第5話 魔王、和平へと旅立つ
数日後。
ネザリア城の外門前には、黒鉄の馬車と、選りすぐりの騎兵たちが並んでいた。
深淵から吹き上がる冷たい風が、黒い旗をはためかせる。
旗に刻まれたルクスベルク家の紋章が、曇り空の下で鈍く光っていた。
その先頭に、父――魔王アルドラン・ルクスベルクが立っていた。
「……揃ったな」
深い声が、門前の空気を震わせる。
父上の両脇には、深淵の盾の面々が控えていた。
右側には、赤い魔導服の女――マルシエル・ヴァラク。
今日は胸元をいくぶんか控えめに閉じている代わりに、外套の内側から複雑な魔術具がいくつも覗いていた。
髪をきっちりとまとめ、顔つきもいつもの能天気なものではない。
左側には、長髪の男――ベリアルド・グレイヴ。
黒い外套の下、細身の長剣だけを腰に差している。
その立ち姿は、一見すればただの文官か護衛官だが、纏う気配は完全に戦場のものだった。
少し離れた位置には、黒衣の魔人――アバド・ネリウス。
魔人種の全てを見透かす目が、門や城壁、周囲の見張り台まで、一度にすべてを見ているような冷静さで動いている。
その少し後ろ。
俺と、その隣に、筋骨隆々のビーストが腕を組んで立っていた。
身の丈はゆうに二メートルを超え、肩から胸にかけては黒い獣毛に覆われている。
額からは前方へ湾曲した二本の角が伸び、口を閉じていても、下顎からは太い牙が覗いていた。
獣人よりもさらに魔族寄りに歪んだ、純然たる“ビースト”の姿だ。
バルバロス・グリム。
魔王領側の防衛と、ネザリアの抑えを任された男だ。
「うぉ〜……やっぱり、だせぇな、見送りってやつは」
バルバロスが、ぼそりと呟く。
「嫌なら帰って寝ていてもいいぞ」
「それはそれで坊ちゃんに何言われるか分かんねぇからなぁ」
大きく伸びをしながら、獣じみた耳がぴくりと動いた。
「しかし……アスモドの野郎がいないのは、やっぱりちょっと妙な感じだな」
「前線を空けるわけにはいかないだろう」
俺は短く返す。
「はいはい、理屈は分かってらぁ」
バルバロスは鼻を鳴らす。
「だからこそ、なおのこと、陛下の側に付いていけないのが腹立つんだよ」
その気持ちは、分からなくもなかった。
父上のもとに集うはずだった“最強の手札”が、
和平交渉と、戦線維持と、ネザリア防衛に分割されている。
細く、長く、切れないように。
それでも、どこかで誰かが張り詰めたままになる分け方だ。
「ルシアン」
名を呼ばれ、俺は前へ進み出た。
父上の赤い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「準備は整ったか」
「こちらは。前線の再編案、ネザリア防衛、難民の扱い……できる限りのものは整えました」
「そうか」
父上は、小さく頷いた。
近くで見ると、その顔にはいつも以上に疲労の影があった。
それでも、瞳の光だけは少しも鈍っていない。
「魔王領ルクスベルクは、ネザリア一城のことではない」
父上が、門の向こう――見えない大地の広がりを見やる。
「北の砦、東の魔樹海、南の火山谷、西の戦線。
そこに暮らす魔族も、亜人も、人間も。皆、この三百年の戦争に巻き込まれてきた」
「……はい」
「そのすべてを背負って、私は行く」
淡々とした口調だった。
「セラディア聖王国との和平は、魔王領の勝利か、敗北か、という話ではない。
この戦いそのものを、どこで終わらせるか――それを決めに行くのだ」
言いながら、父上は俺の肩に手を置いた。
「そのあいだ、ここを守るのはお前だ、ルシアン」
重さと、熱を伴った感触だった。
「ネザリアを、魔王領を、そして“魔族に救いを求めた者たち”を。
お前が守れ」
「……承知しました」
短く答えた声が、自分のものではないように聞こえた。
本当は言いたいことはいくつもあった。
和平について。
セラディアについて。
父上自身の危険について。
だが、どれも口の中で溶けてしまう。
父上は、俺が何を言いたいか分かっている。
そして、そのうえで行くと決めている。
俺ができるのは、その決意を軽くすることではなく、
せめて足を引っ張らないことだけだ。
「マルシエル」
「はい、陛下」
マルシエルが一歩、前に出る。
執務室で見せていた軽口は引っ込み、顔つきは仕事のそれだった。
「結界と呪詛対策は?」
「行程上の休泊地、セラディア側の聖堂の構造、既に入手している図面はすべて再確認済みです。
会談会場に入る前に、簡易結界と“異常の検知用”の術式を仕込めます」
「精神干渉は?」
「一度に広範囲を守るのは難しいですが……陛下と随行の皆様の周囲には、“不自然な沈黙”や“過剰な高揚”が生じた場合に反応する防壁を張っておきます」
息継ぎも少なく、淀みのない報告。
いつものふざけた姿しか知らない者が見れば、同一人物とは思えないだろう。
「万が一、交渉が茶番だった場合は?」
父上が問うと、マルシエルはほんの一瞬だけ唇を噛み、すぐに笑顔に戻した。
「そのときは、“向こうが信仰してる神様にだけバレないように”全力で暴れてみせますよ」
「よろしい」
父上が、口元だけで笑った。
「ベリアルド」
「はい」
長髪の剣士が一歩前へ出る。
その動作だけで、周囲の空気が少しだけ引き締まった。
「剣も俺も、いつも通りです」
ベリアルドは、腰の剣に軽く手を添えた。
「抜いてはならぬ場では抜かず。
抜くべき場になったときは、振り下ろす必要すらないように、先に切っておきます」
「言い過ぎだ」
「仕事ですので」
平然と答えるその声音に、長年の戦場の匂いが染みついている。
「アバド」
「ここに」
黒衣の男が、音もなく前に出た。
「セラディア側の現地情報、最終確認を」
「はい。聖都側の動きに、表向きの不審点はありません」
アバドは、静かに言葉を紡ぐ。
「ただし、“いないことになっている者たち”が、数名、聖堂周辺に集まっています」
「名簿にない聖職者か」
「はい。公式には“殉教”や“左遷”扱いにされている連中です。
セラディア教会直属の“処理係”と見ていいかと」
「つまり、まだ何か隠していると」
「そう見てもいいかと」
アバドは、父上ではなく、一瞬だけこちらを見た。
「ルシアン様。ネザリア側での情報網には既に指示を出してあります。
和平交渉の最中に不自然な動きがあれば、即座にこちらへ報せが届くように」
淡々と答えるその目に、恐怖は見えなかった。
恐れていないのではなく、そういう感情を、
とうの昔に仕事の奥へ押し込んでしまった者の目だ。
隣の巨体がぐい、と前へ出た。
止める間もなく一歩分、俺より前に出てしまい、慌てて腕を掴む。
「お前は呼ばれてないだろ」
「いいじゃねぇか、ちょっとくらい」
バルバロスは俺の手を肩ごと振り払うようにして、さらに半歩進み出る。
角をわずかに掲げ、胸を張ると、そのまま父上に向かって大声を張り上げた。
「陛下ぁ!」
父上は一瞬だけ瞬きをし、それからわずかに口元を緩めた。
呆れと苦笑が半々になったような息をひとつ吐き、低く応じる。
「……何だ、バルバロス」
「こっちは任せとけ!戦線もネザリアも、坊ちゃんも!
全部まとめて、俺がぶん殴ってでも守っとく!」
「“守る”と“ぶん殴る”は別の言葉だと誰か教えてやれ」
俺がぼそりと呟くと、マルシエルがくすっと笑いを漏らした。
「ふふ。いいじゃないですかぁ、分かりやすくて」
父上は、そんなやり取りを一瞥すると、小さく息を吐いた。
「お前たちがいるなら、心配はいらんな」
その言葉に、胸のどこかがきゅっと締め付けられる。
本当は、心配しかない。
和平が本当に成立するのか。
セラディアが、三百年の戦争のあとで本気で剣を収めるのか。
人間が裏切ったとき、父上がどうなるのか。
それでも――
「ルシアン」
再び名を呼ばれる。
「はい」
「行ってくる」
その一言は、驚くほど短かった。
「……行ってらっしゃいませ、父上」
そう返すしかなかった。
角笛が鳴る。
馬のいななきが重なり、車輪が軋む音が続く。
魔王アルドラン・ルクスベルク。
紅血魔導マルシエル・ヴァラク。
常闇剣将ベリアルド・グレイヴ。
影喰いアバド・ネリウス。
俺の世界の大部分だった背中が、ひとつの列になって、城門の向こうへと遠ざかっていく。
やがて、旗も、馬の足音も、深淵の霧の向こうにかき消えた。
「……行っちまったな」
隣で、バルバロスがぽつりと呟く。
「ああ」
短く答える。
戦場の喧噪も、城内のざわめきも、今だけは遠くにあるように感じた。
ネザリア城の外門前に残っているのは、
深淵から吹き上がる風と、黒い旗と――
そして、これからこの魔王領を預かることになった俺だけだった。
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