第3話 奈落都市ネザリアの悪魔マルシエル
謁見の間をあとにし、長い回廊を歩く。
黒石の床に、俺の足音だけが響いていた。
壁の魔導灯が、青白い光を静かに揺らしている。
和平交渉。
父上は本気だ。だが、人間を信じているわけでもない。
セラディア。聖堂。三百年の戦争。
頭の中で言葉がぐるぐると回って――その時だった。
「ルーシアーンさまぁぁぁっ!」
甲高い声とともに、何か柔らかいものが正面から飛んできた。
「うおっ――」
避けるより早く、上半身に衝撃。
甘い香りと、あり得ない弾力の何かが胸板に押しつけられる。
視界が一瞬、赤と白と谷間だけになった。
「ちょ、待て、お前……!」
「待てませ〜ん♪おかえりなさいませ、ルシアン様!ご無事でなによりですぅ!」
腕に絡みついてくる細い腕。
見下ろすと、ゆるく巻かれた銀髪、大きく開いた胸元の深紅の魔導服、そして頭からちょこんと生えた小さな黒い角が目に入った。
腰のあたりでは、黒い悪魔の尾が、機嫌よさそうにぱたぱたと揺れている。
マルシエル・ヴァラク。
深淵護衛隊所属の魔導士。
悪魔種の上位個体で、精神干渉と呪詛・結界を得意とする女だ。
「離れろ、マルシエル。歩きづらい」
「えぇ〜、いいじゃないですかぁ。戦場から帰ってきたばっかりなんですよ?もうちょっとこう、『生きててよかった』って感じで、ぎゅーっとしても……」
そう言いながら、さらに胸を押しつけてくる。
わざとやっているのは言うまでもない。
「労ってほしいのはこっちだ。窒息する」
「ひどっ!マルシエルの胸は兵士一個中隊ぶんの癒やしだって評判なんですからね!」
「誰の評判だ」
「そこのあなた〜」
マルシエルが片手をひらひらと振ると、回廊の端にいた下級兵がびくっと肩を震わせた。
「い、いえ!私はただ、マルシエル様の……その……お姿を一瞬拝しただけで……!」
「ほらぁ〜。ね?ね?」
ニコニコしながら、俺の腕に頬を擦り寄せてくる。
「お前な……部下の前では、もう少し自重しろと言ったはずだぞ」
「え〜、じゃあ二人きりのときだけはいいですよね?」
「誰の前でも駄目だ。まずその発想を捨てろ」
「むぅ……ケチです」
ため息をつきかけて、なんとか飲み込む。
「で?父上のところには行ってきたのか」
「さっきまで、陛下の執務室でお仕事でしたよ〜。セラディアからの書簡に仕込まれてる“変な言い回し”の洗い出しとか、条文の裏読みとか」
マルシエルは、さっきまで仕事をしていたというのに、まったく疲れた様子を見せない。
「和平交渉の件だな」
「そうですそうです。……あ、もうルシアン様も聞かれました?」
「さっきだ。謁見の間で」
「じゃあ、なおさら離れませ〜ん」
「どういう理屈だそれは」
「だってぇ……」
マルシエルが、少しだけ声を落とす。
「……戦争、本当に終わるんですかね」
「父上は、そのつもりだろう」
「もしちゃんと終わったら、ルシアン様、前線に出ることは減りますよね」
「減るだろうな。少なくとも、今みたいな戦場はなくなる」
「それ自体は、すごく良いことなんですけど……」
悪魔の尾が、ぱたぱたと揺れていたのが、ふと弱まる。
「ルシアン様が城にいる時間が増えるのも、マルシエル的には大歓迎なんですけど……
“終わる前に”何かあったら嫌だなぁって、ちょっとだけ」
最後の一言は、ほとんど囁きだった。
一度、前線で瀕死になったとき、
マルシエルが三日三晩、俺の枕元から離れずに魔力を注ぎ続けてくれたことがある。
そのときのことを俺はからかったことがないし、彼女も笑い話にしたことはない。
「心配してるのか」
「しますよぉ、そりゃあ」
マルシエルは、ふざけるのをやめて、まっすぐ俺を見上げた。
「好きな人が、毎回命懸けの場所から帰ってくるのを、ただおとなしく待ってろなんて……
そんな出来た悪魔じゃありませんので、マルシエル」
そこで、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「……こう見えて一応、“清く正しく待つ聖女ポジ”目指してるんですけどねぇ?」
「……お前が聖女名乗ったら、多分教会が本気で戦争仕掛けてくるぞ」
「あらやだ。じゃあ今度から“巨乳悪魔導士”って名乗ります」
「余計ひどくなってる」
くだらないやりとりを続けながらも、胸の奥の重さは消えない。
和平交渉。
父上は線を引こうとしている。
人間に裏切られる可能性を承知の上で、それでも一度、剣を置こうとしている。
「ルシアン様?」
マルシエルが、こちらの顔を覗き込んできた。
「難しい顔してます。……ねぇ、ちょっとくらいマルシエルに甘えてもいいんですよ?」
「どう甘えろと言うんだ」
「そうですねぇ……まずは昔みたいに“マルシー”って呼んでくれてもいいですし?」
「……子どもの頃のままじゃない」
即答すると、マルシエルは一瞬だけ目を丸くしてから、にやりと笑った。
「照れました?」
「照れてない」
「今、ちょっとだけ視線そらしましたよ〜?」
「うるさい。余計な記憶を掘り返すな」
「えへへ。じゃあ、大人になったルシアン様には“マルシエル”で我慢します」
そう言いながら、悪魔の尾は機嫌よさそうにぱたぱた揺れていた。
「じゃあせめて、書類地獄のお手伝いはさせてください。
陛下の机の上、今すごいことになってますからね?マルシエルがいないと埋もれちゃいますよ、ルシアン様」
「“すごいことにした”原因は、お前の書き込みの多さでもあるだろう」
「ばれました?」
悪びれた様子もなく笑う。
「でも、ルシアン様ひとりに全部抱え込まれるのは、マルシエル、もっと嫌です。
戦場に出るのも、陛下のそばにいくのも、書類とにらめっこするのも。
全部、ちょっとずつ分け合ったほうが楽ですよ?」
その言い方が妙にそれっぽくて、思わず苦笑しそうになる。
「……分担してくれるなら助かるが」
「任せてくださいっ。可愛くて有能、これがマルシエル・ヴァラクの売りですから!」
胸を張る方向がいろいろ間違っているが、
少なくとも“有能”の部分だけは否定できなかった。
戦場の炎も、父上の決意も、セラディアの企みも。
全部まとめて呑み込む世界の中で、こういうふざけた悪魔が一人いることを、俺はたぶん嫌いではない。
「じゃあ、条文の裏読みと結界の見直しは任せる。
俺は前線とネザリアの再編を進める」
「はぁ〜い♪じゃあルシアン様、倒れない程度に頑張ってくださいね」
そう言って、ようやく腕から離れてくれた。
だが、すぐ隣を歩く距離は、きっちりキープしたままだ。
「……倒れたら?」
「マルシエルが全力で看病します♡」
「それが一番不安なんだが」
「ひどい!」
回廊に、彼女の笑い声が響いた。
その音が、さっきまで謁見の間に満ちていた重苦しさを、少しだけ薄めてくれた気がした。
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