第27話 灰銀の処刑人
空を覆った矢の雨が、白と銀の列へと降り注いだ。
甲冑に弾かれる高い金属音と、肉を割る鈍い音が一度に混ざり合う。
聖騎士の盾をかすめた矢が後列の槍兵の肩を貫き、悲鳴が連鎖した。
「う、うわっ……!」
前列近くの若い兵士が、思わず肩をすくめて叫ぶ。
盾の縁をかすめた矢が、彼の頬に浅い傷を刻んだ。
「魔王はもう死んだんだろ……? なのに、なんで――なんでこんな矢の数なんだよ」
「黙れ。前を見ろ」
隣の古参兵が歯を食いしばりながら言う。
矢が一本、彼の胸のプレートを滑って地面に刺さる。
「聞かなかったのか。“灰銀の処刑人”がまだ国境を守っているって話だ」
「……あの噂の魔人の将か? 髪が銀で、姿を見たら死ぬっていう――」
「何色だろうが関係ない。前に出遅れた者から死んでいく。足を止めるな!」
太鼓が鳴り続けている。
どん、どん、と一定の間隔で、兵の心臓を無理やり前へ押し出すように。
矢の雨は一度目の頂を越え、やや勢いを落としていく。
その向こうに、黒い土塁と木柵の列が、低い牙のように並んでいた。
◆
「……初撃としては、悪くない」
土塁の上。
べリアルドは矢の軌道を追いながら、小さく息を吐いた。
視線は冷静だ。矢がどれだけ前列を削ったか、その結果として隊列の密度にどんな“歪み”が生まれたか。
白いマントが乱れている位置、盾を高く掲げすぎて足が疎かになっている列。
すべてを一度で見て、数に変換する。
(正面から全部倒そうとする必要はない。
初撃で前列の足を鈍らせればそれでいい。
押し込まれた瞬間に“重さ”が変わる)
土塁の後ろでは、盾を構えた魔族たちが息を潜めている。
角を持つ者、鱗を持つ者、獣耳の混じる顔。どれも緊張で汗ばんでいた。
「前列、半歩前へ。盾を合わせろ」
べリアルドが振り返りもせずに言う。
その声だけで、盾列が一斉にかちりと噛み合った。
粗削りな木楯の列が、一本の壁に変わる。
「槍は、聖騎士の下腹を狙え。鎧の光に目を奪われるな。
あれは厚く見えるだけだ。刺さるところはある」
短い指示に、前列の槍兵たちが小さく笑った。
恐怖で縮みかけていた心が、少しだけ元の位置に戻る。
「べリアルド様、敵前列が速度を上げてきます!」
観測塔代わりの足場から、若い魔族が叫ぶ。
べリアルドは小さく頷くと、土塁の縁に足をかけた。
灰銀色の髪が、風に揺れる。
その姿は、土煙の向こうからでも、敵軍の前列の目に届いていた。
「……見えたか?」
「見えた。丘の上だ……灰銀の髪の魔人だ」
槍を構えた人間の兵が、ごくりと喉を鳴らす。
「あれが“灰銀の処刑人”だ……」
「噂だけの怪物じゃなかったんだな」
誰かの小さな呟きが、前列にじわりと伝染する。
太鼓のリズムは変わらないのに、足だけがわずかに重くなった。
その視線の先で、灰銀の将が静かに剣へ手を伸ばす——。
◆
土塁の上に立ちながら、べリアルドは自軍の列を一度振り返った。
背後でざわめきかけた声を、イリアがすぐに押さえ込む。
「口を閉じて。前だけ見て。
あの人が前に出る時は、私たちが騒ぐ番じゃない」
黒いマントを翻し、イリアは森際の小隊へ手信号を送った。
「森側の偵察、準備。敵が横を回ろうとしたら、すぐに首を落とす」
「はーい、側面は任せてよ」
隣でエルギアが伸びをしながら言う。
その眼は笑っているが、手はすでに斧の柄を握っていた。
◆
黒い土塁が、白と銀の波を迎え撃つ。
連合軍の前列――聖騎士の盾が一斉に前へ突き出された。
その背後から槍の穂先が覗き、密集した歩兵が土を踏み鳴らしながら迫る。
「――構え!」
べリアルドの号令とともに、
魔王領側の盾列も前へ押し出された。
次の瞬間、鉄と木と肉が混ざる衝突音が戦場を揺らした。
ぎり、と盾の縁が軋む。
押し寄せた人間の体重と、後ろから突き上げる圧。
前列の魔族が歯を食いしばり、膝を踏ん張る。
土が爪先から削れ、盾の裏で腕が震えた。
「右列、半歩下がれ。左から押し込む」
べリアルドの声がすぐ背中から飛んでくる。
右列の数人が、言葉通りに半歩だけ退いた。
その空白を狙って、聖騎士の盾が前に出る――が、次の瞬間には左列の魔族の槍がそこを叩き込んだ。
「ぐっ!」
聖騎士の太腿に槍が食い込む。
銀の鎧が裂け、血が飛び散る。
「槍を高く上げるなと言った。
“上等な鎧”は、上から見ていても割れ目が分からない」
べリアルドは淡々と言いながら、盾列のわずかな隙間を移動していく。
彼にとって、ここは最前線でありながら“図面の上”と同じ場所だった。
必死に盾を支える兵の肩に、彼の手が一瞬だけ触れる。
「そのまま十数える間だけ耐えればいい。
十のあとで、俺が前を切る」
兵が短く息を呑み、こくりと頷いた。
十がどれだけ長くても、その約束があれば耐えられる気がした。
◆
押し合いは、やがて一箇所で不均衡を生んだ。
土塁の中央やや右――
ラザル直属の聖騎士たちが固まり、他の歩兵よりも一段深く魔族の列へと食い込んでいる小さな“牙”だ。
「……あそこか」
べリアルドは、その一点を目で捉えた。
盾越しに伝わる振動が、他の場所と違う。
「エルギア」
背後を振り返らずに名を呼ぶ。
「ん?」
「あの牙を折る。準備しておけ」
「了解。ベリアルド様が前を開けたら、うちらがぶっ潰すっすよ」
エルギアはにやりと笑った。
獣人たちと重装兵が肩をぶつけ合いながら、突破口候補の背後へと集まり始める。
押し合う盾と盾の隙間から、べリアルドは一瞬だけ戦線全体を見た。
右前列、槍の列がじわじわと下がっている。
そこを支えている聖騎士の鎧が、他より一段厚い。
「……ここだな」
短く息を整え、べリアルドは決める。
「出るぞ」
その一言に、近くの兵たちの喉が同時に鳴った。
「べリアルド様、前に出るつもりですか。危険です」
イリアが短く言う。
「ここで長引かせるほうが危険だ。
“押される場所”が一つあれば、そのうち全部がそこに引きずられる」
言葉とは裏腹に、その声は妙に落ち着いていた。
べリアルドは盾列の背を軽く叩く。
「前列、そのまま踏ん張れ。俺の前を空けろ」
盾の間に、細い通路が生まれる。
べリアルドはそこへ片足を差し入れ、そのまま迷いなく踏み出した。
灰銀の髪が、土と血の匂いの中にすっと現れる。
前線の空気が、一瞬だけ張り詰めて静まり返った。
べリアルドは淡々と答えると、
盾列の隙間に片足を突っ込み、そのまま前へと抜け出した。
灰銀の髪が、土と血の匂いの中にすっと現れる。
「……出た」
人間側の兵の誰かが、思わず呟いた。
「銀の髪……前線に出てきたぞ」
「噂の“灰銀の処刑人”か……?」
聖騎士が槍を構え直す。
彼らの視界にも、土塁の上ではなく“目の前”に現れた魔人の将の姿が映っていた。
べリアルドは、静かに長剣を抜いた。
鞘から出た刃が、鈍い灰色の光を帯びる。
磨き上げられた銀ではない。だが、研ぎ澄ませた斧よりもよく斬れそうな、殺意だけを凝縮した金属の色。
刃が空気を切る。
その瞬間、周囲の空気が僅かに震えた。
(……響きが足りない。もう少しだけ、音を上げる)
心の中で呟き、刃を握る右手と足裏に意識を落とす。
剣の芯から微細な振動が走り出し、同じ震えが足元の土にも伝わった。
響脚。
足裏から伝えた振動で、自分の踏み出す“タイミング”だけをずらす脚技だ。
初動と方向転換の一瞬だけ、常人の目と耳が追いきれない速度に跳ね上げる。
結果として、音と像にわずかなズレが生まれ、見る者には「二人いる」ように錯覚させる。
一歩踏み出した瞬間、べリアルドの輪郭がかすれて揺らぐ。
土を蹴る音が二重に響き、視界の中の彼が一瞬、二人に見えた。
「来い」
短く言った途端、聖騎士が吠えながら飛び出してくる。
槍の穂先が、真正面からべリアルドの胸を狙った――はずだった。
その目の前で、標的がふっと“ずれた”。
「……っ!?」
穂先は確かに肉を捉えた感触を返したのに、
刺し貫いたはずの灰銀の姿が、薄い残像となって霧散する。
次の瞬間、槍兵の背後で風を裂く音がした。
振り返るより早く、鎧の継ぎ目に冷たい感触が走る。
べリアルドの剣が、逆側から静かに腹を貫いていた。
兵士が膝から崩れ落ちるころには、
彼はもう次の一歩を踏み出している。
二人目が大剣を振りかぶる。
斜め上から叩き潰すような一撃――そこに、べリアルドの姿はもういない。
足音が、右にも左にも聞こえた。
「どこだ――」
問いが終わる前に、肩口から腰まで、斜めの線が走る。
雷鳴のような振動を伴った斬撃だった。
刃震。
剣を包む超振動の刃。
触れた瞬間、金属や骨の内部に“逆位相の揺れ”を叩き込み、芯からひび割れさせる。
表面だけを弾くのではなく、内部構造そのものを震わせて壊すための、魔人べリアルド固有の技だ。
二つの刃が交差した一点から、ギシ、と嫌な音が響く。
次の瞬間、聖騎士の大剣の芯が砕ける。
刃は先端から砂のように崩れ、残った根元ごと手から弾き飛ばされた。
折れた鉄片が地面に落ちるより早く、
べリアルドの剣が兵の喉元をさらっていく。
「な、何だあれ……!」
「消えたと思ったら背中に……っ」
後列の歩兵が、震える声で呟く。
「……話が違う……
もっと叫びながら突っ込んでくる怪物だって……
あれじゃあ……ただの処刑じゃないか……」
彼らの目に映っているのは、
怒号を上げて暴れる獣ではない。
盾と盾の隙間をすり抜け、
足音と残像だけを残して現れては、
必要な線だけを正確に引いて
人と武器を“切り分けて”いく、静かな死だった。
べリアルドは、一歩ごとに戦線の形を変えていく。
聖騎士の盾と槍の束が、罅の入ったガラスのように形を失い始める。
盾の縁が砕け、槍の柄が途中から折れ、その中にいた肉体だけが遅れて崩れ落ちる。
それでも、まだ正面の壁は完全には崩れない。
べリアルドは、短く息を吐いた。
(……もう一段、共振を上げる)
刃先に集めていた振動を、今度は足元の土へと流し込む。
次に彼が踏み出すとき、響脚の残像はさらに濃くなり――
灰銀の処刑人は、戦場から輪郭そのものを奪いながら、
敵列を静かに蹂躙し始めた。
(ここで“目”を潰す)
灰銀の刃が、低く唸る。
その音は、目には見えない波となって周囲へ広がっていった。
彼は剣を地面に突き立てるように、一閃する。
刃が土をかすめた瞬間、
振動の奔流が地表を走り、聖騎士たちの足元を掬い上げた。
「な――」
足甲の中の骨が鳴る。
膝の軟骨が一瞬だけ“音を失い”、踏みしめていた地面の感触が消えた。
数人の聖騎士が同時に膝をつき、ある者は尻餅をつき、ある者は前のめりに倒れ込む。
そこへ、遅れて炎が走った。
共振で熱せられた金属片と地表が、摩擦で着火したかのように、
べリアルドの斬撃の軌跡をなぞるようにして“線”となって燃え上がる。
「うわああっ!」
「脚が、脚が……!」
雷鳴にも似た衝撃音と、低く這う炎の帯。
人間たちの目には、それがまさに“雷と炎を纏う魔剣”と映っていた。
「……これで十分だ」
べリアルドは静かに息を吐く。
足を奪われた聖騎士たちの列に、無数の隙が生まれていた。
「エルギア」
「待ってましたぁ!」
エルギアが喉の奥から笑いを噴き上げるように叫び、獣じみた笑みで前へ飛び出した。
べリアルドが抉じ開けた裂け目に、重装の魔族たちとビーストたちが一斉に雪崩れ込む。
「べリアルド様が開けた道なんだからさ――
こんなご馳走、逃すわけないでしょ!」
彼女の手にあるのはバニッシュ。
長い柄の片端に、無数の棘を生やした巨大な鉄球。
反対側には、城門すら貫けそうな鋭い槍の穂先。
棘付き鉄球と槍――叩き潰しと貫通を兼ねた、正面突破専用の凶器だった。
「どいて!」
エルギアが足を一つ踏み込む。
棘だらけの鉄球が、横薙ぎにうなりを上げた。
盾を構え直そうとしていた聖騎士の列が、その一撃でまとめて吹き飛ぶ。
盾ごと胸郭が押し潰され、白銀の甲冑が紙細工のようにひしゃげた。
ぐしゃり、と骨が砕ける音。
悲鳴を上げる暇もなく、三人の身体が宙を舞い、そのまま土に叩きつけられる。
「一列目、片付け!」
エルギアは柄を回転させる。
次の瞬間、反対側の槍の穂先がまっすぐ突き出された。
鉄球で潰された仲間の横を飛び越えようとした聖騎士の喉元を、その槍が正確に貫く。
白いマントが血煙に染まり、男は鉄板に刺さった人形のように槍に掛かったまま崩れた。
「次! まだまだいけるよぉ!どりゃああああああああ!」
彼女の足元を、角を持つ魔族戦士が駆け抜け、倒れた聖騎士の隙間を縫って、その先の兵を槍で串刺しにしていく。
棘付き鉄球が、今度は振り下ろされる。
盾を頭上に上げた聖騎士の腕ごと、そのまま頭蓋が叩き割られた。
甲冑の中身が潰れ、男はその場で膝から崩れる。
「盾なんかじゃ、足りないよ?」
エルギアは笑いながら、返す刃のように柄をひねる。
槍の穂先が、まだ息をしていた隣の兵の胸板を横から貫いた。
押し潰し、貫き、また潰す。
彼女の周囲だけ、前後左右に「空白地帯」が生まれていく。
「なんだあの化け物女……!」
「近づくな、あそこは……!」
人間側の列に、はっきりとした“避け”の動きが生まれ始めた。
その少し離れた側面。
森際の影では、イリア率いる小隊が静かに動き出していた。
連合軍の列の脇腹――
小隊長、旗持ち、伝令が集まる「指揮の血管」にあたる位置。
「灰銀の処刑人に目を奪われた瞬間が、一番隙だらけになる」
イリアは小さく呟き、闇から一歩踏み出した。
彼女の手にあるのは、夜霧と呼ばれる細身の刀。
緩やかな反りと、淡く揺れる刃文を持つ、美しい刃だった。
鞘走りの音は、ほとんど聞こえない。
一閃。
聖騎士の兜の下、喉元に白い線が走った。
男は“何をされたのか”理解する前に、口から血を噴き、膝から崩れ落ちる。
夜霧の刃には、一滴の血も付着していない。
イリアは刃を振るった位置から半歩ずれ、既に次の標的へと向かっていた。
「旗持ち優先。小隊長も見つけたら落としていけ」
べリアルドの声が、遠く正面から届く。
「了解しました」
イリアは短く答え、連合軍の列の内側へと溶け込む。
夜霧がもう一度、すっと横に払われた。
旗を掲げていた腕が、肘から先ごと宙に舞う。
旗だけが持ち主を失い、ふらりと揺れた。
「後ろが……切られているぞ!」
「誰だ、どこから来て――」
振り向いた兵士の視界に、黒い前髪と、感情の読めない瞳が一瞬映る。
その直後、世界が傾いた。
自分の首が斜めに落ちていくのを、ほんの瞬きほどの時間だけ、彼は俯瞰で見ていた。
イリアは叫ばない。
一歩ごとに、夜霧の軌跡が静かに増えていく。
肩から腰へ、肘から手首へ、首の付け根から鎖骨へ。
鎧の継ぎ目を撫でるだけで、刃は肉と骨だけを正確に断ち切った。
正面ではエルギアが、棘付き鉄球で前列を粉砕しながら突き進む。
「ほらほら、前ばっかり見てると――」
鉄球が横薙ぎに振るわれ、三人の聖騎士の身体が同じ角度で折れ曲がる。
「自分が潰されてるの、気づかないよ!」
その叫びに、前列の視線が一瞬だけエルギアに釘付けになる。
――その影で。
「だから、背中ががら空きになるんですよ」
イリアの夜霧が、背後から静かに喉元を撫でていた。
前では棘だらけの鉄球が骨ごと敵を叩き潰す。
側面では美しい刀身が、音もなく指揮官たちの命綱を断ち切る。
べリアルドが切り開いた一点の突破口に、
エルギアの豪腕とイリアの静かな殺意が重なる。
その瞬間、連合軍の前列から見える光景は、一気に悪夢へと変わり始めた。
「前も……後ろも……!」
「灰銀の処刑人だけじゃない……
化け物女と、黒い剣士まで……!」
叫びと共に、槍の列がわずかに揺らぎ始める。
戦場の一角が、べリアルドの灰銀、エルギアの鉄球、イリアの夜霧によって、
ごっそりと抉り取られるように沈んでいった。
それは連合軍にとって、初めて“心が折れかける瞬間”だった。
◆
「……ここか」
小高い丘の上から、ラザル・アルベインは戦場を見下ろしていた。
灰銀の剣が一度振るわれるたびに、
聖騎士の列に黒い穴が穿たれていくのが見える。
だが――それだけではない。
魔王領側の土塁の前にも、黒い影がいくつも転がっていた。
盾の列はところどころ薄くなり、前に出すぎた魔族兵が槍の森に呑まれて倒れている。
(……十分だ)
ラザルは無意識に、手袋の中で拳を握った。
(初撃で奴らの陣の“硬さ”は測れた。
灰銀の処刑人の牙も、側面の化け物女と剣士の動きも、
前線に立つ将として、この目で確認した。
その見返りに、あれだけの血を吐かせたなら――初日の役目は果たした)
まだ後方には予備兵力が控えている。
聖騎士団も、ここに出しているのは一部にすぎない。
だが、ここからさらに押し込めば――
(“聖戦の初日”から、灰銀の処刑人の前に膝をつく姿を、
兵たちに見せることになる)
それだけは避けなければならない。
「……退け」
低く呟く。
すぐ傍らの副官が「今なんと?」と聞き返した瞬間、
ラザルは聖戦旗の下で剣を高く掲げた。
「前列、一歩下がれ! 隊列を崩すな!」
「本日の前進はここまでとする!
これ以上は、敵の思う壺だ!」
号令が前線へと駆けていく。
伝令が声を枯らして叫び、太鼓のリズムが変わった。
前進を煽る重い拍から、
退きながら秩序を保つための、間を空けた低い拍へ。
「退却だと……?」
前列の兵が、一瞬だけ耳を疑う。
その頬には、さっき弾けた雷と炎の熱で走った火傷の跡が焼き付いている。
土塁の手前には、自分たちの矢と槍に倒れた魔族の死体も横たわっていた。
灰銀の処刑人がいなければ、あの一点は崩せていた――そう思わせるだけの爪痕は残している。
「いいから下がれ!」
「ここで死ぬのは栄光じゃない。
明日、明後日も戦える兵こそが、神の道具だ!」
聖騎士たちが叫び、盾を一歩引く。
前列は後退しながらも槍の穂先を絶えず前に向け、魔族の追撃を警戒する。
抜け出そうとした魔族兵の肩に、背後からべリアルドの声が飛んだ。
「追うな。ここで深追いすれば、こっちが削られる」
その声は連合軍には届かない。
だが結果として、両軍の間に血塗れの“境界線”が、静かに伸びていく。
負け犬の逃走ではない。
それでも、前線にいた者たちの目には、灰銀の剣が焼き付いていた。
銀の髪。見えない共振を纏った刃。
土塁の前に積み上がる自軍と敵軍の死体――。
夜営に戻れば、
それはきっと、誇張と恐怖をまとった噂話として、何度も何度も語られるだろう。
そしてラザル自身もまた、
明日の陣形と攻め筋を組み立てながら、その灰銀の影を脳裏から振り払えずにいるのだった
◆
「追わなくていい!」
土塁の上に戻ってきたべリアルドが、
返り血まみれのエルギアに言った。
「このまま一気に押し返せそうですけどぉ?」
「初戦で勝ちに酔って追い込むのは、一番愚かだ」
べリアルドは、まだ刃に血のついた剣をゆっくりと下ろしながら言う。
「今日で奴らに刻めればいい。
“ここは簡単には抜けない”と。
それ以上は、八万相手にただの浪費になる」
エルギアは一瞬だけ口を尖らせ、
すぐに肩をすくめて笑った。
「了解。じゃあ、ここは“入口が思ったより狭かった”って覚えてもらおうか」
「負傷者の回収を急げ」
イリアが短く指示を飛ばす。
担架を担いだ魔族たちが前線へ走り、倒れた味方を引きずり戻していく。
土塁の前には、敵味方の体が折り重なっていた。
黒い血と赤い血が混じり合い、土を泥に変えている。
折れた槍、砕けた盾。
どれだけ“押し返した”としても、
そこに残る死体の数は、勝利の甘さを薄めてしまう。
べリアルドは剣を軽く振り、付着した血と肉片を払った。
その刃はまだ震えていたが、先ほどよりも静かだ。
「初戦としては――上出来だな」
誰にともなく呟く。
「ですが、八万のうちのほんの一部を退けただけです」
横に立ったイリアが淡々と言う。
「彼らの焚き火は、まだ平野一面に広がっています」
べリアルドは視線を上げた。
夕闇が落ち始めた平野の向こう――
連合軍の陣から、ぽつぽつと灯が増えていくのが見える。
まるで星空が地面に降りてきたかのような数だ。
「……ああ。
明日からが本番だ」
べリアルドは目を細めた。
「バルバロスが来るまで、
ここを持たせなければならない」
背後では、負傷者の呻き声と、治療の呪句が入り混じっている。
包帯に染みる血の色は濃く、生ぬるい鉄の匂いが夜気に溶けていく。
それでも、魔族たちの間に漂う空気は、完全な絶望ではなかった。
灰銀の剣が前に立ち、
今日、確かに“押し返した”という実感がそこにある。
夜が、ようやく戦場を呑み込み始めていた。
人間の陣営の方から、ぼそぼそとした声が風に運ばれてきた。
「……灰銀の処刑人を見たか?」
「見た。あんなに静かに人が死んでいくのは初めてだ」
「明日も、あいつはあそこに立っているのか……?」
べリアルドはその声を直接聞くことはない。
ところどころに残った松明と焚き火が、血の跡を赤く照らし出している。
風が吹くたび、燃え残りの木片から火の粉がふわりと舞い上がり、
闇の中で星屑のように瞬いては、静かに地へ落ちていった。
その火の粉の向こう側、死体の山を背に立つ男の灰銀の髪が、夜気に溶けて揺れる。
やがてその姿は、誰かの噂話の中で少しずつ形を変えながら、
“灰銀の処刑人”という名で、両陣営の記憶に刻まれていくのだった。




