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魔王降臨 奈落都市ネザリアから始まる人類征服戦記  作者: たゆたう
第二章 魔王の帰還

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第21話 ネザリアの咆哮

ルシアンたちが聖都を脱出し、アバドと別れ、


呪いの森の縁にたどり着こうとしていた、そのほぼ同じ時間帯。

魔王領側の盾たる都市ネザリアでも、別の「異変の始まり」が、静かに形を取りつつあった。



◇奈落都市ネザリア──バルバロス


ネザリアの空気は、いつも鉄と血の匂いがした。


城壁の内側、指令塔の一室。


巨大な机の上には、前線図と伝令札がずらりと並んでいる。

その脇で、虎面の男が腕を組んでいた。


バルバロス。


額から前へ伸びる二本の角。

鎖帷子の上からでも分かる分厚い筋肉。

戦場の臭いに慣れすぎた、獣そのものだ。


「……退屈だな」


窓の外を眺め肩を回しながら、低く呟く。


「和平だの条約だの……めんどくせぇ。

ぶち殺す相手がいねぇと、身体が鈍る」


その言葉が終わる前に、部屋の片隅の影がふっと揺れた。


黒が濃くなり、床から立ち上がるように形を取る。

影の輪郭が、ひとりの男の姿に集束した。


「――緊急の要件です」


聞き慣れた声だった。

だが、いつもの軽さは欠片もない。


「……アバドか」


バルバロスは、角の間に皺を寄せる。


「本体は聖都だろ。影だけ戻ってきて、なに笑えねぇ顔してんだ」


「笑えないからです」


影の中で、目だけが細く光る気配がした。


「時間がありません。手短に話します」


その一言で、空気が変わった。


バルバロスの耳が、ぴくりと動く。


「……聞こうじゃねぇか」


影が、静かに語り始めた。


聖都の大聖堂で行われた“断罪の儀”のこと。

聖王国の裏切り。

和平の席で、突然「魔王一党の魂ごと浄化」が宣言されたこと。


魔王アルドランが聖剣で魂ごと焼かれたこと。

アスモドが鎖を引きちぎり、ルシアンを投げ飛ばして消えたこと。

マルシエルが術式を書き換え、自分を削り切って消えたこと。

聖都脱出の後、ルシアンと別れ、ルシアンは単独で帰還していること。



沈黙。


バルバロスの喉の奥で、低い唸りが鳴った。


「…………あ?」


太い指が、ぎり、と机の縁を掴む。


「てめぇ、ふざけてんのか?アバド」


「ですから――」


「今、なんて言ったああああ」


咆哮が、部屋を揺らした。

影が、一瞬だけ揺らぐ。


「陛下と、アスモドと、マルシエルは――」


「ふざけんなあああああッ!!」


机が悲鳴を上げた。


次の瞬間、分厚い天板ごと壁に叩きつけられる。

机は粉々になり、戦況図も伝令札も、紙吹雪のように宙に舞った。


バルバロスは、荒い息を吐きながら壁に拳を叩き込む。

石がひしゃげ、粉塵がぱらぱらと落ちた。


「陛下に限って、そんな、簡単にやられるわけねぇだろうがッ!!」


もう一撃。


「アスモドだぞ!?あの最強って言葉を生き物にしたみてぇな男が、坊ちゃん投げ飛ばして終わり!?

マルシエルだって、あのネチネチした女が、はいそうですかって燃え尽きて終わり!?」


言葉にならない吠え声が漏れる。


「てめぇはなにをしてたんだぁぁあああ、アバドッ!」

今度は床に拳を叩きつけ、叩きつけられた床には拳が深くめり込み、床は砕け散った。


ぎろり、と影を睨みつける。


「アビスガードだろうがてめぇ!なんで陛下もアスモドもマルシエルも、まとめて連れて逃げてこなかった!?

なんで坊ちゃんだけひとりで残してきたぁああああッ!!ぶち殺されてぇのか?」


副官たちが慌てて扉を開ける。


「バ、バルバロス様!? な、何が――」


「出てろッ!!」


雷鳴のような怒声が飛んだ。

副官たちは条件反射で姿勢を正し、そのまま扉を勢いよく閉める。


指令塔には、バルバロスと影だけが残った。


アバドは、しばし沈黙した。


その沈黙は、言い訳を探している沈黙ではなかった。

自分の喉を締め上げるような、重い間だった。


「……止められませんでした」


低い声で、ぽつりと言う。


「アスモドもマルシエルも、“ルシアン様を逃がす”一点に全てを使い切った」


影の輪郭が、僅かに歪む。


「私があそこで、誰かひとりでも無理に連れ去っていたら――

坊ちゃんは確実に、あの光の中で焼かれていました」


「そんなもん、知るかッ!」


バルバロスが吠える。


「陛下もアスモドも、マルシエルも、坊ちゃんも……

全員連れて帰ってこいよ、それが一番いいに決まってんだろうがッ!!」


「分かっています」


アバドは、それでも淡々と返した。


「でも私は、その“いちばんいい結果”を選べる立場ではなかった。

あの瞬間に残っていた選択肢は、“誰かひとりでも生かす”か、“全員一緒に死ぬ”かの二つです」


「……っ」


バルバロスの拳が震える。


影の声が、かすかに掠れる。


「聖堂魔術で動けなかったんです。

私は、あそこで“ルシアン様一人”を選んだ。言い訳のしようもありません。私だって自分自身を許せない。

ただ、それでも――あれが“あの場でできた最善”だったとしか、言えない」


バルバロスは、しばらく何も言わなかった。


荒い息だけが、部屋に満ちる。


「……クソが」


バルバロスは、荒い息を吐きながら壁を拳で殴りつけた。


「……聖王国のクソども、和平だなんだとぬかしやがって。ぶち殺してやる」


その目は憎悪に燃え、牙を剥き出しにし、低く唸る。


「てめぇらの“平和”ってのは、

魔王を焼いて、坊ちゃんを燃やして、俺たちを黙らせることかよ」


影のアバドは、黙ってそれを見ていた。


暴れ続けるかに見えたバルバロスの拳が、やがて止まる。


深く、深く息を吸い込んだ。


「……で?」

「……坊ちゃん、その、大丈夫なのか?なんて言ってた?」

バルバロスは俯き、声は少し震えていた。


「“全部ぶっ壊す”と」


アバドは淡々と告げる。


バルバロスの耳が、ぴくりと揺れた。


「教皇も、聖堂も、聖剣も、勇者も、あの偽りの平和も。全部叩き折ると」


「……はっ」


バルバロスの口元が、わずかに吊り上がる。


「らしいじゃねぇか」


拳を握り直し、深く息を吸う。

さっきまで獣の怒りで濁っていた瞳が、徐々に“戦場の目”に戻っていく。


「今は聖都近郊の森《呪いの森》に潜り込んだところ。

……ここまでが、確認した事実です」


そこまで言ったところで、言葉が途切れた。


バルバロスは、大きく息を吐いた。

「で。前線はどうなってる」


「まだ、“開戦前”です」


影が答える。


「連合軍――セラディア、ヴァルン、オルドランが、じわじわと兵を境界線に集めている。

べリアルドは、聖剣契約が正式に結ばれる前提で、防衛ライン用の布陣に組み替えている最中でしょう」


「つまり、あいつはまだ“和平が生きてる”前提で動いてる」


「ええ」


アバドの目が細くなる。


「聖王国の裏切りを知らないまま、

一番“力を抜いた配置”で、連合軍の初撃を受ける可能性が高い」


「つくづくクソだな」


バルバロスは、鼻で笑った。


「向こうは“魔王不在・勝利宣言済み”って攻めてきて、

こっちは“和平成立目前”だと思って構えてる。

つまり一番ぬるい配置のまま――ぶつかる可能性があるってことだろ」


「そうです。だからこそ、急がなければならない。

べリアルドには私の本体が直接伝えに行っています。

あなたは――」


「決まってんだろ」


バルバロスは、口角を吊り上げた。


「ネザリアの戦える奴を、全部引き連れて前線に行く。

坊ちゃんの帰る場所を、焼かせねぇためにな」


「総出陣の準備だ!」

バルバロスは高らかに吠える。


「バルバロス」


影が、はっきりと名を呼ぶ。


「陛下も、アスモドも、マルシエルもいない。

ルシアン様は“帰る場所”を失ったまま、魔王領へ戻ってくる」


バルバロスは、静かに目を閉じた。


そして――どすん、と足を一歩踏み鳴らす。


「だったら作ってやるよ」


顔を上げた時、その瞳にはもう迷いはなかった。


「坊ちゃんの帰る場所くらい、全部まとめて、俺たちで守ってやる」


扉の向こうに向かって怒鳴る。


「おいッ!!全員聞けぇぇッ!!」


副官たちが飛び込んでくる。


「ネザリア中の戦える奴をかき集めろ!

砦ごとだ!半端な留守番なんか要らねぇ!」


「は、はいッ!配備は――」


「前線合流を最優先だ!」


バルバロスは吠える。


「連合軍がどんだけ集めてこようが関係ねぇ!

あの卑劣な馬鹿どもを、全員まとめてぶち殺すぞ!」


副官たちが、一斉に胸に拳を当てる。


「はッ!」


その背を見送りながら、アバドの影が、静かに頭を垂れた。


「……頼んだぞ、バルバロス」


「おう。俺にはめんどくせぇまつりごとより、こっちのほうが性に合う。」


バルバロスは、不器用に笑う。


「坊ちゃんが生きて帰ってくるまで、この辺一帯まとめて誰にも触らせねぇ。

てめぇは勝手に死ぬじゃねーぞ、アバド」


「善処します」


薄い冗談めいた一言を残し、影はふっと床へ沈んでいく。


アバドを見送る背中が、わずかに震える。


「てめぇら、勝手に先に逝きやがって……!クソが……」


影が完全に消えた頃には、ネザリア中に出陣の鐘が鳴り響いていた。


魔王が焼かれたその日から、そう間を置かずに。

“ルシアンの帰る場所”を守るための総出撃が、静かに動き始めていた。




◇前線陣地──べリアルド


冷たい風が、草の匂いと鉄の匂いを混ぜて運んでくる。


魔王領の最西端、人間側との境界線ぎりぎり。

仮設砦と塹壕が連なり、その一角で偵察塔の鐘が鳴り響いた。


「南東の稜線に土煙!旗印多数!

セラディア、ヴァルン、オルドランの軍旗、確認!」


伝令の声が、風に乗って陣地を駆け抜ける。


「距離、およそ三里!隊列は“聖戦”の標章を先頭に掲げ、こちらへ進軍中!」


報告は、すぐに前線指揮所へ届いた。


粗削りの石壁と厚布で仕切られた簡素な天幕。

中の大机には大陸地図と前線図が広げられ、駒代わりの短剣や石塊がいくつも刺さっている。


その上に身を屈めていた男が、顔を上げた。


べリアルド。


銀の長髪を一つに束ねた細身の魔人。

所作はどこか優雅ですらあるが、腰に提げた魔剣から立ちのぼる気配は、戦場以外を知らぬ殺意そのものだ。


「……和平交渉中の連中にしては」


べリアルドは、天幕の外――稜線の方角へ視線をやる。


「なかなかご立派な“散歩の人数”だな」


べリアルドは地図に視線を落とし、境界線を指でなぞった。


(和平交渉が順調なら、

今ごろ“境界線縮小の準備に入れ”くらいの指示は来ているはずだ)


だが、聖都側からの反応はない。

聖堂からの文書も、アビスガード経由の定期報告も途絶えたまま。


そのくせ――


「人間どもの兵だけは、きっちり増えている、というわけか」


乾いた独り言が漏れた。


その時だった。


「べリアルド様ぁ!入っていいっすかー!」


天幕の入口から、元気の塊みたいな声が飛び込んできた。


ピンク色の長い髪がひらりと揺れながら中へ滑り込む。

金属と革を組み合わせた重装備。長柄の片方には棘だらけの鉄球、反対側は鋭い槍――奇妙な武器を肩に担いだ女が、大股で近づいてくる。


魔人エルギア。


「いやぁ~、連合のやつら、めちゃくちゃ連れてきてんじゃん。

あれ全部ぶっ飛ばせると思うと、ちょっとテンション上がるんだけど!」


にかっと笑うと、エルギアはためらいなくべリアルドの隣へすべり込み――


「べリアルド様、今日も相変わらずカッコいいですねぇ。

ね、ね、前線の配置、あたしに一番“おいしいところ”くださいよぉ」


言いながら、その腕に自分の胸をぐい、と押し付けた。


柔らかい感触が、鎧越しにも分かる距離感だ。


「……エルギア」


べリアルドは、わずかに眉をひそめた。


「地図が見えない。少し離れろ」


「えー?減るもんじゃないし、いーじゃないですかぁ。

べリアルド様の右腕は、あたしの特等席なんですよ?」


さらにすり寄ろうとした、その瞬間――


「その“特等席”から」


ひゅ、と細い影が割り込んだ。


黒髪のボブカットの女が、すっと二人の間に立つ。


「べリアルド様のお体を塞いでいる、その役に立たなさそうな贅肉を、

今すぐどけていただけますか、エルギアさん」


魔人イリア。飾り気の少ない軽装鎧に、一振りの刀。

蒼白の目が、にこりともせずエルギアの胸元に刺さる。


「はい出た~、毒舌暗殺剣士~。

なに、“役に立たない贅肉”って!これ全部、衝撃を和らげるクッションなんですけど!?べリアルド様専、用、のッ!」


「そのような無駄肉、べリアルド様は一言もご所望ではありませんよ。

それに、衝撃を受ける前に敵の首を落とせばいいだけの話です」


イリアは、さらりと言い切る。


「べリアルド様の視界を妨げる装備は不要です。

……それとも、自分の腕ではアピールできないから、そういうところで稼ぐおつもりで?」


「はぁっ!?ちょっとイリア、お前ぶっ飛ばすぞ?」


「二人とも」


べリアルドは、軽く肩をすくめた。


「戦う前から疲れさせないでくれ」


「す、すみませんべリアルド様!あたし、べリアルド様の邪魔する気は一ミリもないんで!むしろ一番近くで守る気しかないんで!」

「申し訳ありません。以後、べリアルド様の視界とお身体を最優先に配慮いたします」


エルギアは慌てて一歩下がり、それでも名残惜しそうにべリアルドの腕のあたりを見つめる。

イリアはイリアで、べリアルドのすぐ横、ぎりぎり“触れない距離”にそっと立ち位置を取り直した。


べリアルドは、小さくため息をつきながらも、二人を追い払うことはしなかった。


(……なんでこいつらはいつもこうなんだ)


心の中だけでぼやき、すぐに表情を引き締めた。


「偵察隊からの報告だ。

南東の稜線に、連合軍本隊らしき動き」


地図の一点に指を置く。


「セラディア、ヴァルン、オルドラン。

本来なら和平交渉の席にいたはずの三国だ」


イリアが眉を寄せる。


「……和平が順調であれば、このタイミングで兵力を“増やす”理由はありませんね。

むしろ段階的な縮小に入るはずです」


「だよねぇ」


エルギアが頬をふくらませた。


「ってことはさ、“最初からやる気なかった”か、

“聖都でなんか盛大にやらかした”かのどっちかって感じ?」


「どちらか、あるいは両方だろうな」


べリアルドは静かに頷いた。


「問題は、“何が起きたか”をこちらが知らない、という点だ」


指先で机をとん、と叩く。


「陛下は聖堂へ向かわれた。

聖剣との契約が無事に結ばれているなら、もうとっくに聖堂から合図か使者の一人や二人、こちらに飛んできていていい頃だ」


副官が口を挟む。


「しかし、それがない……。

アバド殿からの連絡も、本日分はまだ」


べリアルドはわずかに口端をゆがめた。


「アバドは時間だけはきっちり守る男だ。

そのアバドから定時の報告が一つも来ていない時点で、すでに“ただ事ではない”と見ていい」



言葉を切り、ひとつ息を吐く。


「最悪のパターンも、視野に入れておくべきだろうな」


エルギアの表情から、軽さが少しだけ抜ける。


「……陛下たちに、何かあったってこと?」


「決めつけるには材料が足りない」


べリアルドは首を振る。


「だが、“何も起きていない”顔で布陣を続けるほど、俺は楽観的でもない」


イリアが、静かな目でべリアルドを見る。


「べリアルド様。

前線全域を“戦闘前提”に切り替えますか?」


「ああ」


べリアルドは顔を上げた。


「全砦に通達。

“聖王国側の条約履行に重大な遅延あり。敵軍の大規模集結を確認。”

和平用の前進布陣を破棄し、“長期持久戦用布陣”へ移行する」


矢継ぎ早に命令が飛ぶ。


「左翼は沼地手前まで一段下げろ。

橋を二本落とせ。残り一本は、こちらの撤退路だ。私の命令があるまで誰も触るな。


補給線沿いの小村は、住民を後方へ退避させたのち、

連合軍に利用される前に干し草と倉庫だけ焼け。家屋は極力残せ。


遊撃隊は森を回り込み、敵の前衛の脚を折る準備をしろ。

弓兵には、“初撃で士気を削ること”だけを考えさせろ」


「中央は、あたしでしょ?」


エルギアが、嬉しそうに身を乗り出す。


「べリアルド様、重装とビースト部隊、いっぱいください。

“聖戦だー!”って調子乗って突っ込んでくる連中、正面からまとめてひっくり返してあげる」


「中央突破は、お前の得意分野だからな」


べリアルドは、エルギアに視線を向けた。


「重装歩兵と獣人戦士を預ける。

敵がどれだけ大義名分を掲げてこようが、ここで一度“折れる”感覚を教えてやれ」


「任せて!」


エルギアが、鉄球付きの槍――《バニッシュ》を肩に担ぎ直す。


「右翼の森は、イリア」


べリアルドは視線を移した。


「偵察と撹乱、夜襲――お前の領分だ」


「承知しました」


イリアは静かに一礼する。


「暗殺隊を連れていきます。

敵の指揮系統を優先的に断ち切る。

“誰にやられたか分からない”形で混乱を撒きます」


「ほんっと、あんたのやり口だけは味方でよかったわ……」


エルギアが半分呆れたように笑う。


「正面から殴り合ってる間に、首だけごっそりなくなってんだもん、あいつら」


「べリアルド様の剣が振るわれる前に、少しでも刃を減らしておきたいだけですよ」


イリアは微かに笑みを浮かべた。


「べリアルド様の負担は、私たちが減らします」


「いつも通りだ。任せる。」


べリアルドは、二人を見渡す。


「これは、おそらく“魔王領にとっての最初の試験”だ」


胸の奥で、嫌な予感が小さく軋む。


(陛下、アスモド、マルシエル……

そして、ルシアン様)


名を呼ぶことはない。

だが、彼らの顔は、瞬きのたびに脳裏をよぎった。


「聖都で何が起きたか、今の我々には見えない」


べリアルドは、静かに言葉を続ける。


「だが一つだけ確かなのは――

連合軍は“こちらが戸惑っている今”を狙ってくるということだ」


エルギアが、拳を握りしめた。


「あたしたちが、ここでヘマしたら……

ネザリアごと、ルシアン様の居場所まで、全部押し流されるもんね」


「だからこそ、ここは譲れない」


べリアルドの声が低くなる。


イリアも、静かに頷いた。


「べリアルド様のおっしゃる通りです」


ちょうどその時、天幕の外から新たな伝令が駆け込んできた。


「報告!連合軍先頭部隊、境界標識を越えました!

“聖戦”の標章を掲げ、こちらへ進軍中!」


べリアルドは目を細める。


「聖戦、か」


その言葉を、口の中で噛み砕くように繰り返した。


「和平を掲げて魔王を呼び出し、

今度は“正義の戦い”の名目でこちらへ押し寄せる。

……ずいぶん忙しい神だな」


腰の魔剣が、微かに震えた。


雷と炎の気配が、静かに刃の中で目を覚ます。


「全軍に伝達」


べリアルドは、ゆっくりと立ち上がった。


「これより前線は“戦闘状態”に入る。

撤退命令が出るまでは、一歩も下がるな」


天幕を押し開けると、風が銀の髪を揺らした。


遠く、稜線の向こう。

夕焼けを背に、黒い線となって揺れる人間の旗と槍。


その手前に広がるのは、魔王領の土だ。


「……陛下」


誰にも聞こえない声で、べリアルドは呟いた。


「もしも最悪の事態になっているのだとしても――

この前線だけは、簡単には明け渡しませんよ」


風が、返事の代わりに冷たく頬を撫でた。


その頃まだ、ネザリアではバルバロスが総出陣の鐘を鳴らし、

呪いの森の奥ではルシアンが黒い狼と向かい合い、

そしてアバドは、影の海をひた走りながら、べリアルドへ真実を伝える機会を探っていた。


それぞれの場所で、それぞれの“戦いの前夜”が、

同じひとつの夜へ向かって、静かに収束しつつあった。

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