第6話 思い出す三つの背中
城門が閉まる音が、深淵に沈んでいった。
しばらくその場に立ち尽くしてから、俺はひとり、ネザリア城のテラスへ向かった。
底の見えない裂け目の上に張り出した石の床。深淵から吹き上がる風が、頬を撫でる。
父上も、マルシエルも、ベリアルドも、アバドも――今はいない。
「……静かだな」
思わず、独り言が漏れた。
戦場の喧噪でもなく、城内のざわめきでもない静けさ。その中で、昔の声だけが、やけにはっきりと耳の奥で蘇る。
◇
「ルシアン様、足が止まってるぞ」
まだ木剣が体より重く感じていた頃。訓練場で、アスモドが低い声を飛ばした。
俺は見透かされた苛立ちを、言葉にして吐き出した。
「止まってないだろッ!」
「止まってる。頭で考え始めた瞬間、足は止まるもんだ」
巨体を少しだけかがめ、アスモドは俺の腕と足の位置を直す。ごつい手なのに、力はちゃんと加減されている。
「剣は頭で振るんじゃねぇ。体で覚えろ。体が勝手に動くまで、何度でもやる」
「……難しいよ」
「難しいからやるんだ」
短く言い切って、アスモドは一歩下がった。
「楽なことだけやってる奴から、先に死ぬ。ルシアン様が“楽なほう”ばかり選ぶなら、そのときは俺が止める」
「止めるって?」
「こうやってだ」
ドン、と額に軽い衝撃。アスモドの指先が、俺の額を弾いていた。
「いった……!」
「いまので済むなら安いもんだろう」
そう言いながらも、アスモドは汗だくの俺に水筒を投げてよこす。
「飲め。休むときはしっかり休め。その代わり、立ったらまた振る」
「ずっと?」
「ずっとだ。俺が“もういい”って思った頃に、やっと“まとも”になる」
「……じゃあ、俺は死ぬまで木剣振ってることになるな」
「それならそれでいい。死ぬまで剣を振れるなら、十分だ」
子どもだった俺には、半分も理解できない話だった。
ただ、父上よりも先に、汗だくの俺の背中を叩いてくれたのは、いつもこの男だった。
◇
「ルシアン様、“聖王国”の“王”が潰れてますよ〜」
執務室の隅の小さな机。字の練習をしていた俺の前で、マルシエルが赤インクでバツをつける。
「読めるだろう」
「読めますけど、“一文字違う”で戦争始められるのが人間ですよ〜?」
「めんどくさい」
「めんどくさがった結果が三百年戦争です」
口調はふざけているのに、目だけ笑っていない。
「いいですか、ルシアン様。『領土線』『信仰の自由』『保護』『異端』――このあたりの言葉は、
人間相手の交渉で一生つきまといます」
「剣のほうがまだ楽だ」
「だからマルシエルがいるんです。ルシアン様は、
堂々と“めんどくさい役目”をマルシエルに押しつけてください」
「押しつけていいのか」
「もちろん。好きな人に押しつけられる苦労は、ご褒美です」
さらりととんでもないことを言いながら、彼女はペンを走らせる。
「ほら、“聖王国”もう一回。“王”はこう、もう少し真っ直ぐ」
「……マルシーがやればいいじゃん」
ふてくされた俺を見つめながら
マルシエルは一瞬だけ目を丸くして、ふわりと笑う。
「はい、“マルシー”が見本を書きますから、ちゃんと真似してくださいね〜」
紙の端に、整った文字が並ぶ。マルシエルの字は、彼女の性格とは違って無駄がなくて綺麗だった。
「マルシー」
「はい?」
「父上はどうして、マルシーに俺の勉強を任せたの?」
「ん〜……そうですねぇ」
マルシエルは、少しだけ考えるふりをしてから、いたずらっぽく笑った。
「“お前ならあいつは遠慮しないだろう”って、陛下が言ってました」
「遠慮?」
「はい。陛下には言いにくいことも、マルシーには言えるでしょう?」
彼女は、俺の手を軽く取って、もう一度ペンの持ち方を直した。
「だから、嫌だと思ったことはちゃんと“嫌だ”って言ってください。
戦場でも交渉でも、それが言えないと、いつか飲み込まれます」
「……嫌だ」
「何がです?」
「この字の練習。めんどくさい」
「はい、可愛くてよろしい」
マルシエルはくすくす笑いながら、またバツ印をつけていく。
◇
「おい、こら坊っちゃん。お前、また城下に抜け出そうとしてんだろ」
裏階段の踊り場で、首根っこを掴まれたこともある。
「してない」
「その顔は“これからする顔”だ」
バルバロスが、片手で俺をひょいと持ち上げる。獣の耳がぴくぴく動き、牙を見せて笑う。
「ちょっと見てくるだけだって」
「“ちょっと”って言って、アスモドの野郎に怒鳴られるのは俺なんだよ!」
「じゃあ、お前も来ればいい」
「ガッハッハ、言いやがったな」
バルバロスは豪快に笑って、俺を肩に担ぎ直した。
「よし、分かった。ついてってやる。その代わり、
変なとこ行こうとしたら尻尾つかんで引きずって帰るからな」
「俺、尻尾ないし」
「イメージの話だ、イメージの」
結局その日は、バルバロスに付き添われて城下の市場を回った。
深淵の縁に並ぶ屋台。魔族も亜人も人間も、同じように飯を売り、物を買っている。
「な、悪くねぇだろ」
帰り道、バルバロスが言った。
「戦ってんのは国と国であって、こいつらじゃねぇ。税が高ぇだの、聖堂がどうだの、
貴族がどうだの――めんどくせぇ話は全部“上”の事情だ」
「じゃあ、めんどくさい“上”はどうすればいいの?」
「ガッハッハ、そりゃあ決まってんだろ」
バルバロスは、深淵のほうを顎でしゃくって笑った。
「ぶっ壊すか、殴って分からせるかだ。……まぁ、坊っちゃんが“壊さないで済む道”を選ぶなら、それもありだがな」
「壊さないで済む道?」
「そうだ。壊すのは簡単だ。殴るのもな。でも、“殴らなくてもいいようにする”のは、そっちのがよっぽどめんどくせぇ」
バルバロスは、そこで俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「その“めんどくせぇほう”を、いつか選べる魔王になれ。それができなかったら、
そのときは俺が一緒に
邪魔なもんをぶっ壊してやるからよ」
子どもだった俺は、その言葉をほとんどそのまま信じていた。
この国がどうにもならなくなったら、この男が全部ぶっ壊してくれる――そんな、都合のいい保証のように。
◇
深淵から吹き上がる風が、現在に引き戻す。
欄干に置いた手のひらに、石の冷たさがじわりと染み込んできた。
「……アスモドも、マルシエルも、バルバロスも」
その名を一つずつ、噛みしめるように呟いた。
父上が忙しくて側にいられなかった時間を、埋めてくれていたのは、あいつらだった。
剣の振り方も、字の書き方も、街の歩き方も、守るべきものの見方も――その多くを、あいつらに教わった。
今、そのうち半分は、ここにいない。
ネザリアは、いつもより静かだった。
その静けさを、“何も起きない前触れ”だと信じきれるほど、俺は幼くなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし少しでも続きが気になったら、
ブックマークや評価で応援してもらえるととても励みになります。




