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魔王降臨 奈落都市ネザリアから始まる人類征服戦記  作者: たゆたう
第二章 魔王の帰還

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第26話 奈落の盾

前線の空は、まだ戦火で赤くはなっていなかった。


だが、地平線の向こう側には、すでに色の違う帯が見えている。


旗の色。

鎧の光。

歩兵の群れが巻き上げる土煙。


それらが遠い霞となって、国境の丘陵の端から端まで、ゆっくりと一つの「帯」を形作っていた。


魔王領側の観測塔からの報告は、朝から途切れない。


「連合軍本隊、さらに増加。

セラディア聖王国の白旗に加え、ヴァルン帝国の黒金旗、オルドラン商業連合の各都市旗を確認」


前線指令天幕の中で、報告を読み上げる声が続く。


「歩兵を中心に、騎兵・弓兵・聖堂付きの輜重隊を含む大軍。

現時点で、少なくとも八万。後方からなお新手が到着中」


その数字を聞いた瞬間、べリアルドの指がぴたりと止まった。


「……八万?」


思わず、確認するように繰り返していた。

これまでの国境紛争とは、桁が違う。


天幕の中央に広げられた地図の上で、べリアルドは指先を止めた。


粗く削られた木の駒が、魔王領側の陣地を示して並んでいる。


国境防衛線に配置された魔王領軍――約二万五千。

その後方、丘陵地帯と森の間に控える予備兵力が、五千。


合わせて三万。


さらにネザリアからの出撃準備が整えば、

追加で二万弱を前線に投じることはできる。


だが――


「……五万に届くかどうかの前に、数で押しつぶされる」


べリアルドは低く呟いた。


片手で額を押さえ、木の駒をひとつずつ並べ直していく。


自軍五万。

敵軍八万。


単純な数だけなら、まだ「戦えない」数字ではない。

だが、地図は数字以外のものも教えてくれる。


連合軍側は、国境の向こうに広がる平野を、根こそぎ「進軍路」にしている。


王都から伸びる大街道。

周辺の村々から徴発された荷車。


補給の線は太く、まっすぐだ。


一方、魔王領側は、丘陵と森と峡谷を組み合わせた、細長い防衛線。


攻め込むには厄介だが、防ぐ側にとっても融通の利かない地形だ。

部隊を横へ走らせての大きな迂回も、一点に戦力を集めての一気の反撃も難しい。

補給路も谷筋の道に縛られ、太くはできない。


「バルバロスが来て、ようやく“殴り合いができる形”になる。

だがそれでも、数だけ見れば完敗……」


自嘲気味に息を吐く。


これはただの国境紛争ではない。


べリアルドは、その事実を改めて言葉にした。


「しかし……これは、“魔王領ルクスベルク”そのものの解体戦だ」


口にした瞬間、背筋を冷たいものが走る。


セラディア聖王国。

ヴァルン帝国。

オルドラン商業連合。


人間の大国が「同じ旗」を掲げてここまで出張ってくる。

その意味を、バカではない者なら誰でも理解できる。


陛下になにかあった。

次は、その領土と資源をどう削り取るか――そう考えている。


そんな算盤は、とうの昔にどこかで弾かれていたはずだ。


「八万、かぁ……」


天幕の隅で、エルギアが口を尖らせた。


いつも通りの軽い調子で、報告書を覗き込む。


「うっわ、いっぱいだね〜。

丘が全部、人間で埋まりそう」


「遊びじゃない」


イリアが冷たく返す。


涼しげな瞳が、地図の上を一瞥した。


「数が多いということは、それだけ矢も槍も多いということです。

持久戦になればなるほど、その差が効いてくる」


べリアルドは頷いた。


「そうだ。

だからこそ、ここでやるのは“数”で勝つ戦いじゃない」


指で地図上の黒い線をなぞる。


丘陵。

川。

森の端。


「地形を全部使う。

補給線を齧れるだけ齧る。

士気を折れるだけ折る」


「……時間稼ぎ、ってこと?」


エルギアが問いかける。


彼女の声はいつも通り軽いが、その目にはもう笑みはなかった。


「そうだ」


べリアルドははっきりと言った。


「俺たちの戦いは、“兵力”よりも、“時間”を稼ぐ戦いになる」


ネザリアからの動員。

バルバロス軍の合流。


そして――


(……上がどう動くにせよ、俺たちが持たせられる時間はそう多くない)


胸の奥で、嫌な予感だけが形にならないまま渦を巻く。

聖都での和平交渉に関する正式な報せは、まだ届いていない。

だからこそ、前線に与えられた役目はひとつ――時間を稼ぎ続けることだ。


そのときだった。


指令天幕の隅で、燭台の炎がかすかに揺れた。


床に落ちる影が、別の影と重なる。


暗がりが、ゆっくりと立ち上がった。


「……やっと来たか」


べリアルドは顔を上げた。


影から抜け出すようにして現れたのは、

痩せた体を黒衣で包んだ男――アバドだった。


いつもの無声音に満ちた気配は、どこか削れている。


姿を見た瞬間に分かる。


ただの伝令帰還ではない。


生還というより、「生き残ってしまった者」の匂いがした。


「遅れて申し訳ありません」


アバドは頭を垂れた。


その仕草すら、いつもよりわずかに重い。


「ネザリアには先に影だけを送り、

本体は前線へ戻る経路を優先しました」


「……聖都で、何があった」


べリアルドは椅子から立ち上がり、

天幕の内側をひと睨みした。


「エルギア、イリア」


「はいよ」


「承知しました」


「ここから先は、アビスガードの話だ。

外に余計な耳を残すな」


エルギアは天幕の外に向かって「下がって〜」と手を振り、

護衛の魔族たちを数歩遠ざける。


イリアは入口の幕を二重に下ろし、

外からの気配を一度確かめた。


静寂。


べリアルドの周りの空気が、じわりと重くなる。

魔人特有の濃い魔力が、まだ言葉も聞かぬうちから、

ゆっくりと天幕の内側に滲み出していた。


べリアルドは、アバドに視線を向け直す。


「……話せ」


短い一言。


その声の低さに、燭台の炎がわずかに細く揺らいだ。


アバドは、ほんの少しだけ目を伏せてから口を開いた。


「和平交渉は……罠でした」


天幕の中の空気が、はっきりと沈んだ。


エルギアの顔から、いつもの軽さがすっと消える。


「聖都の聖堂そのものが、

“魔王一党を断罪するための祭壇”に作り替えられていた」


アバドの声には、怒りよりも、疲労と悔恨の色が強い。


「聖剣。

断罪術式。

聖堂の構造、柱、床下にまで刻まれた術式を全て重ねた一回限りの攻撃……

あれは、もはや“聖術”ではなく、“奇跡”に近いものだった」


「はあ!?」


エルギアが、思わず机を叩いた。


「和平だって言って呼び出して、

最初からぶっ殺す気で準備してたってこと!?

人間ども、どこまで性根腐ってんだよ!」


その叫びに、天幕の外の兵が一瞬息を呑む気配がした。


イリアの瞳が、静かに細くなる。


「……最初から“交渉”ではなく、“処刑場”を用意していた、ということですね」


声は冷ややかだが、その拳はわずかに震えていた。


べリアルドの拳が、ゆっくりと握り締められる。


その指先から、黒い霧のような魔力がにじみ、

天幕の布を通して、外にまで圧が漏れかける。


入口付近にいた兵が、理由も分からぬまま背筋を強張らせた。


「陛下は?」


問いは短い。


答えもまた、短くしか返ってこない。


「……消えました」


その一言で、天幕の内側の温度が一瞬、下がったように感じられた。


「肉体だけでなく、魂ごと、です」


「っ……!」


エルギアが息を呑む音がした。


「は?ちょっと待ってよ……

じゃあ、もう二度と――」


言葉が続かない。


イリアは唇を強く噛みしめていた。


「アスモド様も、マルシエル様も?」


「同じです」


アバドは目を閉じる。


まぶたの裏に、白い光と黒い影が一瞬よぎった。


「聖剣の一撃が陛下を穿ち、

断罪術式が“魔王”の名を刻んだ者を片っ端から焼き尽くした。

アスモド様とマルシエル様は、

最後の瞬間までルシアン様を庇い、

自分たちの身と術式の全てを盾にして、

その一部をねじ曲げました」


「人間ども……!」


エルギアが奥歯を剥き出しにする。


「和平だの聖戦だの綺麗ごと言って、

やってることはただの虐殺じゃない!」


イリアも、静かな声のまま、吐き捨てるように言った。


「これでもまだ、『神の正義』などと名乗るつもりでしょうか……」


べリアルドの奥歯が、ぎり、と鳴る。


掌に持っていた木の駒が、みしりと軋んだ。


黒い魔力がさらに濃くなり、

天幕の布が、風もないのにわずかに膨らんだ。


「……ルシアン様は」


絞り出すような声だった。


「ルシアン様は、どうなった」


「生きています」


アバドははっきりと答えた。


「あの場から、影を使って、

聖都の地下水路へ逃がしました。

アスモド様とマルシエル様は、そのために全てを捧げた」


べリアルドは、駒を握り潰した。


木の破片が、ぱきん、と乾いた音を立てて散る。


その瞬間、天幕の外にいた兵たちが一斉に身をすくませた。

見えない圧力が、ほんの一瞬だけ外まで吹き出したのだ。


「べ、べリアルド様……?」


エルギアが思わず身を震わせる。


イリアは、黙ったままその横顔を見た。


怒りを爆発させて叫ぶか――そう見えた瞬間。


べリアルドは、ぎゅっと目を閉じ、

大きく一度息を吐いてから、手を開いた。


砕けた駒の破片が地図の上に落ちる。


同時に、漏れ出ていた魔力の圧も、ゆっくりと内側へ引き絞られていく。


「……そうか」


声は、思ったよりも静かだった。


「陛下は、あの場で“終わる”覚悟を決めていたってことだな」


「はい」


「アスモド様も、マルシエルも、

ルシアン様を生かすために自分を捨てた。

お前は、それを見届けて戻ってきた」


べリアルドは、自分に言い聞かせるように確認する。


アバドは黙って頷いた。


「なら、お前が生きて帰ったことを誰も責められない。

責めるとしたら――その覚悟を、同じ場所で共にできなかった俺たちだけだ」


わずかに笑みのようなものが口元に浮かんだ。


それは、怒りと哀しみを無理やり丸めて飲み込んだ者の笑いだった。


「……ルシアン様は、今どこに?」


イリアが問う。


「呪いの森の中です」


アバドは答えた。


「森の王と接触し、生き延びるために動いているはず。

ここへ向かうかどうかは、まだ……」


「生きているなら、それでいい」


べリアルドが言葉を遮った。


「生きていれば、戻る場所を守る価値がある」


目の奥の光が、少しずつ戦場指揮官のものへ戻っていく。


「それで、もう一つ。

お前が見てきた“連中の動き”について聞かせろ」


アバドは短く頷く。


「聖王国は、国内にはこう宣伝しているはずです。

『魔王は既に討たれた』――と」


「……ふざけんな」


エルギアが顔をしかめ、低く唸る。


「自分たちで卑怯な罠を仕掛けておいて、

よくそんな台詞が言えるね、あの連中」


イリアも、声をさらに冷たく落とした。


「『正義の勝利』とでも喧伝しているのでしょう。

中身は、ただの虐殺劇だというのに」


「そして今度の聖戦は、

『残存する魔族勢力の一掃と、汚れた土地の浄化』」


アバドの声は淡々としている。


べリアルドは、地図の上の敵軍駒を見た。


八万という数字が、突然、もっと重く感じられる。


「……本気で、滅ぼしに来ているわけだ」


「はい」


「バルバロス軍は、どこまで出ている?」


べリアルドは問いを切り替えた。


「ネザリアを発って、一日は経っているはずだ」


「影越しに確認した限りでは、

先行部隊――騎兵と一部のビースト部隊が先に動いています。

本隊は重装と補給隊を伴っての行軍」


アバドは、影で見てきた光景を手早く説明する。


「ネザリアからこの前線まで、

通常行軍で五日。

無理をすれば四日。

先行部隊だけなら三日で届く計算です」


べリアルドは指先で机を軽く叩いた。


「……つまり」


「最速でも、あと二日は“こちらだけ”で持たせなきゃいけない、ってことね」


エルギアが先に言った。


べリアルドは頷く。


「そうだ」


彼は地図の上で、国境線から内側へ何本か線を引いた。


「連中が本気で押してくるタイミングは、おそらく二つ」


一つ目の線。


「一つは、士気が最も高い“聖戦開幕”の初撃。

こちらの陣形を試しに叩いて、

そのまま崩せるなら一気に雪崩れ込むつもりだろう」


二つ目の線。


「もう一つは、

こちらの予備戦力が削れて、

陣地の一角に綻びが見え始めた時。

連中は数を活かして、崩れた箇所に大量投入してくる」


イリアが静かに口を挟む。


「そのどちらか、あるいは両方を、

ネザリア本隊が来るまで持ちこたえなければならない、ということですね」


「ああ」


べリアルドは息を吐いた。


「だからこそ、初戦で“鼻先を折る”必要がある。

ここを軽く抜けられる相手じゃないと知らしめられれば、

連中も慎重になる。

その一度で、できるだけ深く刻む」


べリアルドは地図の上で、自軍の中央と両翼を指先でなぞった。


「逆に言えば、“その一度”以外では無駄に血を流さない。

初撃だけは全力で叩きつけて、あとは地形と補給で削る」


「イリア、外の連絡役をひとり呼べ」


「了解しました」


イリアが幕口へ歩み寄り、外に合図を送る。

ほどなくして、若い魔族将校が天幕の中へ入り、片膝をついて頭を垂れた。


「前線副官、参りました」


「ネザリアへの伝令を再確認しろ。

途中の村々には避難と物資移動を徹底させる。

補給線に使える道と、逆に潰すべき橋を一覧にしろ」


「はっ!」


「それから、各陣地に通達。

“俺の号令があるまで、勝手に前に出るな”。

敵の小競り合いには応じるが、本隊同士のぶつかり合いは、

こちらが仕掛けるタイミングまで待たせろ」


「了解しました!」


副官が退出すると、べリアルドはエルギアとイリアに向き直った。


「エルギア、中央突撃隊の先頭はお前だ。

敵の正面に噛みつき、隊列を一度ぐちゃぐちゃにしてこい」


「了解。

じゃあ、派手に暴れる準備しとくっす」


エルギアの口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。


「イリア、お前も中央だ。

エルギアがこじ開けたところに突っ込める斬り込み隊を編成しろ。

隊列が乱れた瞬間に、指揮官と旗だけを正確に刈り取れ」


「承知しました。

正面の“牙”は、私たちで受け持ちましょう」


「森側の夜襲と撹乱は、別途編成する。

詳細は後で詰めるが――連中に、横も背中も安眠もないと教えてやる」


べリアルドは最後に、自分の剣に視線を落とした。


(初戦から、遠慮している余裕はない)


ここで見せるべきなのは、「様子見の一撃」ではない。

この防衛線を正面から踏み潰そうとすれば、

自分たちの血と骨を代償に、必ず何かを失う――そう刻みつける一撃だ。


それでもなお、ここを越えさせるつもりは、毛ほどもない。



連合軍本陣。


白い聖幕の中央には、一本の旗が立っていた。


黄金の十字と剣が描かれた、セラディア聖王国の聖戦旗。


その前に片膝をついている男の肩には、

白銀のマントがかかっている。


「……ガイウス枢機卿より、“時は満ちた”との伝令」


背後で司祭が告げる。


「教皇猊下はすでに『魔王は討たれた』と世界に宣言された。

今この戦は、その聖言を現実の形に変えるための奉仕にすぎません」


男は目を閉じていた。


額に当たる金属の冷たさが、

祈りの集中を助ける。


「分かっている」


低く、抑えられた声。


セラディア聖騎士団長――

ラザル・アルベイン。


彼はゆっくりと立ち上がった。


聖戦旗の前に進み、柄に手を置く。


「セラディア聖王国と、その盟約諸国の名において宣言する」


幕の外に集まった騎士たち、将たち、各国の旗持ちたちに向かって声を張る。


「魔王は既に討たれた。

残された魔族の地は、神と人の秩序のために浄化されねばならぬ」


ざわめきが、すぐに静かな熱へと変わっていく。


「この戦いは侵略ではない。

歪んだ世界を正し、異端の汚れを洗い流す聖き戦いである」


ラザルは聖旗の布地に指を滑らせた。


彼自身も知っている。


この戦いの背後には、

黙示庁と呼ばれる組織の計画があることを。


《解体司祭》の男が描いた「新しい秩序」の地図に、

己の剣も組み込まれていることを。


だが、それでも――


「我らはただ、神に与えられた剣であればよい」


ラザルは自分に言い聞かせるように呟いた。


「目の前にある“異端の地”を、

与えられた教えに従って斬り払うのみ」


彼は聖戦旗を掲げた。


「全軍に告ぐ!」


凛とした声が、野営地を包んだ。


「これより、魔王領に対し正式に戦を開く!

この地は神のものだ!

それを証明するために、我らの血と祈りを捧げよ!」


「おお!」という歓声と、

盾を叩く音が波のように広がっていく。


司祭が小声で付け加えた。


「……黙示庁の御方も、“この初戦が鍵だ”と仰せです。

どうか、期待に応える結果を」


「分かっている」


ラザルは短く答えた。


彼の視線はすでに、

遠くの丘に連なる黒い線――魔王領の防衛線を見据えている。



ラザルの声は、距離と風に削られながら、

それでも断片となって魔王領側の耳にも届いた。


「……今、何て言った?」


丘の上の観測所で、

若い魔族の兵が耳をそばだてる。


「『魔王は、既に討たれた』……って」


その言葉は、さざ波のように前線を伝い、

やがて伝令の口から、べリアルドの耳にも届けられた。


指令天幕の中で、

べリアルドはそっと目を閉じる。


「そうか」


呟きは、それだけだった。


怒鳴らない。

否定もしない。


代わりに、

拳を固く握りしめる。


(……陛下)


胸の奥に、穏やかに笑うアルドランの顔が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。


「魔王が討たれた、か」


低く、それでもはっきりとした独り言。


次の瞬間、べリアルドは天幕を押し開けて外に出た。


すでに噂は、前線のあちこちに広がり始めている。


「今の、本当なのか……?」

「陛下が……そんな……」


盾を構えた兵の腕が、わずかに下がりかける。

尾を持つ者たちの尻尾が、不安げに揺れた。


空気が、沈む。


その一瞬の揺らぎを、べリアルドは見逃さなかった。


彼は土塁に駆け上がり、

前線を一望できる位置に立つと、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。


「――全員、聞けぇぇ!」


怒号ではなく、しかし鋼のように硬い声が、戦場のざわめきを切り裂いた。


無数の視線が、一斉にべリアルドへと向く。


「さっき敵が何と言ったか、聞こえたはずだ」


べリアルドの声は、低く、それでいて不思議と遠くまで届いた。


「『魔王は既に討たれた』――そう言っていた」


前列の数人が、息を飲む。


「その通りだ」


べリアルドは、あえて認める言葉を選んだ。


「陛下は、もうこの空の下にはいない。

あの聖都の罠で、アスモドも、マルシエルも一緒に焼き尽くされた」


誰も口に出せなかった事実が、

はっきりとした言葉になって前線に突き刺さる。


胸の奥が、きしむように痛む。

それはべリアルド自身も同じだった。


だからこそ、彼は続ける。


「悔しいか」


短い問いかけ。


「怖いか」


別の問いが重なる。


「そうだろう。

怖くて、悔しくて、信じたくないはずだ」


一人の兵が唇を噛み、

別の兵が静かに目を伏せる。


べリアルドは、そんな彼らを真正面から見据えた。


「だが、」


言葉が、さらに熱を帯びていく。


「陛下が討たれたからといって、

この土地が消えるわけじゃない。

お前たちの家族が、明日から突然いなくなるわけじゃない」


土塁の上から、べリアルドは後方を指さした。


「この先には、ネザリアがある。

お前たちの暮らす街がある。

子どもたちが眠っている家がある」


声が少しだけ震い、すぐに押さえ込まれる。


「陛下はもういない。

だからこそ――今ここに立っている全員が、魔王領そのものだ」


静寂が、戦列を包んだ。


「人間たちは、『魔王を一人倒せば勝ちだ』と思っている。

そうやって、自分たちの正義を押し通そうとしている」


べリアルドの瞳が、遠くの白い軍旗を射抜く。


「だったら、教えてやればいい」


握りしめた拳を、高く掲げる。


「この大地には、陛下一人だけじゃなく、

何万もの命と歴史が根を張っていることを!


魔王を討ったぐらいで、

この領地が簡単に折れないことを!」


土塁の縁で、誰かが小さく「おお……」と息を漏らした。


「ここを越えさせたら、

あいつらは陛下の死を“終わり”に変えるだろう。


だが、ここを守り抜けば――

陛下の死は、“続きへ繋ぐ始まり”になる」


べリアルドは胸を叩く。


「俺は、あの方の死を終わりにしたくない。

ここにいるお前たち一人ひとりの生き方で、

アルドランという魔王が確かに存在したと、世界に刻みたい」


声が、いつになく熱を帯びる。


「怖いなら、それでいい。

震えていてもいい。


それでも前に立つから“兵”なんだ。

それでも盾を上げるから、“魔王領の軍”なんだ」


べリアルドは、そっと微笑んだ。

その笑みは、戦場に似つかわしくないほど穏やかだった。


「陛下はもう、俺たちの前に立ってはくれない。

だから今日だけは、俺が前に立つ。


そしてお前たちは――

自分の背中に、守りたいものの数を思い浮かべろ!」


家族。

仲間。

まだ見ぬ未来。


それぞれの胸に、何かの像が浮かぶ。


「それを守りたいと思うなら、

一歩も退かないでほしい」


短く息を吸い込む。


「――魔王は討たれた。


だからこそ、ここで証明するんだ。

俺たちが奈落の盾であることを。


俺たちは一歩も退かない。この丘は渡さない。

目の前の敵を一人残らずたおして、陛下の無念を刻みつけろ。


ここを陛下の墓標だと奴らに思い知らせてやる。

“魔王の意志はまだここに生きている”と、俺たちの剣と盾で刻み込め!」


最前列の魔族兵が、盾を高く掲げた。


それに応じて、隣も、その隣も、

次々と盾を掲げ、槍の石突きで地面を打つ。


ドン、ドン、と低い音が、波のように広がっていく。


「――おおッ!」


大きな声が、どこからともなく上がった。


それは叫びというより、

胸の奥からあふれ出た「まだ終わらない」という意思の音だった。


エルギアがにやりと笑い、部隊に向き直る。


「聞いたね?総大将があそこまで言ったんだ。

あたしたちも、ちゃんと“続き”を守らないと」


イリアは静かに頷き、森側の小隊に合図を送る。


「森際の偵察隊、準備。

敵の側面が動いたら、すぐ報告を」


そのとき――


連合軍の陣地から、低い太鼓の音が聞こえ始めた。


どん、どん、と規則正しく鳴る重低音。


それに合わせて、

前列の槍が一斉に傾く。


白いマントと、色とりどりの旗が、

波のように揺れながら前へと動き出す。


丘の上から見ると、

まるで「平野そのものがこちらへ動いてくる」かのようだった。


「来る!」


見張り台から声が上がる。


べリアルドは土塁の上から軽く飛び降り、

前線の中心に構えた土塁と木柵の裏へ戻った。


その後方に、盾を構えた魔族たちの列。

さきほどまで揺らぎかけていた足取りは、もう揺れていない。


「中央隊、配置につけぇ!」


べリアルドの声が、陣地を駆け抜ける。


「弓隊、構え!」


矢を番える音が、一斉に重なる。


連合軍の太鼓が一段と速くなる。


ラザル・アルベインが、聖戦旗の下で剣を掲げた。


「――前進!」


その号令と共に、

人間たちの戦列が一斉に前へ動く。


土を踏み鳴らす音。

鎧と槍がぶつかる重い響き。


白と銀の波が、黒い丘へと押し寄せようとしていた。


「……まだだ」


べリアルドは小さく呟く。


連合軍の先頭が、

こちらの弓の有効射程に入りかける。


「……あと十歩」


矢を番えた魔族たちの腕が震える。


八万という質量が、

視界の隅から隅までを埋め尽くしていく。


べリアルドは腕を振り上げた。


「――今だ。弓隊、放て!」


矢羽根が一斉に空へと舞い上がる。


魔王領と人間の連合軍。


その第一次会戦が、

本格的に火蓋を切ろうとする瞬間――


戦場の空に、最初の矢の雨が、黒い弧を描いた。

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