第4話 “終わらせる”準備
マルシエルとの会話の後の出発
そのあと数日は、息つく暇もなく過ぎていった。
戦場から戻ったはずなのに、今度は執務室と地図の前で、別の形の戦いが始まる。
「……セラディア側の条文案、写しはこちらです」
執務机の上に、新たな羊皮紙の束が積み上げられていく。
魔王領全土から届く報告書と、セラディアとの和平案の下書きが、山になっていた。
マルシエルが赤インクで書き込んだ注釈が、あちこちで血管のように走っている。
『※この言い回し、将来的に“魔族の信仰活動制限”に拡大解釈される可能性あり 要修正』
『※“共同管理”=向こうの聖堂に実質支配される危険大 陛下に要注意喚起』
「……相変わらず、よくもまあ細かく見つけてくるな」
思わず独りごちる。
前線では、敵の隊列の穴を探す。
執務室では、言葉の穴と、“その先に開く毒”を探すことになるらしい。
「ルシアン様〜、褒めてます? それとも仕事を増やしたって怒ってます?」
机の端に腰かけたマルシエルが、頬杖をつきながらにやりと笑う。
「半々だな。……だが、助かっているのも事実だ」
「素直〜♪」
軽口を聞き流しながら、俺は地図のほうへ視線を向けた。
壁一面を覆う巨大な地図。
黒い鋲で打ち付けられた羊皮紙には、魔王領ルクスベルクと、人間諸国が隣り合って描かれている。
魔王領の中心には、奈落都市ネザリア。
底の見えない巨大な裂け目――“深淵”の縁に築かれた城と街。
魔力の霧が絶えず立ちのぼり、城下ではそれを操る魔族や亜人たちが暮らしている。
ネザリアから北へ視線を滑らせると、雪と鉄鉱を抱えた山脈地帯。
そこには、黒鉄の砦都市群が点在している。デーモンとオークの混成部隊が常駐し、鉱山と鍛冶場を守っていた。
東には、魔力の濃い森。
古い魔樹と魔獣たちが根を張る《魔樹海》と、その縁に築かれたビーストや亜人たちの集落がある。
南は、硫黄と火山の谷。
煮えたぎる溶岩の上に浮かぶ岩盤や、耐火の魔術で固めた採掘坑で、デーモンたちが魔鉱石を掘り続けていた。
西――そこが、人間の世界との境だ。
砦と城壁が帯のように連なり、
三百年かけて幾度も塗り替えられてきた“前線”の跡が、傷のように刻まれている。
魔王領に暮らすのは、デーモン、悪魔、ビースト、オーク、亜人。
それに、人間の領から逃げ込んできた者たち――迫害された魔術師や、異端者、あるいはただ生きる場所を求めた難民も少なくない。
人間から見れば“魔族の巣窟”。
内側にいる者からすれば、血と叫びの向こうにようやく手に入れた“生活の場”。
父上は、そのすべてを背負って和平の席に向かおうとしている。
「……西側の砦帯、ここからここまでは縮小できるか」
地図の上に魔石の駒を置き直していく。
セラディア聖王国との境界線。
長年の戦いで、どちらのものとも言えなくなっている灰色地帯がある。
和平が成立すれば、そこに新たな線を引くことになる。
だが同時に、“再開したときに押し返しやすい形”も残しておかねばならない。
「ヴァルン帝国との境目の砦は、半分だけ兵力を落とす。
オルドランとの交易路は、見せかけだけの緊張状態を維持。……マルシエル、この辺りの補足頼む」
「はぁ〜い。じゃあ、“すぐに潰せる形の敵対関係”って書いておきますね?」
「もう少し柔らかい表現にしろ」
「了解です、“いつでも再構築可能な防衛体制”っと」
マルシエルのペンが走る音と、
斥候や文官が出入りする足音が、執務室の空気を埋めていく。
前線で剣を振るっていたときとは違う疲れが、じわじわと溜まっていくのを感じた。
「……ルシアン様」
別の文官が、書簡の束を差し出してくる。
「ネザリア城下の報告です。難民登録の件、人間の子どもたちが増えていると」
「……またか」
羊皮紙を受け取り、ざっと目を通す。
セラディアとヴァルンの国境近く――ではなく、その少し内側。
貴族たちが好き勝手に支配している私領の村々から、逃げ込んでくる者たちの報告だった。
重税。納められなければ鞭打ち。
飢饉でも税は下がらず、支払いの代わりに娘や息子を“奉公”に差し出せと迫られる。
それでも納めきれない家は、最後にこう考える。
――せめて、生きてさえいればどこかで救われるかもしれない、と。
村を出た瞬間、領主からは「逃亡農民」、国から見れば「敵国側へ流れた疑わしき者」。
捕まれば処刑か見せしめ。
だからこそ、誰にも告げずに、夜のうちに子どもだけを外へ押し出す。
口減らし。
家に残せば、飢えか病気か、領主の気まぐれのどれかで死ぬ。
だったら、魔族の国へでも押し出してしまったほうが、まだ「生き延びる可能性」がある――そういう算段だ。
本来なら、あり得ないはずの選択だ。
だが三百年という時間は、理屈をすり減らし、
単純な善悪の線だけでは測れない人間を、両方の側に増やしていた。
「城下の受け入れ上限は?」
「今のままでは数年で限界です。
ですが、魔樹海の縁に新しい集落候補地が――」
「後回しだ」
そう口にしながら、自分の中で小さな違和感が灯る。
和平が成功すれば、こういう難民の流入もいったんは止まるかもしれない。
あるいは、人間側が“裏切り”を選べば、真っ先に切り捨てられるのは、こういう者たちだ。
どちらに転んでも、誰かが死ぬ。
それでも、よりマシな死に方と、生き残り方を選ぶのが、魔王領の責務だ。
「和平がどう転ぼうと、こいつらの扱いを決めるのは後回しにはできん。
条文と戦線の整理が一段落したら、城下の案を優先しろ。……書き留めておけ」
「はっ」
文官が慌ててメモを取る。
その横で、マルシエルがちらりとこちらを見た。
「ルシアン様、目が死んでますよ〜」
「お前の修正案の量のせいだ」
「ひどい。マルシエルはルシアン様の将来の頭痛を減らしてるんですよ?
今のうちにちゃんと手を打っておかないと、あとで“魔族はあのときこう約束したはずだ”って、人間の聖職者にねちねち言われちゃいますから」
「それはごめんだな」
苦笑しながら、机の上の羊皮紙をもう一枚めくる。
セラディア聖王国。
ヴァルン帝国。
オルドラン商業連合。
魔王領ルクスベルク。
三百年のあいだ、互いの血でしか語られてこなかった国と国の関係を、
今さら紙の上の線で整理し直そうとしている。
本当に、そんなことができるのか――そんな疑いは、何度も頭をよぎった。
だが、父上の背中を思い出す。
地図の前に立ち、どこで線を引けばいいのかを考え続けていた背中。
魔王としてではなく、“この戦争を終わらせる者”として。
せめてその準備くらいは、俺がやっておくべきだ。
「……よし。今日はここまでにする」
ペンを置き、ゆっくりと息を吐く。
「え、もう少し行けません? あと二、三枚くらいなら――」
「俺が倒れたら、父上の仕事も増える。お前にも、アスモドにも、アバドにも面倒をかけることになる」
「う……そう言われると強く出れない」
マルシエルが頬を膨らませる。
「仕方ないですねぇ。じゃあ今日はここまでにしてあげます。
その代わり、明日は朝から倍速でがんばりましょうね?」
「脅迫か、それは」
「期待、です♪」
執務室を出ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
深淵から吹き上がる風が、ネザリアの灯を揺らしている。
戦場の叫び声は聞こえない。
だが、別の種類のざわめきが、街全体に満ちていた。
和平が決まるかもしれない。
戦争が終わるかもしれない。
魔族も、人間から逃げてきた者たちも、皆がその噂を口にしながらも、
どこか信じきれない空気を帯びていた。
「……終わらせる、か」
自分の口からその言葉が漏れる。
もし本当に戦争が終わるなら。
そのとき、この魔王領はどう変わるのだろう。
俺は、父上の引いた線の上で、何を壊し、何を残すことになるのか。
答えはまだ、どこにもない。
ただひとつ分かっているのは――
その決着の場に、父上が向かう日が、もうすぐそこまで迫っているということだけだった。
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