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魔王降臨 奈落都市ネザリアから始まる人類征服戦記  作者: たゆたう
第二章 魔王の帰還

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第20話 呪いの森の王

森の朝は、静かすぎた。


鳥の声がしない。

小さな虫の羽音すら、耳に入ってこない。


あるのは、湿った土の匂いと、どこからともなく漂う鉄錆びのようなにおいだけだ。


頭上の枝は、互いに絡み合って空をほとんど隠している。

かろうじて差し込む光も、まっすぐ降りてくる前に、黒ずんだ葉の層に吸い込まれて歪んでいた。


人間はこの森を「呪いの森」と呼ぶ。


ラガンは、周囲を見回しながら低く呟いた。


「……相変わらず、気持ちのいい場所じゃないな」


褐色の肌に浮かぶ鳥肌を、腕でさすりながら、苦い笑みを浮かべる。


「前に斥候で端っこだけ踏み込んだ時は、まだマシだった。

今は……“森そのもの”が、こっちを見てる感じがする」


ルナがびくっと肩を揺らし、ルシアンの外套の裾をぎゅっと掴んだ。


「み、見てる……?」


「比喩だよ、比喩」


マーヤが、わざとらしく肩をすくめて見せる。


「でも、ラガンの言うことも分かるね。

普通さ、森ってのはもっとざわざわしてる。葉っぱの擦れる音とか、小動物が走る音とかさ。

静かすぎるのは――他の奴らが“何かを怖がって”息を潜めてる証拠だ」


「何か」を強調した声に、ブランが喉を鳴らした。


「そ、その“何か”って、魔獣……だよな」


「他に何がいるってんだい」


マーヤは笑いながらも、杖代わりの長い棒を少し握り直す。


ガルネはと言えば、相変わらず一番前を歩きながら、鼻をひくひくさせていた。


「……血の匂いは、今のところ薄い。

だが、獣の匂いが変だな」


「変?」


「普通、魔獣が縄張り張ってる森ならさ」


ガルネは振り返り、後ろの四人をぐるりと見渡す。


「もっと“うるさい”んだよ。

遠くで吠える声とか、警戒の唸り声とか。

それがまったくないってことは――」


「“吠える必要がない奴”が、一番上にいる」


ラガンが続けた。


「そういうことだ」


冗談めかした口調なのに、誰も笑わなかった。


ルシアンは、無言で前を見て歩き続ける。


足元の土は、ところどころ黒く焦げたように変色していた。

焼けた木の根。

ひしゃげた骨。

何かの死骸があったのだろう痕跡だけが、無造作に転がっている。


だが、死臭は弱い。


――ここで死んだものは、長く残らない。

そういう種類の場所だ。



少し開けた場所で、一行は足を止めた。


ラガンが前に出て、片膝をつき、土を指先でなぞる。


「……ここだな」


「何がだ?」


ガルネが眉をひそめる。


「さっきから、魔獣の気配が綺麗に途切れてる境目だ。

ここより向こうには、“別の匂い”しかない」


ルシアンも、意識を研ぎ澄ませる。


鼻腔を刺す鉄と灰のようなにおい。

魔力――いや、もっと荒々しい、マナの渦の残り香。



ルナが、ルシアンの外套を掴む手に力を込めた。


「……戻ったり、は……できないんですか……?」


問いかけは小さかったが、その場の全員が聞こえていた。


ルシアンは少女の手を、一度だけ握り返す。


「戻っても行き先は聖都だ。

森を抜けるしかない。」


それは、どちらがマシかの問題ではない。


「……行くぞ」


ルシアンは、先頭に立った。


「俺が前。ガルネ、右側。ラガン、左。

マーヤは後方で魔術の準備。ルナとブランは、そのさらに後ろだ」


「了解」


ガルネが拳を鳴らす。


「闘技場よりマシだと信じたいね」


「信じるなら、帰ってから飲む酒の味にしときな」


マーヤが乾いた冗談を飛ばす。


ブランは喉を鳴らし、それでもルナの前に一歩出た。


「ルナ、俺の背中から離れるなよ」


「う、うん……」


そうして、一行は“境目”を越えた。



そこから先は、さらにおかしかった。


木々の幹には、大きな爪跡が刻まれている。

五本指で抉り取ったような傷。

それが、一箇所ではなく、あちこちに。


「……でかいな」


ガルネが、自分の手を幹に当ててみて、低く唸った。


「私の手の倍はある。

この高さでこの幅……肩までの高さが、私より上だな」


「それ、ただの“でかい狼”とかじゃないよね……?」


ブランの声が震える。


「ただの“でかい狼”なら、まだマシだ」


ラガンがぼそりと呟く。


「爪痕だけで、木に残ったマナがこれだ。

……“王冠かぶったケダモノ”クラスだぞ」


空気の重さが、さらに増す。


ルシアンは無言で歩を進めた。


胸の内側で、何かがじくじくと蠢いている。


――嫌な気配だ。

だが、“知らない”とは言い切れない匂い。


どこか、懐かしい。

深い夜と、血と、焼けた骨の混ざった匂い。


魔王城の地下、古い兵器庫に漂っていたような……そんな感覚だ。


「ルシアン様」


ラガンが、かすかに声をかける。


「何か、感じますか」


「……さあな」


ルシアンは、短く返すにとどめた。


“感じている”と認めた途端、何かが噛み合ってしまいそうな気がしたからだ。



それは、唐突に来た。


空気が、ひとつ、脈打つ。


心臓の鼓動とは別のリズムで、地面の下から何かが突き上げてくる感覚。


次の瞬間――


森全体が、低く唸った。


違う。森ではない。


「声」だ。


耳ではなく、骨で聞くような低音が、一行の身体をまとめて殴りつけた。


「っ……!」


ルナが膝をつく。


ブランが耳を押さえ、歯を食いしばる。


マーヤも、思わず杖を突いて踏ん張った。


ラガンですら、額に汗を浮かべている。


「……これが、“威圧”か」


ダークエルフの青年が、苦笑のように吐き出した。


「完全に“魔獣王”クラスだな」


ガルネは、膝をつきかけて踏みとどまり、低く唸る。


「ちっ……。

あたしを、雑魚と一緒にすんなよ……!」


獣の威圧。


それは単なる恐怖ではない。

本能そのものに叩き込まれる、“上下関係”の刻印だ。


――お前は下。

――私は上。


それだけを、理屈抜きで理解させてくる。


ルシアンも、肺がうまく動かないような圧迫感に顔をしかめた。


同時に。


胸の奥、もっと深い場所で――別の何かが、愉快そうに笑った。


上?


誰が?


喉の奥で低い笑いが泡立つ感覚に、ルシアンは自分でも驚く。


次の瞬間。


闇の中から、それは姿を現した。



黒い。


まず、その印象しかなかった。


森の闇よりも濃い黒が、木々の間を滑るように近づいてくる。


巨大な狼。


ガルネの言ったとおり、肩までの高さで彼女より頭一つ分は高い。

筋肉の詰まった脚。

地面を踏むたび、土がわずかに沈む。


体毛は、光を拒絶するような漆黒。

輪郭の周りを、黒い靄のようなものがゆらゆらと揺れている。


「……闇纏い(やみまとい)」


マーヤが息を呑んだ。


「術式じゃない。あれ、あいつの“体の一部”だよ」


それは、ゆっくりと一行の前で立ち止まった。


金でも琥珀でも形容しきれない色の瞳が、まっすぐこちらを見据えている。


眼球の奥――ごく奥底で、黒い光がちらりと瞬いた。


ノドが、ひとりでに鳴る。


ルシアンは、前に一歩出た。


「ル、ルシアン様!?」


ルナの悲鳴じみた声。


ガルネが慌ててルシアンの隣に踊り出る。


「前に出るな、ルシアン様!

あいつの“嫌な感じ”、分かってんだろ!」


「前に出ないと、分からないこともある!」


ルシアンは、視線を逸らさずに答えた。


「陣形はそのままだ。

ただし――勝手に飛び出すな」


「言ってくれるじゃないの」


そう毒づきながらも、ガルネは彼の肩から半歩前に出て、拳を握る。


「来るなら、まずはあたしからだ」


黒狼が、低く鼻を鳴らした。


次の瞬間、地面が爆ぜた。


――速い。


闇をまとった黒い塊が、一直線に突っ込んでくる。


「マーヤ!」


風盾ふうじゅん!」


マーヤが地面を蹴り、手を突き出す。

簡易術式が空中に展開し、渦を巻く風の壁が立ち上がった。


黒狼は、それを正面から踏み砕く。


風が裂け、土が弾け、衝撃だけが押し寄せた。


ルシアンとガルネは、吹き飛ばされる寸前で踏ん張る。


「ちっっっっくしょう!」


ガルネが吠え、踏み込んだ。


筋肉質な脚が地面を蹴り、雷のような拳が黒狼の側頭部を狙う。


雷閃らいせんッ!」


拳に稲妻が走る。


だが、その一撃が黒い靄に触れた瞬間――


ばち、と鈍い音を立てて雷が散った。


闇が、雷を喰った。


「……マジかよ」


ガルネの目が見開かれる。


黒狼の爪が、返す手で彼女の腹を狙う。


「ガルネ!」


ラガンの叫びと同時に、闇の矢が放たれた。


「暗矢・葬千あんしそうせん!」


黒い矢が何本も飛び、黒狼の視界を遮るように爆ぜる。


爪の軌道がほんの僅かに逸れ、ガルネは致命傷を免れた。


「いてぇ……!くそ、速ぇ上に硬ぇとか、ふざけんなよ……!」


「そんなこと言ってる場合じゃない!」


マーヤが、即座に術式で水を操る。


水盾すいじゅん!」


透明な膜が前に広がった。


間髪入れず、黒狼が口を開く。


それは、炎だった。


――黒い炎。


通常の炎より温度を感じないのに、目に映るだけで本能に「焼かれる」と理解させてくる黒。


黒炎のブレスが、水の盾に叩きつけられる。


ジュッ、と耳障りな音。


水が一瞬で蒸発し、白い蒸気があたりを包んだ。


「っつぅ……!」


マーヤが顔をしかめる。

完全には防ぎきれず、前髪の先が焦げ落ちた。


ブランとルナは、後ろでただ震えるしかない。


「……黒炎、だと……」


ラガンが低く呟く。


「魔獣が、そんなものを――」


ルシアンの中で、何かがはっきり形を持った。


胸の奥から、黒い熱がせり上がってくる。


視界の端が、暗く染まる。


黒狼の瞳の奥で瞬いた黒と、自分の中の黒が、互いを見つけたみたいに共鳴した。


「ルシアン様!」


ルナの声が遠くなる。


ルシアンは、一歩前に出た。


「下がれ」


低い声が、自分のものとは思えないほどよく通った。


ガルネが振り返る。


「はあ!?何言って――」


「下がれ、ガルネ」


振り返った彼女の目が、一瞬だけ凍りついた。


ルシアンの瞳は、深い紅から、さらに暗い色へと沈み込んでいた。

その奥で、黒い炎が静かに灯っている。


ラガンが、小さく息を呑んだ。


「……“同質”……いや、“上位”……」


何かを察したように、一歩、二歩と後ろに下がる。


マーヤも、迷いながらもルシアンと黒狼の線上から外れた。


「ルシアン様……?」


ルナの声だけが、まだ不安げに揺れている。

それでも、ブランがそっと彼女の腕を引いた。


「離れよう……。今、邪魔しちゃいけない気がする」


黒狼と、ルシアン。


森の闇の中で、二つの黒が向かい合った。



黒狼が、低く唸る。


喉の奥から漏れるその音だけで、空気が震えた。


だが先ほどのような、押し潰すだけの“威圧”ではない。

値踏みするような、試すような、獣の呼吸。


ルシアンは、ゆっくりと右手を持ち上げた。


指先に、黒炎を灯す。


チロ、と、小さな黒い火が生まれる。


周囲の光を食いながら揺れる、黒い炎。

聖堂で見た聖光とは正反対の、世界の裏側に属する火。


黒狼の瞳が、わずかに見開かれた。


闇の毛並みが逆立つ。


その周囲をまとっていた黒い靄が、ざわり、と波打つように揺れた。


声ではない。

意味だけが、鋭い爪のように、ルシアンの頭の内側をひっかく。


胸の奥に、古い、古い景色が流れ込んできた。


血と灰で埋まった大地。

そこを埋め尽くす、戦場の屍。


その上を駆ける、黒い狼の群れ。


群れの先頭に立つ、ひときわ巨大な影。

そして、そのさらに前――深い闇をまとった「誰か」の背中。


人の形をしているのに、人ではない。

顔は見えない。


だが、胸の奥の“ナニカ”は、その影を知っているように、静かに笑った。


――それは古の魔王。

――奈落に座し、我ら魔獣を導いた“主”の火。


思念が、低く呟く。


――だが、あの方はもういない。

――とうに堕ち、塵となった。


黒狼の闇がざわつく。


――なぜ今、同じ底と繋がる火が、ここにある。


「知らない話だな」


ルシアンは、口の端だけで笑う。


「俺はその“古の魔王”とやらを知らない。

聞かされたこともない」


――知るはずもあるまい。

――お前の生の歳月など、我らから見れば一瞬だ。


黒狼の思念が、冷ややかに突き刺さる。


――だが、その火の匂いだけは知っている。

――あの方と同じ深淵に触れた火。

――お前の中で、まだ形も名も定まらぬまま揺らいでいる。


ルシアンは、黒炎を指先から掌へと広げた。

炎は、大きさを変えずに、ただ濃さだけを増していく。


黒炎の密度が上がった瞬間、森全体の気配がビリ、と震えた。

黒狼が、一歩だけ後ろへ退く。


――確かに、同じ底だ。

――だが、お前は主ではない。

――主の名も持たぬ、小さき残り火。


――我はインフェルノ・ウルフ。この森の統べる存在。貴様は何者だ。


ルシアンは、黒狼の瞳を正面から見返した。


「俺は“古の魔王”じゃない。

魔王アルドランの息子、ルシアン・ルクスベルク。」


――ならば、何をしにここに来た?。


黒狼の問いが、頭の中で低く響く。


――主は、我らと共に戦った。

――奈落を広げ、血の河を築くために。

――お前は、何を望む。


「鎖を、焼く」


ルシアンは迷わなかった。


「人間のものも。

聖堂のものも。

この森に繋がれた首輪も、あいつらが勝手に刻んだ“呪い”も。

全部まとめてぶち壊す」


胸の底で、“ナニカ”がくつりと笑う。


「お前たち魔獣を、狩り場の飾りにしている連中がいる。

森ごと焼いて、狩り尽くすつもりだ。

……それが、この森の外にいる“人間”だ」


――人。


黒狼の思念の色が変わる。


――森を裂き、我らを鎖で繋ぎ、牙を抜き、見世物にした者ども。

――あの者らを焼き払うと?


「そうだ」


ルシアンは、掌の黒炎をさらに濃くする。


「父上が目指した“争いのない世界”が何だったのか、俺はもう見ることはできない。

だが――今のままの世界を肯定する気はない。

聖王国も、聖堂も、人間の都合で作った“秩序”も。

全部ひっくり返す」


黒狼の思念が揺れる。


――ふん。くだらん妄言だな。全部ひっくり返すだと?

――そこで怯えてる獣人の少女とか?それともそこの獣人女と?そのダークエルフか?

――我に傷一つつけることができない貴様らに何ができる?


黒狼は一呼吸おいて続ける


――仮にできたとして…お前の言う“壊した先”には、何が残る?


「……“壊した先”か」


ルシアンは、少しだけ目を伏せた。


「正直に言う。俺にも“完成図”なんて見えてない」


拳を握り、土をゆっくりと掴む。


「ただ一つだけ、はっきりしているのは――

“今のまま”を続けた先にあるのは、人間以外が虐げられる世界と、終わりのない争いだけだ」


聖堂の光。父の首。亜人たちの首輪。

全部が、喉の奥を締め付ける。


「だから俺が壊したあとに残したいのは、“空白”だ」


言いながら、自分でもその言葉の響きを確かめる。


「今まで虐げられてきた者たちが、誰かの首輪じゃない形で、もう一度“選び直せる余白”。

そこに何を載せるかは、その時生きてる連中が決めればいい」


黒狼の闇が、かすかにざわめいた。


「焼かれた側が、一回くらい“やり直す場所”をこじ開けてもいいだろ」


そこで、ようやく黒狼を正面から見据える。


「壊した先に、何色の世界が残るのか――

それは、俺もまだ知らない。

だからこそ、生きて見に行く」


闇の中で、黒い瞳がわずかに細められる。


――ふん。絵図も描けぬまま、世界を壊すと吠えるか。


思念が冷たく笑う。


――何度、人の約束に裏切られたと思う。

――その牙と火が、本当に“鎖を噛み砕く”かなど、誰が信じる。


「誰も信じなくていい」


ルシアンは、肩をすくめる。


「今ここで、お前に見せられるものはひとつだ」


掌の黒炎が、ぐん、と一段深く沈んだ。


闇が、炎に吸い寄せられるように揺れる。


「お前と同じ”深淵の炎”がここにある。

それでもなお、俺の前に立つかどうか――お前が決めろ」


森の空気が、張りつめた糸のように震えた。


黒狼の喉から、低い唸りが漏れる。


――小さき器で、よく吠える。

――その傲慢さ、あの方に似ている。


ほんのわずか、思念の温度が変わる。


――だが、主ではない。

――ただ、“同じ底へ続く火”を宿しただけの者。


「今は、それで十分だろう」


ルシアンは、静かに言う。


「お前たちは“主”を失った。

人間どもは、森を狩り場に変えに来ている。

なら――この残り火に、もう一度だけ賭けてみろ。


人間を焼き、鎖を噛み砕きたいなら。

俺と歩け」


沈黙。


黒炎と闇が向かい合う。


やがて――


黒狼が、ゆっくりと前足を折った。


大地に膝をつき、巨大な頭を低く垂れる。


それは、古の主に捧げた誓いそのものではない。

だが、“同じ奈落に繋がる火”を持つ者を、戦場の主の一人として認める仕草だった。


圧し掛かっていた威圧が、ふっと消える。


押し潰されそうだった空気が、ようやく肺に戻ってくる。


「……お、おい、今の……」


ガルネが呆然とつぶやいた。


「魔獣王が……頭、下げてねえか……?」


マーヤが、口を半開きにしたまま、ルシアンと黒狼を見比べる。

ルシアンは、しばらく黙って黒狼を見下ろしていた。


掌の黒炎を、すっと消す。


「立て」


その一言に応じて、黒狼は静かに頭を上げた。


瞳の奥で、黒い光がひときわ強く瞬く。


敵意は、もうない。


代わりにあるのは、“見極める者”の色。


――お前は、誰だ。

――古の主でも、その子でもない。

――同じ底と繋がる、新しい火か。


そんな問いが、言葉にならないまま、脳裏をかすめる。


ルシアンは、答えの代わりに名を与えた。


「ノクス、お前の名だ。」


黒狼の耳が、ぴくりと動く。


「夜の獣の王。

闇と共に生きる牙。

……それでいいか?」


短い沈黙。


やがて、黒狼――ノクスは、小さく鼻を鳴らした。


承諾とも、納得ともつかない、だが確かに“否定ではない”仕草。


――よかろう、小さき火よ。

――我らは見る。

――お前の火が、どこまで世界を焼き、どこまで鎖を噛み砕けるかを。

――そして、その先に何を残すのか。


その思念には、もはや嘲りはなかった。


ただ、古の魔王を失って久しい獣が、

ようやく見つけた「奈落の続き」を、慎重に、しかし確かに見つめる色だけがあった。


ルナが、おそるおそる声を上げた。


「る、ルシアン様……その子……も、もう……大丈夫ですか……?」


「“子”って顔じゃねえだろ、どう見ても」


ブランが小声でツッコむが、声には力がなかった。


ルシアンは振り返り、仲間たちを見渡す。


「こいつは、この森の王だ。

ここにいる魔獣にとっての“頂点”」


そして、ノクスに視線を戻す。


「――そして、旧い魔王の匂いを覚えているがわでもある」


言いながら、自分でその言葉の意味にぞっとした。


太古の魔王。

父上よりも前の、もっと古い深淵の王。


そこに繋がる何かが、今、自分の前で頭を下げている。


「だからどうするんだい?」


マーヤが問う。


「連れてくのかい?

こんなバカでかいの、食糧事情的には悪夢だよ」


ガルネが、ぽりぽりと頬をかく。


「でも……正直、こいつ敵に回すより、味方でいてくれた方が、千倍マシだな」


「俺も同意見だ」


ラガンも短くうなずいた。


「魔獣は普通、人と獣を見境なく喰う。

だが魔族の匂いには、本能的に“従う側”に回ることがある。

――こいつは、そういう系統だ」


ルナが、ノクスとルシアンを交互に見つめる。


「じゃあ……この森の、魔獣たち……」


「ノクスが吠えれば、少なくとも近くの連中は寄ってこないだろうな」


ラガンが答え、口元に皮肉な笑みを浮かべる。


「“呪いの森”のど真ん中で、これ以上ありがたい護衛もない」


ルシアンは、ノクスの前に再び立った。


黒狼は、静かに彼を見つめ返す。


「俺たちは、北へ向かう」


ルシアンは、はっきりと言った。


「森を抜け、ネザリアへ。

前線に戻るために」


ノクスは、しばらく黙っていた。


やがて、大きな頭をほんの少しだけ動かし、北の方角に鼻先を向ける。


そのまま、ルシアンたちの横を通り過ぎ、先頭に立った。


森の闇の中で、その背中だけがはっきりと見える。


「……案内してくれる、ってことかい?」


マーヤが呆れたように言う。


「ずいぶんと都合のいい話だね」


「呪いの森で、都合の悪い話しか来なかったよりマシだろ」


ガルネが、ようやく少しだけ笑った。


「ルシアン様、どうする?」


ルシアンは、ノクスの背中を見つめる。


胸の奥の“黒い何か”が、静かに息を潜めた。


黒狼の歩みは、まっすぐ北へ向かっている。


まるで最初から、その行き先が決まっていたかのように。


「――行く」


ルシアンは答えた。


「こいつが先を歩くなら、森の“呪い”も少しは牙を引っ込めるだろう」


「了解だ、ルシアン様」


ガルネが、自然にそう呼んだ。


誰も、その呼び方に違和感を覚えなかった。


ルナが、小さく微笑む。


「……なんだか、少しだけ、安心しました」


「なんでだよ」


ブランが半分呆れて尋ねると、ルナは首を振る。


「だって、“魔王様になるかもしれない人”が、

“森の王様”にもちゃんと認められた、ってことだから」


ルシアンは、その言葉に答えなかった。


ただ、ほんの少しだけ空を見上げる。


枝の隙間から覗く空は、まだ濁った灰色だ。


聖王国の追手も。

ネザリアの前線も。


すべては、この森を抜けた先に待っている。


その手前で――一つ、心強い影を得た。


インフェルノ・ウルフ《ノクス》。


呪いの森の王は、焼け残りの魔王子の前を、静かに歩き始める。


その背を追い、一行もまた、深い闇の奥へと足を踏み入れていった。

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