が、わずかに低くなる。
『戦場じゃ、絶対にやらねぇ配置だ』
「分かってる」
それは、俺も同じだ。
冷静に考えれば考えるほど、悪手にしか見えない布陣だ。
「だが、向こうが“そうしろ”と言ってきている。
次期魔王を出さなければ、“不誠実”だと騒ぐ口実を与えるだけだ」
『あっちに騒がせて、こっちがそれを叩き潰す、って手もあるがな』
「それをやる場合でも、その場に俺と父上がいないと話にならないだろう」
アスモドは、ふっと息を吐いた。
『……そうだな。ルシアン様がそこまで言うなら、俺がどうこう言う話ではないか』
ほんの少しだけ、兜の中の目が柔らかくなった気がした。
『分かった。じゃあこっちを片付け次第、中立地帯に向かう。
ルシアン様が聖都に着く頃には、陛下の護衛は俺が仕切ってるようにしておく』
「頼む」
『一つだけ、命令してくれ』
「命令?」
いつになく真面目な声音だった。
戦場の指示を求めるときの声に似ている。
『俺の“仕事”を、はっきりさせといてくれ』
アスモドの紅い瞳が、鏡の向こうでこちらを射抜く。
『陛下を守るのか。ルシアン様を守るのか。和平を守るのか。
全部は、たぶん守れない』
喉の奥が、ひやりと冷えた。
全部は守れない。 魔王軍最強の男、八枚翼のデーモン種の頂点に立つ男の言葉は、俺の心に深く強く突き刺さった。
「……父上だ」
少しだけ間を置いてから、答える。
「和平でも、俺でもない。
お前の“仕事”は、何よりもまず父上を守ることだ。
そのために和平を壊すことになっても、構わない」
一度、言葉を飲み込みかけてから、続けた。
「俺の代わりは、まだいくらでもいる。
けど――父上の代わりはいない」
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が鈍く痛む。
それでも、撤回するつもりはなかった。
『了解した』
アスモドは何かを言いかけるような顔をしたが、
声は、いつも通り低く、揺れなかった。
それが逆に、この約束の重さを際立たせていた。
アスモドは、それ以上何も言わなかった。
ただ、戦場の空気をまとったまま、魔導鏡の像がゆっくりと薄れていく。
◇
次に呼び出した魔導鏡には、静かな部屋と、本棚の影が映った。
黒い液面に、ゆっくりと輪郭が浮かび上がる。
積まれた書類、壁にかけられた簡易地図、油ランプの淡い光――即席の前線司令室らしい光景だ。
『……ルシアン様』
長髪の男が、鏡の中で振り向く。
常闇剣将、ベリアルド・グレイヴ。
いつもの軽く眠たそうな目つき。だが、その奥には戦場で研ぎ澄まされた光がある。
この男が視線を向けるだけで、周囲の空気が少しだけ引き締まるのを、俺は知っていた。
「今どこだ」
『ヴァルン側の砦をひとつ借りてる』
ベリアルドは、肩をすくめて見せる。
『アスモド将軍の“重い足跡”のあとを片づけながら、補給線の整理中だよ』
魔導鏡の向こう、背後の地図には、いくつもの印が打ち込まれている。
矢印と線。砦の位置。補給路。退路。
アスモドが「力」で押さえた戦線を、ベリアルドが「形」に直していく――そんな役割分担が、そこにははっきりと刻まれていた。
淡々とした言い回しだが、声にはわずかに楽しげなものが混じっている。
戦線の整理は、彼にとっては「仕事」であると同時に、「自分の出番」なのだろう。
「悪いが、その“掃除役”を、もう少し広い範囲で頼みたい」
魔導鏡の縁に、指先で軽く触れる。
冷たい魔力の膜越しに、自分の声が少しだけ低く響いた気がした。
第一次会談の結果、聖都での条約締結と和平式典。
魔王と次期魔王の出席。
アスモドを前線から引き上げ、父上の護衛へ――。
必要なことだけを、簡潔に伝える。
『つまり、前線の全体指揮、俺に振るってことか?』
ベリアルドの口調は変わらない。
驚きも、不満も、表には出さない。
だが、わずかに視線が横へ流れた。
鏡の端に、積み上げられた報告書と、戦況図の束が映る。
今抱えている仕事が、さらに倍以上になる――その現実を、一瞬で計算したのだろう。
「そうなる」
短く答えると、ベリアルドはほんの短い沈黙のあとで、淡々と頷いた。
『了解』
それだけ言って、彼は背後の地図に視線を戻す。
『“戦線を維持しつつ、いつでも再開できる形で緩めておけ”――そういうことだな』
「話が早くて助かる」
『ルシアン様が考えそうなことなんて、だいたい決まってるからな』
冗談とも本気ともつかない口調。
ほんの少しだけ口角を上げて言う、その軽さが、逆に心地よかった。
俺が何度も頭の中で組み立ててから口にした判断を、彼は一拍で受け取り、整理し直してくれる。
そういう男だからこそ、前線を任せることができる。
『ただ、ひとつだけ』
ベリアルドの指が、机の上をとん、と軽く叩いた。
そのリズムには、躊躇いというより、「言うべきかどうかを選んでいる間」が滲んでいる。
「何だ」
『和平が成立したあと、“戦場が必要なくなった場合”のことも、少しは考えておけよ』
あまりにも自然に出てきた言葉に、一瞬だけ返事が遅れた。
戦場が必要なくなる――頭では何度も想像しようとしてきた未来。
だが、実感を伴う形で口にされたのは、これが初めてかもしれない。
「楽観的だな」
反射的にそう返す。
自分の声が、わずかに硬いのが分かった。
『剣士は、いつも最悪は想定してるさ』
ベリアルドは、穏やかに言う。
その目は、笑ってはいなかった。
『そのうえで、“最悪にならなかった場合”の居場所も用意しておくもんだ』
指先でなぞった戦況図の上で、ひとつの砦に軽く触れる。
そこが、戦場でなくなった未来を、彼は本気で思い浮かべているのかもしれない。
『最悪になったときは、俺が剣を振るう』
言葉に、鋼の芯のようなものが通る。
『ならなかったときは、剣を下ろす場所を作っといてやるよ』
それは冗談めかした言い方だったが、そこに込められた意味は軽くない。
剣を振るう場所と、剣を下ろせる場所。
その両方を用意する――
俺が今、うまくイメージできない未来を、この男は代わりに描こうとしてくれているのだ。
「それも、頼んだ」
短くそう答える。
鏡面に映る自分の顔が、思っていたよりも固いことに、そこでようやく気づいた。
ベリアルドは、それ以上何も言わない。
ただ、軽く顎を引き、いつもの薄い笑みを浮かべる。
『任せとけ。
誰もいなくなった戦場ってのも、一度くらいは見てみたいからな』
魔導鏡の光が、静かに消えていく。
残されたのは、暗くなった鏡と、自分の映った影だけだった。
戦場の指揮を預ける相手がいる。
それでも、胸の奥の重さは、すぐには消えなかった。
和平の準備と、戦争の準備。
両方が同時に動き始めた。
聖都セラディアでの式典。
そこに至るまでの日々が、静かに転がり出した――。
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