第22話 森を裂く火
呪いの森の奥へ進むほど、闇は深く、形を持ち始めていた。
さきほどまで、どこを見ても同じ黒い木々と湿った土にしか見えなかった景色が――今は、ごくわずかに違って見える。
先頭を歩く黒い影が、その道を「形」にしていた。
森の闇よりも濃い毛並みを持つ魔獣王は、木々の間を音もなく進んでいく。
その足跡を追うように、ルシアンたち六人が距離を保って続いた。
ラガンが、低く呟く。
「……不思議なもんだな」
「何が?」とガルネ。
「昨日までここは、“全部同じ顔をした森”だった。
一本間違えれば、永遠に彷徨うか、“喰われる側”に回る類いの場所だ」
ラガンは、ノクスの背を見つめる。
「今は……“通るべき場所と、踏んじゃいけない場所”が、少しだけ分かる」
言われてみれば、確かにそうだった。
ノクスの辿る道は、不自然なほど「何も起きない」。
両脇には、巨大な獣の足跡、焦げた地面、噛み砕かれた骨――魔獣たちの縄張り争いの痕跡があるのに、
彼らの行く先には、新しい罠も、飛びかかってくる気配もない。
まるで森そのものが、黒狼の通る筋だけを避けて呼吸しているようだった。
――小さな魔王。右だ。
思念の声が、頭の内側を撫でる。
ルシアンは反射的に顔を上げ、右前方を見やった。
「前方十歩。右側に根の段差がある。ルナ、足元をよく見ろ」
そう言って、外套の裾を掴んでいたルナの手を、そっと引き寄せる。
「えっ、あ……」
歩を二、三歩進めたところで、右の地面が急に窪んでいるのが見えた。
絡み合った根の下が、獣が掘ったようにぽっかり空洞になっている。
そのまま進んでいたら、ルナの小さな足ならすっぽり落ちていただろう。
「す、すごいです……。よく見えましたね、こんな暗いのに……」
ルナが目を丸くする。
マーヤが、後ろから苦笑混じりに声をかけた。
「さっきからそうさ。
まだ誰も気づいてない段差やら枝やら、ちょうど危ないタイミングで“先に”教えてくれる」
ガルネが、根の段差をひょいと跳び越え、鼻を鳴らす。
「森の王様が、跡継ぎ候補の足元を見てくれてるんだ。文句言う筋合いはねぇな」
ノクスは何も言わない。
ただ、ちらりと黄金の瞳でルシアンを横目に見た。
――気づいているのは、お前だけではないようだがな。
思念の響きに、わずかな揶揄が混じる。
――あの獣人の娘。耳の奥で、我の声を拾っている。
ルシアンは、何でもない顔で振り返った。
外套の裾にしがみつきながら歩いているルナは、きょろきょろと首を傾けている。
何かを「聞き取ろう」としているような、落ち着かない仕草だった。
「ルナ」
「は、はいっ」
「さっきから、何か聞こえるのか?」
問いかけると、ルナの肩がびくりと跳ねた。
「えっ……あの、その……変なことを言うかもしれないんですけど……」
彼女はおそるおそる耳を押さえ、小さく首を振る。
「言葉っていうより……遠くで誰かが、うーんって唸ってるみたいな……。
ルシアン様とノクス様が、何か話してる時だけ、ちょっとだけ聞こえる感じで……」
「“様”は要らん」
ノクスが、鼻を鳴らしたような気配を送ってくる。
――ほう。人のくせに、面白い耳を持っている。
ルシアンは、軽く肩をすくめた。
「ノクスの声は、基本的に俺にしか届かない。
ただ……ルナには、少し漏れているらしい」
「わ、わたし、変じゃないですか……?」
「この森で“普通”のほうが、よっぽど危ないさ」
マーヤが笑う。だがその目には、どこか真剣な色があった。
「聞こえるからって、すぐ牙が生えてくるわけじゃない。
……どっちかっていうと、そういう感覚があるほうが、生き延びやすい場所さね」
ブランが、ルナの前に一歩出た。
「この先、まだ何が出てくるか分かんねぇしな」
「……あの、牙はいらないです……」
小声のやりとりに、僅かな笑いが混ざる。
だが、すぐに空気は重さを取り戻した。
森の匂いが、変わり始めていた。
湿った土と腐葉土のにおいに混じって――焦げた木の匂い。
それから、鉄と血の生臭さ。
そしてもう一つ。
ルシアンの鼻腔を、チリ、と刺すような匂いが入り込んだ。
聖堂で嗅いだことのある匂いだ。
油と香草を混ぜ、光を呼ぶと称して焚かれる、聖別用の油。
本来ならば祭壇や儀式で使われるはずのそれが、なぜ森の中から漂ってくるのか。
――光を連れた狩人がいるな。
ノクスの思念が、低く囁いた。
――焚き火と違う“焼け臭さ”だ。森と血の匂いに、きな臭い光が混ざっている。
ルシアンの胸の奥が、じくりと疼いた。
聖堂の断罪の光。
父アルドランの首が、音もなく焼き切られた光景が、喉の奥に突き刺さる。
あの時と同じ匂いが、森の奥で揺らいでいる。
「……嫌な匂いだな」
ガルネも、鼻をひくつかせて顔をしかめた。
「ただの山火事じゃないな、こりゃ」
「聖油だね」
マーヤが短く言う。
「普通、森の中で使うもんじゃない。
“何かを浄化するつもりの連中”でもいなきゃ」
ラガンは、黙ったまま眉間に皺を寄せていた。
褐色の額の汗は、湿気のせいだけではない。
――小さな魔王。止まれ。
ノクスの足が、ぴたりと止まる。
一瞬遅れて、ルシアンたちも足を止めた。
風向きが変わる。
焦げた匂いが、さっきよりはっきりとする。
そして――別の音が混じった。
枯れ枝を踏み砕く音。呼吸を詰まらせた、荒い息。
何かが、全力で逃げてくる。
ガルネが一歩前に出る。
拳を握り、体重を前に乗せる。
ラガンは無言で弓を構えた。
「……魔獣、じゃない」
ラガンの声は低い。
「足音が軽すぎる。人だ」
次の瞬間、茂みが弾けた。
黒い影が、文字通り転がり出てくる。
若い女だった。
褐色の肌。長い黒髪は煤と血で固まり、頬には泥がこびりついている。
尖った耳には、片側だけ残った金属の飾りが揺れていた。もう片方は、裂けた耳たぶと共に失われている。
ルシアンたちを見るなり、女の瞳が大きく見開かれた。
一瞬、逃げ場を失った獣の目をしたが――そのまま力尽きたように膝から崩れ落ちる。
服は焦げ、ところどころ焼け落ちて肌が覗いている。
左腕には矢が浅く刺さり、右腿には刃物で裂かれたような傷が開いていた。
「おい!」
ガルネが駆け寄る。
その瞬間――空気が張り詰めた。
草むらの奥から、ヒュン、と風を裂く音。
一本の矢が、女の背中を狙って飛び込んでくる。
「下がれ!」
ラガンの叫びと同時に、弓弦の音が重なった。
彼の放った矢が、飛んでくる矢と空中で交差する。
甲高い金属音と共に、二本とも軌道を逸らされ、地面に突き刺さった。
直後、反対側の茂みから、短く舌打ちのような音が聞こえ――すぐに消える。
追ってきた者が、距離を取ったのだ。
ラガンは、その方向に矢を二、三本続けて放った。
だが、木と闇しか手応えは返ってこない。
「……一人だけ、深追いしてきたか。
向こうも、ここで隊列から離れすぎるのは避けたな」
ラガンは、舌の裏を噛む。
「ガルネ、用心しろ。すぐに大人数が押し寄せてくる感じじゃないが……完全に見失ってもいない」
「分かってる」
ガルネは短く返し、女の体を抱き起こした。
胸は薄く上下している。まだ生きていた。
「マーヤ!」
「はいはい、呼ばなくても分かってるよ」
マーヤが前に出る。
腰の袋から包帯と小瓶を取り出し、手慣れた手つきで傷口を確認した。
「矢は浅い。抜いて縛れば何とかなる。
腿の傷は……運がいいね、骨を外してる。とりあえず、血を止める」
淡い光が、マーヤの指先に灯る。
細い水の糸が傷口をなぞり、血と汚れを洗い流していく。
次に、凝固させるための簡易術式を重ね、包帯を巻きつけた。
ルシアンは周囲を見渡す。
「ノクス、周囲は?」
――追ってきた者どもは、距離を取った。
――今は“匂いの筋”を探り直している。すぐには来まいが、長居は無用だ、小さな魔王。
ノクスの黄金の瞳は、森の奥を静かに見据えていた。
「……ありがとう」
ルシアンは短く答え、女の顔を覗き込む。
まぶたが震え、ゆっくりと開いた。
黒曜石のような瞳が、焦点を結ばないまま宙をさまよう。
やがて、ルシアンの姿を認識したらしく、彼の襟元を掴んだ。
「っ……たす……け……」
声は掠れている。それでも、その一言には生への執着が滲んでいた。
「落ち着け」
ルシアンは、できるだけ穏やかな声で言う。
「お前は安全だ。俺たちは、やつらの仲間じゃない。名前は?」
女の喉が、ひゅ、と鳴る。
唇が震え、断片的な言葉が溢れ出た。
「イリーネ……白……白いマントの……銀の鎧……。
祈って……笑って……燃やして……。
黒い服の……顔の見えない……神官たち……子どもたちを……番号で、呼んで……」
息が乱れ、言葉が途切れる。
ラガンが、膝をついて女の手を握った。
その口から流れ出た言葉は、ルシアンには意味をなさない音の連なりだった。
舌の使い方と響きから、ダークエルフの言語だと分かる。
女の瞳の焦点が、少しずつ戻ってくる。
ラガンの顔を認めた途端、彼女は嗚咽混じりに何かを捲し立てた。
ラガンの表情が、みるみるこわばっていく。
「……そうか」
彼は、小さく息を呑んだ。
「やっぱり、ここか」
ルシアンが、問いかけるように視線を向ける。
「知り合いか?」
「直接の顔見知りじゃない。
でも、この辺りに“森の民”って呼ばれる中規模の集落があるらしい。」
ラガンは女に短く何かを尋ねる。
彼女は、縋るように頷いた。
「そこが今、燃やされている」
静寂が落ちた。
マーヤが、女の胸に手を当てる。鼓動は不規則に速い。
「白いマントと銀の鎧は、聖騎士だね」
「黒い法衣で顔を隠した神官……番号で人を呼ぶ。
これは――」
マーヤは、胃のあたりを押さえるようにして顔をしかめた。
「“名前のない聖職者たち”じゃないかい?」
ブランが、唾を飲み込む音が聞こえた。
「……噂でしか知らねぇやつだ。
聖騎士団の中にいる“汚れ仕事専門”の連中だって……」
「表向きは名簿にも載らない、記録にも残らない。影の仕事を請け負う」
マーヤの声は低い。
「暗殺、拷問、浄化、工作。
聖騎士が“聖なる剣”で切り開いた後ろで、
残ったものをぜんぶ“処理”する役目さ」
ガルネが、拳を握りしめた。
「……遊び半分、って顔してるのが、余計に腹が立つ連中だ」
彼女は、女の服に残った焦げ跡を見て歯を食いしばる。
「聖油を撒いて火をつけて、“これは浄化だ”って言い訳する。
中に人がいても、関係ない」
ルナは、震える手で自分の腕を抱いた。
「そんな……。集落の人たちは、ただ……森で暮らしてただけ、なのに……」
女の目から、ぽろぽろと涙が零れた。
ダークエルフ語で絞り出された言葉が、ラガンの耳に刺さる。
ラガンは、一度だけ目を閉じた。
「……追っ手は、元々俺たちを探して森に入ったらしい」
彼は、静かに訳す。
「聖都から逃げた“魔王の息子”とその一行を追ううちに、
魔力の濃い森を見つけ、“ついでに浄化する”ことにしたって言ってたそうだ」
ルシアンの心臓が、一度強く打った。
――ついでに、浄化。
自分たちを追う足跡の延長線上に、関係のない集落がある。
それを「ついで」に焼くと決めたのは、あの白いマントの連中だ。
だが、その“ついで”を生む原因になったのは――自分たちの存在だった。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
ノクスが、静かに言った。
――これが、人の“狩り”だ、小さな魔王。
――奴らは一本の煙を追ううちに、その周りの巣もまとめて火にかける。
――獲物だけでなく、獲物の影まで焼く。そういう狩りを、連中は選んだ。
ノクスの声は、冷静だった。怒りも嘲りもない。
――だが、“獲物の影”をどう扱うかを選ぶのは、今はお前だ。
ルシアンは、思わず拳を握りしめる。
(俺たちがいなければ、あの集落は――)
もしも、聖都から別の方向へ逃げていたら。
もしも、あの夜に森へ入らず、別の道を選んでいたら。
そんな「もしも」は、いくら積み重ねても現実には届かない。
それでも、胸の奥で声がする。
――原因の一部は、自分たちだ、と。
ガルネが、低く唸った。
「数は?」
ラガンが、女に問いかける。
返ってきたのは、震える指で示される数字と、途切れ途切れの言葉だった。
「聖騎士が二十前後……。
名前のない聖職者たちが、少なくとも三。
あとは、荷車と檻を引いてきた従者や兵が十数……」
ラガンは短く訳し、舌打ちを飲み込んだ。
「集落の大人は、戦える者もいるが……森から出ることを前提にした戦闘訓練なんて受けてない。
今も、何人かは抵抗してるらしいが……」
マーヤが、静かに呟く。
「正面からぶつかったら、こっちもただじゃ済まないね」
彼女は手を血で汚したまま、現実的な数字を並べる。
「こっちは、ルシアン、ガルネ、ラガンが主な戦力。
あたしは補助と後方、ブランとルナは戦えるとは言えない。
森の地の利はあるけど、本職の聖騎士に加えて“名前なし”が混じってる」
ガルネが、鼻を鳴らした。
「誰かが死ぬ。
よっぽど上手くやったって、“全員無事”ってわけにはいかねぇだろうな」
言い方は荒いが、その声は震えていた。
ブランが、奥歯を噛む。
「……でも、見て見ぬふりをしたら」
彼は、俯いたまま言った。
ルナが、その袖をぎゅっと掴む。
「た、助けてあげたいです……」
小さい声だった。
だが、その一言は確かな重みを持って、空気に落ちた。
「わたしたちも……村を焼かれて、捕まって……。
あの人たちも、きっと……同じように……」
ラガンは、女の手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、深い闇が宿っていた。
静かな声だった。
「同族の悲鳴から耳を塞いで、背中を向けてまで生き足掻くのは……俺の流儀じゃない」
ルシアンは、ラガンを見つめた。
同族を焼かれ続けてきた者の目。
森の闇に放り出され、何度も仲間を失ってきた者の、限界ぎりぎりの視線。
ノクスが、思念を投げる。
――行けば、いくつかの命は助かるやもしれん。
――だが、全てではない。
――お前の炎は、鎖と共に、何か別のものも焼くだろう。
――それでも火を灯すか、小さな魔王。
ルシアンは、目を閉じた。
聖堂の光景が蘇る。
白い大理石の床に広がる血。
聖光に焼かれ、跡形もなくなった父の影。
アスモドが鎖を引きちぎり、自分を投げ飛ばした瞬間の、絶望と怒り。
父アルドランが目指した「争いのない世界」。
――争いのない世界。
それは、誰かが一方的に支配して鎖をかけた世界ではなかったはずだ。
誰かの「浄化」の名の下に、弱い者を焼き払う世界とも、違うはずだ。
現実はどうだ。
聖堂の光は、和平の席を地獄に変えた。
今、森の炎は、「魔王の残党を追うついで」に見つけた集落を焼いている。
その「狩り」を、見過ごすのか。
それとも――
(父上は、きっと俺に「見逃せ」とは言わない)
そう思った瞬間、喉の奥にこびりついていた何かが、ようやく動いた気がした。
聖堂で失われたものは、もう戻らない。
だが、今燃えかけている森の一角は、まだ間に合うかもしれない。
たとえ、全員を救えなくても。
たとえ、誰かが傷を負い、命を落とすことになっても。
見なかったことには、できない。
ルシアンは、ゆっくりと目を開けた。
視界の端で、わずかに赤いものが揺れている。
木々の隙間。
遠くの方角で、淡い橙色の光が、煙と共に立ち上っていた。
風が変わる。
焦げた木と血の匂いに、聖油の甘ったるい匂いが濃く混じる。
遠くから、何かが裂かれる音と、押し殺された悲鳴が風に運ばれてきたような気がした。
それは、聖堂の断罪とは違う種類の地獄。
だが、根っこは同じだ。
ルシアンは、一歩前に出た。
視線の先には、まだ震え続けているダークエルフの女がいる。
その背後に、燃え始めた森の影が揺れている。
ノクスの黄金の瞳が、彼を見ていた。
――選べ、小さな魔王。
胸の中で、黒い炎が静かに灯る。
「ルシアン様……」
ルナが、不安と期待の入り混じった目で彼を見上げる。
ブランは唇を噛み、ガルネは拳を握り、マーヤは諦め半分の視線を向けてくる。
ラガンは何も言わず、ただ答えを待っていた。
ルシアンは、ダークエルフの女の前に膝をついた。
ゆっくりと手を差し出す。
燃える森の光が、彼の横顔を赤く照らした。
「……立てるか?」
女は、震える手でルシアンの手を掴んだ。
その指には、まだ体温が残っている。
ルシアンは彼女を支えながら、森の奥――赤く揺らめく光の方角を見据えた。
喉の奥の骨を、無理やり押し退けるようにして、言葉を搾り出す。
「――案内してくれ」
その一言が、静かな森の空気に落ちた。
遠くで、炎がぱちぱちと木を弾く音がする。
聖油の匂いは、さっきよりも濃くなった。
呪いの森のどこかで、ダークエルフの集落が燃えている。
聖騎士たちの銀の鎧が、炎に照らされて光り、
黒い法衣の「名前のない聖職者たち」が、子どもたちを番号で呼び、
何も知らない森の民が、浄化と称されて殺されている。
そこへ向かう道が、今、確かに選ばれた。
ノクスは、短く鼻を鳴らした。
――愚かだが、嫌いではないぞ、小さな魔王。
黒い狼は、赤い光の方角へと体を向ける。
ノクスが先頭に立ち、
ルシアンたちはその背を追って、燃え始めた森の奥へと歩を進めた。




