第24話 黒炎の牙
黒炎が走り抜けたあと、広場には一瞬だけ、異様な静寂が訪れた。
燃える家々の爆ぜる音だけが聞こえる。
さっきまで祈りと命乞いと悲鳴で満ちていた空間に、わずかな空白が生まれていた。
黒く焼けた地面。
煤けた白マント。
ちぎれた鎖と、封印を潰された檻。
黒炎奔流は、聖騎士たちの陣形を中心から削り取り、
《名前のない聖職者たち》が描いた術式の円を、根元から抉り潰していた。
「……なんだ、これは」
聖騎士の一人が掠れた声を漏らす。
足元の土は黒く焦げているのに、靴の裏はほとんど焼けていない。
熱は確かに感じるのに、皮膚の感覚だけが鈍く、膝から下の感覚が自分のものではないように思えた。
「森の魔族が……一匹、暴れてるだけだろ」
別の聖騎士が無理やり言い聞かせるように吐き捨てる。
声に、先ほどまでの余裕は戻ってこない。
「数はこっちが上だ。相手はたかがガキと亜人ども……」
「“たかが”で済む相手かどうか、自分の足で確かめてみるか?」
ラガンの矢が、ぴしりと聖騎士の足元に突き立った。
矢羽根が、黒炎の余熱でゆらめく。
一瞬で、「なめていた空気」が霧散した。
◆
少し離れた位置。
その会話を、ルシアン様は遠くから視界の端で捉えただけだった。
黒炎の余韻はまだ身体の中で燃えている。
だが、魔力の流れは安定していた。
(消費は……まだ浅い)
自分の内側を一度だけ確認する。
黒炎奔流は、あくまで「前線を抉る」ためのもの。
本気で森ごと焼き払おうとしたときに流れ出すであろう魔力に比べれば、まだ遥かに余裕があった。
(ここから先は、どれだけ“形”を整えるかだ)
ルシアン様は、息を一度整え、視線を広場全体に走らせた。
聖騎士たちは混乱しながらも、じわじわと再配置を始めている。
黒炎に焼かれた者は立ち上がれず、外側にいた者たちが前へ出る。
ガルネは、その再編の隙を逃さず、次々に前衛を殴り飛ばしていた。
盾が軋み、鎧が凹むたび、聖騎士は数を減らしていく。
ラガンは、黒衣の手元から札と鎖を正確に射抜き、
《名前のない聖職者たち》の術式構築を寸断している。
(前線は――まだ崩せる。
問題は、あの隊長と、黒布の中に“頭”がいるかどうか)
ルシアン様が視線を巡らせた先で、白いマントの男が一歩前へ出た。
◆
「我が名は――」
炎と血に焦げた広場に、聖騎士の声が響いた。
純白のマントに、黒い煤がまだらにこびりついている。
それでも、その姿勢には一片の躊躇もない。
「セラディア聖騎士団第七隊長、レオナルト・グレイアス」
男は、槍を地面に突き立てるように構え、ルシアン様のほうをまっすぐに見据えた。
「魔王アルドランの遺児と見受ける。
神と王国の名において、ここで裁きを下す」
まだ、どこかで見下している目だ。
ルシアン様は、その目線を正面から受け止めながら、じっと黙っていた。
「隊長が出るまでもありませんよ」
背後の若い聖騎士が息巻く。
「森の魔族が一匹増えたところで――」
「黙れ」
レオナルトが短く叱責する。
「これはただの亜人狩りではない」
その目だけは、さきほど黒炎が走った跡から離れなかった。
「光に敵対する者がいるなら、相応の形で焼かねばならん。
見くびれば、こちらが足をすくわれる」
そう言うと、彼は静かに目を閉じた。
槍の柄を握る手に力がこもる。
「――光よ、我が腕に宿りたまえ。」
足元に、白い光の陣が展開していく。
円が幾重にも重なり、線と紋が浮かび上がる。
聖堂で見た断罪の術式ほど巨大ではないが、構造の根は同じものだった。
上空にも、うっすらと光の模様が浮かび始める。
「森の闇を裂き、異端を焼く刃を――聖断光槍!」
言葉の終わりと同時に、陣が一斉に輝いた。
詠唱が進むごとに、周囲の聖騎士たちの顔に安堵の色が戻っていく。
「隊長の一撃があれば……」
「森ごと焼き払える……!」
黒衣の一人も、光の陣をちらりと見て頷いた。
「対象の出力測定には好機だ。
この“光”に対し、どれほど抗えるか……」
上空の光の紋が収束し、眩い槍の形を取る。
数えきれないほどの光槍が、森の上空に逆さまの森のように並び――
次の瞬間、一斉に降り注いだ。
空気が焼け、白い尾を引く光が、地上の「異端」を貫こうとする。
森そのものを貫き、呪いの闇ごと焼き払うつもりの一撃だった。
ルシアンは、ただ黙ってそれを見ていた。
上空から降り注ぐ光の線。
上空の紋章。
聖騎士たちの足運びと、黒衣の配置。
ルシアンは、一歩踏み出した。
右手をゆっくりと握り込む。
黒炎が、指先に集まり、ひとつの塊へと収束していく。
さっきまで森を舐めるように走っていた炎とは違う。
ひどく重く、濃く、まるで黒い星の核のような火。
内側で、別の名前が形を取る。
全部まとめて、焼き潰す火。
空から降る光ごと、術式の根を焼き上げるための炎。
ルシアンは、陣の中心――レオナルトの胸元ではなく、
自身の足元そのものへと掌を向けた。
「――黒獄炎柱陣」
黒炎が、地面を突き破って噴き上がった。
◆
レオナルトの視界には、まだ光の陣しかなかった。
上空で陣が閉じ、光の刃が形成される。その瞬間を、彼は何度も訓練で繰り返してきた。
「森ごと浄化――」
必殺の言葉を紡ぎきる前に、足元の光が「黒」に染まった。
何が起きたのかを理解する暇はなかった。
陣の中心から、黒い炎の柱が逆流するように立ち上がる。
それはただ燃えるだけの火ではなかった。
触れた光を、焼くより先に「壊す」。
上空から降り注ごうとしていた光槍が、
柱に呑み込まれるように次々と形を失っていく。
精巧に組まれた術式の輪が、土台ごと砕けるように音もなく崩壊した。
「っ――!?術式ごと焼くだと!?」
レオナルトが驚愕の声を上げたときには、
黒獄炎はすでに足元から彼の全身を包み込んでいた。
焼け焦げる音はしない。
ただ、銀色の鎧の「内側」で、何かが静かに崩れ落ちていく。
胸の内側から、じわじわと黒い熱が広がった。
肺も、心臓も、聖刻で守られていたはずの臓腑も――
内側から、順番に焼き抜かれていく。
「……っ、ご……」
レオナルトは血を吐けなかった。
喉の奥からこみ上げてきたのは、赤ではなく、細い黒炎の筋だった。
咳き込むたびに、口の端から黒い火がこぼれ、すぐに空気に溶けて消える。
膝が折れる感覚だけが、やけに鮮明だった。
聖属性の術式は、発動しないまま、根元から食い破られて消え去る。
レオナルトは、自分の身体が中身から空洞になっていく感覚に気づくより早く、前のめりに倒れ込んだ。
「「隊長……!?」
近くにいた聖騎士が叫んだ。
その目に映っているのは、己の隊長の身体を内側から裂くように噴き上がる黒炎と、
足元で崩れていく光の陣だった。
「うそだろ……隊長の術式が……」
「詠唱の途中じゃない……陣そのものが……」
言葉はそこで途切れた。
隊長の身体を包んでいた黒炎が、ぱん、と弾けるように四方へ飛び散る。
火の粉のように見えたそれは、鎧やマントには一切燃え移らず、
隙間から、継ぎ目から、静かに聖騎士たちの内側へ滑り込んでいった。
「……あ、れ……?胸が……」
ひとりが胸元を押さえ、その場に膝をつく。
続いて、もうひとり。
「ごほっ――」
吐き出されたのは血ではなく、細い黒炎の筋だった。
喉の奥で燻るように燃え、口からこぼれた瞬間、空気に溶けて消える。
「熱い……中が、焼け……」
誰かがかすれた声で言いかけ、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
焼け焦げる音はしない。
ただ、銀色の鎧の内側で、聖刻と祈りの言葉だけが、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
立っていた聖騎士たちが、次々と膝を折った。
盾も槍も取り落とし、黒炎を吐きながら、静かに地面へ崩れ落ちていく。
「な、にが……起きて……」
最後に残った一人が、震える手を伸ばそうとして、
その指先からも、細く黒い火が漏れた。
森の匂いが、一瞬だけ鉄と祈りの焦げる匂いに変わる。
ルシアンは、息を吐きながら腕を下ろした。
胸の奥に、わずかな熱と重さが残る。
その黒炎は、もう彼の掌にはなく、聖騎士たちの内側を焼き尽くして消えていた
自分の中の魔力の底を測るように、内側を覗き込む。
まだ、届いていない。
聖堂で見た断罪の光――あの規模の術式と真正面からぶつかり合うために必要な出力には、今の自分は遠い。
だが、この程度の隊長級なら、正面から潰すには十分だった。
◆
「た、隊長……!」
聖騎士たちの間に走る動揺は、もはや隠せない。
さっきまでの「数はこちらが上だ」という安心感は完全に消えていた。
《名前のない聖職者》の一人が、レオナルトの体内を焼いた黒炎の残滓を観察して、低く呟く。
「術式の構造ごと……身体の内部を焼き切っている。……」
「この場での制圧は困難か。
――黙示庁に報告すべき案件だぞ、これは」
その言葉は、聖騎士たちの耳にも届いた。
黙示庁。
聖王国の闇を統べる者たちの名を聞くだけで、たじろぐ者もいる。
「ま、待て!まだだ!」
別の聖騎士が叫ぶ。自分自身に、仲間に言い聞かせるように。
「魔王の息子だからなんだ!
ここで退いたら、街で何を言われるか……!」
「街で何を言われるかより、ここで“何をされるか”を考えたほうが、現実的だと思うがね」
ラガンの矢が、その男の頭を射抜いた。
血が一筋、マントを汚し、男は倒れる。
「お前ら、まだ逃げ道があるだけマシだぞ。
ここで俺たちに背中を見せるなら、の話だが」
広場に漂う空気が、一気に変わっていく。
◆
一方そのころ、救出側の戦線。
マーヤは、黒炎に焼かれて弱くなった鎖を蹴り飛ばしながら、檻の柱に顔を近づけていた。
「……やっぱり、術式が仕込まれてるね」
木の表面に刻まれた小さな印。
見慣れた治癒や防御の刻印ではない。
封印と拘束、それから「痛みを与えるための」符号。
「聖騎士のくせに、趣味が悪いねえ……」
マーヤは短く舌打ちし、掌に淡い光を灯した。
「ルナ、ブラン。こっちの檻から順に出していくよ。
印を潰すから、焦げ跡が走ったら合図だ」
「はいっ、ルシアン様……じゃなくて、マーヤさん!」
ルナは少し噛みながらも、大声で答えた。
「ノクス様の影から離れないようにって伝えればいいんですよね!」
「そう。それと、足を怪我してる人は、二人で支えて運ぶんだよ」
「わかってる!」
ブランも短く返事をし、隣の檻へ駆けていく。
ノクスの周囲だけ、空気の密度が違った。
黒い巨体の影が、まるで「ここから先は森そのものだ」と告げているように濃い。
その影の中にいると、燃える家々から吹き出す熱が少しだけ遠く感じられた。
ダークエルフの子どもが、一人、二人と檻から出てくる。
全員、顔が煤と涙でぐしゃぐしゃだ。
「だ、大丈夫。こっち……ノクス様のところまで……」
ルナは震える手で、小さな手を掴んだ。
その瞬間、頭の奥のどこかで、微かに唸り声のような音がした。
言葉にならない低い声。
(……あ、また)
ルナは一瞬だけ目を瞬いた。
ノクスとルシアンが何か話しているときだけ、耳の奥で鳴る、不思議な「残響」。
今も、黒い巨体のほうから、かすかな波が押し寄せてくる。
「怖かったら、ノクス様の足か尻尾握ってていいから。
この子たちは、好きにさせるよ」
マーヤが、なるべく柔らかい声を作る。
黒い狼の黄金の瞳が、ちらりとこちらを見る。
ーー尻尾は握るな。
頭の中に響いた思念に、ルナは小さく「すみません」と呟いた。
だが、そのやり取りすら、今は心強く感じる。
「来るぞ」
ノクスが低く告げた。
遠くで走る足音。
鎧のきしむ音。
ルシアン様との正面戦から外れた聖騎士たちの一部が、
「標本だけでも確保しろ」と叫びながら、側面から回り込んできていた。
「マーヤ、下がれ!」
ブランが咄嗟に悲鳴に近い声を上げる。
「もう少しでこの印が……っ」
言いかけた瞬間、聖騎士の一人が突き出した槍先から、光が奔った。
逃げるダークエルフたちの背中をまとめて貫こうとする、細い聖なる線。
ラガンの矢は別方向の黒衣を狙っていて、間に合わない。
その瞬間、ノクスの全身から、黒い焔が噴き上がった。
◆
「伏せろ」
ノクスの声が、頭の中と空気の両方で響いた。
次の瞬間、世界が暗くなった。
――いや、違う。
光が「削られた」のだ。
ノクスの周囲の空間そのものが、黒い闇に包まれたように歪んでいく。
燃えていた家の炎が、その範囲だけ一瞬、弱まる。
空気の密度が変わる。
肺が、冷たい水の中に沈められたような感覚に襲われた。
聖騎士たちの瞳孔が、反射的に開く。
本能が、叫ぶ。
――近づくな。
「黒……い……」
誰かが喉の奥で呟いた。
ノクスは、ゆっくりと口を開いた。
裂けた顎の奥で、黒い炎が渦を巻く。
闇焔咆哮。
咆哮とともに放たれたそれは、音と炎と衝撃を同時に伴う「牙」だった。
耳を劈く吠え声。
その波に重なるように、黒い焔の衝撃波が横一線に走る。
迫っていた聖騎士の別働隊は、その一撃でまとめて薙ぎ払われた。
銀の鎧が、紙細工のようにひしゃげる。
骨ごと砕かれた体が宙を舞い、地面に叩きつけられて動かなくなる。
聖なる光線は、ノクスの咆哮に触れた瞬間、
まるで「音を吸われた」ように消え失せた。
地面には、深々と刻まれた爪痕が残る。
黒炎の余韻がそこにまとわりつき、
いつまでも消えない焦げ跡として焼き付いていた。
その範囲の中へ踏み込もうとした聖騎士は、本能的に足を止める。
「なんだ……あれは……」
声が震える。
「あれが……ただの森の魔獣か……?」
ノクスは、そんな視線など意に介さないように、淡々と息を吐いた。
黄金の瞳が、ちらりと背後を振り返る。
ルナとブラン、マーヤ。
それから、その影に隠れて震えているダークエルフの子どもたち。
ーー王が守るのは、群れの後ろ足だ。
思念の声は、それだけ告げて、再び前を向いた。
「……すご……」
ルナは、完全に言葉を失っていた。
「味方でよかった」と心の底から思った。
ブランも、喉を鳴らしたまま、ぎゅっと拳を握る。
「ノクス様が前にいる限り、ここは……絶対抜かせねえ」
マーヤは、小さく息を吐き出した。
「ほんと……頼もしい王様だこと」
彼女の手は、再び檻の印へ伸びていた。
◆
広場全体を見れば、戦況はすでに傾いていた。
ルシアン様の黒炎奔流と「黒獄炎柱陣
ガルネの肉弾戦。
ラガンの狙撃。
そして、側面を狙った別働隊を、一息で吹き飛ばしたノクスの闇焔咆哮。
聖騎士たちの陣形は、もはや原形を留めていなかった。
「に、逃げろって……言うのか……?」
震える声が、どこかから漏れる。
「森の魔獣ごときに背中を見せて……俺たちは……」
《名前のない聖職者たち》の一人は、冷静に状況をなぞっていた。
聖騎士隊長レオナルト・グレイアスは、黒炎に胸を貫かれて戦闘不能。
中位術者の一人は、ラガンの矢と黒炎の余韻で指を失い、術式構築不能。
残る自分ともう一人で、この場を「覆す」ことはできない。
「……撤退する」
布越しに押し殺した声で、彼は言った。
「ここで全員死ねば、情報は闇に沈む。
“魔王の息子”が黒炎を操り、森の王と手を組んでいる――この事実を持ち帰ったほうが、世界にとっては意味がある」
短い会話の後、黒衣の一人は煙のように後退し始めた。
足元から立ちのぼる黒い靄に身を沈め、森の奥へと溶けていく。
「逃がすか……!」
ルシアン様が前に踏み出す。
同時に、ラガンの弓が鳴りかけた。
「頭を撃ち抜く」
冷ややかな声とともに、矢羽がわずかにしなる。
その瞬間、別の気配が走った。
檻の陰。
燃え残った家の影。
まだ、聖騎士と黒衣の残党が数人、生きていた。
倒れたダークエルフの喉元に刃を押し当てている者。
震える子どもの肩を掴み、引きずり出そうとしている者。
ルシアンは舌打ちし、進行方向をねじ曲げた。
「……チッ。ラガン あいつはいい。先に残りを殺す」
矢をつがえていたラガンが、そちらへと視線を移す。
「了解。ここで生き残ったやつは、一人も残さない」
ルシアンは短く頷いた。
「情報は持ち帰られる。だが――」
黒い炎が、掌の中で再び膨らむ。
「ここで刃を握っている連中は、全員この場で焼き捨てる。
生き残りを抱えたまま、敵を見逃すつもりはない」
檻の向こうで、誰かが助けを求めるように手を伸ばした。
ルシアンは、それを横目に見ただけで、最も近い聖騎士へと黒炎を投げつけた。
叫び声が上がる前に、鎧の内側から黒い火が弾ける。
敵に情けはない。
この場で武器を握って立っている者は、
まとめて焼き払う。それが、今のルシアンの選択だった。
「ガルネ、まだ動けるか」
「当たり前だろ、ルシアン様」
ガルネは、鼻血を拭いながらにやりと笑った。
鎧を凹ませた聖騎士を二人ほど転がしたせいで、拳の皮が破れて血が滲んでいる。
「ここまで来て、“まだ暴れ足りねえ”って言ったら怒るか?」
「後で好きなだけ森の魔獣を殴っていい」
ルシアンは、わずかに口元を緩めた。
「今は、まだ残ってる聖騎士を押さえて、マーヤの邪魔をさせるな」
「了解。任せときな、ルシアン様」
ガルネが前へ出る。
ラガンは、撤退を始めた黒衣の一人から視線を外し、
まだ札と鎖を握っている最後の一人へ照準を変えた。
「そっちなら、射抜いても文句は出ないだろ」
弦が鳴り、矢が飛ぶ。
黒衣の手から、札がまた一枚、地面へ落ちた。
◆
しばらくして――
炎の勢いは、だいぶ弱まっていた。
燃える材料が燃え尽き、
あとは炭になった梁と柱が、時折崩れ落ちる音だけが聞こえる。
黒炎が走った跡は、聖騎士の光とは違う「焼け跡」を残していた。
表面こそ黒く焦げているが、その下にはまだ、土と木の「形」が残っている。
反対に、聖騎士たちが放った火は、
形そのものを奪い、ただ灰と煙だけを置いていった。
ノクスの爪痕が刻んだ地面には、黒い線が数本、真新しく走っていた。
そこだけ、森の闇が地上まで浮き上がってきたかのように深く見える。
檻の影には、まだ震えているダークエルフたちがいる。
マーヤは、疲れた息を吐きながら、最後に見た負傷者の脈を指で確かめていた。
「……こっちは、まだ間に合う。
骨は折れてるけど、内臓まではやられてない」
彼女は手をかざし、淡い光で傷口をなぞる。
完全には癒せない。
だが、命をつなぐには十分な処置。
ルナは、ノクスの影の中で、子どもたちに水袋を回していた。
「ゆっくりでいいので……喉、火傷してるかもしれないから」
ブランは、その隣で、
「大丈夫だ。ルシアン様も、ノクス様もいる」と繰り返し言い続けていた。
それは、誰よりも自分自身に向けた言葉でもあった。
広場の中央。
ルシアン様は、焼け落ちた家々と、倒れたまま動かない者たちを見渡していた。
助け出せた者たちの数。
もう息をしていない者たちの数。
どちらも、目の奥に焼き付けておかなければならない。
黒炎は、今も彼の足元で細く揺れている。
守ったものと、守れなかったもの。
その境界線を、彼の火は確かになぞった。
だが、それでも「間に合わなかった命」が、そこかしこに横たわっている。
ノクスが、いつの間にか隣に来ていた。
黒い巨体が、燃え残った家々の向こうを眺める。
ーーよくやったほうだ。
思念の声は、淡々としていた。
ーーこの数、この時間、この場所で。
ーーお前と我と、たかが数匹の獣できるのは、このくらいだ。
ルシアン様は、唇を噛んだまま、何も言わない。
ーーだが、小さな魔王。
ノクスは、わずかに口角を上げたように見えた。
ーーこのくらい“できる”と、もう分かってしまったなら。
ーー次はそれより多く“やらねばならん”ということだ。
それは慰めではなかった。
ただの事実の確認。
ルシアンは、ゆっくりと目を閉じる。
父アルドランが願った「争いのない世界」。
今のこの光景は、その真逆にある。
それでも――
自分の火で守れた命が、確かにここにある。
焼け跡の上で、まだか細く呼吸している者たち。
ノクスの影の中で、水を飲み、震えながらも生きようとしている子どもたち。
黒炎の熱と、闇に焼かれた爪痕。
焼け落ちた集落と、救い出された僅かな生存者たち。
そのどちらもが、ルシアンの胸の中に残っていた。
間に合った命と、間に合わなかった命。
その重さを抱えたまま、
魔王の息子は、森の夜気を静かに吸い込んだ。
次にこの火を振るうとき、
どこまで届かせるべきか――それを考えながら。




